迷いと決断

 寮へと帰宅した俺は、ひとまず先ほど指定されたアドレスにメールを送った。宛名は、田辺彩女。海野から貰ったメモによれば、彼女は海野インダストリーの上級副社長を務めているとのこと。

 とりあえずメールが返ってくるまでは、昼食を摂りながらブログの更新作業をして時間を潰そうと思っていたが、意外と返事が中々返ってこないため時間が余ってしまった。なので、しばらく横になって休むことにする。

 ベッドに転がり込んだ俺は、特に何かをするわけでもなくただただぼーっとする。今思い返せば、今日は朝から色々な事がありすぎた。美人と隣の席になっただけでも一大事だが、あろうことか向こうは俺に声をかけてきたのだ。しかも、ただの世間話ではなく社長補佐官への誘い。報酬も十億円という巨額の数字をいきなり提示された。もはや、話がぶっ飛びすぎていて自分でも頭の整理が追い付かない状況だ。

 もちろん十億円というお金に興味はある。今ブロガーとして月三百万円稼いでいるとはいえ、この仕事は会社員と違って不安定なので、それだけの大金を貰えるに越したことはない。しかし、だからといって社長補佐官の仕事をやりたいかと言われると、それはまた別の話だ。元々アルバイトが嫌でブロガーという仕事にたどり着いた以上、正直自由度が失われそうな仕事はやりたくない。

 とはいえ、ここで十億円をゲットできれば、さらに快適なオタクライフを送ることができるのも事実。昨年度から寮費を自分で払うことにして、高級寮の3LDKの部屋に移ったとはいえ、アニメグッズやフィギュア、同人誌などを置くスペースがどんどん狭くなってきているのが現状だ。今のペースで購入を続ければ、やがては全て埋まってしまうので、卒業後は今よりもはるかに広い家に住む必要がある。そう考えると、ここでの十億円は結構重要だ。もしそれだけのお金が入れば、グッズ保管のための別荘を買うのも夢ではない。

 それに、俺がここで補佐官への就任依頼を引き受ければ、もしかすると海野という超絶美女と付き合うチャンスになるかもしれない。というのも、補佐官という仕事の特性上、ここで依頼を引き受ければ、少なからず海野に近づく機会が生まれるのは間違いないからだ。同年代の人間の中で、職場の部下という形で彼女に近づくことができるのは、おそらく俺だけの特権。彼女作りはかねてからの悲願だっただけに、俺としては、何とかしてこの機会を活かしたいところである。

 幸い、きっかけは向こうの方から作ってくれた。女子から唐突に声をかけられたという点では、まさにラノベのような状況といえる。というか、そもそも秘書を介さず自ら声をかけてきた時点で、ひょっとして既に脈ありなのでは――

 ――って、考えすぎか。海野自身、同年代の補佐官をつけることは望んでいないと言っていた。それに第一、あんなに可愛い子に彼氏がいないわけがない。いくら補佐官としてアピールしたところで、俺の出る幕はないだろう。補佐官になれば彼女と付き合えるなんていうのは、所詮童貞の妄想か。

 と、そこまで考えたところで携帯が鳴った。見れば、田辺上級副社長から返信が来ている。

 メールを開き、ざっと内容に目を通す。どうやら、田辺上級副社長は補佐官の件に関して、今日中に対面で話し合うことを希望しているらしい。場所に関しては、向こうが学院寮の俺の部屋まで来てくれるそうなので、心配ないとのこと。まるでお客様のような待遇に少々困惑しつつも、今日はこの後特に予定もないので、その旨を部屋番号と共に返信で伝える。

 午後四時、約束の時間ちょうどにインターホンが鳴る。一分のずれもなくやって来るとは、流石の一言だ。一体どんな人物なのだろうと少し緊張しながら、俺は恐る恐るモニターを覗き込む。だが、画面に映し出された顔を見た瞬間、そうした緊張は一気に吹き飛んだ。


「うわ、マジかよ…………」


 思わず、声を出してしまう。モニターの向こうにいるのは、一人の若い女性。俺はてっきり、上級副社長ということで五十代くらいの女性を想像していたのだが、今画面に映っているのは二十代後半から三十代前半と思しき美女だ。予想外の事態にテンパりながらも何とか気持ちを落ち着けた俺は、一呼吸置いた後ゆっくりとインターホンの通話ボタンを押す。


