大炎上

 1

 

 五月七日、午前七時。いよいよ、運命の時間まであと三十分となる。これまで何度も情報工作や、世論誘導の類はやってきたが、ここまで大規模なものは初めてだ。対象は一人とはいえ、相手は外国の工作員。国共党中央情報部の防諜をかいくぐり、うちの会社に十年間も自分の素性を隠して在籍していたということは、社内外に一定数の協力者がいるとみて間違いない。こちらが炎上をしかけても、向こうはそれに上手いこと対処してくるだろう。火消し工作や逆工作、大量投稿によるトレンド操作などはもちろん、それ以外にもあらゆる手段で抵抗してくることが予想される。だが、こちらもプロなので負けるわけにはいかない。俺は朝食をとりながら、最後の確認をしていく。

 今回の炎上工作では、先日の講演会で密かに録画した立川の動画をネットに拡散するという、一見シンプルなものだが、そのプロセスは非常に複雑だ。というのも、俺自身は初期の段階では、表立って拡散には加担しない。あくまで、最初は一般人、講演に参加していた大学生の一人が、告発のような形で動画をSNSに流すという形式をとる。

 俺はこの計画を思いついた時点から、今回の計画のために緑沢大学の一般大学生を装った匿名アカウントをいくつか運用している。複数運用しているのは、凍結などの不測の事態に備えるためだ。これらのアカウントのうちの一つで、まずは手元にある動画を、編集により縦長の形状に変換、すなわちスマホで撮影した風に変換して、ネット上に流す。こうすることで、向こうは組織的な拡散ではなく、講演会に参加した大学生が自然に映像を流出させたものと一時的に誤解するだろう。

 当該動画をSNS上に流した後は、それを拡散して共和国民の目に浸透させていく作業に入る。一番手っ取り早いのは、業界のトップブロガーとして三百万人超のフォロワーを抱える俺が、すぐにこの投稿をブロガーHINAのアカウントで拡散してしまうことだが、それをやってしまうと一気に広がってしまう分、拡散の波を複数回に分けて長期間トレンドを維持することが難しくなるので、それはやらない。拡散の初期段階では、自分と協力関係にある第三者に当該動画を広めてもらう。

 俺はこの二年間、様々な世論工作をしてきたが、全て一人でやってきたわけではない。国共党議員への口利きや、自サイトでの作品の優先的宣伝などを条件に、俺は中小オタク企業の社長や、中堅作家、コスプレイヤーなどと独自の協力関係を構築しており、世論工作の際は俺の投稿やこちらが指定する第三者の投稿の拡散に協力してもらっている。彼らは全員、フォロワー数万人から十万人程度の中堅インフルエンサーなので、拡散力としてはやや不十分なところがあるが、今回のように初期段階での助走としてなら十分機能するだろう。

 彼らの中に立川との内通者がいて、万が一裏切られた場合のことも、一応考えてはいる。しかし、実際のところその可能性は限りなく低いだろう。というのも、彼らはまだ確固たる社会的地位や名声を獲得するには至っていないので、業界トップのインフルエンサーである俺との協力関係は、絶対に壊したくないはず。俺の協力の有無で、彼らの売上や運命が決まると言っても過言ではないのだから。

 協力者による初期段階での拡散が終わり、適度に燃え出した後は、いよいよタイミングを見計らって、俺自身が自分のアカウントでの拡散に乗り出す。サブ垢などを総動員して拡散するつもりで、短文投稿サイトや写真共有サイトなど計四種類のSNSで合計七個のアカウントを使用する予定だ。もちろん、自分が管理するメインのブログの方にも、当該動画を基に立川を批判する記事をアップする他、サテライトサイトなども駆使して拡散を行っていく。

 その後は、適宜世論を見ながら微調整をしていくつもりだ。今週中には、昨日週刊誌の方にリークした立川の録音データも、先行してネットニュースに出てくるだろう。そのタイミングで再び炎上の波が来ることは確実だし、紙媒体の発売日でも、再度炎上の波がくるとみていい。その都度俺が立川をネット上で批判すれば、より一層効果的な拡散が可能になる。

 最終確認を終えた俺は、いよいよ最初の一手を打つべく、PCを起ち上げる。学生寮の通信環境は大学生の寮も含めた共用ネットワークとなっているため、元々特定やセキュリティ上のリスクは低いものの、それでも俺は接続方法や使用するブラウザには細心の注意を払っている。複数のアカウントを運用している関係上、前述のリスクに加えて凍結防止にも気をつかわないといけない。誤爆対策などから、プライベートで使うPCとブログ活動で使うPCは完全に分けている。

