夏【収穫】
4 雷鳴
ギラギラと輝く夏の日差しが、宿屋のレンガ塀に照り付けていた。
「あら、ルネがこんなとこで何してんのかと思ったらクロードさんじゃないのさ」
三脚を立てたクロードがその上にキャンバスを置いていると、中から出てきたおかみさんが眩しそうに目を細めた。
「貸してもらったんだ。今日は町まで梨を卸しに行くそうだから」
大きな麦わら帽子のつばに触りながら、クロードは答えた。実用第一で作られたそれは、クロードの頭だけでなく、肩や背中まで太陽の光から守ってくれていた。
「ああ、そりゃいいね。こんな日に何もかぶらず外にいたら、あっという間に干からびちまうよ。ところで今日は食べに来るのかい?」
「どうだろう、ルネ次第だな」
ルネは週に一回くらい、クロードを食事に誘ってくる。ほかに料理店もないので、行き先はいつも目の前の宿屋だ。おかみさんはもちろん、毎日のように飲みに来るルネの農家仲間ともクロードはすっかり顔なじみになっていた。
「そうかい。じゃあ帰ってきたら山羊乳のチーズが入ったって伝えといてくれ」
「承知した」
クロードは答え、キャンバスの上で細い木炭を動かした。宿屋の輪郭とレンガの質感をざっくりと写し取っていく。終わったら定着液を吹きかけ、溶剤であるアルコールが乾くのをしばし待つ。それから多めの油で溶いた絵の具で陰影をつけていく。
「……ん?」
不意に、見つめているレンガ塀の彩度が落ちた気がしてクロードは眉根を寄せた。はっと気づいて空を見上げると、あんなに輝いていたはずの太陽はどこかに消え、代わりに黒雲が空を覆っている。
遠くでゴロゴロと雷の音がした気がして、クロードは跳ねるように立ちあがった。持っていたパレットや筆を木箱に突っ込み、ばたばたと三脚を畳む。
家路を急ぐ頬に、ごうと生ぬるい風がぶつかった。そこに雨粒が含まれているとクロードが気付くと同時に、ざあと桶の底でも抜けたかのように雨が降り始めた。
しまった。家に帰るのではなく、宿屋に避難させてもらえばよかった。気づいた時にはクロードの全身はびしょぬれになっており、すでに宿屋から大分離れた場所にいた。
今更引き返せない。とにかく早く帰ろうと雨で滑る杖を握りなおそうとしたとき、ぴかりとあたりが光に包まれた。
「っ!」
クロードの手から杖が離れた。水たまりの上に転がる杖を追うようにしてクロードも膝をつく。
震える手を杖に伸ばした瞬間、どおんとあたりの大気が震えた。体がすくみ、恐怖にクロードの腕が引っ込む。もう一度あたりが明るくなり、クロードはぎゅっと目をつぶった。キャンバスの入った袋を抱えて体を丸める。またどおんと空気が揺れた。先ほどより音が大きい。
帰らなくては。早く、早く。
焦る気持ちが、恐怖に塗りつぶされていく。杖を拾わなくてはいけないのに、手が伸ばせない。それどころか目も開けられず、クロードは息の仕方すらわからなくなってきていた。
怖い。苦しい。
助けて。
全身を震わせながら、クロードは体を小さく縮こまらせた。涙か雨かわからないものが頬を伝う。
「おいクロード!」
「う、あ」
大きな手に肩を叩かれ、クロードは顔を上げた。大きな帽子のつばの向こうに、その持ち主であるルネの顔があった。
「どうしたんだ、びしょ濡れじゃないか。転んだのか? どこか怪我でも……」
ルネに優しく背中を撫でられ、クロードの中で何かが決壊した。
「あ、ああ、あぁっ」
言葉にならない声を上げながら、クロードは必死でルネにしがみついていた。
雨はやみ、戻ってきた太陽が濃いオレンジ色に室内を照らしていた。あんなに暑かった空気は、雨に冷まされてひんやりとしている。
「落ち着いたか?」
「……う、ん」
ルネの膝の上に抱かれたクロードは、そう答えてルネの首筋に埋めていた顔を上げた。平静さを取り戻すにつれて、なんてことをしてしまったのだという羞恥心が押し寄せてきていた。
