契約

 車に揺られること三十分、フロントガラス越しに海野インダストリーの本社が見えてくる。海野インダストリーはグループ全体で三百万人が働く超巨大企業故、本社もかなり広い。本社地区は三棟のビル群とそれを取り囲む巨大な庭園から構成され、周囲は空域も含めて子会社の民間軍事会社――UMSによって厳重に警備がなされている。会社の公式発表によると、本社地区の内外を警備する兵士は約二万人。戦車やドローン、防空システムなども配備されているというから、すごいものだ。

 中央に位置する本社ビル本館は三十階建ての建物となっており、その手前には海野インダストリーが過去に制作したゲームやアニメの展示を行う超ド派手な美術館が設置されている。俺も以前趣味でここに来たことがあるが、その際は展示の凄さに圧倒された。日本のオタク業界の歴史が全て詰まっているといっても過言ではないだろう。

 美術館へと向かう一般人を横目に、地下ロータリーで降車した俺たちは、役員専用の通用口からオフィスへと入る。入ってすぐの場所には、自動改札とゲート型金属探知機が設置されており、どうやらここで身分の確認と荷物検査を受ける必要があるようだ。


「とりあえず、今はまだ来客扱いだから、はいこれ」


 受付の人に事情を説明して改札を開けさせた田辺さんが、一枚のカードホルダーをよこしてくる。中には来客と印字された一枚の紙が入っている。


「契約後に、正式な身分証とICカードを渡す。それまでは、常時ぶら下げておいて」


 そう告げると、彼女はアクセサリー類を外し、さらに奥にある金属探知ゲートへと向かう。俺も彼女の後に続く。


「UMSの社員も、銃とかは持ち込めないんですか?」

「いいえ、彼らの場合は特別。そうでないと、いざという時に対応できないもの。実際、三十年前に国共党が二つに分裂した際には、ここでも何度か武力衝突が起きているからね。朝比奈君は三十年前の内戦については、詳細を把握している?」

「はい。自分は年齢的に直接経験したわけではありませんが、学校で教えられていますし、何より党関係者から表に出ていない機密情報も含めて、ある程度聞かされています。三年に渡り日本を二分した大戦争のきっかけは、確か国共党への外国勢力の介入でしたよね?」

「ええ。外国勢力の干渉をきっかけに党が二つに分裂し、それにつられる形で三大大手を始めとする国共党系の企業各社も二つの陣営に割れた。分裂した各社は、それぞれの陣営について支援を行ったわけだけど、如何せん資金力も人的資源も桁違いに豊富だったこと、そして何より社員の身の安全を確保する必要があったことから、戦争の過程で次第に独自に武装するようになったわ。その結果、最終的には各社が直接戦火を交えるようにもなり、大手企業は次々と軍備を強化。終戦後約三十年経った今も、その時の名残が残っている形ね」

「まあ、あの内戦以降、民間企業の武装権が正式に認められましたからね。終戦以降今日に至るまで大きな衝突が起きていないことを考えると、各社が抑止力を持ったのはきっと正解だったのでしょう。ただ、今回のように内部で派閥抗争が起きている状況では、民間軍事会社の存在は結構リスクだったりしません? 対立派閥がそれを利用して会社に対して反乱を起こしたり、社長の命を狙ったりといったことも十分考えられると思いますが……」

「その心配は無用ね。というのも、UMSに関しては海野インダストリーと沙輝ちゃん個人で全ての株式を保有していて、かつ二社間協定により予算と幹部職員の人事権は完全にこちら側――私を含む沙輝ちゃんサイドの人間――が掌握している。各職員に対しては国共党中央情報部の支援のもと、厳格な身辺調査や監視なども行っているから、UMSは完全に沙輝ちゃんのコントロール下にあると思ってくれていい」

「なるほど、軍事部門を完全に掌握しているとなると、それは心強いですね」


 そんな会話をしながら、俺たちは歩みを進める。

 受付からエレベータホールまでの回廊には、創業以来海野インダストリーが手掛けてきた名作の原画やイラストが、クリエイターの銅像と共に展示されている。一面大理石で覆われた荘厳な回廊を毎日通ることで、自ずと会社の歴史が感じられる仕組みだ。