 午前七時半、俺は緑沢大学の学生を装った捨て垢にて、一件の動画をコメントと共に短文投稿サイトに投下する。立川がオタクではないことを示唆する講演会の動画が、今まさにこの世に解き放たれた。

 午前七時五十分、何名かのインフルエンサーたちによる拡散が始まる。もちろん、彼らは俺がこれまで独自に協力関係を構築してきたインフルエンサー達だ。彼らには事前に、『当該アカウントが五月七日午前七時半に投稿した動画付きの投稿を、午前七時五十分頃に批判的コメントと共に拡散せよ』との指示を出してあるので、今更俺が何かあれこれ指示を出したりする必要はない。

 具体的な投稿内容、すなわち当該アカウントが投下する動画の中身については最後まで伏せていたので、きっと彼らも驚いていることだろう。彼らインフルエンサーも、立川がオタクではないという事実を、今この瞬間に知ったのだから。世界最大のオタク企業である海野インダストリーの取締役が、創業以来の伝統と不文律を破り、オタクではないことを隠蔽して、長期間会社の中枢にいたという事実は、共和国中を揺るがす大スキャンダルといっても過言ではない。

 最初の投稿は、十分も経たないうちに瞬く間に広がっていった。見ている限り、俺が拡散を依頼したインフルエンサー達は、案件だから仕方がなく批判と拡散をしているというよりは、本音で批判と拡散しているように思われる。彼らもオタクである以上、共和国のオタク文化の象徴であり、世界のオタク産業の要である海野インダストリーに泥を塗られたことには、怒り心頭のようだ。

 八時を過ぎると、彼らの拡散の甲斐もあってか、ついに一部のSNS上で立川常務がトレンド入りする。この時間はちょうど朝の通勤通学時間帯ということもあり、電車内で暇を持て余した学生や会社員の目に留まりやすい。見ている限り、皆立川のことをボロクソに批判している。今日は連休明け初日なので、皆ストレスが溜まっているのだろう。現代人はそんな時に他人のスキャンダルや不祥事を見ると、無性に叩きたくなるものだ。謎の正義感に駆られた人間による罵詈雑言の嵐が、次々とSNS上を埋め尽くしていく。

 初動としては十分成功だろう。俺は二十分程観察と分析を続けた後、会社へと向かうべく社用車に乗り込む。会社ではこの件について、海野とは一切話さないことにしているので、今日は出勤する必要もないのだが、俺としては炎上後の社内の反応を見ておきたいので、敢えて出勤する。

 出勤した俺は、半日かけて社内の様子を見て回る。ついさっき炎上したばかりということもあり、流石にまだ気づいていない人も多いのか、社内全体が騒然としているような様子はない。ただ、役員や取締役は派閥を問わず、炎上に気づいている人も一定数いるようで、何人かからはそのような会話が聞こえた。当の立川本人は当然気づいていたようで、俺は昼過ぎに彼の部屋へと呼び出されると、その場で火消し工作の依頼を受けた。彼としても、悠長に構えている暇はないと判断したのだろう。

 帰宅後、再度SNSを確認する。今のところ、誰かが火消し工作や関心を逸らすための妨害工作などを行っている気配はない。彼が火消しを俺だけに依頼しているのか、それとも複数人に依頼しているのかはわからないが、いずれにせよ彼は、自分の正体を俺に見抜かれたことに、まだ気づいていないのだ。彼は、自分が隠れ反沙輝派であるという事実を、まだ俺に隠し通せていると勘違いをしている。

 夕方になり、SNS上は再びゴールデンタイムを迎える。本来なら、そろそろ火消し工作が始まって然るべきタイミングなので、彼は今頃焦っていることだろう。仕掛け人である俺は当然火消し工作なんてやらないし、彼が俺のアカウントだと誤認しているインフルエンサーTOSHIのアカウントも、沈黙を保ったままだ。名前を貸してもらった彼には、五月末まで時事の事件やニュース、スキャンダルについては一切コメントしないでくれと要請してあるので、彼がこの件について何か発信をすることは当面ない。