「はい」

「あ、田辺です。今日はごめんね、急なお願いで。話自体は、三十分もかからずに終わるから」

「りょ、了解いたしました」


 そう言うと、俺はエントランスのオートロックを解錠する。

 緑沢学院は自由な校風故、部外者が寮に立ち入ることは特に禁止されていない。自室に誰を招くかは学生の自由であり、異性を自室に呼ぶこととて例外ではないのだ。今回は別にそういう目的で彼女を呼んだわけではないが、それでもこの状況は何とも言えぬ背徳感みたいなものを、ついつい覚えてしまう。


「あ、朝比奈君、入って大丈夫~?」


 やや間延びした声で、そう尋ねる田辺さん。これからシリアスな話をするというのに、まるで緊張感がない。


「あ、ど、どうぞ」

「お邪魔しま~す。うわー、部屋めっちゃ広いね。流石プロブロガーだ」


 俺の部屋を見るや否や、驚きの声を上げる田辺さん。まあ、学生の一人暮らしで3LDKはかなり広い方だろう。高級寮の3LDKの部屋に住んでいるのは大半が現役の有名作家なので、俺みたいなのはかなりのレアケースだ。

 田辺さんの容姿を一言で表現するのなら、オトナ美人。生で拝見した限り、年齢はおそらく三十代前半くらい。これでもかというくらい妖艶な雰囲気を醸し出しており、谷間付近の直上まで外されたブラウスのボタンがエロさをそそる。


「あ、今エッチなこと考えていたでしょう。もう、嫌だな~」


 いやいや、わざわざそんなエロい格好で男の部屋に入ってくるあなたが悪いんですよ、と突っ込みを入れたくなるが、心の中に留めておく。そもそも、これから社長補佐官に関する大事な話があるのだ。ふざけている場合ではない。


「どうぞ、こちらにお掛けください」

「いやいや、そんなにかしこまらなくてもいいわ。もう少しカジュアルで構わないわよ」

「わ、わかりました。今からお茶をご用意いたしますので、少々お待ちください」

「あら、そこまで気を遣わなくてもいいのに」

「いえいえ。わざわざ寮まで足を運んでいただいた以上、このくらいはさせてください」

「あら、朝比奈君はぼっちで友達がいないと聞いていたけれど、意外とコミュニケーションには慣れているのね」

「まあ、友達はいなくてもこれまで国共党の大人達と取引してきましたからね。大人と話すのは慣れていますよ」


 そんな言葉を交わしながら、俺は予め用意しておいたヨモギ饅頭とお茶を出す。


「さ、それじゃあ早速本題に入るわ。まずは、この資料にざっと目を通してもらえるかしら」


 そう言うと、田辺さんは説明書きの資料らしきものを渡してくる。資料には待遇面での情報や社長補佐官として要求される仕事内容はもちろん、傘下の企業情報や組織形態の詳細に至るまでかなり詳しく記されているようだ。ここまで詳しい資料があるのなら、最初からこちらを渡してくれればよかったのにと思うが、海野自身俺にはあまり来てほしくないようなので、きっとその辺の事情が関係しているのだろう。

 ページをめくり、内容を頭に入れていく。結構なボリュームだが、そんなに難しいことは書かれていない。普段の俺ならこの程度はすぐに記憶できるはずなのだが……。


「…………」


 目の前の田辺さんが気になってか、中々集中できない。俺が資料を読んでいる間、彼女は何気なくずっとこちらの方を見てくるのだ。意図的に揶揄っているのか、それとも無意識的にこちらを見ているだけなのかはわからないが、女性慣れしていない自分にとって、この状況は中々に緊張する。

 十分程かけて八割方内容を把握した俺は、疑問を一つずつ彼女にぶつけていく。


「三か月の試用期間中であっても、会社側が正式に契約するべきと判断した場合は、期間の満了を待たずに正式採用へと移行するとありますけど、採用を辞退することは可能ですか?」

「えーと、その場合は新たに契約を結びなおすことになるから、そのタイミングで辞めることは可能。もちろん、特別報酬の条件を満たしていれば十億円はきちんと支払われるわ。正式に契約を結んだあとは、三か月毎の契約期間が終了するタイミングで辞めるか続けるかを選択することができる。ただ、朝比奈君が契約更新を希望しても、会社側の判断によってはクビということもあり得るから、そこはよろしくね」

「了解しました。続いて二つ目、試用期間中も含め、補佐官就任後も自分がブログ活動を続けることは可能でしょうか? うちのサイトは、他社の作品や製品も結構紹介していますが……」