 歩くこと約一分、エレベータホールまでやってきた俺たちは、一番右のエレベータへと並ぶ。


「このエレベータが、社長室のあるフロアへと向かうやつですか?」

「いや、これは二十四階行きの直行エレベータ。社長室は二十九階なのだけど、二十五階より上のフロアに行くためには、二十四階で一度エレベータを乗り継がないといけない。うちの会社は二十五階から三十階と、地下三階から五階の区画は、社員でも立ち入りが制限されていて、海野家がお墨付きを与えた人間しか足を踏み入れることができないの」

「徹底していますね。正直、創業家一族の持つ権力を考えれば、派閥抗争なんて起きようもない気がしますけど、その辺はどうなんです?」

「それが、そう単純な話でもないのよね……。その辺のことは、向こうで詳しく話すわ」


 二十四階で二度目のセキュリティチェックを受け、エレベータを乗り継いだ俺たちは、ようやく社長室のある二十九階へと足を踏み入れる。廊下は銃を携行したSPと思しき人たちが終始目を光らせており、中々重苦しい雰囲気だ。


「さ、ここが沙輝ちゃんの部屋」


 社長室と記された表札の下まで来ると、田辺さんはノックをする。


「沙輝ちゃん、入るよー」


 相手が社長であることを忘れさせるかのような口ぶりで入室する田辺さんに続き、俺も社長室へと足を踏み入れる。日本を代表する大企業ということもあり、さぞかし豪華な造りなのだろうと期待した俺だったが、一歩足を踏み入れた瞬間、その期待はベクトルが全然違っていた事に気付かされる。


「うわ、マジか……」


 思わず、声が出る。眼前に広がる光景はそれほどまでに、俺の予想の遥か斜め上をいくものだった。

 社長室は一言で言えば、巨大なオタク部屋だ。四方八方どこを見渡してもあらゆる場所にアニメやゲームのグッズが置かれている。それらは全て雑多に並べられているわけではなく、フィギュアは作品ごとに透明のプラスチックケースの中に整然と収納され、ラバストやクリアファイルは全てコルクボードや純金の額縁によって飾られているようだ。照明にもかなり拘っているようで、各々のグッズスペースには一つの例外もなく、二色点滅のLED光によるライトアップが施されている。


「社長がオタク部屋にしているということは、もしかして役員は皆こんな風に自室を飾っているんですか?」

「あ、うん。自室を持っているのは取締役及び執行役員と社長秘書官だけど、確かに彼らの多くが自室をオタク部屋にしているわね。でも、別に社内のルールとかで決まっているわけじゃないから、グッズとかを置かずに普通の部屋にしている人も一定数いるわよ」

「なるほど」

「まあ、私の部屋を含め二十九階はメディア等には一切公開していないから、朝比奈君が驚くのも無理はないわね」


 と、そこでこの部屋の主である海野がようやく口を開いた。ブラウス姿の彼女は視線を手元のPCに向け、キーボードを叩きながら話を続ける。


「うちの取締役、執行役員合わせて計百人のうち、およそ九割はオタク部屋にしている。それから、部屋を持たない一般社員でもデスク周りはグッズで固めているという人がほとんどね」

「そうか、さすがオタク企業だな……」

「今日からそこが、朝比奈君の仕事場ね。PCを始め、必要な物は後で全て支給するから、とりあえずまずは座って」


 そう言うと、田辺さんは海野の右隣の席に座るよう促す。同じ机を二人で共有する形だが、横広なので特にスペース的な問題はない。正面には会議用と思しき縦長の机が置かれており、田辺さんはそこの机の一番手前の席に腰を掛ける。


「沙輝ちゃんの秘書や警護官は、普段はそっちの部屋で待機している。彼らに何か用があるときは、そっちに行ってね」


 田辺さんが指をさしたのは、向かって左手側の扉。表札には秘書室と記されている。


「こっちにも扉がありますが、これは何でしょう。秘書官の部屋ですか?」

「あ、えーとこれは沙輝ちゃんの仮眠室。忙しい時は会社に泊まることもあるから、最低限宿泊できるような設備が整っているの。秘書官については、部屋は社長室の外にある。社長秘書と社長秘書官は名前が似ていてややこしいけど、社内の階級的には秘書官の方が圧倒的に上だからね」

