別荘にて

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 翌日、俺と海野は当初の予定通り、午前十一時ちょうどに熱海の別荘へと到着する。一泊二日分とはいえ、プールに必要な物や説明用の紙の資料などを持参した結果、スーツケースが必要なレベルの荷物にはなった。


「それにしても、超巨大な別荘だな。最初見た時は、要塞か何かかと思ったよ」

「ええ。ここは面積で言えばおよそ百万平米、テロや戦争などの有事の際を想定して建設されているから、あなたの表現はあながち間違っていないわよ。別荘内は広大だから、一部区画へ移動する際は車に乗ってもらう」


 そう言うと、海野は警護官と共に車を乗り換える。俺も後へ続く。


「プールやサウナは朝比奈君が泊まるゲストルームからはすぐのところにあるから、わざわざ車に乗る必要はない。ゲストルームと打ち合わせを行う建物も、徒歩五分程度で行き来できるから、基本的に車に乗るのは行きと帰りだけね」

「了解した。これだけ広い家を持っているだけでも俺からするとびっくりだが、確か噂だと、海野家は日本の土地の四分の一を所有しているって話だったよな。あれは、本当なのか?」

「ええ、概ね本当よ。ただ、ここ五十年でだいぶ売却したから、今は多分そこまでは持っていないと思う」

「そうなると、海野家の総資産って一体どのくらいなんだろうな」

「正直、私もわからないし、創業家の人でも全部把握しきれている人はいないと思う。もちろん私の個人資産なら答えられるけど」

「そうか。正直、個人でこんなにデカい家を持っているなんて、住んでいる世界が違いすぎてびっくりだよ。俺なんて、寮の部屋が広くなっただけで喜んでいるのに」

「まあ、ここはあくまでも別荘だからね。普段住んでいるのは、マンションだし」

「自分で一棟丸ごと所有しているんだっけ?」

「ええ。とはいえそんなに大きいマンションではないし、私以外にも祖母や家政婦などが住んでいるから、スペース的にはたいしたことないわよ。ごく普通の部屋ね」


 そんなことを話しているうちに、車が停車する。どうやら、ここがゲストルームのある建物ということらしい。俺たちはそこで料理人が用意してくれた昼食をとると、セルフロッカーにスマホなどを預けたうえで、本日打ち合わせを行う予定の建物へ向けて移動する。

海野と共に歩くこと約四分、うっそうとした森の中を抜けるとド派手な門が現れる。


「ここから先は、原則私と私が許可した人間しか立ち入れない区域。主に、信頼できる人間との密談の際に利用する建物で、必要最低限のものしか設置されていない簡素な造りとなっているわ。トイレも別棟になっているから、行きたかったら今のうちに行っておきなさい」


 そう言いながら、海野は門を解錠する。

 密談用の建物は、ごくごくシンプルな造りだった。大きさ的には、一般的な戸建てよりは遥かに小さいだろう。必要最低限の間取りといった感じだ。


「ここは掃除とかも全部自分でやることにしているから、敢えて簡素な造りにしているの。食事が必要な場合は全て運んできてもらうか、さっきの建物まで食べに行くから、キッチンもない」

「ほう……」


 どデカい建物を想像していただけに、この造りは少々意外だった。恐らく、その方がセキュリティの都合上良いということなのだろう。


「さ、遠慮なく上がって頂戴。打ち合わせは二階の個室で行うわ」

「お、お邪魔します」


 荷物から必要書類などを取り出し、二階へと上がると、すぐに打ち合わせが始まる。最初の二十分間で海野から現状報告を受けた後、いよいよ俺は今後の方針に関して、自分のプランを一から説明していく。


「俺はこの三週間で、沙輝派と反沙輝派の対立の本質を見定めることに成功した。アニメ制作事業の売却で揉めていることからもわかる通り、海野家の分家や反沙輝派の役員、あるいは一部著名クリエイターが海野のことを快く思っていないのは事実だが、実際のところそれは根本的な原因ではない」

「ということは、朝比奈君は今回の派閥抗争の原因は別のところにあると考えているのね?」

「ああ。今回の抗争を、裏で主導している奴がいる。反沙輝派を裏で操る、隠れ反沙輝派がな」

「か、隠れ反沙輝派?」


 海野は俺の言葉の意味が瞬時には理解できなかったのか、きょとんとした表情で聞き返してくる。


「沙輝派の中に、反沙輝派のスパイがいるってことだ。表向きには沙輝派の中心メンバーとして振舞いながら、実際には反沙輝派と内通している奴がいる」

「いや、流石にそれはないわよ。昨年から国共党の中央情報部と連携して、社内の警備体制や身辺調査は徹底的に強化しているし、反沙輝派の役員については各々の動きを常時監視している。反沙輝派が工作活動を行う余地は、どこにもないはずよ」

「甘いな。だったら、先日の盗聴の件はどう説明する」

「それは……」

「だいたい、彼らの動きを常時監視しているっていっても、それは表向きの反沙輝派に限った話だろ。表向き沙輝派の奴は常時監視していないわけだから、もし沙輝派のフリをしている隠れ反沙輝派がいたら、そいつはノーマークってことじゃないか」

「実際のところ、派閥関係なくある程度の監視や身辺調査は全員に対して行っている。ただ、沙輝派の人たちへの管理や監視体制は、反沙輝派の人たちに比べて甘かったのは事実ね。でも、国共党の中央情報部の人たちは、沙輝派内部でも怪しい動きがあれば即座に報告してくれていたから、もし反沙輝派のスパイがいるなら、そう易々と見落とすはずはないと思うけど」

「いや、それは正直わからんよ。どんなに信頼できる組織でも、絶対というのはないからな。俺としては既に決定的な証拠を握っているので、沙輝派の中に反沙輝派が紛れ込んでいると、自信をもっていえる」

「で、具体的にそれは誰なのよ」

「立川常務だ」


 俺がその名前を告げると、一瞬遅れて彼女が目を見開く。意外だったのだろうか。


「え、待って、彼は沙輝派期待の若手のホープでしょ、そんな彼がどうして……」


 と、そこまで言ったところで、自分の中で一定の合点がいったのか、冷静な口調で続きを話す。


「いや、そんなことはないか……」


 そう言うと、海野は悔しそうに唇をかみしめる。


「冷静に考えれば、彼には私に歯向かうだけの十分な素質がある。社内での顔の広さ、誰もが認める実行力、伝統に否定的な改革志向、クーデターを主導するにはもってこいの人材じゃない。国共党の中央情報部からの情報に頼り切っていた私が馬鹿だったか……」