 夜になると、動画投稿サイト上にも、流出させた動画が徐々に上がってくる。所謂動画配信者による投稿ではなく、匿名のアカウントによる無断転載動画が大半だが、それでもいくつかはそれなりにバズっている。

 夜九時を過ぎると流石に勢いが落ちてきて、いくつかのSNSではトレンド外にはじき出されたようだが、初日としては十分だろう。後は、明日俺がブロガーHINAのアカウントで大規模な拡散を行って、再度大きなトレンドの波を作ればいい。流石に向こうも、俺が動かないことを危惧したのか、別の人脈を使って火消し工作を始めてきているので、このまま何もしないと、明日以降押し切られる可能性もないとは言い切れない。実際、SNS上には、三十分くらい前から立川を擁護するアカウントや、彼は立派なオタクだと主張するアカウントが急激に増えてきている。まあ、その道のプロの俺が明日拡散を行い、さらに週刊誌の記事なども出てくれば、いかなる火消し工作をやってきたとしても、彼は逃げ切れないだろう。連日のようにトレンドの波が続けば、それをかき消すのはまず無理だ。

 そんなこんなで、明日以降のことをぼんやりと考えていると、一本の電話がかかってくる。海野がこの件で電話してくるはずはないので、相手は粗方想像がつく。


「もしもし」

「もしもし、立川だ。単刀直入に聞くが、君、まだ今回の件で動いてくれていないよね。夕方から再三メールもしているんだが、返事の一つもない。どういう訳か、説明してもらえるかな」


 彼は丁寧な言葉こそ使っているが、口調からは相当な怒りが感じられる。


「何がですか?」

「会社でお願いしたよね。真実を拡散し、今流れているデマの火消しをしてくれって。その話は、どうなったんだい?」

「……」

「君、何もやっていないよね。午後からずっと君のアカウントを見ているが、君はこの件について何のコメントも拡散もしていないし、他のインフルエンサーと連携して何かをするような様子もない。火消しが一向に進まないもんだから、先ほど別のネットワークを駆使して、デマに対する対応を始めたよ。君はどうするかな? 正直遅すぎるが、今からでも僕が独自のネットワークで拡散を行っているところに加勢してくれれば、今回のミスは全て水に流すことにするが」

「いや、正直それは無理ですね」

「君、ふざけるのもいい加減にしてもらえるかな」

「いや、ふざけてないですよ」


 面白いので、ここは敢えて挑発するようなことを言ってみる。


「とぼけるのも大概にしろ。今ここで協力を拒否するということは、今朝からの一連のトレンドも、さてはお前の仕業だな」


 ようやく、立川は俺が彼を嵌めようとしていることに気づいたらしい。


「そうですね、沙輝派のフリをした反沙輝派の方には、答える義理はありません」

「な……」


 立川が俺から敵認定されているということは、すなわち沙輝派ではないという事実がバレているということなのだが、彼は俺が指摘するまでその事実に気がつかなかったらしい。相当追い込まれているのか、正常な思考ができなくなっているのだろう。


「お、お前、あんまり調子に乗るなよ。今すぐ火消しをやらなければ、お前の素性を全てSNS上でバラしてやる。朝比奈春斗という本名、TOSHIというアカウント名はもちろん、補佐官をやっている事実も含めて、一切合切全てバラすからな」

「バラせばいいじゃないですか」

「な、何だと。これははったりじゃなくて、本気だぞ。俺は俺で独自にSNS上でのネットワークを保有しているし、何より海野家の重鎮の後ろ盾もある。お前と海野沙輝なんかすぐにでも潰せるんだからな。勘違いするなよ」


 実際、創業家の分家は反沙輝派と繋がっているので、今の彼の発言ははったりではなく事実だろう。だが、彼がオタクではないことが世間に露呈し、大炎上したとなれば、分家の重鎮とて彼との関係を続けることはできない。そもそも、創業家を含む反沙輝派のほとんどは、彼が不文律に違反しているという事実を知らずに協力していたはずなので、そういった事実が露呈した時点で皆離れていくだろう。彼らの大半は、単に現社長を潰す目的で利害が一致したから立川と協力していただけで、別に会社における不文律違反を許容しているわけではない。彼らもオタクである以上、オタクではない人間が知ったかぶりをして入社していたとなれば、少なからず嫌悪感を抱くだろう。炎上により、世間からの風当たりも強くなるはずなので、今後彼と関わるメリットがない。


