分断と対立

 1


 翌日、俺は早速出勤するべく、迎えに来た社用車に乗りこんだ。学校はもちろん欠席。これから先は、海野の登校日に合わせて俺も登校する形になるだろう。

 俺は車を降りると、まずは社長室へと向かう。俺のワークスペースは社長室の一角にあるため、実質社長室が俺の仕事場だ。地下の役員専用の通用口からエレベータを乗り継ぎ、社長室へと到着した俺は、ノックをして部屋へと入る。

 社長室という名のオタク部屋のデスクに座る彼女は、相変わらずクールな表情で淡々とPCを叩いている。凜とした雰囲気の彼女の姿は相変わらず美しいが、昨日の件があったこともあり、正直ちょっと話しかけにくい。彼女は、まだ怒っているだろうか。


「お、おはよう海野。一応聞いておくけど、俺たちタメで話して問題ないんだよな?」

「ええ」

「そ、その……怒ってはいないのか?」

「何が?」

「いや、昨日は色々と失礼な振る舞いがあったが……」

「ああ、そのことね。別にそこまで気にしていないわよ。一々そんな些細なことを引きずっていたら、そもそも社長なんて務まらないもの。もちろん、だからといって昨日の行いを肯定するつもりはないから、そこのところは肝に銘じておきなさい」


 田辺さんの言っていた通りだ。彼女は、そういういうのはあまり気にしないタイプらしい。なんかそれはそれで萌えるというか、結構男心をくすぐられる。


「ちなみに、あなたは試用期間中とはいえ既に特別職の社長補佐官なのだから、立場的には役員と同等レベルよ。もちろん私以外にタメ口はマズいけれど、過剰な敬語を使って変にかしこまる必要はないわ。そこら辺は気楽に考えてちょうだい」

「あ、ああ、わかった」

「さ、わかったのならさっさと自分の席に座ってちょうだい。それで今日の予定についてだけれど、午前中に経営会議がある。役員がほぼ全員出席するかなり重要な会議となっているから、もしかすると少し長引くかもしれない。でもそれが終わったら後は特に何もないわ。午後、軽く今後の方針について打ち合わせをするけど、それが終わったらもうあなたは帰ってもらって構わないわよ。六時間目だけなら間に合うかも」

「いや、いいよ。そんな一コマだけぽっと出てみてもしょうがないし、もう西沢先生には今日は丸々欠席って連絡してしまったからな。それで、俺はその会議とやらに同席していても問題ないのだな?」

「ええ。あなたは既に特別職の補佐官なのだから、私と一緒に同席する権利はある。役員ではないので発言権はないけれど、参加すること自体は可能よ。社内秘の経営会議なので、盗撮や盗聴の類には厳しく目を光らせているから、あなたが心配している顔写真が流出するリスクもない。出たいなら、自由に出てくれてOK」

「了解した」


 世論工作担当の俺にとって、会社の実務的な話は本来畑違いだ。だが、会社の現状や抗争の詳細を把握するためにも、ここは出ておいた方がいいだろう。実際にこの目で見てみないとわからないこともある。世論工作を行う上では、そういったことも大切だ。


「今日の会議では具体的にどんなことを議論するのか、差し支えなければ今の段階で教えてもらってもいいか? 参考程度で構わない」


 すると、海野は俺の端末に資料を送信してくる。


「はい、これ今日の資料。ちょうど、これから今村秘書官を交えて事前の打ち合わせを行うから、よく読んでおきなさい」

「ああ、助かる」


 海野は元々乗り気ではないとのことで、正直もっと塩対応をされるものと覚悟していたが、意外と親切だ。仕事である以上、勤務中は個人的な好き嫌いは抜きにして、事務的な会話や対応はするということなのだろう。俺の身バレのことにも気を配ってくれているし、案外優しい子なのかもしれない。


「今村秘書官と言えば、オタク産業庁の元大物官僚で、国共党の最高評議会常務委員も務めた超エリートだよな」

「ええ、そうよ。二十一世紀の特色ある現代オタク主義思想や、現代オタク主義社会における三つの自由化といった、国共党の重要政策理念にも多大な影響を与えたと言われている。最高評議会常務委員を退任してからは、父さんの代から社長秘書官を務めてもらっているわ」

「となると、かれこれ退官してから十年近く社長秘書官をやっているわけか。かなりの年だと思うが、やりにくくないのか?」

「そんなことない、むしろ逆よ。私は本家の人間とはいえ、所詮は高校生だから舐められないようにしないといけない。田辺さんやあなたが例外なだけで、基本的に私の側近は皆ベテランばかりよ。今日はいないけれど、もう一人の秘書官も十年前までうちで取締役を務めていたOBだし、秘書についても皆キャリア組の中からエース級の人材を引き抜いてきている。各所に睨みを利かせられる人のみを厳選しているわ」

「いや、それはわかるよ。ただ、俺が聞きたかったのはそうではなくて、単純に年が大きく離れている人ばかりに囲まれていて、やりにくくないのかって話だ。何か仕事で悩み事とか相談事とかあっても、それだけ年が離れていると中々打ち明けにくいんじゃないのかなって」


 俺がそう聞くと、海野は表情一つ変えないままほんの一瞬黙り込む。しかし、すぐに否定した。


「……そんなことないわ、私は彼らを信頼しているし、頼りにしている。というか、そもそも私に悩みなんかないし」

「そうか」


 俺はそう相槌を返すと、続いて先ほど送られてきた資料にざっと目を通していく。

 一つ目の議題はフィギュア工場の閉鎖と生産拠点の集約に関するもの、そして二つ目の議題はアニメ制作事業の売却に関するものだ。今日の会議は取締役会ではないものの、規模やメンバーを見る限り、実質的には今回をもって最終結論とするつもりなのだろう。だが、構図としては沙輝派が両者の議題に反対、反沙輝派が両者の議題に賛成という形のようなので、今日中に結論を出すとなれば相当揉めるはず。内容的にも、一つ目の議題はコストカットのために信濃州にある国内最大のフィギュア製造工場を閉鎖するという大胆なプランだし、二つ目の議題についても、オタク産業の象徴ともいえるアニメ制作事業を、某大手投資ファンドに売却してしまうというプランなので、会議の紛糾は必至だ。

 ちょうど俺が資料の中身を頭に入れたタイミングで、今村秘書官が入室してくる。社交辞令の後、事前の打ち合わせが始まる。


「……とりあえず佐久工場閉鎖の件は、表向きには海外での反オタク主義運動の活発化による、需要の減少に対応するためとなっていますが、実態としては、海野社長を貶めるための反沙輝派による陰謀となっています。彼らとしては、あれこれ理由をつけて佐久工場を閉鎖に追い込むことで、原理主義者からの支持をはぎ取りたいのでしょう。そうなれば、海野社長の支持基盤は弱体化し、反沙輝派が有利になりますから」

「佐久工場は日本のフィギュア製造の象徴的存在である以上、閉鎖は絶対に認めない。ただ、ここ数年は明らかに生産能力に余剰が出てしまっているのも事実。これまでも様々な改善策を施してきたけれど、根本的な解決へは至っていないわよね」

「ええ、我々もあらゆる手段を講じてコストカットを行ってきましたが、残念ながら海外での需要減少分全てをカバーするには至っていません。これ以上やるとなると、人件費の方に手を付けることに……」

「反オタク主義運動の鎮静化はまだなのかしら。コストカットはあくまでも応急措置、海外需要を呼び戻さない限り根本的な解決にはならないわ。国共党の方には再三早期解決を図るよう要求しているけれど、どうも反応が鈍いのよね」

「私が聞いている限り、党としては中央情報部が対外工作を試みているものの、思うように上手くいっていないと言うのが現状のようです。六月の党大会に向けて、国共党の内部でも権力闘争が活発化していますから、彼らとしてもそちらの対応に追われて中々動きづらいのでしょう。そもそも、社長はまだ国共党の最高評議会に入れていませんから、党全体としては社長よりも身内の幹部たちの事情を優先せざるを得ないでしょうし」

