恋と工作

 1


 帰宅すると、ちょうど午後五時を過ぎたところだった。俺は近所の行きつけの店へ夕食のデリバリー注文を済ませると、ひとまず一日の疲れを取るべく風呂に入ることにする。

 身体を洗い、湯船へと浸かる。特に長時間働いていたわけではないが、今日の疲労はかなりのものだったらしく、湯船に浸かった途端思わず声が漏れる。


「はふぅ~」


 ブロガーは基本的に自分のペースで仕事をするので、今日のように相手にスケジュールを決められ、それに基づき行動するというのは、中々疲れる。国共党の関係者と世論工作の打ち合わせをする際は、長くても二時間程度だったので、今日のように仕事で長時間拘束されるというのも初めての経験だ。

 だが、正直俺はそのこと自体にはさほどストレスを感じていない。海野が可愛いからというのももちろんあるが、それ以上に相手が同級生だからというのが大きいだろう。俺はこれまで年の離れた人間としか交流してこなかったので、同い年の人間とタメでラフに話すのは今日が初めての経験。海野はどちらかというと無口で話しかけにくいタイプの女の子だが、それでも相手が同い年の人間だとかなり気が楽だ。今日一日、彼女とはあまり私的な会話を弾ませることはできなかったが、それでも、これまでに感じたことのない類の充実感を得られた気がする。大人との交流では決して得られない感情を、俺は今日確かに感じた。

 そんな風に今日一日を振り返りながら、湯船で束の間の休息を終えた俺は、風呂から上がると急いでPCを起ち上げる。家に帰ったからと言って、悠長に休んでいる暇はない。内々に抗争の火種を特定した俺は、今日からやらなければならないことがたくさんある。

 海野への盗聴があった以上、俺も同様のことをされるリスクは高い。そう考えると、安易に外部の人間を部屋へと招き入れることは避けた方がいいだろう。田辺さんは俺に料理人や家政婦をつけると言ってくれたが、とりあえずは断ることにする。今は、何人たりとも過度に信用しない方が良いだろう。俺はPCが起動するまでの間、念のためデスク周りなどに盗聴器がないかどうか、入念に調べておく。

 盗聴の件と共にその旨を田辺さんにメールした俺は、次に信頼する国共党関係者とコンタクトを取る。もちろん、俺が補佐官をやっていることや盗聴の件は一切明かさず、ただ純粋に会いたいとだけ伝える。社内の反沙輝派は俺の事を尾行して監視してくるだろうが、俺は以前から定期的に国共党の議員達と会食しているので、特段怪しまれることもないだろう。

 国共党関係者への連絡を取る傍ら、それと並行して会社の方にも連絡を入れる。具体的には、各役員のスケジュールの把握だ。会社の規程では、社長の秘書官や補佐官といった特別職の人間から情報の提供を求められた場合、各部署はそれに応える義務があるとされているので、担当者がたとえ反沙輝派側の社員だったとしても、俺の要求が拒否されることはまずない。しかし、特定の役員のスケジュールのみを要求すれば、俺がそいつをマークしていることが相手にバレてしまうので、カモフラージュのためにもここは全員分を要求する必要がある。

 メールでのやり取りの合間には、ブログや各種SNSの更新作業をこなしていく。今は補佐官としての収入もあるので、特に金を必要としているわけではないが、だからといって更新をサボれば、俺の社会的影響力はどんどん低下してしまう。金のためではなく知名度の維持のため、俺はブロガーとしての活動を継続する必要があるのだ。そうしなければ、俺は補佐官として海野に貢献することができなくなる。

 諸々の更新作業を終えると、今度は情報収集作業に移る。普段であれば、業界の最新ニュースや国内外の情勢、世論の動向などを探るところだが、今日は違う。今日収集するのは、海野個人に関する情報だ。今後補佐官として海野を支えていく上では、彼女の事をよく知っておいた方が良いのは言うまでもない。もちろん、理想としては本人に直接聞くのが一番だが、現状はまだプライベートについて聞ける距離感でもないし、何より海野自身がプライベートについてあまり語りたくなさそうな雰囲気なので、今はネットに転がっている公開情報や、風説の類から収集していくしかないだろう。