「中央情報部とて完璧ではないからな」

「ちなみに、あまり考えたくはないけど、中央情報部に裏切り者がいる可能性はあると思う? 私は、状況からしてそれはないと考えているけど……」

「同意見だ。中央情報部は元々原理主義者が多く、思想的にも裏切る可能性は低い。万一裏切り者や工作員が紛れ込んだとしても、すぐに排除されるだろう」

「そうよね。第一、裏切るなら朝比奈君が来る前にとっくに裏切っているものね」

「ああ。今海野が失脚していないということは、つまりそういうことだ」

「それで、朝比奈君はどうして彼が反沙輝派だと気付いたの?」

「先日、俺は立川と話している過程であることに気が付いた。彼、オタクじゃないぞ」

「は?」


 俺の唐突な指摘に、海野は理解が追いつかないのかぽかんとしている。


「いや、言葉通りだ。彼はオタクではない」

「……ということは、うちの会社の不文律に彼が違反していると言いたいのね」

「ああ」

「その根拠は?」

「彼の部屋に招かれた際、本棚を見た。彼は年代別にラノベや漫画を分けていると言っていたが、実際見たところ全然そうなってはいなかったんだ」

「いや、でもそれは単なる知識不足というか、たまたまそうなっていなかっただけじゃないの? 彼、一応転職の際に入社試験は突破しているわけだし」

「俺も最初はその可能性を疑った。だが、その時の挙動が明らかにおかしかったんだよ。不審に思った俺は、更に一つ質問をしてみた。その時の音声がこれだ」


 そう言うと、俺は録音しておいた音声データを、持参したポータブルプレイヤーで再生する。


『あ、オリエントアムネシアの原作も置いてありますね。去年アニメやりましたけど、やっぱり原作も好きなのですか?』

『え? ああ、僕は原作が出始めた頃からの大ファンでね。アニメ放送時は原作と比較しながら毎回見ていたよ』

『僕はまだ原作は読んだことないんですよね……今度時間があったら読んでみようと思います』

「オリエントアムネシアはそもそもオリジナルアニメで原作は存在しない。彼の部屋に置いてあったのは、先月発売されたアニメのコミカライズ版四巻だ。なのに、彼はそれを指して自分は原作が出始めた頃からの大ファンだと言った。この時点で明らかにおかしい。それに、そもそもコミカライズ版が出たのはアニメの放送が終わってからだからな。放送当時はあの作品のメディアミックスなんて一切なかった」

「要するに、立川常務はオタクではないのにオタクのフリをするために色んな嘘をついているということね。それで、今まで社内でも不文律違反がバレずに済んでいたと」

「ああ。うちの会社では暗黙のルールとして、オタクではない人間の就労が禁止されているが、彼はそれを回避するために今まで必死こいて隠してきたのだろう。どうやって入社試験を突破したのかは不明だが」

「でも、それと今回の件は関係なくない? 確かに彼の不文律違反は問題だし、何らかの処分は必要だとは思うけど……」

「いや、大いに関係あるな。うちの会社は社員全員がオタクで、オタクしか入社できないことは周知の事実。十年前、立川がわざわざ自分の素性を隠してまでうちの会社に転職してきたということは、何らかの意図があったと考えるのが自然だ」

「単に高年収を求めて転職って線はないかしら」

「彼が以前いた会社は大手のIT企業。年収はうちと変わらないどころか、むしろうちより高い。うちはクリエイター優遇で、役員報酬はそこまで高くないからな。オタクではない彼が、嘘をついてまで転職してくる理由はどこにもない」

「なるほど……それで、朝比奈君は彼が今回の抗争の黒幕なんじゃないかと疑ったわけね」

「ああ。俺はそれ以降、彼に対する警戒と、彼を嵌めるための工作を始めた。現状では、全て上手くいっていている。少し長くなるが、逐一説明していくよ」


 そう言うと、俺は一口お茶を飲む。海野が淹れてくれたルイボスティーは、ほのかな甘みと爽快な口当たりで、心なしか緊張がほぐれていく。


「まずは、信頼する国共党の議員から立川の出入国に関する情報を得た。彼には、うちの役員全員の出入国履歴を調べてもらっていたんだ」

「それで?」

「その結果、彼がこの半年間頻繁に海外へ行っていることが発覚した。特にこの三か月は顕著で、計八回も渡航している。会社の方で入手できた出張履歴とも照らし合わせてみたが、そのような履歴は一切なかったので、おそらくプライベートで行っているのだろう」

「その出入国履歴は、信頼できるものなの?」

「日本共和国の議員は行政機関が保有する全ての生データに対するアクセス権を持っている。議員側が改ざんをしたりしていない限り、その情報は正確だ」

「そう。ということは、立川常務は外国勢力の工作員として、裏で反沙輝派を操っている可能性が高いと言いたいのね」

「ああ。現状に至るまでの諸々の経緯を考えれば、外国勢力と通じている可能性が高い。恐らく彼は、我が国最大の企業で分断工作や転覆工作を行うことで、共和国経済の弱体化を狙っているのだろう。三十年前の内戦時にも、似たようなことがあったからな。あの時最終的には敗北した勢力が、再び共和国への干渉を試みている可能性もある。立川の渡航先には反オタク主義運動が盛んな地域も含まれているから、彼がそういった思想を持っている可能性も疑った方がいいだろう」

「なるほどね……そういうことなら、確かに立川が黒幕だという説は本当っぽいわね。でも、反沙輝派の人たちはどうして彼と協力しているのかしら。知ったかぶりは、オタクが一番嫌う行為でしょ……って、そうか、彼がオタクではないという事実はまだ誰にも知られていないのか……」

「そう。社内で立川がオタクではないことを把握しているのは、現状俺と海野の二人だけだ。立川は自分の素性を隠したまま、反沙輝派の連中を裏でまとめていると考えるのが自然だろう」

「ちなみに、反沙輝派の役員の中にも、立川と同じような立場の人間はいないのかしら。オタクではないことを隠している人とか、外国の工作員とか」

「もちろん、その可能性は否定できない。彼が入社試験を突破しているということは、社内の何者かが彼に問題を漏洩した可能性もあるからな。ただ、うちはオタクしか入社できないわけで、常識的に考えてそういう人間が何人もいるというのはあり得ないだろう。オタクではない人間が何人もいたら、流石に社内でもすぐにバレる。オタクだが外国の工作員という人間は一定数いるかもしれないが、反沙輝派については中央情報部の厳しい監視がある以上、役員クラスで何人も工作員がいるというのは考えづらい」

「ということは、あなたの主張は基本的に立川一人潰せばOKということね?」

「ああ。反沙輝派を裏で操っている立川だが、自分の素性がバレれば多くの人間は離れていくだろう。反沙輝派といえ、基本的には全員オタクだ。さらに言えば、反沙輝派には著名なクリエイターも多い。立川がオタクのフリをした大ウソつきだという事実が明らかになれば、彼との付き合いは黒歴史としてなかったことにしたがる奴が多いだろう。立川とつながりがあったことが世間に露呈すれば、自分の作品に傷がつきかねないからな」

「なるほど、状況はおおよそ理解したわ。ただ、先ほどから一点だけ気になっていることがある。朝比奈君はさっきから、立川が反沙輝派を裏で操っていると主張しているけど、その根拠はあるのかしら。確かに立川が危険人物なのは間違いないけど、彼が裏で抗争を主導している直接的な証拠はなくない?」

「そうだな、今のところ立川が反沙輝派の黒幕という決定的な証拠はない。なので、俺の判断はあくまで状況証拠の積み重ねによるものだ」

「私としては、もう少し情報が欲しいわね。というのも、もし立川が黒幕ではなかった場合、彼を潰しても派閥抗争は終結しない。それどころか、トップとしての責任問題に発展する可能性だってある。私は立川がオタクではないことを半年もの間見抜けなかったわけだから、反沙輝派や現場のクリエイターからその点を突っ込まれると、正直苦しい立場になるわ」

「なるほど。つまり、ここで立川を潰すのは大きな賭けだと言いたいわけだな」

「ええ、状況によっては私の方が不利になる」

「ただ、俺としては立川が黒幕であることに絶対の自信を持っている。他にもまだいくつかの状況証拠があるからな。君が中々納得してくれない場合に備えて、今日は全ての状況証拠を揃えた資料も持ってきてある。かなりの量になるが、良ければ見てほしい」

「何よ、だったら最初からそれ見せなさいよ」


 そう言うと、海野は不服そうに口をとがらせる。だが、本気で怒っている様子はない。


「……なるほどね、役員の秘書たちの出入国履歴も調べてもらったか。ここに記されている、絶大な信頼を寄せる上院議員とは誰かしら」

「栗栖先生だ」

「ああ、彼ね。彼に動いてもらったか……。それなら、納得だわ」

「役員の出入国履歴も含め、全て彼に調べてもらった。彼とは非常に深い信頼関係を築けているからな」

「てか、そういった情報を調べてもらったということは、当然向こうはあなたが補佐官をやっていることを知っているのよね?」

「ああ。彼は国共党内で最も信頼している議員のうちの一人だから、知られたところで何の問題もない。彼が何かきな臭いことをするような人間ではないことは、君もよく知っているだろう」