「まあ、今の私は建前上、党内では一切の権限が得られていないものね……。ここは大人しく我慢……するしかないか。それで話を戻すと、佐久工場の閉鎖問題については今後どうしていくべきかしら。閉鎖に断固反対するのは当然として、対応策としては、反オタク主義運動が起こっていない新興国を中心に、新規需要を開拓していくということで良いのよね」

「当面は、その方針を続けていくべきでしょうね。このまま頑張れば、喪失した海外需要の五割まではカバーできる可能性があります。先月社長が中央アジアと南米を歴訪しましたが、あれは結構効果があったようで、手ごたえとしてはかなりイイ感じです」

「そう、それは良かったわ。あの場をセッティングしてくれた今村さんには、本当に感謝している」

「いえいえ、それが私のお役目ですから。あのくらいは秘書官として当然です。それで、二つ目のアニメ制作事業の売却の件に関してですが……」

「やはり、売却を阻止するのは厳しそう?」

「ええ。どうも、こちらについては反沙輝派の役員らが一部の有力クリエイターと結託して、アニメ制作事業を売却するよう会社の内外から盛んにけしかけているみたいです。実際、先月には著名なアニメ監督らが連名で、制作事業を某大手投資ファンドに売却するべきだとの意見書を公表しました。SNS上でも結構話題になっていますから、無視はできないでしょう。彼らの主張は、『創業家の古臭い伝統に縛られた体制の下では、クリエイターが思い通りの作品を創ることができないので、海野インダストリーはアニメ制作事業をファンドに売却するべきだ』というものです。彼らによると、当該ファンドの方はクリエイターへの良き理解者であり、また、今回の件は不採算部門の整理という点で会社側にもメリットがあるとしていますが……」

「でたらめね。きっと、彼らは自分たちがファンドの手のひらで踊らされていることに気づいていないのよ。アニメ制作事業の収益構造からいって、ファンドが買収時より高値で売却するためには、必然的に人件費などの固定費を下げて採算性を改善するしかない。クリエイターの良き理解者とか、それ絶対ウソだから」


 海野はこの場にいないクリエイターを叱りつけるかのように、語気を荒げる。


「おそらく、彼らは自分たちの待遇が悪化するということに気づいていないのでしょう。ファンド側は、これまで培ってきた百戦錬磨のノウハウがあるから、今のクリエイターに対する破格の待遇を維持したままでも、収支改善や事業価値を高めることは可能などとホラを吹いているようですが、彼らはその主張をそのまま信じているようです」

「バカね、こちらはオタク業界で長いことトップに君臨してきた業界最大手よ。こちらを超えるノウハウが向こうにあるわけがないじゃない。まあ、そんな嘘を易々と信じてしまう一部の有力クリエイターも問題だけど、それ以上に彼らを唆している反沙輝派の役員も問題ね。彼らは全てわかったうえで、私を陥れる目的でアニメ制作事業の売却を推進している。佐久工場の件と同じね」

「ええ。反沙輝派の動きを見ていると、この件自体を社長に対する攻撃材料にしている節があります。海野社長は現場の意見を聞かない悪い奴という印象を植え付けたいのでしょうね。さらに言うと、この件については、分家の人間が既に売却に向けた根回しをしているとの情報もありますから、細心の注意を払わなくてはいけません」

「私もそれは聞いている。先週に大叔父様と会食した際に聞いた話では、どうも分家寄りの人間以外でも、ごく一部売却に賛成している人がいるらしい。表向きには、制作事業の慢性的な赤字を理由にしているみたいだけれど、正直私は怪しいと思っている」

「そうですか。となると、この問題への対処を一歩間違えれば取り返しのつかないことになりかねませんね。この件には一部の有名クリエイター達も絡んできていますから、くれぐれも慎重に扱わなくてはなりません。彼らをあまり刺激しすぎると……」


 と、今村秘書官がそこまで話しかけたところで、彼のスマホからベル音が鳴る。どうやら、そろそろ会議の時間が迫っているということらしい。


「そろそろ時間ですね。とりあえず、今回の会議では間違っても事業売却を主張するクリエイターを軽視したり、敵視したりするような発言はしないようにお願いします。今の状況を考えれば、そのような発言は社内の更なる分断と対立を煽ることになりかねません。くれぐれも、向こうの挑発には乗らないよう注意してください」


 彼はそこまで話すと、今度はこちらに鋭い視線を向けてくる。トレードマークとも言える真っ白な口ひげと相まって、中々威圧感が凄い。流石は、オタク業界の大物だ。


「朝比奈君、実は自分も、社長に同年代の補佐官をつけるべきだと提案した人間のうちの一人だ。だから、基本的に君のやることに口を挟むつもりはない。ただ、そちらも私のやることには口を挟まないで欲しい。秘書団及び警護団の統括、社長の意向を実現する上での関係各所との調整や交渉などは、全て秘書官の私に一任すること。いいかね?」

「はい、承知いたしました」


 2


 午前九時五十分、いよいよ後十分で会議が始まる。二十三階にある巨大な会議室へとやってきた俺は、タブレットPCを片手に海野の席の後方に用意された折り畳み椅子に座ると、資料に再度目を通したり、周囲の様子を観察したりしながら会議に備える。

 会議室は社長の海野と副社長以上の取締役が座る席が最前列に設置され、残りの座席はそれらを要に扇形に広がっている。その数は推定百席前後だろうか。どちらかと言えば、会議室というよりは議事堂に近いレイアウトといえる。部屋の各所にはステンドグラスやカーテン、カーペットを始めとする高級感溢れる種々の調度品が配置されており、中々に荘厳な雰囲気だ。海野が座る社長席の後方には創業者である海野与三吉の巨大な肖像画が飾られており、この場に座る者全てに対して圧倒的な存在感を放っている。

 座席は既に、八割程度が埋まっていた。見渡す限り、中高年が多い。今日ここに集まっているのは大半が取締役と執行役員なので、当然と言えば当然なのだが、だからこそ田辺さんの存在はひときわ目立つ。パッと見、秘書等以外で三十代以下と思しき人間は、田辺さんを含めて三人だけだ。彼女はキャリア組で入社したとはいえ、この出世スピードは異例中の異例だったのだということを改めて実感させられる。

 会議に出席している者のうち、何名かにはSPと思しき人間が傍についている。社内の会議とはいえ、派閥抗争中ということもあってか厳戒態勢のようだ。海野以外にSPを付けているのは、主に創業家の出身者が多い。彼らは社章に加えて家紋のバッジをつけているので、一目でわかる。ちなみに、創業家の関係者以外で唯一SPがついているのは、田辺さんだけのようだ。

 程なくして全出席者が揃い、会議が始まる。後方の椅子には俺の他、社長や一部取締役の秘書と思しき人間が何名か着席している。俺も彼らに後れを取らないよう、端末を開いて会議に集中する。

 会議は序盤こそ冷静な議論が続いていたものの、二十分程度が経過したあたりから徐々に荒れだした。今回の議題には派閥抗争が深く絡んでおり、反沙輝派の佐久工場を閉鎖するべきとの主張の背景には海野を陥れる目的が潜んでいるため、議論がかみ合わないのも無理はないだろう。次第に怒号が飛び交うようになる。


「何が悪い!」


 一人の高齢の男性取締役が吠える。声の主は石川寛人副社長、日本共和国におけるフィギュアの大量生産方式を確立させた石川昭三の息子で、フィギュア業界のドンと言える人物だ。


「そこまでして、あなた方がここを閉鎖したがる理由は何なんですか?」

「先ほどから申し上げている通り、会社の未来のためです」

 きっぱりとそう言い切るのは、反沙輝派の上田取締役常務執行役員。

「海野インダストリーは現状トータルでは黒字ですが、会社中にこうした不採算の工場や部門があります。その数は年々増えていますから、こうしたことを放置していれば、近いうちにグループとして赤字へと転落するでしょう。社長は、いざとなれば創業家が莫大な資産の中から赤字分を補填するので問題ないとしていますが、そのようなことをすれば組織として必ずゆるみが出てきます。やがては企業体質の悪化を招き、取り返しのつかないことにもなりかねません」

「私には、あなた方の発言は、今回の会議のために用意した言葉にしか聞こえません。色々仰ってますけど、結局は単に派閥の関係で社長を批判したいだけなんじゃないですか?」