 午後八時、作業をひと段落させた俺は、頼んでおいた夕食をとることにする。行きつけの店のデリバリーなので、特に目新しさはないが、それでも疲れているせいか、いつも以上に美味しく感じる。

 一人ご飯を食べながら、俺はこの先のことを考える。これからやるべきこと、会うべき人、行くべき場所、注意すべきこと、それらを一つ一つ丁寧に頭の中で整理していきながら、抗争解決への道筋と複数のパターンを想定した行動計画を練っていく。正直、負ける気がしない。

 俺の貢献により、抗争は遅かれ早かれ解決するだろう。その場合、いよいよ試用期間から正式契約へと移行するわけだが、果たして俺はその後も補佐官を続けられるだろうか。実際田辺さんには、試用期間後も補佐官を続けるかどうかは未定と言ってある。

 いや、正直今はそんな先のことを考えても仕方がないだろう。今は目の前の事に集中するべきだし、契約の話はその時考えればよい。というか、俺自身本当はもう心が決まっているのだ。田辺さんと話した時点では、まだ海野と一緒にいた時間が短かったので、ああいう歯切れの悪い回答になってしまったが、今ならああは答えないだろう。あんなに可愛い彼女を前にして、辞めるなんていう選択は100%ない。俺はやれるところまでやってやるつもりだ。どんな犠牲を払ってでも、いかなる手段を使ってでも俺は彼女を支えてみせる。たとえ俺の想いが受け入れられなかったとしても、俺は彼女のために働きたい。それほどまでに、俺は彼女に夢中になってしまっている。


 2


 それから一週間後、俺は久々に登校した。反沙輝派潰しに協力してくれる学生工作員を獲得するための登校だが、もちろん会社側にはそうは伝えていない。幸い、今日は海野が学校に出席する日なので、会社側には海野と親睦を深めるためと伝えてある。


「おはよう、朝比奈君。かなり眠そうだけど、大丈夫?」


 自席につくと、海野が声をかけてくれる。実際、この一週間で海野との距離はいくらか縮まった。先週までと違って、仕事と関係のない場面でも、少しずつ会話が続くようになってきている。


「そうだな、正直寝不足気味なのは事実だ。心配してくれてありがとう。今日はそんなにやることもないから、早く寝るよ」

「身体だけは壊さないようにね……無理は禁物」

「ああ、わかっている」


 一応、俺が社長補佐官をやっているという事実はクラスの周りの人間には秘密なので、仕事の話はここではしない。あくまでも普通の同級生、お隣さん同士として振舞うだけだ。ただ、実際には海野の席の周りは皆彼女の警護役の学生とのことなので、ここで話すことについてあまり神経質になりすぎる必要もないだろう。今村さんに確認したところ、海野の警護官の人選は学内外を問わず、本人が海野家本家を崇拝する原理主義者であることと、親が国共党員であることの二つを絶対条件としており、さらに独自の基準で裏切らないとの確証が持てた人物のみを厳選しているそうなので、彼らについては全面的に信頼しても問題ない。


「海野の方も、あんまり無理しすぎるなよ」

「私は平気よ。小さい頃から、護身のために厳しい訓練も受けてきたし、別にこのくらいなんてことないわ」


 海野は半分呆れたような表情で、そう言ってくる。どうやら、彼女にとってこの程度は屁でもないらしい。


「今村さんからはこういう時のリフレッシュの仕方とかもちゃんとアドバイスしてもらっているし、定期的にマッサージにも通っているから身体は万全よ。でも、心配してくれてありがと」

「そうか、なら良かった」

「ところで、朝比奈君、今期のアニメは何を見ているの?」

「そうだな、とりあえずは……」


 そんな会話をしながら、俺はさりげなく周囲の生徒を観察する。確かに、海野の周りに座る生徒だけ明らかに様子がおかしい。常に周囲を警戒しているし、腰回りのあの膨らみはどう見ても銃だろう。目視で確認した限り、前後左右と斜めを含む八方のうち、自分を除く七方は皆学生SPとみて間違いない。廊下との出入り口付近の生徒も、恐らく同様だろう。