「いや、それは無理でしょう。オタクではないことを隠していた事実がバレた今となっては、誰もあなたに協力なんてしません」

「いや、僕はオタクだよ。今は悪質なデマにより世間に誤解が広がってしまっているが、これから毎日僕がオタクであることの証拠を提示していけば、そのうち世論も手のひらを返すだろう。僕の人脈と拡散網を、甘く見るなよ」


 講演会でのあの受け答えを見られても、なお自分がオタクであると言い張るのだから凄いものだ。もしかすると、俺に電話の音声を録音されているリスクを考慮して、そう答えているのかもしれないが。


「なるほど。つまり、あなたは火消しに成功して、分家の重鎮たちとの関係も継続できると考えているのですね」

「ああ、そうだ。さらに言えば、お前は素性をバラされ、海野は反沙輝派のクーデターにより失脚する。もしお前だけでも助かりたければ、素直に俺の言うことを聞け。こちらは既にお前の身分証のデジタルデータ、それから先日の会食の際の録画データも確保しているから、逃げられないぞ」

「具体的には、何をすれば宜しいのでしょうか」

「そうだな、まずはお前が持つネットワークをフル活用して火消しを行うのはもちろん、それと並行して沙輝派の情報、特に田辺や今村の情報を中心に、全てこちらに逐一提供しろ。後は、お前が懇意にしている国共党議員の動向についても、併せて必ず報告すること。最終的に海野が失脚するところまで協力してくれれば、お前を許してやる」

「そうですか……」


 正直、立川が身分証のデジタルデータまで保有しているというのは想定外だったが、今の状況ではさしたる問題もないだろう。それに、そもそも彼がデータを持っているという話自体が、はったりの可能性だってある。


「私としては、その条件だと厳しいですね……。というか、そもそも僕はブロガーTOSHIではないですし」

「は?」

「いや、あなたは僕がブロガーTOSHIだと勘違いしているみたいですけど、あれ僕じゃないですよ。あれは、僕が管理しているアカウントじゃないです。デマを流すと、赤の他人である彼に迷惑がかかるので、やめてくださいね」

「……」


 数秒間受話器の向こうで沈黙が続いた後、何の言葉もなく電話が切れた。脅しが通用しないとわかった瞬間、彼は相当焦ったのだろう。

 翌朝、SNS上では各所でバトルが繰り広げられていた。立川を批判する者、擁護する者が双方に互いの主張を声高に叫んでおり、中々にすごい様相だ。もちろん、擁護している側の大半は、向こうが組織的に用意してきた工作員だろう。昨夜の間に相当仕込んだのか、結構な数で押してきているので、中には立川がオタクだと本当に信じてしまっている人も一定数いるようだ。このままだと、彼に致命傷を与えられない恐れもあるので、俺はいよいよ自らも拡散に参加することにする。

 午前八時、昨夜の間に予め準備しておいたブログ記事を公開する。内容は先日流出させた動画の解説記事で、一つ一つ論点を整理しながら、彼がオタクではないことを立証していくというものだ。擁護派の主張の矛盾点やおかしいところを徹底的に指摘しつつ、彼がオタクではないことを論理的に説明しているので、これを見れば向こうのプロパガンダに乗せられた人たちも、ほぼ全員が認識を変えてくれるだろう。

 今日も昨日と同じ時間に出勤するが、昨日と違って立川の姿はない。流石に、それどころではないのだろう。今ごろ必死に火消し工作のために、あれやこれやと動き回っている姿が容易に想像つく。社内は彼の話題一色で、これから緊急会議を開くべきだと主張する役員も多かったが、海野はまだ全容が把握しきれていないとして、もう少し様子を見るべきと主張。最終的には、明後日までは判断を保留するということで一致した。当然、海野は全ての事情を知っているわけだが、まだ週刊誌の記事が公開されていないことや、今後反沙輝派からの寝返りが期待できることなどを考えると、今は静観するという彼女の判断は大正解だろう。

 午後五時、俺が記事を公開してから九時間が経過する。帰宅してSNSをチェックすると、俺のアカウントにも結構な数の反論が寄せられているようだが、見る限りその大半は工作員だ。市井一般の人たちのほとんどは俺の主張に賛同しているようなので、特に気にする必要はないだろう。後は記事を定期的に拡散しつつ、立川を批判して、彼に対する世論の風当たりを強めていけばいい。