「さ、こちらとしてはあまり時間もないし、さっさとやることやってしまいましょう」


 そう言うと、海野は一枚の書類を俺に寄こしてきた。


「まずは契約書よ。既にあなたの心は決まっているようだから特に問題はないと思うけれど、一応確認しておいてちょうだい」


 ざっと目を通す。特に引っかかるようなところはないが、一つ先ほどから気になっている点がこの書面に記載されていないので、念のため確認をしておく。


「そういや、海野インダストリーはオタクではない人間が働くことを厳格に禁止していると聞いていたが、ここにはそういった旨は一切記載されていない。実際のところ、その辺の扱いはどうなっているんだ?」

「実はその件は不文律となっていて、具体的に何か明文化された規則や規定があるわけではないの。ただ、この伝統は創業以来百年に渡り受け継がれていて、今日でも徹底している。一人たりともオタクではない人間をいれるなというのは、創業者である海野与三吉の言葉でもあるからね」

「なるほど。でも、どうやって確認しているんだ?」

「入社試験と面接。入社試験では最低限のことを確認するテストを実施していて、一定点数以下の人はそもそも面接に進めないようにしている。面接では一般的な質問に加えて、これまで視聴した作品や好きなクリエイター、憧れのキャラなどについて確認しているから、オタクではない人間がうちに入って来るのはまず無理でしょうね。万一くぐり抜けてきたとしても、周りから干されて終わりでしょうし」

「ただ、俺みたいに入社試験を経ないで入ってくるケースはどうなるんだ? 取締役で外部から入って来る人とかもそうだと思うが……」

「その場合は個別に対応と確認をしている。もちろん、状況によっては試験や面接を実施することもあるわ。ただ、朝比奈君の場合は筋金入りのオタクであることは事前情報からも明らかだから、確認の必要は一切なかったというわけ」

「ま、そりゃそうだろうな。日本一のオタクブロガーがオタクでないはずがない」

「さ、それじゃあ朝比奈君、最後の箇所に押印をしてちょうだい」

「りょ、了解した」


 なにげないやり取りだが、その過程で海野と目が合っただけでも動揺してしまう。月のように輝く純白の素肌に、見る者全てを射抜く紅梅色の瞳。この世のものとは思えない美しさだ。田辺さんはこれ見よがしに、これだから童貞はといったような嘲笑の視線を送って来る。

 一呼吸おいて頭を冷やした俺は、慎重に押印をする。俺はこれから日本を代表するオタク企業のトップの下で働くのだ。これまでもブロガーとして様々な案件に携わってきたとはいえ、組織に属して何かをするのは初めての経験。今まで以上に迅速かつ冷静な判断が求められるだろう。


「さ、それじゃあまずは必要な物を一式支給するわ」


 そう言うと、海野は秘書室へと入っていく。十数秒の後、数人の秘書と思しき人たちが中から段ボール箱を抱え、ゾロゾロと出てくる。中にはどうやら、社用携帯、PC、カバン、スーツなどが入っているらしい。彼らが開封作業をしている間、海野から様々な注意事項について説明を受ける。


「これから仕事で連絡をする際は、必ず社用の携帯を使うこと。重要事項については、できる限りメールや電話ではなく、直接対面でのやり取りが望ましい」

「ああ、わかっている。セキュリティを考慮すれば、できる限り足のつかない形でやり取りするのが最善だろうからな」

「ええ。私たち取締役やその秘書、秘書官などは元々通常のインターネットに接続可能なPCに加え、外部と完全に切り離された、幹部専用の回線のみにアクセス可能な端末も保有しているのだけれど、社内で権力闘争が起きている現状を鑑みれば、そちらの使用もできる限り避けるのが良いでしょうね。もちろん、重要性のない業務連絡であれば電話やメールでも構わないけど」


 海野はそう言いながら、一枚のメモをよこしてくる。見れば、彼女の連絡先が記されている。


「了解した」

「それじゃあ、次は服装ね。社長補佐官を務めてもらう以上、流石に私服や制服のままウロウロしてもらうわけにはいなかないわ。出勤の際は、必ずこちらが用意したものを着用すること。既に一式用意してあるから、とりあえず着替えなさい」