「いえいえ、そんなことは毛頭考えてもございません。考え方の違いはあれど、私は海野社長をお支えするべく日々奮闘していますし、今後もそうしていきたい次第ですから、そこに野心や邪心はありません。そのうえで、私としては会社の未来を憂慮したうえで佐久工場を閉鎖すべきだと考えておりますし、もっと言えば、会社全体として徹底的な構造改革や組織再編が必要だと考えています。状況によっては、私どもだけでなく外部の人間の意見や考えを取り入れることも必要になってくるでしょう」


 上田常務の発言に対しては、石川副社長ではなく海野が直々に反論する。


「そんな必要は微塵もないわ。新興国における新規需要開拓のおかげもあってか、近年の佐久工場の赤字幅は緩やかに減少している。それに、そもそも我々の理念は永続的なオタク産業の発展と拡大、オタク文化の振興と継承であって、企業として黒字を出すことではない。海野家一族によるファミリー企業だから、利益を出す必要は全くないのよ。佐久工場の閉鎖は国共党が結党以来守ってきた価値観や伝統に反する行為でもあるし、実際、国共党からは国益の観点からあそこは絶対に閉鎖するなと言われている。それから、組織の緩み云々についてだけれど、はっきり言ってうちの給与制度をきちんと理解していれば、そもそもそのような発言は出てこないはずよ。うちはボーナスの他にインセンティブ制度として、結果を残した部署や社員には、声優のサイン色紙やクリエイターのサイン本、各種イベントへの優先入場券などを配布している。毎月、常にオタクのモチベーションを上げるようなものを用意しているから、胡坐をかいて真面目に働かない社員なんてほとんどいないわ」


 海野の反論に対し、彼は黙り込む。すると、今度は反沙輝派の若手取締役、寺井治子常務が代わって反論する。


「確かに理念や伝統は大事ですし、実際今の給与制度が社員の意欲を喚起しているという話もよくわかります。ただ、それでも私たちとしては、やはり何らかの改革や再編が必要だと思っています。というのも、ここ最近の社内には、今のままで本当に大丈夫なのだろうかという不安がそれとなく募っていて、実際取締役である私の元にもそういった声が日々届くようになっているんですよ。多くの社員は、社会人経験のない社長が不採算部門を放置していることに危機感を覚えているようで、このままいくと経営陣と社員の信頼関係が崩れてしまう恐れがあります。クリエイターの方からは、創作経験がないという点で社長を批判する声も上がっていますから、早いところ対応しないと取り返しのつかないことになるでしょう」

「そういった声を上げているのはごく一部の話であって、多数ではない。正直、あなたの話は誇張しすぎね。実際、大部分の社員は私を信頼してくれているし、我が社の理念にも理解と賛同を示してくれているから、そういった話は議論するだけ不毛よ。もちろん、私に経験がないのは事実だけれど、今日に至るまで、きちんと実績を残しているのは周知の通りでしょ」


 そう言うと、海野は更に自分の実績を説明しようとするが、そのタイミングで同席中の今村秘書官が割って入る。


「先代の秘書官を務めた私から見ても、彼女は父に引けを取らない立派な社長ですよ。実際、昨年から社長が主導している全国聖地化プロジェクトのおかげで、観光事業が急速に伸びているのは、火を見るよりも明らかです。海野インダストリーは以前から全国各地の聖地で観光開発を展開してきましたが、自治体、地元企業、当社の三者がバラバラに動いていた地域も多く、事業としてはやや停滞気味でした。地域によっては、大資本の力と国共党の権威に物を言わせて、地元の利益や意向を無視して進めた開発も多く、商品開発や地元ブランド品の特許、土地の買収を巡ってトラブルが起こることもしばしばありましたからね。社長がプロジェクトを始めて以降は、各自治体や地元企業にうちの社員を派遣して、お互いがウィンウィンの関係を築けるよう、PR戦略やブランディング手法などに関するあらゆるノウハウを全て無償で提供することにしましたから、そういったトラブルはなくなりました。また、過去に深刻なトラブルが起きた地域については、社長が自ら足を運び、地元の人間に頭を下げて交渉することで、一つずつ信頼関係を回復させることに成功しています。私としてはこれらだけでも、先代に負けるとも劣らない、十分すぎる実績だと思いますよ。まだ就任して七か月しか経っていないわけですから」

「実際、私はそれ以外にも色々やっているのよ。伝統を守りつつも、新たな施策や改善策は毎月のように打ち出しているし、父さんに引き続いて民間外交にも力を入れている。今年に入ってからは、二十年ぶりに新規ガス田の開発に向けて、エネルギー事業での設備投資を大幅に拡大するなど、攻めの姿勢も維持しているわ。一部では何もしていないという批判や、私の経営手腕を疑問視する声もあるようだけれど、全くのでたらめね」


 二人の反論に、寺井常務はただただ黙り込む。何かを言いたそうにしているが、今村さんの威圧感と、海野が醸し出す独特のオーラに圧倒されたのか、返す言葉が出てこないようだ。


「まあまあ、今村さんも海野社長も、このくらいにしておきましょう。会社を愛する想いはお互い同じなわけですから、これ以上対立を深めてみても仕方がありません」


 そう言ってその場をなだめるのは、立川英士取締役常務執行役員。実行力に定評のある沙輝派若手のホープだ。


「沙輝派の中にも、伝統の範囲で一定の改革や整理を求める声はありますから、我々としても、反沙輝派の方々が主張されていることを全て否定している訳ではありません。実際、私もどちらかというともう少し改革が必要だと考えている人間の一人ですから、派閥を越えて協調できる部分はままあるでしょう。もちろん、伝統や理念、国益の観点から佐久工場の閉鎖に賛同することはできませんが、それ以外の部分では適宜協議を行いながら、一部そちら側の意見を取り入れることもできるかと思います。最終的な判断は社長が下すことになりますが」

「まあ、私たちも別に喧嘩をしたいわけじゃないから、あなた方が我が社の伝統と理念をわきまえたうえで、建設的な提案をしてくれるのであれば、内容次第ではどんどん受け入れていくつもりよ。実際、これまでも反沙輝派だからといって、全ての意見を却下してきたわけではないし」


 そんなこんなで、最後は沙輝派の立川とやらが間を取り持つような形で、一つ目の議題が終わった。採決では、一部条件付きではあるものの、佐久工場の閉鎖は半永久的に行わないとの案が沙輝派などの賛成多数で可決されたようなので、海野としては概ね勝利したと言える。

 十五分ほど休憩を挟んで、次の議題が始まる。今度は、アニメ制作事業の売却に関する話だ。先ほどに引き続き、海野は淡々と冷静に話しているものの、よくよく観察していると、心なしか余裕がないように感じられる。


「……現場のことは現場が一番よくわかっています。海野社長を始めクリエイターとしての経験がない役員の方々には上手く伝わらないかもしれませんが、アニメ制作については売却して切り離してしまうのが現場にとっても、会社にとってもベストな選択なのです。私も三年前までは現場で彼らと一緒に仕事をしていましたが、そのころから親会社に対する不満と創業家からの独立を望む声は一定数存在していました。そして先代の光一社長が亡くなって以降、そういった声は日に日に私の元に届くようになっています。クリエイター出身ではない役員の方々、特に海野社長には、ぜひもっと彼らの言う事に耳を傾けていただきたいです」


 寺井常務から、少し挑発とも取れる発言が飛び出す。今まで冷静に対応していた海野も、一気に表情が険しくなる。


「我々の強みは、自社コンテンツを保有していることにある。制作以外にも様々なアニメ関連事業を展開している中で、それを手放すなどあり得ないわ」

「おっしゃることはよくわかりますけど、実際のところ、制作事業は全然儲かっていないわけじゃないですか。一方、配信事業の方は大幅な黒字で、今後は新興国市場を見据えて現在十か国語対応の仕様を十五か国語対応に拡大するなど、将来性も存分にあるわけですから、アニメ分野ではこちらに注力するべきです。不採算の制作事業はもう切り離しても良いでしょう。その方が、お互いにとってウィンウィンです」