「基本的に、うちは副業や兼業の類についてはオールフリーよ。取締役は事前の承認が必要だけれど、朝比奈君の場合特に制約はない」


 副業OKとなれば、俺の所得は月二百万円の基本給とブログ収入を合算した金額となる。補佐官の仕事はそれなりに忙しいようなので、これまで通りのペースで記事を書くのは難しいだろうが、それでも既存の記事の更新作業を中心にやれば、世論工作の報酬と合わせて今の四割程度は維持できるだろう。そうすれば俺の月収は月三百二十万程度となる。正式採用後は、基本報酬に加えてボーナスも支給されるとのことなので、年収ベースでは五千万程度だろうか。特別報酬の十億円と合わせて、かなり魅力的な数字だ。


「わかりました、ありがとうございます。それで、ここからは資料とは関係のない質問になりますが……」


 視界に大きく映る彼女の美貌に動揺しつつも、何とか視線をそらして誤魔化した俺は、当初からの疑問を口にする。


「どうして、高校生という条件に拘るのでしょう。高校生縛りさえやめれば、自分と同じような人材は大人社会にいくらでもいるはずです。学校で海野に同じことを質問したら、田辺さんや周りの人間が同年代の補佐官をつけることに拘ったからだと説明されました。宜しければ、その辺り詳しく教えていただけませんか」

「それはね……」


 そう言うと、田辺さんは一呼吸置く。挙動を見る限り、今から伝えられる事はかなり重要なのかもしれない。


「朝比奈君、実は私たちが補佐官に求めるものは、派閥抗争の解決だけではないの。あなたには、それだけでなく彼女の話し相手になってあげて欲しい。ほら、彼女って高校生なのに社長やっているでしょ。社内には年の離れた大人しかいないから、全然話し相手がいないのよ。それに、彼女は学校でも一人ぼっち。社長という立場上仕方がないのかもしれないけど、元々一人でいるのが好きなタイプだから、彼女自身友達を作ろうとかいう気が全くないみたいなのよね……。まあだからこそ、朝比奈君には補佐官として傍にいてもらうことで、彼女の心を少し溶かしてほしい」

「心を溶かす……ですか……」

「ええ。こっちは本気よ。国共党中央情報部からあなたに関する情報が入った時点で、私たちはあなたが高校三年進級時に沙輝ちゃんと同じクラスになるよう、学校側に根回しまでしていたんだから」

「そうだったんですね……」


 要するに、田辺さんは同年代の俺に、少なからず海野と親密な関係になることを求めているのだろう。これまで女っ気のなかった俺にとっては、尚更チャンスといえる。


「ちなみに、海野に彼氏とかはいるんですか?」


 すると、田辺さんは俺の心の内を察したのか、揶揄うような視線を送ってくる。


「お、さては朝比奈君、沙輝ちゃんに惚れちゃったな~?」

「あ、いや、別にそういうわけではなく、友達がいないとのことでしたので、ちょっと気になって……」


 流石に、今このタイミングで聞くのはまずかっただろうか。平静を装ったつもりだが、田辺さんの表情を見る限り俺の言葉を全く信じていない。


「ま、沙輝ちゃん美人だもんねー。そりゃ、男の子からすれば、気にならないわけないか。あ、もちろん彼女には彼氏なんていないからね」

「それはやっぱり、仕事が忙しいからとかそういう理由ですか?」

「うーん、もちろんそれもあるけど、どちらかというと彼女自身の性格の問題かな。彼女は元々冷徹な性格で、プライベートでは他人と群れることを嫌う傾向があるから、恋人も友達もできないのよ。だから、似た者同士結構気が合うんじゃない? 朝比奈君も一人でいるのが好きなタイプでしょ?」

「ま、まあ……」

「どう、そう考えると補佐官を引き受けてみたいと思わない? 多分、一生に一度のチャンスだよ。あんな可愛いお嬢様に近づける機会なんて」


 田辺さんは女っ気のない俺に対し、どうやらそっち方面でアピールをして説得しようという魂胆らしい。俺も男として生まれた以上、海野のような超絶美人に接近するチャンスともなれば、みすみす指を咥えて見ている訳にはいかないと言うのが本心だが、やはり依頼が依頼なだけに、ここは冷静な判断が求められる。


「そうですね……自分としては、業務内容に関して、もう少し具体的な情報が欲しいところです。この資料に書かれているのは、形式的な業務内容の話ばかりで、派閥抗争に関する詳細な説明が一切ありません。もう少し踏み込んだ話をしていただかないと、こちらとしては中々結論を出せないというのが正直なところです」