 海野が席を立つと、数名の生徒が彼女の後を追うように立ち上がる。全員女なので、これはトイレだろうか。見事なまでに徹底した警護体制だ。朝礼後、海野が自分の履修する授業を受けるために教室を移動する際も同様で、彼らは一切無駄のない動きで校内での彼女の身の安全を確保している。今思えば、始業式の日に彼女に付きまとっていた学生は、パパラッチではなくSPだったのだろう。

 午前中の授業が終わり、昼休みになる。俺は授業から戻ってきた前方の男子生徒に、少し話がしたいと声をかけると、すぐに事態を解したのか、メモ書きを渡してくれた。見れば、放課後にグラウンドの一角で落ち合いたい旨が記されている。流石、察しが早い。警護官たちは俺の立場を知っているのだろう。

 放課後、指定された場所へやって来ると、二人の男女が出迎えてくれる。一人は先ほど話した男子生徒、もう一人は俺の斜め前にいた女子生徒だ。二人とも美形で、女子の方は茶髪のサイドテールに紫のカラコンとやや陽キャ臭のする美貌だ。


「やっほー、朝比奈君。私は学内警護官の小野寺綾音、そんでこっちが……」

「同じく学内警護官を務める染谷実だ。そちらの事情は粗方把握している。時間もないし、さっさと本題に入ろう」


 そう告げると、彼はグラウンドの隅から少し中央の方へ動くよう促す。うちの学校には部活がないため、放課後のグラウンドには俺たち以外人っ子一人いないが、周囲の建物から聞き耳を立てられることを警戒したのだろう。流石の配慮だ。


「俺は今、学生工作員として動いてくれる人間を探している。諸々の都合上、うちの生徒であることが望ましい。悲しいが、俺には友達がいないのでそういう当てが一切ないんだ。もし、適任者に心当たりがあれば、是非教えて欲しい」

「俺たちではダメなのか? 我々はそういうのにはだいぶ慣れているが」

「君みたいに海野の警護官を務めている人間だと、対象からは当然警戒されてしまうから難しいな。君たちが警護官をやっていることくらいは、反沙輝派の人間にも大抵知られているだろうし」

「なるほど、事情は理解した。となると、そうだな……」


 一旦口ごもった染谷だが、数秒間の思考で何かを閃いたらしい。すぐに続きを話しだす。


「……うちのクラスに、去年脱税が発覚して商業デビューがパーになった同人作家が一人いる。牧田というやつなんだが、彼なら工作員として適任かもしれない。俺たちで海野社長に口利きして、もう一度商業デビューの機会を得られるよう保証すると言えば、彼は間違いなく俺たちに協力してくれるだろう」

「なるほど、つまり工作活動の成功報酬として、うちの会社での商業デビューの確約を提示するわけか」

「うーん、でも実際私たちが社長に頼んだところで、多分彼の商業デビューを保証することは無理だよね。社長の鶴の一声で、一作家のデビューの可否を決められるわけでもないし」


 小野寺の至極当然な疑問に、染谷は淡々と回答する。


「いや、保証なんていらないよ。口利きするとだけ言えば、彼は喜んで俺たちの言いなりになるだろう。今の彼は相当落ち込んでいるから、ちょっとでもそういう美味しい餌を撒けば、すぐに食らいつく。実際にデビューできるかなんてどうでも良いんだよ」


 中々残酷な答えだが、やはりこういう思考回路の持ち主でないと警護官は務まらないのだろう。海野の学内警護官は、選び抜かれたエリート中のエリートだと聞いている。


「正直、脱税するような奴には能力的にいささか疑問が残るが、その点は大丈夫なのか?」

「彼は若干世間知らずな部分があるが、言われたことはきちんとこなしていけるタイプの人間だ。実際、クリエイター育成コース所属だが勉強にも長けている。そちらで具体的な要求内容をマニュアル化すれば、指示通りにはちゃんと動いてくれるだろう。なんせ、一度はご破算になった商業デビューがかかっているんだから、真面目にやらないというのは考えづらい」