「いいえ、そんなことはないわ。制作事業の売却は、会社にとっても現場のクリエイターにとっても最悪の選択よ。会社としては、自社のブランドがなくなることで、関連事業の売上や企業イメージの低下にもつながるし、クリエイターにとっても、給与水準の低下などで絶対に悪影響が出てくる。一応言っておくけど、今クリエイターに高額の給与を支給できているのは、制作事業の赤字を容認しているからなのよ。うちは超巨大企業だからそういうことができるけれど、ファンドに買収されたらそうはいかない。ファンド側はあくまでも当該事業で利益を出すことに主眼を置いているから、もしそうなれば今の給与水準を維持するのはどう考えても不可能ね」

「そんなことありません。ファンド側はクリエイターのよき理解者ですから、買収後も必ずや我々を厚遇でもてなしてくれます。私自身、複数の関係者からそういった言質を取っていますし、著名なクリエイターとの間でも既に待遇面での交渉が行われていますから、社長の懸念されているような事態にはなりませんよ」


 寺井常務は、自信にあふれた表情でそう話す。話を聞く限り、彼女たちを始めとする反沙輝派の関係者は、既に売却先候補の人間と何度も接触をしているのだろう。会社の方針に反してそのような行為をするのは、本来であればご法度だが、創業家の内部でも意見が割れている以上、海野としても黙認せざるを得ないということなのだろう。


「それに、もし仮に給与が下がったとしても、自分たちはそれで構いません。今定められている様々な規則や伝統的なしきたりから解放され、経営陣からのトップダウンではなく自らの意思で自由にアニメを制作できるようになるのなら、それで本望というクリエイターも結構いますから。実際、SNS上で著名なクリエイターが次々と声を上げているのは、海野社長もご存知ですよね?」

「ええ。でも、買収元であなたたちの希望通りにやらせてくれる保証は、果たして本当にあるのかしら。私としては大いに疑問ね」

「もちろん、ありますよ。先ほども申し上げた通り、既にハイレベルでの協議が進められていますから」


 寺井とやらは確実に騙されている。ファンドに事業が譲渡されれば、今と違って利益至上主義の体制へと変わることは確実なので、彼らの創作活動にはより一層の制約が付きまとうだろう。現在海野インダストリーで認められている同人活動の自由などの権利も、全てはく奪される可能性が高い。彼女はこれまでアニメーターとして現場一筋でやってきたので、その辺のことがよく理解できていないのだろう。だが、そうであるならば普通は周りが止めるはず。昨日補佐官になったばかりの俺でも理解できることを、他の取締役や創業家の人間が理解していないはずがない。しかし今は抗争中なので、反沙輝派の役員や創業家の分家の人間たちはそういった事情を全て知ったうえで、わざと彼女やクリエイター達を騙し、唆しているのだろう。制作事業が売却されれば佐久工場の件と同様、原理主義者からの支持が失われるので、海野の力を削ぐには好材料となる。彼らは派閥抗争に勝利して海野を社長の座から引きずり降ろすためなら、手段を選ばないということだ。

 海野はそういった事情を説明したそうにしているものの、それを察した今村秘書官は視線で彼女を牽制する。説明したところで彼女は信じないし、先ほどの佐久工場の件と同様、すぐに他の反沙輝派の人間に、抗争は関係ないと白を切られて終わるだろう。この判断は賢明だ。


「あなたたちがそこまでして、うちを出て行きたがる理由は何なの。うちの規則やしきたりは、決してそこまで理不尽なものではないし、厳しすぎるものでもない」

「いいえ、十分理不尽ですよ。未だに創業時以来の伝統で、海野家の方々がここをもっとこうしろとか、聖地としてこの場所を登場させろとか言って制作の現場に直接口を挟んできますし、そもそも我々の提案が上層部に受け入れられたことはほとんどありません。いつもトップダウンで、我々はただ上からの指示に従うのみとなっています」


 寺井常務の口調は、どんどんエスカレートしていく。


「確かに創業家が口を挟むことはあるけど、大抵はクリエイター経験のある人たちによるものだし、そもそも現場にはある程度の裁量権はきちんと持たせている。自由度が足りないと言いたいのかもしれないけれど、あまり好き勝手にやられたら組織としておかしくなるから、一定の統制をかけるのは仕方がないのよ」

「もちろん、それは理解しています。ただ、それを加味しても今の状況には制約が多いと感じているクリエイターが多いのも事実です。創作の経験がない社長には中々理解していただけないかもしれませんが」


 失礼とも取れる寺井常務の発言に対し、海野はどこか悲しそうな、それでいて悔しそうな表情で沈黙する。返す言葉が出てくるまで、数秒の間が空く。


「……確かに、私には創作の経験がない。でも、クリエイターとは何度も何度も直接の対話を繰り返しているし、制作の現場にも就任以来何度も足を運んでいる。あなたたちの事情は、自分なりに理解しているつもりよ。ただね……」


 そう言うと、海野は一度大きく息を吸う。ここから先の話は、彼女としても絶対に譲れないところなのだろう。


「……もしあなたたちが理想の創作活動を望んでいるのなら、尚の事うちから出ていくべきではない。どんな甘言に乗せられているのかは知らないけれど、向こうに行ったらパラダイスが待っているとか、そんなこと絶対にあり得ないから。むしろ、今よりも環境は確実に悪化するわよ。私はこれでも経営のプロだし、何より創業家の当主として様々なことを経験してきたから、その辺のことはよくわかる。申し訳ないけど、あなたたちクリエイターを守るためにも、アニメ制作事業の売却を認めるわけにはいかないわ。これは海野インダストリーのトップとして、絶対に譲れない」


 彼女は凛とした表情できっぱりと、そう言い切る。

 その後も両者の議論は続いたものの、ひたすら平行線を辿るのみで、結局のところアニメ制作事業の売却については継続審議となった。会議の途中では、沙輝派から売却を永久に禁じるという強行案も提出されたものの、そのような提案はクリエイターとの対立を修復不可能なレベルにまで激化させかねないとのことで、採決は見送られた形だ。

 今のところは国共党執行部や日本オタク協会が懸念を表明しているとのことで、何とか政治力で事業売却を阻止できているものの、分家側の根回しが成功した場合、国共党が売却容認に舵を切るということもあり得るだろう。そうなる前に、何とか事態を解決へ持っていきたいところだ。

 会議が終わると、海野が真っ先に退室し、田辺さんがそれに続く。二人が退室し終えると、残りの役員は皆三々五々に帰っていった。

 俺はいくつか気になった点を整理するべく、そのまま部屋に残りメモを取っていく。会議の間、大半の人間は俺に対してほとんど興味を示さない、もしくは入室直後僅かに好奇の眼差しを向けた程度であったが、若干名気になる反応を示していた人物がいたのも事実。彼らは一体、俺を見てどんなことを考えていたのだろう。そんなことを考えていると、ほどなくして一人の男性役員が声をかけてきた。


「ごめん、ちょっといいかな」

「はい、何でしょうか」

「君は、新しく来てくれた海野社長の補佐官の子だよね?」

「ええ、そうですけど……」

「僕の名前は立川英士。沙輝派の取締役として、配信事業とIT部門のトップを務めている。早速だが、ちょっと君といくつか話したいことがある、この後少し時間を取ってもらってもいいかな?」

「はい、大丈夫です。私は午後まで特に予定もないので」

「ありがとう、ちょっと今後の事について色々君と話がしたくてね。手短に終わらせるつもりだから、そんなに気負わなくても大丈夫だよ」


 そう言うと、彼は俺に対し、ついて来るよう促す。


「ちょうど僕の部屋が2フロアほど下にある。そこで話をしよう」

「ありがとうございます。部屋、二十一階なんですね」

「やっぱり上だとどうしても社員との距離感が生まれてしまうからね。今も一応取締役として二十六階に部屋をもらっているけど、正直あまり使うことはないかな。役員同士で何か話し合う時は、たまにあそこの部屋を使ったりするけど基本は下にいる」


 彼の雰囲気を学校で例えるのなら、リーダーシップのあるクラスのまとめ役的な存在といったところ。明るく爽やかな振る舞いが特徴的で、先ほどの会議で間を取り持ったことから、相当なコミュ力の持ち主であることが伺える。