「ええ。彼は、生前の父と非常に懇意だったからね。ただ、私が言いたいのは……」


 そう言うと、海野は一瞬言葉に詰まる。言うべきか否か、逡巡しているのだろう。


「……やっぱり、今はむやみに自分の素性を明かさない方がいいと思う。たとえ情報を渡した先が信頼できる相手でも、ひょんなことや思わぬ事象から偶発的に情報が漏れることだってある。朝比奈君を潰そうとする人は今後確実に増えてくるだろうから、もしそういう人達に、ブロガーHINAの正体が社長補佐官の朝比奈春斗だと身バレしたら大変よ。弱みを握られて、身動きが取れなくなる。あなたとしては、身バレだけは避けたいんでしょ?」

「そうだな、プライベート面での弊害もそうだし、何より自分が社長補佐官だとバレれば、ネット上での世論工作や世論誘導がやりづらくなるからな。でも、大丈夫だ。そこのところはちゃんと自分でリスクマネジメントというか、きちんと考慮している。心配してくれて、ありがとう」

「べ、別にあなたの心配なんかしていないわよ。私は、朝比奈君が何かやらかして自分に飛び火するのが嫌なだけで……」


 海野のテンプレのような返事に対し、俺は一度咳払いをして間を置く。


「……さあ、それで話を本筋に戻すぞ。そこの資料に書いてある通り、俺は役員たちの秘書や警護官の出入国履歴を栗栖上院議員に調査してもらった。その結果……」

「……反沙輝派の役員の秘書達が出国した時期と、立川が出国した時期が見事に一致したというわけね」

「ああ。全員ではないが、一部の秘書たちの出入国履歴と立川の出入国履歴はほぼ一致していた。出国先はバラバラだが、ほとんどがすぐに移動可能な周辺国に集中している。どう考えても、立川と秘書達が海外で密会していたとしか思えない」

「立川と同じ出国時期ということは、反沙輝派の秘書達も休日にプライベートで行っていたということよね?」

「ああ。出張だと社内に記録が残るし、そもそも立川と仕事の日程を合わせる必要があるからな」

「これだけの頻度で行っているとなると、旅行目的という言い訳も通用しないし、完全にアウトね。彼ら秘書達が、立川と同類である可能性はあるかしら」

「秘書達がちゃんとしたオタクであることの裏は既に取れているので、とりあえず立川と同類ではないことは確かだ。だが、外国の工作員かどうかについてはわからない。別にオタクだからといって、外国の工作員ではないとは限らないからな。両者は必要条件でも十分条件でもない」

「まあ、いずれにしても立川は反沙輝派の役員秘書と頻繁に会っていたわけだから、彼が黒幕で確定ね。秘書達は、立川の伝言役として動いていたわけでしょ?」

「ああ。反沙輝派の役員本人は常時監視されていて動きづらいから、信頼できる秘書を介して、立川と意思疎通を図っていたのだろう」

「了解」

「納得してもらえたか?」

「ええ、流石にこれだけの証拠があれば、私も立川が黒幕だと自信をもっていえる」

「じゃあ、立川にターゲットを絞って潰すという方針自体に、異論はないな?」

「ええ。あくまでも方針としては、ね。詳細次第では、あなたの計画に乗らない、いや乗れないということもあり得る。先日話した通り、我々には最終手段として用意している例の計画もあるから、最終的な決断はそれと比較したうえで下させてもらうわ」

「ああ、あの俺には教えられないというやつか。今村さんと田辺さんしか知らないんだっけ?」

「そうね、社内という意味では、そういうことになる。社外では、国共党関係者含め、何人か概要を知っている人間がいるわよ」

「その計画とやらは、今の時点でも俺には一切話せないのか? 話せる範囲で構わないから、ちょびっとでも教えてもらえるとうれしいのだが……」

「うーん、やっぱり今は何も言えないわ。というのも、これを今ここであなたに話すメリットがない。例の計画は、あなたが知らない方がより成功する確率が高まるのよ」

「ん、どういう意味だ?」

「言葉通りね」


 そう言うと、海野は不敵な笑みを浮かべる。表情を見る限り、俺を信頼してないとかそういう訳ではなさそうだ。


「まあ、その計画は立川が黒幕であることを見抜けていない状況で作ったものだから、正直不備があるのも事実。あなたのプランに問題がなければ、普通にそちらを採用するわけだし、今は説明する必要もないでしょう。とりあえずは、そちらの計画の詳細、立川を失脚させるための具体論を聞かせて頂戴」

「了解した」


 そう言うと、俺は持参したホワイトボードを鞄から取り出し、それを使いながら彼女に説明していく。


「俺の計画は、一言で言ってしまえば立川炎上作戦だ。立川がオタクのフリをして密かに入社していることを世間に喧伝し、世論が立川を嫌悪するような空気を作っていく」

「でも、それってそんな簡単に上手くいくかしら。立川はオタクではないのに、オタクであると嘘をついていますと主張しても、普通は誰も信じないわよね。オタクであることの証明は簡単でも、オタクではないことの証明は難しいわよ。誰もが納得できるような客観的証拠を提示できないと、煙さえ立たないでしょうね。少なくとも、さっきあなたが提示してくれた音声だけでは証拠として不十分」

「ああ。あの音声だけだと、たまたまオリエントアムネシアのことを知らなかっただけだと言って逃げ切られるだろう。それに、音声だけだと切り取りや合成加工した捏造データの可能性もあるから、皆そう簡単には信じない。海野インダストリーの人間が皆オタクだというのは、ある種の固定観念として広く世間に浸透しているからな」

「それで、朝比奈君はそういった固定観念を打破できるような決定的な証拠を、この一か月で確保したというわけね」

「ああ。俺は先日、彼に致命傷を負わせられるような決定的な証拠を確保することに成功した。それがこちらだ」


 俺はそう言うと、持参したポータブルプレイヤーにSDカードを挿入して、動画の再生を開始する。


「先日緑沢大学で行われた講演会で、立川が登壇した際の映像だ。終盤で、立川はこちらが送り込んだ工作員の質問にまんまと嵌まり、次々とボロを出してしまっている」

「随分鮮明な映像ね。となると、これは盗撮の類ではなく、正式に収録した映像?」

「そうだな、これは主催者であるオタク産業庁側が記録した映像なのだが、本人の了承を受けて記録しているわけではないので、盗撮と言えなくもない」

「ということは、当日運営側にあなたとの協力者がいたという認識でOK?」

「いや、違う。運営側は、恐らく俺の存在自体知らないだろうな。俺は栗栖上院議員を介して、運営側に映像を記録してもらった」

「ん、どういうことよ」


 海野が食いついてきたので、俺は一旦再生を止めて回答する。


「順を追って説明する。まず俺は、栗栖先生に当該講演会の録画映像が欲しいと泣きついた。講演の内容が高校の中間試験で出題されるが、当日出席の見込みが立たないので、秘密裏に映像を撮って俺に回してほしいという体でね」

「ふっ、中々面白い理由を考え付いたわね。ただ、天下の上院議員が流石にそれだけでは動いてくれないでしょう。既に出入国履歴の調査でも彼に動いてもらったわけだし」

「ああ。なので、こちらとしては交換条件を提示した。栗栖先生の息子が来年の東京市長選で国共党の公認を得られるよう、ネット工作を全力で進めるから、この件で協力してほしいとね。来年の東京市長選は国共党の内部で公認争いが激化していて、栗栖先生の息子といえども、党の公認が得られず出馬が危ぶまれている状況だ」