「……って、ちょっと待て。俺は一体どこで着替えれば……」


 海野の前で着替えるなんてとてもじゃないができない。俺があたふたしていると、彼女は俺の脳内全てお見通しといった表情で声をかけてきた。


「私たちは隣の仮眠室で待っているから、あなたはそこで着替えて大丈夫よ」


 そう告げると、彼女は田辺さんと一緒にそそくさと扉の向こうへと消えていった。

 部屋に誰もいなくなったとはいえ、壁一枚隔てた向こうに女の子がいると思うと何となく気まずい。俺は周囲を気にしつつ、そわそわしながらスーツへと着替える。


「さ、そろそろいいかしら」

「ああ、いいぞ」

「さて、時間ももったいないし、さっさと事を進めましょう。まずは、今起きている派閥抗争の詳細と、我々があなたに補佐官として求めていることの確認。沙輝ちゃん、資料渡してあげて」


 海野は田辺さんから合図を受けると、俺に二つの資料をよこしてくる。これまで貰ったものと違い、社外秘や持ち出し厳禁といった文字が目立つところに印字されている。


「一つ目は、二十五階以上に出入りする人間全員に渡している資料。二つ目は、今回の抗争に関する詳細を記した資料よ。どちらも機密情報が入っているから、社外への持ち出しは厳禁」


 確かにざっと目を通す限り、資料には表に出せないような情報がいくつも記されている。


「一つ目のやつは、警備体制や上層階の構造について記したものだから、今日の本題とは関係がない。とはいえ、ここに出入りする以上は知っておいてもらわないと困ることばかりなので、後で必ず全て熟読しておくこと」

「りょ、了解」


 彼女の目力に気圧された俺は、思わず言葉を詰まらせる。社長室での海野は、学校にいた時よりもさらに一段と、クールさに拍車がかかっている。


「さ、それじゃあ本題の方に入るわ」


 海野はそう告げると、ペンを片手に部屋の奥に置かれたホワイトボードの前まで移動する。どうやら、口頭だけでなく板書でも説明をするということらしい。


「今回の派閥抗争は、ちょうど私が社長に就任したタイミングで勃発した。朝比奈君は、私が現役女子高校生ながら社長に就任した経緯については、もちろん知っているよね?」


 この経緯については、当時日本中で報道されたため国民の間でも知らない人はいない。しかし、経緯が経緯なだけに気軽に口にしていいものでもないので、俺は遠慮がちに恐る恐る回答した。


「あ、ああ。昨年の夏に、先代の社長が急逝したから……だろ?」


 先代の社長とは、海野の父のことを指す。しかし、海野はもうさほど気にしていないのか、表情一つ変えずに淡々と話を続けた。


「正解。理由については知っている?」

「創業家が代々会社を継いできたという伝統、主要株主である日本オタク協会が分家による継承に猛反対したこと、海野には年の離れた弟がいるのみであったこと、以上三点だ」

「お、すごい。朝比奈君は友達いないけど、日々のニュースについてはちゃんとチェックしているのね」


 またもや田辺さんに酷いことを言われたが、事実なので反論はしない。それに、今は無駄話をする時間でもない。


「少し補足をしておくと、創業家と並ぶ主要株主である日本オタク協会は、オタク原理主義者の集まりなので、実質的には彼らが反対したということになる。元々創業家には私以外にも何人か候補はいたのだけれど、分家の人は不適切な発言や行動が目立つ人ばかりだったから、原理主義者を中心に株主から反対が相次いだわ。本家には私以外だと年の離れた弟と、年老いた相談役や顧問しかいなかったから、最終的に創業家内での継承という伝統を守るためには、私がやるしかなかったの」


 そう言いながら、海野はホワイトボードに要点を板書し可視化していく。高速でペンを動かしているが、全体がきちんと構造化され、誰が見ても因果関係や時系列が一目でわかる綺麗な板書だ。