 立川常務は自室の前まで来ると、勢いよく扉を開けた。


「さあ、ここが僕の部屋だ。社長程ではないが、僕もこうしてオタク部屋にしているよ。じっくり見ていってくれたまえ」


 俺が一歩足を踏み入れると、確かにそこにはオタク部屋があった。彼は社長程ではないと言っていたが、グッズの量を見る限りは海野以上のオタク部屋となっている。

 部屋の両脇には巨大な本棚が二つほど置かれ、ラノベやコミックが大量に収納されている。目算だが、おそらく各棚千冊くらいは入っているだろう。


「すごいですね。上の棚にある本は、これ全部最近のアニメの原作じゃないですか」

「あ、ああ。僕は年代別に上段、中段、下段で本を分けている」

「なるほど……」


 別の意味で納得しつつ、本棚を見渡す。さり気なくスマホを取り出した俺は、スリープを解除しながら話を続ける。


「……あ、オリエントアムネシアの原作も置いてありますね。去年アニメやりましたけど、やっぱり原作も好きなのですか?」

「え? ああ、僕は原作が出始めた頃からの大ファンでね。アニメ放送時は原作と比較しながら毎回見ていたよ」

「僕はまだ原作は読んだことないんですよね……今度時間があったら読んでみようと思います」


 本棚を見終えた俺は、続いて部屋全体を見渡していく。飾られているグッズの大半は知名度の高いメジャーな作品で、マイナーな作品はほぼない。年代としては最近の作品が多いが、どうやら彼が好きだというオリエントアムネシアのグッズについては、ここには飾られていないらしい。


「それで、そろそろ本題に入ってもいいかな?」

「あ、すいません。つい、オタク部屋に見とれてしまっていました」

「ははは、別に構わないよ。むしろそう言ってもらえて、僕はオタクとして嬉しいよ」


 彼は笑いながらそう言うと、何やら部屋の奥から資料と思しきものを取り出してきた。


「今会社で起きている問題を僕なりに整理した資料だ。とりあえずそこに座って目を通してくれるかな」

「わかりました」


 渡された資料には今会社で起きている問題の要点と、彼が独自に考えたと思しき解決策が載せられている。情報量は多いがページ数は少なく、問題解決のエッセンスのみが凝縮された非常に質の高い資料だ。ビジュアル面でも随所に工夫が凝らされており、さっと見ただけでもかなりの事が理解できてしまう。


「朝比奈君は、既にある程度の事情は田辺さんや社長から聞かされているんだよね?」

「はい」

「なら話が早い。実は、僕は随分前からこの問題を解決しようと独自に動いていたんだ。もちろん、できる限り穏便な方法でね。僕は元々大手のIT企業に勤めていたのだけど、十年ほど前にこの会社に転職した。僕が来た当初はまだ平和だったけど、昨年の九月に今の社長になってからは徐々に社内が分裂し始めて、今では沙輝派と反沙輝派に完全に別れてしまっている。その動きを主導したのは、おそらく寺井さんだろう。君も会議で、彼女が海野社長と火花を散らせるところを見ただろう?」

「ええ、社長は相当怒っていましたね」

「ああ。ただ、実際にはあのような光景はこれが初めてではなく、昨年度から既に何度も起きているんだ。他にも海野社長と意見が対立している役員は何人かいるけど、あそこまで露骨なのは彼女だけだね」

「そうですか……となると、寺井常務がどう動くかが今後の鍵になりそうですね」

「そう。それで、僕としては何とかして彼女を海野社長と和解させたいんだ。反沙輝派の急先鋒が社長に歩み寄ったとなれば、社内の対立も少しずつ解消していくはず。そうすれば、クーデターで海野社長が解任されるという最悪の事態も避けられるだろう」

「でも、正直あの感じだと中々難しそうですよね……」

「そうだね、それは僕も良く分かっている。今のままだとお互い平行線だからね。とりあえず僕としては、クリエイターたちが上からのトップダウンでアニメを制作するのではなく、一部自分達からのボトムアップで制作に関与できるような、そんな仕組みづくりから始めたいと考えている。既に僕たちの特別チームで骨子となる案はまとまっているから、後は両者に説明して互いの意見を聞きながら、調整を進めていくつもりだ。同時並行で、クリエイターと上層部の円滑な意思疎通を実現する独自システムの開発も進めている」

「確かにそれが実現すれば、派閥間の対立は解消できそうですね」

「ああ。ただ、実現にあたり一つボトルネックがある。それは社長側との調整だ。海野社長は元々多忙なうえ、この手の改革に関する提案には、あまり積極的には取り合ってくれない傾向にある。そこで、僕としては君に協力を頼みたい。同級生という縁で補佐官になった君の話なら、海野社長も真剣に検討をしてくれるはずだ。君にはぜひ、僕と海野社長の橋渡し役になってほしい」


 どうやら彼は、俺と海野が既にそれなりに親しい関係だと誤解しているらしい。とはいえ、ここで彼からの印象を悪くするようなことをしてみても仕方がないので、ここは素直に引き受けるフリをしてみる。


「承知しました。私は社長補佐官ですから、本件に限らず、社内の対立解消に少しでも貢献できることがあれば、何でも協力いたします」

「ありがとう、協力感謝するよ」

「ただ、僕と社長は同級生とはいえ、以前から特段親しかったわけではありません。今はまだ、全面的な信頼関係にあるわけではないですが、それでもよろしいでしょうか?」


 ここは敢えて、ネガディブな情報も出しておく。


「ああ、全然かまわないよ。僕らみたいな大人と比べれば、やはり同級生というとっかかりがあるだけでもかなり違ってくるからね。同い年っていうのは、何物にも勝るアドバンテージなんだから、自信をもってやりなさい」

「ありがとうございます。そのように言っていただけると、こちらとしても少し気持ちが楽になります。まだまだ私は非力ですので、今後ともご指導賜りますと幸いです」


 そう言うと、俺は深々と一礼した。


「ははは、そこまでかしこまらなくてもいいよ。僕は君とはできるだけフランクに仕事がしたいと思っているからね。とりあえず、困ったことや疑問点などがあれば、いつでも遠慮なく僕を頼ってくれ」

「わかりました。お気遣い、感謝します」


 実際のところ、俺は既に抗争の全ての原因を把握したので、残念ながら彼を頼ることはない。沙輝派と反沙輝派の争いの種は、意外なところに転がっている。今日の会議と立川常務との会話で、全てわかってしまった。


 3


 俺は社長室へ戻ると、ひとまず昼食をとる。今日の午後は、田辺さんを交えて今後の方針について打ち合わせを行う予定となっている。

 俺の昼飯は、会議後に二十五階の役員食堂でテイクアウトしたカニの釜飯だ。海野はというと、俺と同じく役員食堂でテイクアウトしたのか、自分の席で黙々とうな重を食べている。よく見ると、あれは昨年の秋アニメ『熱海の少女』とのコラボ弁当だ。確かうちの会社が企画した商品だったはず。海野は社長としてではなく、純粋に一人のオタクとしてあの作品が好きなのだろうか。

 食事の間、お互いずっと無言の時間が続いていたので、ちょっと聞いてみることにする。


「なあ、海野も『熱海の少女』好きなのか?」

「ええ、好きよ」

「そ、そうか。俺も大ファンだけど、伏線ほとんど回収しないまま終わっちゃったから、早く二期をやって欲しいと思っている」

「そうね、私もファンとしては早く二期を見たいけど、経営者目線では微妙ね……」

「そ、そうか……」

「…………」

「…………」


 ダメだ、会話が続かない。俺は今まで女子と、いやもっと言えば同年代の人間と、こうしてプライベートな会話をした経験がほとんどない故、どうやって話を弾ませたらいいのか見当もつかない。


「な、なあ。海野は今週末、有明で行われる国際ラノベ博覧会の開会式に出席するんだよな?」

「ええ、そうよ。それがどうかしたの?」

「そ、その……もし可能だったら、何人かイラストレーターのサインをお願いしても良いかな。トークショーの登壇者一覧を見たら、何人か自分の好きな先生がいた。もちろん、時間的に厳しいなら全然無理してくれなくていいが……」