「待って、それをやったらあなたは国共党の一部の人たちから恨まれることにならない?」

「もちろん、それはその通りだ。栗栖先生の息子と公認争いを繰り広げている党内の対立陣営は、当然俺のことを快く思わないだろう。だが、今はそんなことを言っている場合ではない。俺はそのリスクを取ってでも、何というか君を守りたいというか……」


 途中から自分の言っていることが恥ずかしくなり、口ごもってしまう。勢いあまって、俺はとんでもないことを口走ってしまった。なんて痛い奴なんだろう。

 しかし、海野は俺の発言に特に突っかかることなく、続きを促してくる。


「……そんなこんなで、栗栖先生には講演会の運営側と交渉してもらい、最終的には録画映像の提供に関する確約を得ることに成功した。もちろん、交渉の際は俺の名前は一切出さずに、あくまで栗栖先生本人が映像を欲しているという体で交渉してもらった」

「運営側は、どうして録画映像の提供に同意してくれたのかしら。登壇者達に事前通知なしの、ある意味盗撮なわけでしょ? バレたら大ごとだし、運営側にメリットなんてないと思うけど」

「交渉の詳細については、俺も知らされていないので正直わからない。ただ、栗栖先生は国共党の有力議員で、運営側はオタク産業庁の関係者という二つの事実を鑑みれば、自ずと想像はつく。庁職員のキャリアを考えれば、ここで栗栖先生に恩を売ってコネを作っておこうと考えるのが自然だろう。講演会の運営事務局にいるような末端の人間は、普段政治家と接する機会などほぼないはずだからな」

「なるほど、確かに運営サイドの側からすれば、ここで栗栖先生の言う通りに動く方が得策ね」

「ああ。それじゃあ、再生を再開するぞ」

『……それでは、質疑応答に入ります。質問のある方は挙手をお願いいたします』


 仕込みの学生工作員が質問をする箇所まで、早送りで飛ばす。


『配布された資料の四枚目、将来取り組みたい仕事の欄にソシャゲのバックアップ販売というのがありますが、こちらについてもう少し詳しく教えていただいても宜しいですか』

『えーと、サービスが終了するソシャゲに関して、ユーザーが死ぬまでその思い出を手元に残せるよう、個人に対してフルスペックのバックアップデータを受注販売するというものになります。正直かなりの手間とコストがかかりますので、単価は高くなりますし、枠も限られるとは思いますが、世界最大のオタク企業として可能な限り多くのユーザーのデータを復元できるよう、限界に挑戦してみたいと思っています。うちには卓越した人材と豊富なノウハウがありますから』

『実は私、アエロバースのファンだったんですけど、先日サービス終了してしまって大変ショックを受けています。こちら他社のゲームですが、こういったケースでも対応していただけるのでしょうか。やはり自社コンテンツだけですか?』

『そうですね、他社コンテンツの場合は弊社でデータを保持していませんから、アエロバースのように既にサービスを終了してしまった作品については難しいでしょう。ただ、将来的には弊社で保有するバックアップ販売のノウハウを、パッケージとして他社に提供するということも考えていますから、そうなれば他社の作品であってもバックアップデータの購入が可能となるはずです』


 会場内がざわつく。アエロバースはそもそもサービス終了していないし、そういった話も一切出ていない。結構有名な作品だけに、この回答は聴講者にとっては中々衝撃的だろう。


『わかりました、ありがとうございます』


 その後二名の聴講者の質疑を経て、こちらが用意したもう一人の学生工作員の質疑が始まる。


『海外へのアニメ配信事業について質問させていただきます。外国向けに配信されている作品のうち、一部において現地での円盤の発売が見送られていますが、これは何か理由があるのでしょうか? 人気作においても発売が見送られるケースが多々ありますが……』

『え、円盤?』


 そう言うと、立川は首をかしげる。


『はい。海外向けに配信をしている時点で、既に翻訳作業は完了している訳ですから、人気作の円盤の発売を見送る理由はないように思われますが、その辺はどうなんでしょう』

『……』


 秘書と思しき人物と何やら十数秒程度やり取りをした後、ようやく答えが返ってくる。


『ネット上で完結する配信と違い、BDやDVDは実物商品ですからたとえ翻訳作業が完了していたとしても、生産や流通にそれなりのコストがかかります。ですので、単純にヒットしているから即発売という形にはなりません』

『わかりました、ありがとうございます。それともう一つ質問なのですが、立川さんが一個人として、取締役としてではなく一人のオタクとして、純粋に続編をやって欲しいアニメって何ですか? 既に続編が決まっているもの以外で何かあれば、教えて頂ければ幸いです』

『うーん……特にはないですかね。というのも、僕が好きな作品の多くは既に続編の制作が決定してしまっていますから……』

『多くは、ということは立川さんが好きな作品の中には、一部続編の制作が決まっていないものもあるということですよね。宜しければ、その作品の名前だけでも教えていただけませんか』

『…………』


 立川は回答をせず、ただただ学生のことを凝視する。


『……あの、こういう質問、やめた方がいいと思いますよ。だいたい、講演内容と直接関係ないじゃないですか』


 再び会場内がざわつく。恐らく、聴講者の多くが立川のことを不審に思い始めているのだろう。

 最初に質問した仕込みの学生が、よく通る声で立川に食ってかかる。


『立川さん、ひょっとしてオタクではないことを隠していませんか? まさかとは思いますが、海野インダストリーの取締役なのにオタクじゃないなんてことないですよね?』

『…………』

『だいたい、アエロバースはそもそもサービス終了なんてしていませんよ。人気タイトルですから、そんな話噂レベルでも出たことないです。オタクなのに、そんなことも知らないんですか?』


 学生のかなり強気の発言に、立川は態度を豹変させる。


『おい、君失礼なこと言うんじゃないよ。そもそも、この場は講演内容に関する質疑応答の場であって、人を試すような真似をする場所じゃない。てか、俺は昔から立派なオタクだよ。ただ、他社の作品には全然興味がないから、アエロバースのこととかはよくわからないんだよ』

『昔から立派なオタクなら、どうして先ほどの彼の質問に答えられないんですか?』

『……た、立場上言えないんだよ』

『だったら、最初からそう答えればいいじゃないですか。どうして最初からそう言わなかったんです? てか、そんなことあり得ませんよね。だって他の取締役の方は皆、個人的に続編やって欲しい作品とか、バンバンSNS等で公言していますよ』

『……僕のポリシーとして、仕事に私情を持ち込まないためにも、そういうことは言わない方針なんだよ』

『わかりました、じゃあ質問を変えます。立川さんが好きなアニメのうち、続編の制作が決まったものを教えてください。好きな作品のほとんどは、既に続編が決まっているんでしたよね?』

『講義と関係のない質問にはお答えしかねます。本日は以上です、ありがとうございました』


 ぶっきらぼうに一言そう告げると、立川は秘書と共に部屋の出口へと歩いていく。しかし、その途中で異変に気が付いたのか、すぐに聴講者たちの方に向き直ると、怒鳴り声をあげた。


『おい、そこの君、撮るんじゃないよ。講演会の規約に、録音や撮影はNGだって書いてあるよね。今すぐ削除しなさい』


 恐らく彼の警護官だろう。強面の男がスマホで動画を撮影していたと思しき聴講者の下に、圧力をかけるべく席の前で仁王立ちになる。それに続き、司会と思しき人物が注意喚起のアナウンスを流す。


『えー、講演会の撮影、録音、録画等は全て規約により禁止となっています。警告を無視して行為を続ける場合、退室していただく他、当該データについては全て職員の立ち会いの下削除していただきますので、ご了承ください。悪質なケースについては法的措置も検討する他、オタク業界全体のブラックリストに入れられることも考えられます。くれぐれもそういった事態にならないよう、改めてお願い申し上げます』