「そうか、わかった。小野寺の方は、何か当てはあるか?」

「そうね……私ならそういう当てはいくつかあるかな。小池君と違って友達は学内にたくさんいるし、警護の業務上発生する雑務を手伝ってもらっている人も何人かいるから」

「そ、そうか。ただ、今回の工作活動はそれなりに頭の良さが求められるから、何というか単なる雑用係みたいなのでは、正直困るな……」


 彼女は海野と違って常に笑顔で爽やかに接してくるため、自分のようなタイプの人間は中々目を合わせづらい。海野とのコミュニケーションを通して、だいぶ女子との会話にも慣れてきた俺だが、それでもこのレベルの陽キャだと、まだまだこちらが押され気味だ。これが所謂イケイケ女子ってやつなのかと驚きつつ、俺は少し視線を落として彼女の首元辺りを見ることにする。


「そうね……。あ、D組の中野君なんかが適任かもしれない。彼は受験コース所属で毎回トップ5に入るくらいには頭が良いし、マニュアル以外のことも適宜こなす機転の良さも持ち合わせているよ。最近は、教職員や生徒の間で不穏な動きがあるかどうか、要するに反沙輝派と内通している人間が学内にいるかどうかも、密かに調査してくれているからね」

「なるほど、優秀なのはわかった。ただ、君たちの協力者ということだと工作対象からは警戒されてしまう。その辺はどうなんだ?」

「あ、彼は学内ではあくまで私の友達という風に認識されているし、実際そうだから問題ないよ。正直私は知り合い多いから、単に私と接点があるだけでは工作員としては怪しまれないと思う」

「そうか、理解した。ただ、そいつが裏切らないという保証は? 本当に信頼できる人間なのか?」


 友達を疑うような真似は正直失礼かもしれないが、状況が状況なだけにこうした対応を取らざるを得ない。金が絡めば人は変わる、それはたとえ友人知人の類であっても例外ではないのだから。

 幸い、小野寺は俺の失礼な物言いに対し、嫌な顔一つせず笑顔で回答してくれた。


「あ、彼なら全然大丈夫だよ。彼は私と同じく原理主義者だし、それを抜きにしても、はっきり言って彼が裏切ることはあり得ない。なぜなら……」


 と、根拠を述べようとしたところで一旦口ごもる小野寺。彼女の表情から少しばかり笑みが薄れ、声量もややダウンする。


「……実は彼、何ていうか、私の事がかなり好きになっちゃったみたいなんだよね。今の彼は、私のためなら人生かけてもいいとまで思っている節があるから、まず間違いなく裏切らないよ。彼は私の頼み事やお願いなら、文字通り何でも聞いてくれるし、忠実に最後までやってくれる……」

「そうか、確かにそれなら絶対に裏切らないな」


 中野君とやらには申し訳ないが、ここは最大限その事情を利用させてもらう。他人の私情を一々気にしていては、工作活動など務まらない。


「それじゃあ、工作員は牧田と中野の二人で決定だな。各々の事情が事情なだけに、工作の依頼は君たちを介した方が良いだろう。こちらの要求を、あたかも君たち自身が考えたかのような体で彼らに伝えてもらうことは可能か?」

「あ、うん。詳細を教えてくれれば、全然可能だよ」

「右に同じく、だ」

「ありがとう、助かる。そういうことなら、今君たちにここで資料を渡しておくよ。ここには工作員、今回の場合は牧田と中野とやらに依頼する具体的な内容が記されている。わからないことがあれば、今日のように再び俺をここに呼んでくれ。会社にいる日も、君たちから連絡があればすぐに飛んでくる。連絡先は、こちらだ」