子供のようにルネに抱き着き、震えながら泣きじゃくるなんて。
雨の中で取り乱すクロードを抱き上げたルネは、そのまま自分の家にクロードを連れてきていた。クロードの家の隣――といっても間に梨畑があるので結構な距離があるが――にある、二階建ての大きな一軒家だ。そこでルネの服に着替えさせられたクロードは、ソファに座ったルネの上であやすように撫でられていた。少し濡れてしまったキャンバスは、壁に立てかけて干している。
「早く帰ってきてよかったよ」
「そうだな……ありがとう」
すぐ近くにあるルネの目を覗き込むと、なぜかルネはついと視線をそらした。そのまま突然立ちあがったので、クロードはルネが座っていたソファの上に滑り落ちた。
「か、雷、苦手なのか?」
ぎくしゃくとした動きで、逃げるようにルネは台所へ歩いていく。その背中を眺めながら、クロードは低く言った。
「……昔、雷に打たれたんだ」
「そ、それは……よく無事で」
「無事なもんか」
ソファの横に立てかけられていた杖を手に取り、その上にあごを乗せる。
「杖なしじゃ歩けなくなったし、簡単な綴りでさえ、また書けるようになるまでに何年もかかった。計算もだ」
歩くこと、読み書きすること、計算すること。訓練してまたできるようにはなったが、それでも未だにどれも人一倍時間がかかる。
「そうか……」
「いいんだ。こうやって生きてるだけでありがたいんだ」
ゆっくりと立ち上がったクロードは、足を引きずりながら台所へ向かった。ルネに置いていかれてしまったような気がしたのだ。
ナイフを持つルネの横に立ち、薄く剝かれて落ちてくる芋の皮を眺める。
「ん」
ちらりとクロードを見たルネは、剥きかけの芋とナイフを鍋の横に置き、ダイニングの方に向かった。クロードがその姿を目で追っていると、すぐに椅子を持って戻ってくる。
「ほら」
クロードの後ろに椅子が置かれる。腰かけると、ごろりと作業台の上に転がっていた玉ねぎを膝に乗せられた。
「ほら、手伝ってくれ。食べてくだろ?」
「いや……」
玉ねぎを手の中で転がし、ささくれのようになった皮をクロードは引っ張った。一人になってしまうのはまだ怖かったが、そこまで甘える気はない。
「なんだよ、せっかく来たんだからゆっくりしてけよ。一人で夕飯作ったって面白くないんだよ」
「一人……なのか?」
クロードは夕闇の迫る部屋の中を見回した。大きなオーブンのあるキッチン、四人掛けのダイニングテーブル、家族で座れそうなソファ。一人で暮らすにはいささか広すぎる家のような気がした。
「今はな」
ルネは大きく切った芋を鍋に放り込み、ベーコンの塊を取り出した。こちらも大きく切り分けて鍋に入れる。
「前は家族と……父と母と、それから兄と住んでたんだけど、数年前に流行り病で全員死んじまったよ。残ったのは梨畑だけだ」
「そうか」
ぺり、と玉ねぎの皮をクロードは剥いだ。五年ほど前に国中を席巻した疫病は、クロードの画家仲間の命も多く奪っていた。
クロードより若く、才能があって、努力家で、人当たりの良い画家が、何人も消えていった。
「……クロードの家族は、平気だったか?」
「さあ、どうだろう」
皮をむいた玉ねぎを、クロードはルネに手渡した。逆光になったルネの表情は、何かを思いだしているようだった。
「勘当されたっきり連絡してないから、どうしているか分からないな。死んだとは聞かないけど」
「……そうか」
玉ねぎも大きく切ったルネは、鍋に水を入れてストーブの上に置いた。下の窓を開け、小さくくすぶっていた火をおこす。
ふわりと暖かな橙色の炎が、室内とルネ、そしてクロードを照らしだした。
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