9 火炎
「誰か! いないか! 助けてくれ!」
自分の足が動いたなら、とクロードは思った。そうしたら、きっとルネを抱えて歩くことができるのに。それが無理でも、せめて助けを呼びに走ることくらいはできたはずだ。
だが実際は、杖をなくしてしまったクロードは自分が歩くことすらできない。ずるずると膝立ちのようにして這うだけだ。
「おおーい!」
また叫んだクロードの目に、自分と一緒に落ちてきた油絵の具の箱が写った。少し離れた場所で、三脚やスケッチブック、キャンバスを入れた袋が絡まり合っている。
クロードの頭に閃くものがあった。確か、ルネは「外で紅茶を飲もう」と言っていたはずだ。
「失礼するよ」
ぼんやりとクロードのことを見上げるルネのポケットに手を突っ込む。あった。
そのまま油彩道具ににじり寄る。
思えば、いつもこの、絵に対するくだらないプライドと思慮のなさでクロードは失敗してきたのだ。
自分の絵が求められていないということを受け入れられずに兄と故郷、それから自分の足を失った。そこまでして固執したはずの画家としての人生も、自分の絵が評価されていないということを認められずに棒に振ってしまった。
なんと愚かなことだろう。
投げつけるようにして木箱を開き、中から飛び出してきた絵の具をパレットにめったやたらに絞り出す。その上に袋ごとキャンバスを放り、上に三脚を置いた。スケッチブックを後ろのページから千切り、丸めてその間に詰めていく。
最初の方のページを開けたとき、クロードの手が止まった。ルネとはじめて会った日、授粉作業をしている様子を勝手にクロードが描いた絵が出てきたのだ。
紙の上のルネは、優しく笑っていた。
「……っ!」
クロードは目を閉じて、残りの数ページを一気に引き裂いた。目を閉じたままぐしゃぐしゃにして放り投げる。
溶き油と筆洗油、それから定着液を、最後に上からかけた。たらたらと紙や三脚の上を伝うオイルとアルコールが、独特のべたりとした匂いを放つ。クロードにとって慣れ親しんだ匂いのはずだったが、今は息が詰まるようだった。
「クロード……何、してる?」
ルネの言葉に、クロードはただ振り向いて微笑んだ。
ルネのところに戻り、彼のポケットから取り出したマッチの箱を開ける。震える手で構え、深呼吸をした。
投げつけられた小さな火は、狙いから少しそれてキャンバスの上に着地した。一瞬消え入りそうになったあとふわりとその舌を伸ばし、すぐに隣の紙に燃え移る。
瞬く間に全体を覆った炎は、黒煙を上げて燃え盛った。
ゆらゆらと秋空に煙が上っていく。
クロードはそれを、ただ祈るような気持ちで眺めていた。
空は夕焼けに染まっていたが、丘の陰になったクロードとルネのいる場所は、早くも薄暗くなっていた。クロードの絵画道具はあっという間に燃え尽き、黒い残骸と化している。
(無駄……だったのかな)
風が冷たくなってきた。クロードはジャケットの前を合わせ、温もりを求めてルネの横に転がった。
ルネの血は止まっていた。今はすうすうと小さく寝息を立てている。
このまま助けが来なかったらどうなるだろう、とクロードは想像した。水も飲めずに飢え死にだろうか。それとも、野生の動物にでも襲われて終わりだろうか。
今朝会ったアランはクロードとルネが今日丘に来たことを知っているだろう。だが、だからといって二人が帰らないことに気づいてここまで探しに来てくれるとは思えなかった。
今からでも、這ってでも村に帰るべきだろうか。だがその間にルネにもしものことがあったら。クロードは決められずにいた。自分の軽率な行動のせいでルネに怪我をさせてしまったのに、これ以上何かあるなんて考えたくもなかった。
「ルネ……」
隣で眠るルネの手を取る。
大きくて、厚くて、温かい。しっかりとした手の甲にクロードは口を付けた。目を強く閉じ、涙が出てきそうになるのを必死で堪える。本当に泣きたいのも、怖いのも、きっとルネの方なのだから。
どれくらいそうしていただろうか。クロードの耳に小さな声が聞こえてきた。
「お前が煙見たってのどこだよ」
「こっちのほう……じゃないかな」
「もっとよく見とけよなー。つか早く言えよ」
「いや、だってすぐ消えたし。ルネとクロードが丘に行ってるなんて知らなかったし」
アランと、飲み仲間たちの声だった。
目を開けると、辺りは薄暗くなっていた。起き上がると、丘の斜面の方にちらちらとしたランプの明かりが見える。
「おおーい! ここだっ!」
あらん限りの声を振り絞ってクロードは叫んだ。隣のルネがびくりと震える。
「助けてくれっ! 下だ! 崖から落ちたんだ!」
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