 矢継ぎ早にそう告げると、俺は資料と一緒に自分の連絡先が記されたメモを二人に差し出す。連絡先の交換を要求すると、小野寺の方は一瞬戸惑ったような素振りを見せたが、最終的には二人とも応じてくれた。


「二人に対しては、それぞれが個別に会って指示を出してくれ。内容はほぼ同じだが、牧田と中野を一箇所に集めて説明すると何かと目立つし、何より二人とも抱えている事情が特殊だから、会わせると色々と面倒なことになりかねない。あくまで二人には互いのことを知らないまま、独立して動いてもらいたいからな」

「了解。てか、朝比奈君は学内警護官の私たちと会うこと自体は問題ないの? 反沙輝派の人間にこの事実が知られたら、警戒されるリスクだってあると思うけど」

「そうだな……まあ、社長補佐官の俺が警護官の君たちと会うこと自体は、別に不自然な話ではないから、やり取りの中身さえ知られなければ特に問題はない」

「ということは、やり取りの中身は知られるとマズいということだね?」

「ああ。俺が誰を使って何をどうしようとしているのかがバレてしまうからな。なので、君たちもこれ以降は盗聴に気を付けてくれ。つい先日、社長室で盗聴があったことを考えると、油断はできない」

「大丈夫だ。俺たちその辺はプロだから、心配してくれなくていい」

「そうか、わかった。それじゃあ、以降も何かやり取りが必要な場合はこの場で話し合おおう。アポは、さっき渡した連絡先に入れてくれればいい」


 そう言うと、俺はグラウンドを後にした。


 3

 

 帰宅すると、俺は夜ご飯の支度にかかる。ここのところは国共党の議員や役員との会食続きだったので、家での夕食は久しぶりだ。スーパーでカレイの煮付けとお刺身盛り合わせを買ってきたので、今夜は和食にすることにする。納豆と豆腐が冷蔵庫にあるので、献立としては十分成り立つだろう。野菜についてはオクラを納豆と一緒にあえる他、後は適当に煮物かなんかを作ることにする。

 作業に取り掛かって五分くらいが経過しただろうか、突如俺の社用携帯が着信音を奏でる。補佐官になって以降、社用の携帯に電話がかかってきたことは一度もなかったので、何だろうと驚きつつ、俺は調理を中断して電話に出る。


「もしもし」

「もしもし、朝比奈君? 海野だけど、今時間は大丈夫かしら。ちょっと、話したいことがあるんだけど」

「だ、大丈夫だぞ」


 女の子から電話がかかってくるなんて、人生で初めての経験だ。たとえ手が離せなかったとしても、この状況なら俺は間違いなく嘘をつくだろう。


「な、何の用だ?」

「あのね、実は来月のGWに予定している別荘での打ち合わせについてなんだけど……」


 ただ電話で話しているだけなのに、自然と気分が高揚してくる。相手の顔は見えなくても、声を聴くだけでここまで胸が高鳴るとは驚きだ。


「……一日だけじゃなくて、二日間に渡ってやろうと思っているの。だから、泊まれるように必要な物を持ってきてもらえるかしら」

「ん、待て。どういうことだ?」

「いや、私たちもここのところ働きっぱなしで、心身ともにかなり疲れているから、別荘での打ち合わせは休暇やリフレッシュも兼ねて行こうと思っているの。幹部合宿というか、保養所に行くようなものと考えてくれていいわ」

「なるほど、理解した。海野の別荘の近くに、そういう施設があるんだな?」

「いや、別荘の周辺にそういった施設はないわよ」

「じゃあ、どこに泊まるんだ?」


 俺がそう言うと、海野はほんの一瞬黙り込む。少しの間の後、答えが返って来る。


「……そんなの決まっているじゃない。私の別荘に泊まるのよ」

「は?」


 電話の向こうから返ってきた答えの意味が瞬時には理解できず、俺は思わず調子はずれな声を出す。


『私の別荘に泊まる』


 今確かに海野はそう言った。別荘とはいえ、一緒に海野の家に泊まるわけだから、これはもうお泊りデートじゃないか。そう思った瞬間、頭の中が真っ白になっていく。


「…………」


 少なくとも、家族でもない男を自分の家に呼ぶということは、ある程度は俺に対して好意を抱いているはず。そうでなければ、いくら同級生で部下といえども、そういう発想にはならないだろう。第一、向こうからわざわざ電話で誘ってきている時点で――