「無理ね」


 俺のお願いに対し、即答で拒否する海野。普段はあまり感情を表に出さない彼女だが、今回ばかりは誰が見てもわかる様子で露骨に顔を歪ませている。


「そ、そうか。そりゃ、そうだよな。当日は色々と忙しいだろうし、馬鹿なことを聞いて悪かった」

「…………」


 海野は不機嫌になったのか、黙り込んでしまう。再び社長室が静寂に包まれ、空調と端末の機械音だけが虚しく響き渡る。この重苦しい空気、何とか会話を続けないととてもじゃないが間が持たない。俺は勇気を振り絞り、会話が途切れないよう努力を続ける。


「そ、それにしても開会式の参加者はめちゃくちゃ豪華だよな。名前見たら、どれも日本を代表する超一流のクリエイターばかり。当日彼らと間近で話せるなんて、正直羨ましいよ」

「別に、そんな羨ましがられるほどのものでもないわよ。あくまでも仕事だから、全然楽しくないし嬉しくもない。というか、私にとってはむしろ憂鬱なイベント、正直嫌な仕事だわ」

「そ、そうか。それは、大変だな……」

「…………」


 海野の回答が予想外なものだっただけに、俺はこの時点でこれ以上の会話を続けることが困難になった。なぜ、海野は国際ラノベ博覧会が嫌なのだろう。もちろん、仕事で行く以上は、趣味とは違うので多少のストレスを感じることはあるだろうが、憂鬱なイベントとはちょっと驚きだ。どうしてそこまで嫌がるのだろう。国共党関係者からも、博覧会に関して悪い話は聞いたことがない。ひょっとして、今の社内での派閥抗争が関係しているのだろうか。それとも、海野が何か個人的な事情で博覧会を嫌っている? 俺は色々と理由を推測してみるが、思考の淵へと入り浸る前に田辺さんが入室してきたので、今そのことを考えるのはやめにする。


「沙輝ちゃんも朝比奈君もお疲れ様。朝比奈君は今日が記念すべき初日だけど、仕事の方は順調?」

「まずまずですね。今村さんは、午後はどちらへ?」

「あー、今村さんは午後から出張。詳しくは聞かされていないけど、どうやら国共党の要人との会談が入っているみたい」

「了解しました」

「さて、沙輝ちゃんもそろそろ食べ終わるみたいだし、早速今後について色々と話し合いましょう」


 そう言うと、田辺さんは机周りを整理して打ち合わせの準備を始める。俺たちもそれに続く。


「……とりあえず、当座の目標は六月の党大会までしのぎ切ることね。私が国共党の最高評議会に入れば、反沙輝派とて簡単には手出しができなくなる。国共党の幹部中の幹部である、最高評議会常務委員が持つ力は、絶大だもの」

「でも、分家の根回しもあってか、まだ入れると決まったわけではないんだろ?」

「ええ。ただ、もし入れる見込みがないと分かった場合には、党大会の直前にとある計画を発動させる予定。この場合、中央情報部の大々的な支援を得られる最後のチャンスになるから、多少強引な手を使ってでも反沙輝派を潰しにかかるつもりよ」

「ん? それは一体どういう……」

「現時点では秘密。今は沙輝派の中でさえ、田辺さん以外には話していない。今社内でその計画の中身を知っているのは、私以外では田辺さんと今村さんの二人のみ」

「そ、そうか……」


 どうやら、海野は俺に『とある計画』とやらの中身まで伝える気はないらしい。俺は昨日補佐官になったばかりの新入りなので、やはりまだそこまでの信頼は勝ち得ていないのだろう。


「ちょっと沙輝ちゃん、補佐官の朝比奈君には、そのくらい教えてあげてもいいじゃない。そいうことやっていると、お互い信頼関係が生まれないわよ」

「別に、この計画に朝比奈君は一切関与していないし、話したところで彼にできることは何もないのだから、話すメリットがない。話す必要のないことは、話さないのが鉄則でしょ」

「はぁ……もう、仕方がないわね。だいたい……」

「まあまあ、いいですよ。自分はまだ一応試用期間中ですし、実際自分が関与できる余地がないのであれば、聞くメリットはありませんから」

「まあ、それはそうだけど……」

「それで、少し話を戻すと、何にしても党大会までの後二か月はしのぎ切らなければならないという話でしたよね。分家や反沙輝派は、当然この期間で海野を引きずり降ろそうとしてくるでしょうが、こちらとしてはどう対処していくつもりなんです?」


 俺の質問には、田辺さんに代わり海野が回答する。


「そうね、基本的には反沙輝派の引きはがし工作を中心にやっていく予定。先ほどの会議を見てもわかる通り、まだ反沙輝派は数の面で優位を確保しきれていない。向こうは残り二か月間、なりふり構わず多数派工作を仕掛けてくるでしょうから、こちらとしてはそれを妨害する形で行うつもりよ」

「具体的には?」

「今年の二月頃から反沙輝派の役員や社員、クリエイターに対しては、中央情報部の協力のもとスパイを送り込んであるから、それを利用する形ね。役員の場合は警護官や運転手、社員の場合は同じ部署の部下や上司、作家の場合は担当編集やサークルの売り子などといった形で送り込んである。彼らの活躍により、何人かの役員やクリエイターについては既にスキャンダルを握ってあるから、それを盾にこちら側への寝返りを要求するつもりよ」

「なるほど。ちなみに、海野としては向こうがクーデターを起こすとしたら、いつだと予想しているんだ?」

「党大会の二週間前、六月初旬の定例取締役会ね」

「ほう、やはりそうなるか」

「タイミングとしてはそこしかないもの。それまでの間、反沙輝派はアニメ制作事業の売却の件を攻撃材料に、私を批判し続けるでしょうね。社内外で、海野はクリエイターの話を聞かないダメな奴だという雰囲気を醸成しながら、著名なクリエイターの協力のもと多数派工作をしかけてくるはず」

「成功の見込みは?」

「まあ、私はほぼないと思っているわ。というのも、スキャンダルで最低二人は寝返るでしょうし、そもそも国共党は基本的に売却を容認しない姿勢だから、いくら世論が喚起されたとしても、社内の人間は党の方針に逆らってまでは事を荒立てないでしょう」

「いや、私としては、沙輝ちゃんのその見解はちょっと楽観すぎると思う。反沙輝派を裏で支援している分家の人たちは、当然この件についてだって、国共党に根回しをしている。もし今後世論が売却推進で盛り上がった場合、党内の分家よりの幹部達が動けば、国共党が売却容認に舵を切る可能性も十分にあり得るわ。そうなれば、売却に反対する沙輝ちゃんははしごを外された形になり、一気に多くの役員が反沙輝派へと寝返ることになる」

「いや、こちらとしてはスキャンダル以外にも様々な切り崩し工作を用意しているから、たとえ党の方針が変わったとしても、そんな簡単に反沙輝派が多数にはならないわよ。退職後の天下り先の確保や、社内における縁故採用の強化などの餌をまくことで、既存の反沙輝派に対して熾烈な引きはがしを行っているから、たとえそのような事態が起きたとしても、反沙輝派は最終的にはほとんどプラマイゼロになるはず」

「それは甘い見通しね。国共党が容認したとなれば、今売却を声高に主張しているクリエイター達は、ますます勢いづくことになるわよ。反沙輝派と繋がっているクリエイターの中で、こちらが確たるスキャンダルを握れているのはまだ一人しかいないし、先ほど貴方が言ったような引きはがしも、著名クリエイターの場合はほとんど通用しない。彼らは、既に金も知名度も十分確保した人達だからね」

「…………」


 田辺さんがそう言うと、海野は黙り込む。単純に彼女の主張に反論できないということなのだろうが、その表情には、少しばかり悲しげな雰囲気も漂っている。


「……まあ、もしそうなったら、その時は例の計画を発動させれば良いわよ。国共党が売却容認に方針を変えたということは、分家の党への根回しが一定程度成功したってことでしょ。となると、私は党大会で最高評議会常務委員に選ばれない可能性も高くなるわけだから、予定通りそこであの計画を実行に移せばいい」

「そうね、いよいよやばい状況になったら、そうすればいいと思う。ただ、あれは本当に最後の手段だから、最初からそれに頼るのは止めた方がいい、というか止めてね。あの計画はその性質上、一回限りしか使えないから、他の方法がある状況ではできれば避けたい」