 それから三十分後、俺が立川を批判するコメントを連投していると、タイムライン上に一つの週刊誌の記事が流れてくる。タイトルは『音声入手 立川常務、実はオタクじゃなかった!』となっており、どうやら先日記者に流した録音音声が、もう週刊誌のニュースサイト上に掲載されたらしい。紙媒体の発売日は来週以降のはずなので、随分と早い公開だ。編集部としては、昨日から立川が話題になっているので、このタイミングで電子版の一部を先行公開することで、アクセスを稼いでしまおうという算段なのだろう。

 いい機会なので、俺はこの記事についても自分のアカウントで拡散を行う。週刊誌パワーもあってか、午後六時にはついに全てのSNSでトレンド上位を独占した。これで、もう立川は逃げられないだろう。勝利を確信した俺は、先日海野から貰ったルイボスティーを淹れると、ティーカップ片手に彼が燃えゆく様を見届ける。


 2


「……なるほど、既に取締役から四人ほど寝返ったか」

「ええ。旗色が悪くなったと判断したのでしょうね。裏でまとめていた参謀役がいなくなったことで、反沙輝派は大混乱みたいよ」


 立川が大炎上してから五日後、俺は現状の確認と今後についての打ち合わせを行うべく、熱海の別荘へと来ている。今回は、田辺さんも同席のもと三人での打ち合わせだ。


「それにしても、彼がオタクではなかったなんて、びっくりだわ。灯台下暗しというか、今まで誰もそんなこと疑っていなかったもの」

「まあ、世の中常識を疑えってよく言いますからね。実際、彼は補佐官の僕を自分のところに引き入れて、海野の情報を探るための駒として使おうとしましたが、まんまと失敗しました。僕を懐柔しようと、自分の部屋に招き入れたのが最大の敗因でしょうね」

「でも、今までも多くの人たちが彼の部屋に出入りしてきたわけでしょ。どうして、皆彼がオタクではないことに気が付かなかったのかしら」

「まあ、彼の部屋に頻繁に出入りしているような側近たちは、知っていてわざと見逃していた可能性も高い。当然、彼の周りには外国勢力の工作員もたくさんいるだろうからな。とはいえ、個人的には灯台下暗しっていうのも結構大きかったと思う。うちの会社は沙輝派だろうが反沙輝派だろうがみんなオタクであることに変わりはないわけで、そういう環境だと案外気が付かないものなのだろう。実際、彼だって入社時の面接は突破しているわけだからな。海野や田辺さんだって、周りにオタクではない奴がいるなんて思いもしなかったはずだ」

「そうね、確かに考えたこともなかったわ」

「でも、朝比奈君は、どうやって気づいたの。あの音声はどう考えても誘導質問の結果だと思うけど、何か疑い深い節があったから聞いたのよね」

「そうですね……僕も確固たる根拠があったわけではないんですけど、まあオタクの勘ってやつですかね」

「私の言葉、パクらないでもらえるかしら」

「冗談、冗談。実際のところ、離れたところに二つ部屋を構えていると聞いた時点で、こいつは何か隠しているなって思ったんですよ。それでいて、彼は自分の本棚が年代別に整理されていないにも関わらず、整理されていると主張していましたから、その瞬間一気に不信感が募りましたね。後は、補佐官になったばかりの僕にいきなり声をかけて、自室に招き入れたということ自体もかなり怪しかったです。役員でもなければ部下でもない見ず知らずの新参者に対して、普通はそんな対応を取りませんからね」

「なるほどね。でも、そこでオタクかどうか試す質問をしたあなたの洞察力は、流石の一言よ」

「それで、話を戻すと、立川炎上により大混乱中の反沙輝派は、取締役以外からも続々と離反者が出てきている。昨日には、これまで私をさんざん批判してきた著名な作家や業界団体の一部が謝罪に来たわ」

「そうか。彼らは、今後全面的に協力してくれそうか?」

「そうね、やっぱり彼らとしても、立川がオタクのフリをしてうちに入ってきていたことは許せないようで、伝統を汚されたとして激怒していた。ただ、それとは別に私の経営方針に異議があるのは事実みたい。でも、お互い一致団結して協力していく方向性は確認できたし、彼らもこれまでの行いを謝罪してくれたから、関係は改善したと考えて良いでしょう。私も自分の過去について、きちんと彼らに説明をしたし」