 司会のアナウンスが終わると、立川は去り際にやや冷静な口調で、質問をした学生に苦言を呈す。


『私は立派なオタクだよ。今日は諸々の事情で色々と回答ができなかったけれど、自分はれっきとしたオタクだ。詳しくは僕の公式ホームページを見てくれればわかるさ』


 最後にそう言い残すと、立川は部屋を後にした。その数秒後、動画の再生が終了する。


「確かに、これはいい証拠ね。運営側が立川をこっそり盗撮していたことは、当然本人にはバレていないのよね?」

「ああ。もし当日バレていたら、今ごろ俺の手元に映像が渡っていることもないだろう。気づいた瞬間、速攻で削除させているはずだ。後日発覚した場合でも、無断撮影ということで、オタク産業庁の不祥事として何らかのニュースになっていて然るべきだが、今のところそういった情報もない」

「なら、後はこれをどのタイミングでネットに流すかが勝負になってくるわね」

「ああ。これが不発に終わると、次はない。上手いこと編集して、GW明け辺りに流出させるつもりだ。GW明けは一連の同人誌即売会も終わり、オタクたちの関心が他所に向いてしまう心配もないからな。さらに言うと、最初に君に提示した立川がオタクではないことを示唆する録音データの方も、近い時期に流す。こちらはネットではなく、懇意にしている週刊誌記者の方に流そうと思っている」

「なるほど、理解したわ。そういうことなら、彼はほぼ確実に炎上するでしょうね」

「納得してもらえたか?」

「ええ。ただ、炎上させた後はどうするつもりなのかしら。正直、それで終わりではちょっと困るのだけれど……」

「ん、どういうことだ?」

「社内には、恐らく外国勢力の工作員が一定数いるわよね。これまで連携してきた立川が炎上したとしても、彼らは多分社内に残り続けるでしょう。その辺は、どう対処していくつもりなのかしら」

「先ほど説明した通り、立川の嘘がバレれば、反沙輝派の大半はこちらに寝返って来る。外国勢力の工作員が社内に残ったところで、何もできないだろう」

「それは少し甘く見過ぎじゃないかしら。失脚後も密かに彼と連携する人間は、多少なりともいるはずよ。だいたい、反沙輝派の秘書達は頻繁に海外へ渡航していたわけでしょ。立川の協力者や外国の工作員は、それなりの規模で社内に潜んでいると考えておいた方がいい」

「別に、そういう人間が一定数いたとしても放っておけばいいんじゃないか。炎上後は沙輝派が圧倒的多数になるわけだし、何より不文律違反に対する事後調査で、彼が外国の工作員だという事実も芋づる式に露呈するだろう。そうなれば、社内での監視の目は自然と厳しくなる。特に何かをする必要はないように思われるが……」


 俺としては自分の考えをそのまま口にしただけなのだが、海野はそれが気に入らなかったらしい。突然目を見開くと、烈火のごとく怒りだす。


「何言っているの。社内の不穏分子は全てこの機会に駆逐しなきゃダメよ。たとえ少数であったとしても、リスクである以上は絶対に放置するべきでない。目に見えないような小さなリスクであっても、放置すれば五年後、十年後に深刻なリスクとなって牙をむいて来るものなのよ」


 いつもの海野らしくなく、感情を全面に出してまくし立ててくる。どうやら、彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。


「歴史を見ても、少しの慢心から失脚につながった事例はいくつもある。特に私の場合、社長に就任したばかりということもあってか、まだ経営基盤が安定していないから、一瞬たりとも隙を見せたらダメなのよ。実際、後継問題の際に私がどれだけ大変な思いをしたかわかっているの?」

「……ごめん、冷静に考えればそうだったな。今のは不用意な発言だったよ……」

「正直、これから先ずっとクーデターに怯えながら社長をやるなんて絶対無理。今だって、毎日怖くて眠れないのに、こんな生活が今後もずっと続くなんて絶対耐えられない。だからこそ、今ここで全てを断ち切ろうという話なのに、あなたは何もわかっていないのね。ていうかそもそも、あなたは社長というものの重責が本当にわかっているの? 創業家の当主として、日本を代表するオタク企業のトップを務める、この重圧が本当にわかっているの?」

「……自分では理解しているつもりだったけど、認識が甘かったみたいだ。そうだよな、すごいプレッシャーだよな……。わかってあげられなくて、本当に申し訳ない」


 海野が初めて見せる一面に、俺はそんな当たり障りのない言葉しか返せない。海野はしばし黙り込んだ後、幾ばくかトーンダウンした様子で話を再開する。


「……でも、それでもやるしかないのよ。私は海野家の当主として共和国のオタク産業を守るため、そして何より志半ばで亡くなった父さんのためにも、引き下がることは許されない。たとえ誰からも理解されなくても、私は戦い続ける。元々、経営者というのは孤独な生き物だからね……」


 言葉に詰まり、目尻から一筋の涙が頬を伝う。俺の前で見せる、初めての涙。


「私は社長になってからずっと、孤独で、心配で、怖くて、苦しくて、いたたまれない日々を過ごしている。周りの学生がイベントに参加したり、創作活動に没頭したりして楽しいことをしているのを見ると正直羨ましいし、私もそんな学生生活を送りたかったなって思うことは、実際何度もある。もちろん、受け入れるしかないというのは頭ではわかっている。それでも、今の私にはこの重圧と孤独感を上手くやり過ごせるほどの心はない。私、どうすればいいのかな……」


 どうすればいいのかなんて、わからない。俺も海野も、田辺さんも今村さんも、そして恐らくは世界中の誰も、その答えを知らない。だとすれば、俺にできることはただ一つ――


「…………大丈夫だよ。五年後、十年後に何か問題が起きても、その時は俺が何とかする。君が安心して経営に集中できるよう、全力でサポートするから安心してくれ」


 ――気づけば、俺はそんなことを口走っていた。同時に、自然と右手が彼女の左手へと吸い寄せられる。


「でも、朝比奈君は補佐官を続けることになっちゃうけど、本当にそれでいいの? 絶対これまで通り専業ブロガーを続けていた方が楽だと思うけど……」

「君にそんな顔見せられちゃったら、もうその選択は取れないよ。まあ、それとは関係なく、だいぶ前から補佐官を続けたいとは思っていたんだけどね」

「どうして? どう考えても補佐官やる方が大変でしょ。ブロガーの方も兼業で続けなきゃいけないわけだし」

「……正直、俺も君と同じで毎日孤独なんだ。これまで大人達との交流を盾に、ひとりぼっちの自分を正当化してきたが、それもそろそろ限界になってきている。確かにブログ活動を通じて、国共党の関係者を始めとする大人達との交流は増えたが、そんなのは所詮損得勘定ありきでの関係だ。到底友人知人と呼べるような関係ではないからな。そう考えると、やっぱりこうして同い年の子と色々話せるのは、たとえ仕事であっても楽しいものだよ。それに、俺は……」


 俺が今話したことは全て事実だが、今伝えたいことではない。俺が言いたいのはそんなことではなく、自分が補佐官を続けようと思った一番の理由。それは――


「俺は……」


 言いたいことははっきりしている、だが、続く言葉が一向に出てこない。身体の方がしびれを切らしたのか、気づけば俺は無意識のうちに彼女の手を握っていた。一呼吸の後、向こうはそれを受入れるかのように、指を絡めてくる。


「君の……」

「私も……」


 偶然か必然か、俺と海野の二人が同時に話し始めてしまう。


「……朝比奈君、先言いなよ」

「い、いや、そっちこそ……」


 タイミングを完全に逸してしまい、自分からは何も言えなくなってしまう。だが数秒後、海野は全てを悟ったような声で言葉を返してきた。


「……はぁ、まあいいわ。あなたが言いたいことは、だいたいわかった。ただ、今はそういう話をしている場合でもないから、後にしましょう」


 見れば、海野は揶揄うような視線で俺の事を見つめてくる。


「え?」

「もう、必死な顔して。大丈夫よ、私はどこにもいかないから、あなたがショックを受けるような事態にはならないわ。ただ、今は正念場だから、そういうのは全てが終わってからにしましょうと言っているの。そっち方面に気を取られて、私が社長から失脚したら元も子もないでしょ」