「……ねえ、ちょっと聞いているの? ねえってば」

「……あ、わ、悪い。聞いていなかった。もう一度言ってくれ」

「はぁ……疲れているのはわかるけど、人の話はちゃんと聞かないとダメよ」

「わ、悪い。ボーッとしていた」


 適当に嘘をついて誤魔化す。


「もう一度最初から説明するわ。まず、宿泊の際にはサウナやプール、温泉は自由に使ってくれてOKだけど、水着やバスタオルなどの貸出はないから、必ず自分で持ってくること。それから、警護関係者などが定期的に巡回しているから、そこのところはよろしく。後は打ち合わせに関してなんだけど、場所としては密談用の建物があるから、そこでやろうかなって思っている。あそこは家政婦も含めた全ての人間の出入りが禁止されているから、万全を期すならあそこが一番かと……」

「なるほど、別荘の中でもより安全な場所を選んだってわけか。ちなみに、そこは俺たちが寝泊まりする建物からはどのくらい離れているんだ?」

「そうね、私が泊まる建物からはすぐの距離だけど、朝比奈君が泊まるゲストルームからは歩いて五分くらいね」

「え、げ、ゲストルーム?」


 そこで俺は、ようやく自分の早とちりに気が付く。確かに、海野は俺を別荘に泊めるとは言ったが、同じ部屋に泊まるとは一言も言っていない。冷静に考えれば、当然の対応だ。今になって、お泊りデートなどと一人で勝手に妄想してしまった自分が猛烈に恥ずかしくなる。


「……何よ、もしかしてあなた、まさかお泊りデートのチャンスとか考えていたわけ?」

「…………」


 図星過ぎて、全く言い返せない。ここはもう、観念するしかないだろう。


「……はぁ……何というか、いかにも陰キャの発想って感じね。まあ、いいわ。それで、密談用の建物以外は、普通に外部のインターネットが通じている。ただ、元々は休暇のための場所だから、あくまでもネット環境は仕事用ではなく、プライベート用ということになるわ」

「了解した。まあ、打ち合わせの際は全て紙かホワイトボードかなんかに書いて説明するつもりだから、そもそもPCを持っていくつもりはない。せいぜい、スマホでアニメ見たり、ゲームやったりするくらいかな。もちろん、密談用の建物にはスマホを始め、ネットに接続できる機器については、一切持っていくつもりはない」

「そう、なら良かったわ。過去のアニメについては、別荘の地下室に大量の円盤が保管されているから、自由に使ってくれて結構よ。あそこには、確か過去十年間に放送されたものを中心に二百作品くらいあったはず」

「そうか。そういうことなら、時間のある時に何本か見させてもらうことにするよ」

「ええ。一応今の時点では、初日に打ち合わせをやって、問題がなければ二日目はオール休暇にするつもり。だから、その時にでもゆっくり見るといいわ」

「わかった」

「一応、私からの説明は以上になるけれど、他に何か確認しておきたいことはある?」

「いや、ないな」

「了解。打ち合わせの具体的なスケジュールについては、後日会社で直接伝える。それじゃあ、お疲れ」

「お疲れ、また明日な」


 4

 

 それから二週間後、いよいよ明日からGWという日の夜、俺は帰りがけに都内某所にある飲食店へと足を運ぶ。今夜の会食相手は、当初から色々と連絡を取り合っている立川常務だ。彼曰く、大型連休に入る前に、色々と話しておきたいことや頼みたいことがあるらしい。


「……なるほど、そんなことがあったんですね」

「ああ、彼らは明らかに僕を嵌めようとしていた。二人とも講演内容に関して質問しているように見せかけて、よくよく聞いてみると本質的には人を試したり、ひっかけたりするような質問だった」

