6 葉音

 部屋の扉がノックされる音が聞こえ、クロードはびくりとした。続いて扉が開けられる。


「クロード、水持ってきたぞ。ここに……あれ、もう寝てるのか?」

「ル、ルネ……」


 出てきた声は、自分でもびっくりするほど小さく、そして震えていた。


「どうした?」


 ルネ、ともう一度呼ぶ。ベッドサイドまで足音が近づいてくると、クロードはルネの服の裾を無言で引っ張った。


「……随分怖かったんだな」


 優しく降ってきたルネの声に、クロードは「そうらしいな」と目を閉じた。

 ため息をつくような、笑うような声がして、ベッドの横がへこんだ。ぐい、と端に押しやられる。

 クロードが驚いて薄く目を開けると、ルネの顔が目の前にあった。肘をつき、隣で横になっている。


「寝れるまで一緒にいてやるよ」

「あ、りがとう」


 ぽん、と頭に大きな手を置かれた。根元がまだ湿った髪を撫でられる。

 大の大人の、しかも男にすることではないだろうと思ったが、しかし今のクロードがそれを欲しているのも事実だった。

 また目を閉じて深呼吸をすると、太陽のような匂いがした。不思議と体の震えと足の痛みがおさまっていく。


「僕にも、兄がいたんだ」


 そのまま寝てしまうのはもったいないような気がして、クロードはぽつぽつと話をはじめた。ルネの家族の話を聞いたのだから、自分の家族の話もしないと不公平な気がした。


「僕と違って頭がよくて、八ヵ国語を操れて……村では、神童って言われてて」

「うん」


 兄よりクロードの方が絵が上手かったのは、兄が絵画に興味を示さなかったというただそれだけを理由としている、とクロードは思っていた。兄が絵筆を握れば、きっと今頃クロードなんて足元にも及ばない天才画家として持て囃されていたに違いなかった。

 だが幸か不幸か、兄は絵画や音楽といった、実用的でないものには全く興味を持たない質だった。


「僕が絵で生きていきたいと言ったとき、一番反対したのも兄だったんだ。『もっと人の役に立つことをやれ』って」


 敬虔な母に感化されたのか、兄は自らの能力は他人を助けるためにあると信じているようだった。その心がけは立派で素晴らしいとクロードも思う。同じ生き方をクロードに求めてさえこなければ。


「それに言い返せなくて、悔しくなった僕は家の屋根に上って、降りられなくなったんだ」

「猫みたいだな」


 ルネの相槌は笑いを含んでいた。


「そうだな」


 当てつけ。苛立ち。兄より上に立ちたい。いろいろな衝動が混ざった結果だったが、クロードには説明しづらかった。


「そしたら、そのうち雨が降ってきて……家に、雷が、落ちたんだ」

「そうだったのか」


 ルネの大きな手が、包み込むようにクロードの頭を撫でる。湿り気が残っていた髪は、二人の体温で乾いていた。


「ん……」


 クロードは、少しだけルネに頭を寄せた。

 雷に打たれ、屋根から落ちたクロードが目を覚ました時には、兄の葬儀は終わっていた。雷が鳴りだしたことに気づき、クロードを連れ戻そうと屋根に上ろうとしていたのだ。

 なぜ兄の方を召されたのかと母は神に問い、そして村の少女たちはもっと直接的な言葉でクロードを詰った。逃げ込むように絵ばかり描いていたクロードが何とか一人で歩けるようになったとき、父はただクロードに「出ていけ」とだけ告げた。


「人の役に立つこと、か」


 しばらくの沈黙の後、ルネがぽつりとつぶやくのが聞こえた。その声は若干苛立っているようだった。


「そんなこと言ったら、梨だって役になんて立たねえよ」

「そうか……?」


 再びうとうとしてきたクロードが聞くと、「そりゃそうだろ」と強い口調でルネは断言した。


「パンや肉と違って、果物は主食になるものじゃない。食べなきゃ死ぬわけでもないし、別になきゃないでいいんだ。でも、美味いから食べる。そういうもんだろ」


 実のところ、クロードはお金がないときにモチーフ兼食料として購入した果物だけで生活していることがままあった。だが、それは黙っておこうと思いながら相槌を打つ。


「絵だって一緒だろ。いや、俺は絵のことなんて分かんねえけど、でも、役に立つとかどうとかじゃなくて、あったほうが幸せなものってあるだろ」

「そう、かもな」


 正直なところ、クロードとしては梨と絵ではちょっと違うような気もした。だが、ルネなりに憤慨し、クロードを元気づけようとしている気持ちを感じる。


「俺は、クロードの……絵、好きだぞ。俺に褒められても嫌かもしれないけど……すごく、明るくて、家族の生きていたころを思い出して……それで」


 ずっとクロードの頭の上に置かれていたルネの手に、軽く力がこもった。クロードはその上に、自分の手を重ねた。


「……ありがとう」


 綺麗、上手と言わないあたりに、ルネが本当にそう感じているのだなということが伝わってきた。

 それだけで、クロードには十分だった。

 そのまま眠りに落ちそうになったクロードは、ふとあることを思いだした。


「なあルネ」


 欠伸まじりで隣にいるルネに喋りかける。


「僕は君に、大切なことを伝え忘れていたよ」

「な、なんだ?」

「宿屋のおかみさんがな、君の好きな山羊チーズを仕入れたと言っていたんだ」

「……明日行こうか、クロード。残っているといいけど」

「うん」


 さらさらと風に葉が吹かれる音に、クロードは収穫を待つ梨を思った。

 甘く熟するには、まだいくらか時間がかかるのだ。

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