「そ、そうか……」

「さ、そろそろ本題に戻るわよ。社内に残っている不穏分子を、どう取り除いていくかという話だったわね。まあ、さっきはちょっと取り乱しちゃったけど、こういうのは本来人に頼るべきではないのよ。経営者である以上ゼロリスクなんて絶対あり得ないし、そもそも社内で起きたことの全責任は、社長である私が負うべきものよ。立川炎上まではあなたを頼るとしても、その後の後始末くらいは全て私が責任をもって指揮するわ。ごめんね、さっきは変な事言って混乱させて」

「そうか、そう言ってもらえると心強いよ。正直、俺はその後については何も考えていなかったからな。海野の中では、その後のプランについては既にある程度固まっているのか?」

「ええ。私としては、立川炎上後に例のあの計画を発動させるつもり。元々あのプランはいざという時のための最終手段で、反沙輝派を粛清する口実をでっち上げるというものだったんだけど、少し工夫をすれば今回の件に適応することもできる。ちょっとアレンジするだけで、隠れ反沙輝派や立川と連携する工作員をあぶり出すことが可能よ」

「なるほど。詳細は分からないが、聞く限り中々万能そうなプランなんだな。そういった計画が最終手段として用意されているなら、あそこまで将来を悲観する必要もなかった気がするが……」

「さっきのは忘れて。正直、私もたまにはああやって感情を爆発させないと、社長なんてやっていられないのよ。ああいう風に当たる相手や、気持ちを吐露する相手がいなかったら、何というか心が持たないというか……」


 後半はやや尻すぼみになりながら、そうぼやく海野。


「了解。そいうことなら、好きなだけ俺に当たってくれていい。俺のストレスなんて、所詮君が抱えているものに比べたら屁でもないのだからな」

「あ、ありがとう」

「さ、それで話をまとめると、立川を炎上させて失脚に追い込むところまでは俺が担当し、その後の後始末、すなわち隠れ反沙輝派や外国の工作員の炙り出しについては、俺は一切関与しないということでいいんだな?」

「ええ、もちろんよ。後半部分は全て私に任せてくれていい。だいたい、自分の会社さえまとめられない人間が、二千万人の国共党員の頂点たる、最高評議会常務委員になる資格なんてないもの。六月の党大会で選ばれる常務委員は、たったの十五人だからね」

「……そうか、よくわかったよ」

「とか言って、本当は疑っているんでしょ?」

「いや、そんなことはないよ。ただ、それでもやっぱり心配というか……」

「私を甘く見ないことね。巷では色々言われたり、書かれたりしているけれど、私は私で既に、社長就任の際に血みどろの権力闘争を勝ち抜いているのよ。先日、個人で二十兆円規模の買収に成功して、周りの大人達を黙らせた話はちゃんと説明したわよね?」

「そういや、そうだったな。何というか、こうして普通に話していると感覚が麻痺してくるんだよな。君が普通の女子高校生ではなく、海野家当主にして世界最大のオタク企業を率いる、立派な経営者だって感覚が」

「全くもう、私は社長なのよ。私たちは単なる同級生ではなく、あくまでも上司と部下の関係だってことは、忘れないで欲しいわね。まあでも、今はプライベートな空間だし、少なくとも別荘にいる間は、普通に同級生という感覚でいいわよ」

「あ、ありがとう」

「さて、話もまとまったことだし、今回の打ち合わせはこれにて終了ね。夕食まではまだ時間があるから、せっかくの機会だしちょっと羽を伸ばしに行ってみない?」

「ん、行くって、一体どこへだ?」

「そんなの決まっているじゃない。何のために水着持ってきたと思っているのよ」

「あ……え、えーと……」


 水着。その単語を聞いた瞬間、脳内で緊張と興奮の二つの感情がせめぎ合う。仕事の話で忘れかけていたが、確かに海野は言っていた。プールやサウナは自由に使っていいと。俺自身ひょっとしたら海野の水着姿が見られるかもしれないと、淡い期待を抱きながら荷物に水着を入れてきたのも事実。しかし、いざ一緒にプールへ行くとなると、中々に緊張する。


「朝比奈君は、私の水着姿見たいんでしょ?」

「あ、いや、その、もちろんそれはそうなんだが……何というか気まずいというか、緊張するというか……」

「じゃあ、辞めよっかなー」


 海野は揶揄うようにそう言うと、荷物から取り出しかけたプールバッグを引っ込めてしまう。


「い、いや、待ってくれ」

「どうするの?」

「…………」

「優柔不断すぎ……、ほら、さっさと行くわよ」


 海野は俺の手を取ると、意思を確認するまでもなくすたすたと部屋を出る。俺は彼女に引っ張られるようにして、別荘内のプールのある場所へと連れて行かれた。

 プールへ到着し、更衣室へと入る。当然、俺には一緒にプールへ行くような友達なんていないので、このような経験は初めてのことだ。水着を着ること自体、何年ぶりだろう。うちの学校には水泳の授業がないので、恐らく中学三年の修学旅行で海へ行ったとき以来だ。当時修学旅行用に買った水着も、今では若干窮屈に感じるようになっている。

 着替えを終えて、プールサイドへと出る。海野の姿はまだない。現役JK社長様の水着姿とは、一体どんななのだろう。色々と想像を膨らませながら、ただただその時を待つ。

 それにしても、広くて豪華なプールだ。プールは大きく屋内と屋外の区画に分かれており、今日使う屋内側には長さ十五メートル程度の横長のプールに加え、六角形や円形のジャグジーが多数設置されている。開放的な窓ガラスの向こうには、熱海の海が辺り一面に広がっており、ロケーションも抜群。屋外区画はテラスプールとなっており、ジャグジーはないが、屋内の二倍はあるかと思われる巨大なプールが鎮座している。こちらは海側に大きくせり出す形となっているため、より間近で海を眺めることができるようだ。


「お待たせ、朝比奈君」


 俺が辺りを観察しているうちに、どうやら海野は着替えを終えたらしい。見れば、ビキニ姿の海野が腰に手を当て、堂々と立っている。


「お、おう」

「さ、せっかくの機会だし、思う存分羽を伸ばしましょう」


 そう言うと、海野は淡々とジャグジーの方へと歩いていく。想像していたのと違い、随分とあっけらかんとした対応だ。少しくらい恥じらいがあるものと思っていただけに少々面を食らってしまう。

 海野の水着姿は、全てが完璧だ。スリーサイズが理想的なのはもちろん、煌めく素肌、スカイブルーのビキニ、パールオレンジのブレスレット、プール用にセットされた髪型、全てが海野の美貌と完璧に調和しており、この上ないエロさと美しさを同時に醸し出している。


「流石にジロジロ見すぎ……、ちょっと視線が露骨すぎるわよ」

「すまない」


 口ではそう言うものの、俺は彼女から目を離さない。見るなと言われても、こんなの無理だ。


「……はぁ、仕方がないわね。まあ、私も見せるためにこの格好しているわけだし、見るなとは言わない。というか、もういいわ。見られて減るものでもないし、好きなだけ見てくれて結構よ。見られて恥ずかしい身体なんて、してないんだから」


 海野は笑顔でそう言うと、わざとらしくパンツの位置をほんの少しだけ下にずらす。今の海野は全てが吹っ切れたのか、何だか妙に積極的だ。


「隣、いいわよ」


 彼女に続き、俺もジャグジーへと入る。もう少しで身体と身体が触れ合いそうな距離だが、無数の泡によって彼女の身体が視界からシャットアウトされるので、一度頭を冷やすにはちょうどいい機会だ。