「今は派閥抗争中ですから、反沙輝派の連中がスキャンダルを狙って、様々なことを仕掛けてくるのはわかります。ただ、そこで出てきたのが高校生というのはちょっと怖いですね……」

「ああ。正直僕も質問されたときは、全くの無警戒だった。まさか、高校生がそんなことをしてくるとは普通思わないからね」

「ちなみに、開催はいつだったんです? 平日なら、参加していた高校生全員が怪しいということになりますが……」

「先週の二十二日、あいにく休日だ。それに、あの講演会はオタク産業庁主催とはいえ、会場が緑沢大学だったからか、附属の高校生が多数参加していてねえ。正直、高校生が参加していても全然不自然な環境ではなかったんだよ」

「あ、講演会の会場ってうちの系列大学だったんですか」

「ああ。てか、君は知らされていなかったんだね」

「そうですね……僕の方ではそういった話は聞いていないですね。まあ、僕は補佐官をやっている関係でほとんど学校に行っていませんから、無理もありません。友達もいませんし」

「そうか。見た感じでは、聴講したくて参加しているというよりは、嫌々参加させられているような生徒が多かったね。恐らく、選択科目の講義の一貫だったのだろう。敵は、そんな生徒達の中に工作員を紛れ込ませて来た」


 そう言うと、立川常務は悔しそうに唇をかみしめる。


「まあ、元々講演会というのは、基本的には誰でも参加できる環境ですからね」

「ああ。自分としても、正直油断しすぎたと思っている。とりあえずは、今回の件を踏まえて、抗争終結まで原則講演は見合わせるつもりだ。正直、いつ何をされるかわからないからね」

「それが良いでしょうね……。ちなみに、あの講演の後に何か具体的な動きってありました? 例えば、週刊誌に失言が取り上げられるとか、SNS上に悪意をもった切り抜きで情報が拡散されたりとかは?」

「いや、今のところはそういった大きな動きはないね。実際、質疑応答の冒頭では少し不適切な回答というか、事実と違う回答をしてしまったが、それ以外では相手の誘導質問に乗ることなく、のらりくらりとかわすことができた。向こうとしては、残念ながら期待していたような失言は引き出せなかっただろう」

「そうですか。一応、講演会の撮影や録音は禁止だったんですよね?」

「ああ。当日は主催者側のスタッフ何名かが、試験監督の如く目を光らせていたから、そこのところの心配はいらないだろう。ただ、SNSを見ていると、当日の俺の回答が間違っているだとか、不自然だったとか、失言ではないかとかいう書き込みがちらほら目につく。やっぱり僕も、海野インダストリーの取締役としてそれなりに有名だから、ちょっと何かがあるとすぐにこうやって書き込まれてしまうんだよね。実際、書き込みの中には事実に基づかないデマや憶測の類のこともたくさんある。幸い、大きく拡散される事態には至っていないが……」

「まあ、映像や音声などの客観的な証拠が一切ない状況ですから、世間だってそんな簡単には信じませんよ。とはいえ、情報を書き込んでいる人たちの一部は、当然悪意をもって恣意的にやっているわけですから、今後も観察と警戒は必要でしょう」

「ああ。だからこそ、君にお願いがある。今後、そういった書き込みが激化した場合、ネット上でデマを流している人たちに対する徹底的な非難や、真実の拡散に努めてほしい。書かれていることの、ほとんどは事実ではないからな」

「えーと、僕がネット上で影響力をもつインフルエンサーだということは、バレていましたか……」

「ははは、そう言えばまだ言っていなかったね。実は、先日仲の良い役員から聞かされたんだよ。補佐官の君が、実は人気ブロガーだって話を」


 立川常務は、どうやら俺がインフルエンサーであることを知っているらしい。ただ、これは俺の中では想定内だ。具体的なアカウントやハンドルネームまで特定されていなければ、特に問題はない。今の口ぶりからすると、彼がそこにたどり着けている可能性は低いだろう。そもそも、俺が本名とハンドルネームの両方を伝えているのは、一部の信頼できる学校関係者や国共党関係者のみで、彼らの口は堅い。国共党中央情報部は海野に俺の素性を伝えたようだが、先日確認したところ、彼女と田辺さん、今村さん以外には一切話していないとのことだ。盗聴があった際も、俺のハンドルネームを口にした者はいなかったので、正直彼まで情報が漏れているとは考えにくい。