「その言い方だと、他の方法があると言いたげね」

「ええ。そのために、我々は朝比奈君を連れてきたんじゃない」


 そう言うと、彼女は俺のことを自慢げに、ポンと叩く。


「えーと……つまりは、SNS上で売却反対の世論形成と、反沙輝派のクリエイター達の評判を落とすような世論工作を、僕にやって欲しいということですね」

「正解。理解が早くて助かるわ。売却反対の世論が盛り上がれば、国共党は売却容認に舵を切りにくくなるし、反沙輝派のクリエイターもこれまでのように沙輝ちゃんを批判したり、売却推進のための情報発信をしたりするのは難しくなる」

「実際、これまではそういった世論工作はやってこなかったんですか?」

「ええ。これまでも中央情報部と連携して、反沙輝派に対する様々な工作をやってきたけど、所謂世論工作の類はほとんどやって来なかった。ただ、ここにきてそろそろそういった工作をやる必要性が出てきたから、中央情報部に依頼して、あなたのような世論工作のプロを紹介してもらったというわけ。なので、あなたは一々中央情報部の顔色を窺う必要はない。情報工作や世論工作の類については、すべてあなたに一任されていると思ってくれて結構よ」

「わかりました。ただ、相手は国民的人気を誇るクリエイターばかりなだけに、彼らの主張を否定したり、非難したりするのは中々難しいと思います。彼らは知名度を武器に、絶大な権力をふるっていますからね。正直、今の状況ではそのようなことをしても、余計に海野への風当たりや反発が強くなるだけでしょう。ですので、私としては……」


 既に派閥抗争の根本的な原因を把握している俺からすれば、田辺さんの主張するやり方は正直ナンセンスだ。一人一人の人間を潰すよりも、大元を潰した方が良いに決まっている。

 ただ、今の段階では、まだ真実を伝えるべきではないだろう。そもそも、俺はここで立川常務から伝えてくれと頼まれたことを、きちんと海野に話さないといけない。


「……いきなり大々的な世論工作を行うのには反対です。明確に対話の道を閉ざせば、抗争終結後の経営に少なからず支障をきたすでしょう。相手は知名度のあるクリエイターばかりですから、和解できるのなら和解できた方がいいに決まっています。幸い、立川常務が両者の歩み寄りによる解決策を考えてくれているみたいですから、まずはそれをやってみてから今後の対応を決めればよいでしょう」

「いいえ、その必要はないわ。先々月、彼からそういった話を聞かされたけど、正直色々と不備のあるプランだった」

「そうか。ただ、現在の彼のプランは当時よりも、幾ばくか改善されている可能性がある。せっかく資料も作ってきてくれたみたいだし、もう一度考え直してくれないか」


 そう言うと、俺は立川常務から貰った資料を海野らに提示する。非常によくできた資料なので、俺が口頭で説明をするよりも、これに目を通してもらった方が早いだろう。


「沙輝派期待の若手と言われるだけあって、すぐに修正してくるあたりは流石ね。彼は稀に独断専行で突っ走るところもあるけど、非常に優秀で有能なのは間違いない」


 そう言いながら、彼女は資料に目を通していく。


「この短期間で独自システムの試験運用までやったのは凄すぎる。はっきり言って、スピード感と実行力で彼の右に出る者はいないわね」

「じゃあ、沙輝ちゃんは彼の案に乗る?」

「いいえ、残念だけどやっぱり彼の案には乗れない。私自身、彼のことは高く評価しているし、これまでも適材適所で様々な仕事をお願いしている。でも、今回については彼と協力することのデメリットの方が大きいと判断した」


 資料を読み終えるや否や、そうきっぱりと言い放つ海野。俺としては海野の判断は間違っていないと思うが、田辺さんは違うらしい。


「ダメよ、沙輝ちゃん。彼は沙輝派若手のエースなんだから、きちんと連携を取っていかないと、今後の沙輝派の結束にも影響する。万が一彼にそっぽを向かれたら、反沙輝派からのクーデターは避けられないわ」

「そうかしら。私としては、彼の案に乗ることの方がむしろマイナスだと思っている。何せ、彼は国共党内の一部界隈で評判があまり良くない。六月の党大会で最高評議会の常務委員入りを目指す以上は、今このタイミングで党幹部の心情を逆なでするようなことはしたくないわ」

「まあ、国共党の中でも別に全員が彼を嫌っているわけじゃないから、多少彼と連携するくらいなら問題ないんじゃないか。党内で彼の評判が良くないのは、様々なことを党に要望するからであって、別に無能だからではない。実際、彼は共和国民からの人気も根強いし、彼のプランに乗るのも悪くないと思うが」


 ここは、敢えて海野を揺さぶってみる。しかし、海野は考えを変える気はないらしい。


「いいえ、私はあくまでもこれまで通りの計画で事を進めていく。申し訳ないけど、そこは譲れない」

「了解した」

「ちょっと、それじゃダメよ、沙輝ちゃん。彼の事が嫌いだからって、そういうふうなことしたら」

「別に、私は彼のこと嫌いじゃないわよ」

「じゃあ、どうして彼の案に乗らないの?」

「今説明した通り、デメリットの方が大きいからよ」

「本当にそれだけ?」

「そうね……後は、私の直感がダメだと判断したから、かしらね。経営者の勘、いいえ違うわ、オタクの勘ってやつね。根拠はないけれど、私は彼の案がベストだとは思わない」


 オタクの勘、中々いい言葉だ。


「……わかったわ。今回は立川さんの案は却下ということにする。ただ、その場合朝比奈君には、反沙輝派のクリエイターに対する世論工作をお願いすることになるけれど、いいかしら。本心としては反対なんだよね?」

「ええ。そのようなことをすれば、抗争終結後に修復不可能なレベルでしこりを残すことになります」

「そうか……」

「私としては、しばらく様子を見てもいいと思っています。今は一応沙輝派が多数派を維持できているわけですから、反沙輝派に対するスキャンダル探しや引きはがし工作は継続しつつ、世論工作については状況がもう一段悪化してからでも良いでしょう」

「それで、本当に大丈夫かしらね……」

「大丈夫です、そこのところは僕を信じてください。ちょっとでも危うい雰囲気があれば、すぐに動きますから」


 俺はそう言うと、田辺さんのことを真っ直ぐに見つめる。心なしか、少しばかり彼女の顔が赤らんだように見えたのは、気のせいだろうか。


「……わかったわ。さ、それじゃあ今日の打ち合わせはこれにて終了ね。二人とも、お疲れ様」


 そう言うと、田辺さんはそそくさと社長室を後にした。

 実を言うと、俺は如何なる状況になっても、反沙輝派のクリエイターに対して世論工作を行うつもりはない。もぐら叩きのように一人一人に対処していくのではなく、あくまでも大元を潰すというのが俺の本当の方針だ。なので、先ほどの俺の発言には一部嘘が含まれている。海野に対して嘘をつくのは正直憚られるが、今の状況を考えればこれも仕方がないだろう。

 田辺さんがいなくなり、再び俺と海野だけの空間が生まれる。だが、昼ごはんの時と違い、今は会話を弾ませようとかそういったことを考えている場合ではない。今は補佐官として、海野に伝えなくてはならないことがある。


「なあ、机の上のこの充電アダプタだけど、一体何のためにあるんだ?」

「何って、それは携帯やタブレットを充電するために決まっているじゃない」

「それにしてはちょっと多いな。三つも要らないだろ」

「何言っているの、一つは私用、もう一つはあなたのために用意したもの、そしてもう一つは……ってあれ、真ん中のこれは何のためだったかしら……」


 そう言うと、海野は机上の差込口を見つめながら首をかしげる。


「まあ、予備で一つあると何かと便利だから、秘書が気を利かせて置いてくれたのでしょうね。私はまだ使ったことはないし、今後も使う予定はないから、使いたければあなたの方で使ってもらって構わないわ」