「うーん、実を言うとこれ以上のことは社外秘の情報ばかりで、ちょっと話しにくいんだよねえ。朝比奈君も今はあくまでも社外の人間だからさ。言える範囲で一応説明すると、今起きている派閥抗争はクーデターの一種だと思ってくれていい。沙輝ちゃんを社長の座から引きずり降ろそうとする勢力が、社内で反旗を翻している。だから、あなたにはそれを防ぐための世論工作をネット上でして欲しい。沙輝ちゃんの評価を上げるための世論形成をしたり、敵対勢力を貶めるような情報工作をしたりしてくれるとありがたいわ」


 田辺さんの回答は、残念ながら先ほど海野から聞かされたものとほとんど変わっていない。つまるところ、向こうとしては正式に契約を交わすまでは一切詳細は話せないということなのだろう。実際、田辺さんもそこは察してくれという顔をしている。


「自分は経営者からこのような依頼を引き受けた経験がないので、正直どこまでやれるかは未知数ですね……」

「いやいや、朝比奈君ならそんなの全然余裕だよ。中央情報部が出してきた資料を見させてもらったけど、あなたの世論工作は非常にレベルが高いし、ネットワークもかなり広い。朝比奈君、友達はいないけど人脈は豊富よね?」


 さらっと酷いことを言われたような気がしたが、今は重要な話の最中なので突っ込まずにスルーする。


「確かに、ブログやSNS上での活動を経て、国共党関係の人脈は広がりました。ただ、それはあくまでも社外での人脈であって、実際、社内での人脈はほとんどありませんから……」

「いや、それにしても高校生でそれだけの人脈を持っているのは、はっきり言って凄すぎるわよ。少なくとも、社長と同い年でここまで優秀な人間は絶対にいない。もっと、胸を張っていいわ。あなたなら、絶対補佐官として上手くやっていけるはずだから」


 そう言うと、田辺さんは温かな眼差しをこちらへと向けてくる。彼女が醸し出す包容力は中々のもので、今の所作一つで多少気分が落ち着くのだから不思議なものだ。


「こちらでできることはなんでもサポートする。社用車は当然つけるし、必要なら料理人や家政婦だって派遣するわ。業務にあたり必要な備品は些細なものまで全てこちらで用意するから安心して。もし朝比奈君が補佐官になったことで、何か社会的に不利益を被るようなことがあれば、私たちが責任をもって全力で庇うから」

「マジですか……」


 俺も伊達にオタクをやっていないだけあって、自分に社用車や料理人がつくともなれば、正直厨二心をくすぐられずにはいられない。高校生の自分がそんな王様気分を味わえるとは、中々に胸アツだ。


「対立抗争の詳細については、これ以上話せないんですよね」

「ええ。契約書にサインして、補佐官となることが決まらないとこれ以上は難しい。今は守秘義務もない状態だからね」

「そうですか……」


 待遇に不満はない。三か月ごとに辞めるか続けるかを選択できるのも個人的には有難い。だが、俺としてはやはり危ない橋は渡りたくないというのが本音だ。仕事の肝心な部分が判然としない以上、普段の俺ならここは絶対に断るべきと決断するだろう。

 しかし、今日の俺はなぜかそうした決断を下せずにいる。先ほどの社用車や料理人の件もそうだが、それ以上に海野という美少女の存在自体が俺の理性的判断を邪魔してしまっているのだ。今朝海野と学校で会って以降、今に至るまで俺は彼女の顔が脳裏から離れずにいる。これまで女子とは無縁の生活を送ってきた俺が、いきなりあんな美女に声をかけられたらそうなるのも当然だ。

 俺が結論を出せずに黙り込んでいると、それを察したのか田辺さんが声をかけてくる。


「迷っているのね。一生に一度のチャンスなのだから、チャレンジしてみなよ。もし嫌になったら、途中で辞めればいいんだから。朝比奈君は十分稼いでいるんだし、たとえ失敗したところで失うものなんて何もないわ」


 田辺さんの言う通りだ。俺は既にブロガーとして確固たる収入源と社会的地位を確保している以上、補佐官として失敗したところで人生にほとんど影響はない。


「…………」

「優柔不断な男はモテないわよ。今断れば、あなたは一生童貞ね」


 俺が沈黙を続けていると、田辺さんが今度は軽く煽ってくる。悔しいが、事実だろう。俺は生まれて以来、ほとんど女子と喋ったことがない。小学校以来十年以上に渡りぼっちを貫いてきた俺は、影が薄すぎて女子たちからは存在自体が認知されていなかったのだ。そんな俺がこのチャンスを逃せば、女子と絡む機会など永遠にやってこないのは明白だろう。