「それにしても朝比奈君、ちゃんと普通の水着持っていたのね。てっきり、小中学校で着るような短いスクール水着しか持っていないのかと思っていたわ」

「いや、中学の修学旅行で海へ行く機会があって、それで買ったんだ。あの時は金なかったから、将来も使えるようにということで少し大きめのものを買った」

「へえ、意外。修学旅行にちゃんと行ったんだ」

「そう言われると思ったよ。もちろん、友達がいないので終始ぼっちだったが、それでも十分楽しかったぞ。自分にとっては、非常に有意義な旅だった」

「何それ、意識高い系?」

「いや、そうではなくて行先が某有名アニメの聖地だったんだよ。だから、一人でも全然楽しかったし、そういう旅行先を設定してくれた学校には今でも感謝している」

「なーんだ、そういうことね。それにしても修学旅行かー、いいなあ……」

「海野は中学の時は行かなかったのか?」

「当時の私は社長ではなかったけれど、創業家の令嬢ということもあってか、警備上の問題から行くことは許されなかったの。当時、創業家は分家とかなり揉めていて、色々物騒な事件も起きていたから……」

「そうか……」

「まあでも、社長就任後の様々な制約に比べれば、修学旅行に行けないなんて正直可愛いものだった。実際、今はあらゆることが制限されているもの……」


 そう言うと、海野は一瞬沈黙する。だが、数秒の後何かを決心したのか、真っ直ぐな瞳でこちらを見据えると、よどみのない口調で続きを話し出す。


「私ね、実は昔、創作活動をやっていたの。小学生の頃からイラストや漫画を描き始めていて、中学の時に星野鈴音というペンネームで同人デビューをした。高校に入ってからはクリエイター育成コースで勉強する傍ら、商業でもそこそこ仕事をもらっていて、ソシャゲのイラストをいくつか担当していた他、最後の方は漫画の連載も始めていたわ。単行本第一巻は発売一週間で増刷が決まるレベルの売れ行きだったから、卒業後はバリバリプロとして活動するつもりだった。でも、父さんが急逝して社長になることが決まったから、そのタイミングで引退したの」

「ほう、やはりそうだったか……」

「え、もしかして知っていた?」


 俺の反応が予想外だったのか、海野は驚いた顔で聞き返してくる。


「ああ、憶測ではあるが、おおよそそんな経歴だろうとは思っていた」

「はぁ……何よ、もう。私としては勇気を出してカミングアウトしたつもりだったのに。どうして、朝比奈君は私の過去を見抜けたの? 私が社長になる前は、一切の顔出しや露出がなかったから、誰も私のことなんて知らなかったはずよ。当時は創業家の娘だってことさえ、他の生徒には知られていなかったんだから」

「別に、君の過去を見抜くのに大した労力は割いていないぞ。単にSNSや掲示板上で、『去年、海野らしき美女を緑沢学院のクリエイター育成コースで目撃した』という趣旨の投稿をいくつか見かけただけだ」

「いや、流石にそれだけでは私の過去を特定するには不十分でしょう。ネットの書き込みや噂なんて、嘘もたくさんあるのよ。実際、私に関するスレッドもたくさん乱立しているけど、八割くらいは嘘しか書かれていない。私が誰それと付き合っているとか、運動音痴だとか、納豆が嫌いだとかは全部嘘だから。朝比奈君は、まさかそんなのを信じていないわよね?」

「いや、もちろん信じてはいないよ。ただ、今回の件についてはネット以外でも、現実において思い当たる節があったというか……」

「何よ」

「そうだな……」


 そのことを言ったら不機嫌になりそうなので、正直躊躇してしまう。だが、この先海野と色んな意味で付き合っていくことを考えれば、言わないわけにもいかないだろう。


「以前俺がイラストレーターのサインが欲しいって言ったら、海野は露骨に不機嫌になっただろ。ほら、先日海野が国際ラノベ博覧会に登壇するって言っていた時の話だよ。あれ見たら、ああこれはきっと過去に創作活動をやっていたんだろうなって、何となく思ってさ」

「……今振り返れば、私もちょっと脇が甘かったわね。そう言う意味では、私あの時から無意識のうちに、あなたに心を許していたのかも……」


 ぼそっとそう告げると、海野は笑顔で話を続ける。特に怒っている様子はない。


「実際、海野沙輝という人間が過去に創作活動をやっていた事実は、公には知られていない。社長になる前はクリエイター育成コースにいたけれど、その頃の私はただの一般人でメディアなどに露出することもなかったし、何より入学時から偽名を使っていたこともあってか、私が海野家の令嬢であるということは当時誰も見抜けていなかった」

「なるほどね……でも、社長になってからは表に顔が出たことにより、一瞬で素性や本名が周りにバレたわけだろ。それならうちの学生たちも、海野沙輝がかつてクリエイター育成コースに在籍していたという事実、もっと言えばかつて現役のクリエイターだったという事実に気がついていても、おかしくはないと思うが」

「朝比奈君がネットで見かけた通り、噂レベルでそういう話はあったみたいだから、私の顔をよく覚えていた人なら薄々気づいていたでしょうね。ただ、社長に就任してコースを移る際には偽名の方を別のものに変えているし、何よりうちの学校のクラス分けはコース混合で、コース変更してもクラスはそのままだから意外と気づかれないものよ。教員たちには、私に関する一切の情報を秘匿しろと誓約書を書かせているし」

「学校はそれでいいとして、他のところから情報は洩れなかったのか?」

「学校以外も、きちんと対策はしていたわよ。商業で取引する際は、担当の方に事情を説明して私の素性をバラさないよう、書面で契約を交わしていたし、同人についてはそもそもサークルの代表者をうちのお手伝いさんにして、イベント参加や委託販売などは全て彼女に任せていた。後は家族などの近親者だけれど、父母以外の人間には一切創作活動の話はしていなかったから、まあ私が身バレするリスクはほぼなかったといっていい」

「そうか。徹底していたんだな」

「ええ。おかげで、今も私の過去を知る人はほとんどいないし、世の中には全く知られていない」

「でも、なんで隠していたんだ? 創作活動をやっていることが知られると、何かマズいことでもあったのか?」

「いいや、そういう話ではない。当時隠していた一番の理由は、警備上の問題ね。社長になる前の私には、今のような厳重な警備体制が敷かれていたわけではなかったから、当時はとにかく目立たないようにすることを第一にしていたの。創作活動以前の問題として、海野家の令嬢だとバレただけでも学校中が大騒ぎになるのは必然だったから、学校には有村沙衣という偽名で入学した。これにより、海野沙輝という名前の人間が創作活動をやっているという事実も隠せるから、一石二鳥だったというわけ」

「なるほど。でも、偽名で学校にいたなら、海野沙輝が星野鈴音として活動している旨を世間に公表したところで、実害はなかったんじゃないか。だって、学校では有村沙衣として在籍していた訳だから、全くの無関係だろ」

「それがそうでもないのよ。学校では文化祭を始め、様々なイベントや催し物で自分の作品を発表する機会があるから、その時に星野鈴音というペンネームがどうしたって内外に晒される。そうなると、もし海野沙輝が星野鈴音として活動している事実を公表していた場合、海野沙輝という人間が緑沢学院にいることがバレてしまうわよね」

「ああ、確かにそうだな」

「さらに言えば、生徒同士は誰がどういうペンネームで活動しているかだいたい把握しているから、有村沙衣が実は海野沙輝だとバレてしまうリスクも出てくる。有村イコール星野、星野イコール海野といった三段論法的な感じでね。まあ、社長になって私の存在が学校中に知られた今となっては、どうでもいい話なんだけどさ……」