「甘いな」

「甘い? さっきからあなたは一体何を……」


 海野はまだ気づいていないようなので、俺は使われていない真ん中のアダプタを引っこ抜くと、ふたを開けて見せた。


「ねえ、ちょっと勝手にいじらないでもらえるかしら」

「よく見てみろ」


 俺は、開口部の部分から一枚の小さなカードを取り出す。


「ん? これ確かスマホに入っているやつよね……SIMカード、だっけ」

「ああ、そうだ」

「なぜこんなものが充電器の中に入っているのかしら……」

「なぜって、簡単だ。それは海野を盗聴するためだよ」

「え、盗聴?」

「そうだ」

「ウソでしょ……ということはこのSIMカードを通して、どこかに通話が発信されているということ?」

「ああ。恐らく、向こうがこのSIMカードの番号にSMSを送ったり、電話をかけたりすると、この付近の音が通話として聞こえる仕組みなのだろう。どちらにせよ、ここで話したことの一部ないしは全てがどこかに傍受され、駄々洩れていたということだ」

「……ということは、先ほどの話も今までの話も、誰かに聞かれていたかもしれないということね」

「ああ。悔しいが、俺もさっきまで気づかなかったからな。そして、その誰かとは99%反沙輝派の人間、もしくはそいつに協力する人間と考えて間違いないだろう」

「まあ、常識的に考えればそうなるわね。でも、一体どうやって設置したのかしら。この部屋は、私が留守の時は常に施錠してあるわけだし」


 いつもクールに振る舞っている彼女と言えど、今回の事態は相当ショックだったのか声に覇気がない。表情こそ冷静さを保っているが、声色からは明らかな動揺が窺える。


「ここ一、二週間の間にこの部屋を出入りした人間の名前はわかるか?」

「直近二週間では田辺さん、石川さん、立川さん、西田さん……あとは、私の秘書や秘書官、警護官なんかが出入りしているわね。基本的に会議とかは下の会議室で行うから、ここを出入りする人間はそうそういない」

「なるほど、まあ名前を聞く限り、役員は皆沙輝派だな。盗聴器を設置するような人間は、正直いなさそうだが……」


 俺はそこまで話すと、一瞬口ごもる。実を言うと、俺は設置を主導したであろう人間については既に特定できているが、その事実を今ここで話すべきか、それとも黙っておくべきか。他にも盗聴器が設置されている可能性を考えれば、ここは黙っておくのが得策だろう。


「それにしても、私としたことが不覚だったわ。目の前に設置された盗聴器に気が付かないなんて……」

「まあ、起きてしまったことは仕方がない。これまでにここで話したことは、全て盗聴されていたという前提で動けばそれで問題ないだろう」


 実際、俺はまだ自分が考えている本当のプランについて、この部屋では一切口外していない。なので、今のところはノーダメージだ。


「ひとまず、このSIMカードと充電アダプタについては、俺の方で回収しておくよ。そして、今後についてだが……」


 そこまで話したところで、一つ間を置く。ここから先は非常に大事な話になる。


「……先ほど俺が盗聴器を外したことで、向こうはこちらが盗聴に気付いたことをいずれ悟るだろう。そうなれば、向こうも何かしらの手を打ってくる可能性が高い。そこで、今後の事について話し合いたいのだが、今日みたいにここで人を集めて話すのはリスクだろう。新たに盗聴を仕掛けてくる可能性もゼロではないし、何よりまだこの部屋のどこかに盗聴器が仕掛けられている可能性だってある。メールやビデオ通話などオンラインでのやり取りも、盗聴やハッキングのリスクを考えると危険だ。だから、俺としては今後重要な話は社外のどこか安全な場所で話がしたい。海野はそういった場所に関して、何か心当たりはあるか?」


 俺がそう告げると、海野は盗聴を恐れてか、口頭ではなくメモにて俺の質問に回答してきた。どうやら、熱海にある彼女の別荘で話をしたいということらしい。


「私の別荘は全国各地にあるから、地名さえ言わなければカモフラージュになる。これからは、別荘とだけ言うわ」

「そうか、了解した。日程については後日調整ということでいいかな?」

「ええ。早くても、信濃州への出張が終わったタイミング、GW以降になると思うわ」

「了解した。ちなみに、出張先は佐久工場か?」

「えーと、佐久工場を含む、州内のフィギュア工場三カ所を見て回りたいと考えている。先ほどの会議で佐久工場の存続が決まったから、そのことも含めて、今後の方針について色々と打ち合わせをするつもり。その後は、越後州で開発中の天然ガス田も視察して帰って来る予定だから、三日程度は本社を留守にすることになるわ。社長室の留守は、田辺さんに任せるつもりだから、あなたはあなたで自由に動いてくれて結構よ」

「そうか、わかった」


 俺としては、この先独自に準備を進めないといけないことがいくつかあるので、正直この三日間は有難い。


「さ、とりあえず私から話すことはもうないから、今日は帰っていいわよ」

「そうか、それじゃあ失礼させてもらう」


 俺はそう言うと退室するべくドアの方へと歩き始める。しかし、数歩ばかり歩みを進めたところで、遠慮がちに彼女が声をかけてきた。


「ね、ねえ、朝比奈君」

「ん?」

「その、きょ、今日は……」

「あ?」

「い、色々と……ありがとう」


 小さな声で、ボソッとそう呟く海野。振り返ってみれば、若干顔を赤らめている。


「お、おう。こ、これからもよろしくな」


 海野の意外な反応に、つい俺もつられて動揺してしまう。いつもクールでキビキビとした彼女にあんな表情を見せられたら、誰だって平静ではいられないだろう。率直に言って、可愛すぎる。

 今の表情をしっかりと脳裏に焼き付けながら、俺は社長室を後にした。


 4


 社長室を出た俺は、帰宅する前に一つ寄り道をする。反沙輝派との和解案を却下されたことや、盗聴の件は今日中に立川常務に報告しておいた方が良いだろう。


「……なるほど、やはり海野社長は私の案には乗ってくれなかったか……」

「ええ。やはり彼女としては、妥協するわけにはいかないようです」

「最高責任者である彼女がそう判断したのなら、僕から言えることは何もない。残念だけれど、僕は僕で、とりあえずまた別の案を練ることにしてみるよ」

「ありがとうございます、申し訳ないです、お手数をおかけして。本当は、自分が説得できればよかったのですが……」

「いいや、君がそこまでする必要はないよ。もう少し気楽に考えてくれて、結構だ」

「お気遣いありがとうございます。それで、実はもう一つお伝えしたいことがありまして……」

「何だい、言ってごらん」

「実は、社長室で盗聴がありまして……」

「盗聴?」


 俺の口から出た言葉に、立川常務は思わず目を見開く。


「こちらが、社長室に設置されていた実際の盗聴器になります。ここにSIMカードが入るようになっていて、恐らく盗聴者の電話に音声を発信する仕組みとなっているのかと」

「なるほど……。これは確かに中々気が付かないな。盗聴者は、わかったのか?」

「いえ、まだ……」

「そうか。そういうことなら、僕の方でもこの件は独自に調査しておくよ。今の段階で、何か手がかりになりそうなことはあったかい?」

「そうですね……、盗聴器はコンセントに設置されていたわけですから、犯人は自ずと社長室に自由に出入りできる人間に絞られます。ただ、それ以上のことは現時点では……」

「なるほど、了解した。となると、ひとまず盗聴器を回収して、解析してみないことには何もわからないな。一応、うちの部下には何人か技術面でのプロがいるが、どうだろう。良ければ、こちらで回収して解析を頼むこともできるが」

「あ、盗聴器についてはひとまず犯人の見当がつくまでは、社内外を問わず誰にも渡すなと言われておりまして……」


 俺としては、ここは自分で持っておきたいので、敢えてそれっぽい嘘をついてみる。


「お、そうか。そういうことなら、別に構わないよ。ただ、くれぐれも扱いには注意してくれ。もしかしたら、まだ我々の把握していないシステムが中に仕組まれているかもしれない」

「了解しました、警戒を緩めず慎重に取り扱いたいと思います。ご忠告、ありがとうございます」


 そう言うと、俺は軽く頭を下げる。


「他に、何か聞いておきたいことや伝えておきたいことはあるかね?」

「いえ、今日のところは特には……」

「了解した。今後も何か気になることや相談したいことがあれば、遠慮せずに僕のところを訪ねてくれ。不在なら、メールでも構わない。一日も早く抗争が解決するよう、一緒に頑張っていこう」

「ありがとうございます。それでは、失礼いたします」

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