「あ、そういうことでしたか。まあ何にせよ、立川さんが不当な攻撃を受けているのであれば、僕なりにできることは何でも協力させていただきます。私は社長補佐官ですから、沙輝派の取締役に対する悪質な誤情報に対しては、断固として戦っていく責務がありますので」

「そう言ってもらえると、心強いよ。ありがとう」

「自分はインフルエンサーとして、三つのハンドルネームでアカウントを使い分けていますが、どちらのハンドルネームでの拡散を希望されますか?」

「そうだね……一番フォロワーが多いやつで頼む」

「わかりました」


 やっぱり彼は、俺の予想通りアカウントやハンドルネームの特定まではできていない。今の発言で、それを確信した。具体的な名前で指定してこない辺り、明らかに不自然だろう。それに、そもそも俺はインフルエンサーとして、複数のハンドルネームを使用するといったことはしていない。工作用の捨て垢なら大量にあるが、所謂インフルエンサーとしての俺の名義は一つだけだ。メイン、サブ、告知用等の使いわけはあるが、全て同じハンドルネームで運用している。三つもハンドルネームがあったのかと驚かない時点で、多分この人は何も知らないのだろう。


「僕に対するネット工作は今のところ上手くいっていないから、今はまだ動かなくていい。今火消しを図ると、かえって逆に目立ってしまうからな。時期が来たら、こちらから改めて連絡をするつもりだ」

「承知いたしました。拡散はTOSHIという名前の、こちらのアカウントで行いますので、当日はリアルタイムで観察していただければと思います。何かご要望があれば、その都度対応してまいりますので」


 そう言うと、俺は一枚のメモを渡す。メモの内容はもちろん嘘で、これは別人――俺がコンサルをしているブロガーTOSHI――のIDだ。攪乱目的で、わざと誤情報を流している。これで彼は、これが俺のアカウントだと一時的に誤認するだろう。当該アカウントの管理人にはこの件を連絡済みで、口裏を合わせてある。


「ありがとう。そこまでやってくれるとは、助かるよ」

「いえいえ。連絡は、社用携帯の電話番号か、社内メールの方に連絡していただけると助かります。DMは閉じていますし、何より流出したらマズい内容ですから」

「もともとそのつもりだ、ありがとう」

「一応、このことは海野社長の方にも報告しておきますね。実は、明日、ちょうど彼女と二人きりで会う機会がありまして……」

「お、そうなのか。それならちょうどいいね。てか、明日は休日だけどわざわざ会うのかい?」

「ええ。平日だと中々時間が取れないので、今後の方針についてじっくり話すなら、休日の方がいいだろうという話になりました。彼女の熱海の別荘で、しっかり腰を据えて話すつもりです」


 敢えて、海野との秘密の打ち合わせ場所を公表する。これも、作戦のうちの一つだ。


「お、それはもはやデートじゃないか……なんつって、嘘だよ、嘘。休日出勤、お疲れ様」

「お気遣い、ありがとうございます」


 そんなこんなで、俺は彼と二時間ほど食事をした。

 帰りの車内で、俺は今後の計画を練りながら、先ほどの会食を軽く振り返る。立川常務は最初、講演会の件でやや俺の関与を疑っていたらしく、踏み絵を踏ませるような形でネット上のデマに対する火消しを依頼してきた。だが、それに素直に応じたのと、その後に自分のアカウント名を自ら公表したこと、そして何より明日の海野との秘密の会談場所を敢えて教えたことで、彼は俺のことを全面的に信頼しただろう。最後の冗談交じりの気さくなやり取りを見れば、明白だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る