 そう言うと、海野は哀愁漂う表情で俯く。


「ちなみに、今も創作活動をやっていた事実は隠しているようだが、その辺は何か理由でもあるのか?」

「そうね……特に深い意味はない。何というか、もう過去の話だからあまり蒸し返したくないのよね。終わったことはさっさと忘れて、前へ進みたいというか……」

「過去とは決別したいってわけか。まあ、気持ちはよくわかるよ。ただ、今後の経営を考えると、その事実はむしろオープンにしていった方がいいと思う。その方が、何かと好都合だ」

「…………」


 俺の提案に対し、海野は黙り込む。本人にとっては、できればなかったことにしたい過去なのだろう。


「社長に創作経験がある方が、現場のクリエイターからの共感や親近感は得やすくなる。海野に経験がないことを理由に、一部のクリエイターが反沙輝派と組んでしまっている現状を鑑みると、君の過去についてはきちんと社員に明かしていった方がいいと思うぞ」

「……確かに、それはそうかもしれないけど……」

「もっと言えば、君は創作活動に復帰するべきだ。その方が会社にとっても、君にとっても、間違いなくハッピーな結果になると断言できる」

「…………」


 俺がそう告げた瞬間、彼女の瞳が大きく揺れ動く。心の内はわからないが、少なくとも彼女にとって、創作活動というものが一つの大きな未練として残っていることだけは確かだろう。


「……流石に、それは無理よ。今の私に、そんな余裕なんてない。会社を経営するだけで毎日一杯一杯だもの。だいたい、歴代の社長の中には創作経験のない人だっていたんだから、私に経験がないこととクリエイターの離反には、そこまでの因果関係はないでしょう。先人たちは、それでもうまくやってきたんだから」

「もちろん、直接的には関係ない。そもそも、社内が沙輝派と反沙輝派に割れている根本的な原因は、立川の分断工作にあるからな。ただ、歴代の社長は皆、クリエイター部門で管理職を経験したうえで社長になっている。今後社内の結束を強化したいのなら、ここで海野が活動に復帰して、現場との距離感を縮めておくのも大事だと思うぞ。特に、現役クリエイターとの兼任社長となれば、社内だけでなく世間に与えられるインパクトも大きい」

「ごめんね、色々考えてくれているのはありがたいけれど、私の中ではもう決めたことなの。私は実業家として、社長業に専念する。それこそが、自分がオタク産業の発展に寄与する上でベストな形だと思うし、一共和国民としてできる最大の社会貢献だと思っている。だから、私はもう戻らない」


 海野はきっぱりとそう告げる。だが、心なしか言葉に覇気がない。


「本当に、それでいいのか?」

「ええ」

「じゃあ、なんで高校に残っているんだよ。もしそうなら、すぐにでも高校を中退して経営に専念するべきだろ。本当はクリエイター育成コースに戻りたいんじゃないのか? 少しでも、創作活動を身近に感じられる場所に居たくて、敢えて高校に残っているんじゃないのか?」

「っ……」


 図星だったのか、海野の瞳が再度揺れ動く。


「俺としては、君にもっと楽になって欲しい。未練を抱えたまま、過去を引きずったまま社長をやっている君は、傍から見ていてすごく苦しそうなんだ。だから……」

「でも、どうやってやるのよ……。時間的にも、立場的にも絶対無理じゃない」

「そんなことない。もちろん普通の形でやるのは無理だが、多少工夫すれば、やり方はいくらでもあるさ」


 そう言うと、俺はこの時のために考えてきたプランを彼女に提示する。


「社長という立場上、同人活動は厳しい。商業も時間的な制約はもちろんとして、競業避止の観点から他社での出版は難しいし、自社で出版するにしてもいきなりそれをやるとなると、身内優遇や出来レースだと社内のクリエイター達から批判されるだろう。ただ、創作活動を社長の業務内に組み込んで、自らの作品を無料で発表していくことなら可能だ。具体的には、海野家の歴史を自ら漫画にして公式サイトで紹介したり、社長のブログのような形で日々の仕事の様子や社内の日常、お知らせや社外広報の一部などを漫画にして発信したりすればいい。そうすれば、会社や海野本人のイメージ戦略にもなる。過去の経歴と実績を世間に公表したうえで、こうした活動を続けていけば、今回の抗争を通じて一部に広がってしまった、経験も何もない無能なボンボンというイメージは完全に払しょくできるだろう。一部クリエイター達の君に対する印象も、百八十度変わるはずだ。さらに言えば、この件はクリエイター育成コースへ復帰する理由にもなる。会社に貢献する名目で、スキルアップを図るわけだからな」

「なるほどね……確かに、それなら立場的にも時間的にも何とかなりそう」

「ああ。抗争が終結して経営体制が安定すれば、今以上に時間的な余裕も生まれる。状況が落ち着いてきたら、引退前に描いていた作品の執筆を再開しても良いだろう。版権等については、自社で買い取ればいい。世間でのイメージアップに成功し、社内のクリエイターとの距離感を縮めた後での自社出版なら、社内外から批判されることもないからな。作家としての実績は既にあるわけだから、採算が取れないということもないだろう。もし出すなら、その際は作家兼社長という点を前面に押し出すといい」

「上手いこと考えたわね。でも、本当にそこまでできるかしら。いくら抗争が終結して状況が落ち着いたとしても、社長は社長よ。後者については、正直そこまでの余力は残っていないかも」

「まあ、その辺は様子を見ながらゆっくり考えればいいだろう。自社での出版は、最悪卒業してからでもいい。俺も抗争が終結し次第、正式に補佐官に就任する。俺は俺で、君が創作活動の方にも時間を割けるよう、これまで以上に全力で支えていくから」


 俺は自分の確固たる意志を伝えるべく、グッと彼女の方を見据える。海野は復帰を決断してくれただろうか。数秒の後、海野が口を開く。


「はぁ……。私、ずっと朝比奈君にやられっぱなしね。悔しいけど、あなたの方が明らかに上手。正直、ぐうの音も出ないわ。いい、私復帰する」

「ほ、本当か。それならよかった。ただ、無理に復帰しろとは言っていないから、嫌なら復帰しなくてもいいんだぞ」

「今更何言っているのよ。完全に私の方が論破されちゃっている状況で、そんなことできるわけがないじゃない」


 そう言うと、海野は口をとがらせる。


「……でも、本当にありがとう。正直、このまま未練を抱えた状態で突き進んでいたら、絶対どこかで破綻していたと思う。場合によっては、会社そのものを壊してしまうことになっていたかもしれないから……」

「そうか、ならよかった」

「さ、あまり長居していてものぼせちゃうし、そろそろ出ましょう。あっちのプールは、同じ温水でも少々温度が低いのよ。それに、電動ウォーターガンとか、面白い物もたくさんあるんだから」


 海野は立ち上がると、子供のような無邪気な笑顔で手を差し伸べてくる。その手をしっかりと握った俺は、更なる甘美の楽園を求めて、ゆっくりと立ち上がった。


 2


 プールの後は一緒に夕食を取ると、その日はお開きとなる。俺はゲストルームへと戻ると、シャワーを浴びて夜十時には寝てしまった。ただでさえ補佐官の仕事で連日疲れている中、今日は初めての経験だらけだったので、無理もないだろう。ただ、その分だけぐっすり眠れたのも事実だ。

 二日目は、既に全ての話が終わっていた関係で、丸々息抜きの日となった。といっても、前日のようにプールではしゃぐといったようなことはせず、オタクらしく一緒にアニメを見たりしているうちに、一日が終わった。

 一泊二日の打ち合わせを終えて帰宅すると、俺は休む間もなく立川を潰すための炎上工作の準備に入る。連休明けすぐのタイミングで勝負をかけるべく、前日までには完璧な状態に仕上げておかなくてはならない。

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