 俺も男として生まれた以上、そんな寂しい人生は正直嫌だ。可愛い彼女と付き合えるものなら付き合ってみたいし、可能ならまあ、色々とエッチな事だってしてみたい。事実、俺は家に帰ってきてから海野のビキニ姿とか、謎の光入りの全裸姿とか、そういう事ばかり想像してしまっている。


「私がいると判断しづらいということなら、今日は一旦帰るけど。結論はメールでも……」

「いや、待ってください」


 今断れば、間違いなく一生後悔するだろう。そもそも、海野は世界最大のオタク企業のトップを務めるハイスぺ美女、そこらの女子高生とは訳が違うのだ。世界中の男子が羨むような絶好の機会を前にして、みすみす引き下がるわけには――


「やっぱり僕、引き受けます……」


 俺の口が、半ば無意識的にそう告げる。自分でも少々驚きだが、これでいい。これでいいのだ。断って後悔するくらいなら、引き受けて後悔した方がいいに決まっている。別に失敗したところで、人生が終わるわけでもないのだから。

 俺がぼそっと決断を伝えると、田辺さんは俺の心の内を読み取ったのか、意味深な視線を送ってくる。


「了解。とりあえずは、試用期間の三か月ね」

「ええ。試用期間が終わった後については……そうですね、その時の状況次第で改めて検討させていただければと思います。その時点で、補佐官を続けたいと思う何かがあれば、正式契約への移行を希望する形になるでしょう。もちろん、海野が契約の更新を望まないのであれば話は別ですけど」


 本当はここで、覚悟を決めた体でもっとかっこいいことを言えるとよかったのだが、あいにくと少し予防線を張ったような言い方になってしまった。恐らく、アドレナリンが減ってきたのだろう。今の俺では、このセリフが限界だ。


「それじゃあ、早速沙輝ちゃんの方にも連絡入れておくね」


 そう言うと、田辺さんは嬉しそうに携帯を操作する。彼女が喜んでくれているのは結構なことだが、肝心の海野本人は、俺の補佐官就任をどのように受け止めるだろう。学校で話したときの様子を見る限り、少なくともあまり歓迎はされないと思っていた方が良さそうだ。


「海野は今回の件について、自分の口からはほとんど説明をしませんでした。実質的には丸投げ状態でしたが、何か理由でもあるんですか?」

「うーん、沙輝ちゃんは正直あまり乗り気じゃないみたいなんだよね。朝比奈君みたいな同年代の人間じゃなくて、取締役経験のある海野インダストリーOB、もしくはオタク産業庁OBといった年の離れたベテランを、彼女は欲していた」


 海野本人は、俺を補佐官としてつけることを望んでいたわけではない。これから補佐官としてやっていく上で、そのことはきちんと念頭に置いておいた方が良さそうだ。


「さ、結論出たことだし、早速今から本社の方に行ってみようか? 朝比奈君は、この後大丈夫?」

「あ、はい」


 俺がそう答えると、田辺さんは早速荷物をまとめて席を立つ。先ほどまでと同様、明るく妖艶な雰囲気はそのままだが、仕事モードに入ったのか動作がきびきびとし始める。


「向こうで契約書の方にサインしてもらうから、印鑑必須ね。向こうまでの移動は、とりあえず私と一緒に社用車に乗ってもらう。帰りについては、朝比奈君専属の車と運転手をつけるから安心して」


 田辺さんは笑顔でそう告げると、すぐさま玄関へと向かう。俺は置いていかれないよう、慌てて用意を始める。


「あ、すいません。服装に関してですが、スーツとかに着替えた方が良いでしょうか?」

「あ、スーツなら既にこちらが用意したものを着てもらうから大丈夫よ。学校から提供されたデータを基に作ってもらったから、サイズとかは問題ないと思う」

「ということは、僕が補佐官になることを想定して、予めスーツまで用意していたんですね」

「ええ。補佐官候補として朝比奈君の情報が入った時点で、学校側から昨年度の制服の採寸データを提供してもらって、それを基にオーダーメイドで作ってもらった」

「そこまで用意していて、もし僕が断ったらどうするつもりだったんです?」

「んー、そもそも私たちは朝比奈君が断る可能性はほぼないとみていた。うちの女性秘書は皆、朝比奈君みたいな男子は女で簡単に釣れるって言っていたし」

「ま、マジですか……」


 八割方事実と言えなくもないので、俺は明確に否定することができず狼狽する。


「って冗談冗談。私たちとしては、朝比奈君に何としても来てもらいたかったから、事前にやれることは全てやっておいた、っていうのが真相かな」

「そうですか……自分はそこまで期待されているんですね……」


 俺たちはそんな話をしながら部屋を出ると、社用車へ乗り込み本社へと向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る