「ということは、かつてクリエイターだったという事実をもう明かしたのか」

「ええ。社内や世間全体に対しては、改めてきちんと機会を設けたうえで、今後の活動計画と合わせて公表するつもり。今彼らに先行して明かしたのは、単純に今後に向けて彼らとの距離を縮めるためよ。実際に、私の活動履歴や作品の実物も見せたからね。これで、少しは私に対する見方も変わったでしょう」

「今の段階で、そこまでやってしまって平気なのか?」

「いずれ公表するのだし、関係ないわよ。もし情報が漏れたとしても、その時は世間への観測気球になると思えばいい。実際、創業家の方にも田辺さんを経由して、昨日伝えてもらっているし」


 そう言うと、海野は田辺さんの方に目配せをする。


「ええ。実は私、昨日創業家の重鎮たちと某所にて会合した。あくまで沙輝ちゃんの過去に関してはついでに伝えただけで、本題は立川の炎上の方よ。創業家の中には分家を中心に反沙輝派を支援している人も一定数いたけれど、今回の件で全員こちらの軍門に降ったわ」

「全員ですか……それはすごいですね。個人的には全員と言われると、何となく裏があるんじゃないかと勘ぐってしまいますが、その辺はどうなんでしょう。どうして、こちらに寝返ったとわかったんです?」

「実は、会合の冒頭で向こう側から申し出があったの。今後は沙輝ちゃんに協力していくから、今までの行いについては不問にしてくれってね。彼らとしては、自分達が立川と関わりを持っていたことが露呈するのだけは避けたいみたい」

「まあ、不文律を最も重んじているはずの創業家の人間が、彼と協力していたとなれば、それ自体が黒歴史になりますからね」

「ええ。実際、彼らも立川がオタクではないことは当然把握できていなかったようで、事前にわかっていたら絶対に協力はしていなかったとのこと」

「そうですか。彼らとしては、末代までの恥でしょうね。ちなみに、立川が外国勢力と通じていたという事実については説明されました?」

「ええ、もちろんよ。そしたら、彼ら結構ビビっていたわよ。だって、最終的には自らの地位を脅かす可能性があるとも知らずに、協力していたわけだからね。実際、以前から沙輝ちゃんを支えてきた本家のメンバーは、彼らに対して激怒していた。まあ、これで彼らの創業家内における立場は完全になくなったから、我々としてもかなり動きやすくなったわよ。社内の事後調査や処分に際しては、彼らにも全面的に協力してもらう。それを条件に、彼らのこれまでの行いを不問とする形でね」

「なるほど、そういうことでしたら、隠れ反沙輝派や工作員の炙り出しもスムーズにいきそうですね」

「ええ。実際、ここからは壮大な……」

「ちょっと、田辺さん。そこから先は言ってはダメよ」

「ああ、そうだったわね。朝比奈君には、悪いけどこの後の事後処理については内緒。例の計画を発動させるつもりよ」

「ええ、承知しております。私が知らない方が、いいんですよね?」

「そう。まあ、別に知られて困る話でもないんだけど、何というか知らない方が盛り上がるというかね……」


 そう言うと、田辺さんは不敵な笑みを浮かべる。彼女たちのことは全面的に信頼しているので、今さら詳細を知りたいと言う気持ちも特にないが、それでも心配がないと言えば嘘になる。海野は、本当に何事もなく無事に切り抜けられるだろうか。


「大丈夫よ。朝比奈君は心配しているけど、私たちの計画は完璧だから。安心して」


 俺の表情から内情を察したのか、海野がそっと手を重ねてくる。


「あら、二人ともどうしちゃったのよ。あなたたちって、そんな関係だったっけ?」


 田辺さんがそう指摘をしてくるが、海野は微動だにしない。彼女としては、今さら隠してみたり、恥じたりするつもりもないということなのだろう。


「ま、まあ、色々とあったんですよ……」

「そう……なら、私としてはあなたを補佐官にして正解ね」


 そう言うと、田辺さんは意味深な表情でこちらを見つめてくる。彼女としては、してやったりということなのだろう。


「ところで、二人は先日ここに泊まったみたいだけど、もうエッチはしたの?」

「え? いや、そ、それは流石に……」


 いきなりの直球すぎる質問に、俺は思わずまごついてしまう。だが、海野はそんな俺をよそに堂々と言葉を返す。


「さあね、私たちがここで何をしようと、それは私たちの勝手でしょ。想像にお任せするわ」

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