 オタク原理主義者とは、人生の全てをオタク文化の発展のためにささげるべきとの理念のもと、厳格な規律に従って集団生活を送っている人たちのことを指す。日本共和国には約四百万人いるとされ、彼らは日本のオタク文化と産業の発展に大いに寄与してきた反面、オタクがオタク以外の人間と結婚することを禁止したり、子どもにオタク教育を施すことを義務付けたりするなど過激な一面も持ち合わせている。海野インダストリーの後継問題に際しては、一貫して本家による継承を支持する立場をとっていることで有名だ。


「……それで、沙輝ちゃんは彼らの意向通りに社長に就任したわけだけど、そしたら今度は分家の人たちや、一部の社員たちが反発し始めたの。創業家とはいえ高校生が会社を継いだことに対する社員やクリエイターの反発は結構大きかったようで、その影響は瞬く間に経営陣の方にも波及した。最近は一部の取締役を中心にクーデター、要するに沙輝ちゃんを社長の座から追い落とそうとするような動きが出てきているから、朝比奈君には補佐官としてその辺りの事に対処してほしい、というわけ」


 最後に、田辺さんがそう補足する。


「なるほど、概要は理解した。タイムリミットはいつまでだ?」

「今はまだ私に味方をしている取締役、通称沙輝派の方が多数を占めているけど、正直そんなに余裕はない。私に反発する取締役はここ半年で徐々に増えてきている、私の推測では大体こんな感じ」


 そう言うと、海野はホワイトボードに各々の派閥の人数を記していく。


「沙輝派の取締役が推定二十~二十二人、反沙輝派の取締役が推定十八~二十人、残りの八~十二人については態度不明、もしくは中立ってところね。立場がはっきりとしている取締役については名前を書いておく」


 沙輝派の所には田辺さんを始め、多くの名前が記されていく。やはり相当ストレスなのか、反沙輝派の欄だけは心なしか力が入っている気がする。


「なるほど、つまり中立や立場のはっきりしない取締役が一部反旗を翻すと、取締役会で過半数を失い、海野の立場も危うくなってくるということか」

「ええ。取締役会で過半数の賛成があれば、私は社長職から解任される」

「でもさ、実際、分家の社長候補は皆問題のあるやつなんだろ。そう考えると、海野を降ろして分家の人間を社長に据えても、あまり支持は得られないんじゃないか」

「分家の力を舐めてはダメよ。海野家において分家が持っている力はかなりのもので、一時は影の当主とまで言われた。実際、父が急逝してから私が後を継ぐまでの間に熾烈な権力闘争が行われた事実がある以上、全く油断ならない」

「なるほど。もしよければ、その時のことについてもう少し詳しく教えてもらえないか?」


 俺がそう言うと、海野は隣の田辺さんに目配せをする。できれば話したくないといった様子だが、田辺さんは話すべきだとの考えのようで、目線で後押しをする。


「父の急逝後、分家の人間は当然分家の候補を社長に推していて、本家とは激しく対立した。ただ、先ほども言った通り、分家は何かしら問題を抱えている人ばかりだったから、議論の末妥協案として、一代限りで一族以外の人間を据える案が浮上したの。ただ、それは創業以来の伝統を捨てることにもなるし、何より分家の傀儡となることは見え見えだったから、私としては絶対に譲れなかった。田辺さんを始めとする先代の側近たちも同じ認識だったのだけれど、分家もそこは譲れなかったんでしょうね。父の急逝で本家が一時的に弱体化していたこともあり、彼らは私を創業家から追い出そうとしてきたわ。デマの流布とか色々やられた挙句、一族の資産を管理する財団法人や関連団体からも追い出されそうになったけど、最終的には海野インダストリーが以前から買収を計画していた企業や事業を全て、私が個人資産で先に高値で買収してしまうことで、彼らを黙らせた形だわ」

「個人資産か。でも、創業家が一族で管理している資産へのアクセスが制限されていた中で、よくそれだけの資金を用意できたな。買収金額は確か、報道によると総額二十兆円とかだっただろ?」

「当然、当時の私個人にはそこまでの資金が手元にあったわけではない。ただ、生前父が私のために残しておいてくれた隠し財産が多少あったのと、原理主義者の人たちが伝統を守るために全面協力してくれたこともあってか、死力を尽くして奔走した結果、最終的には買収に必要な資金は何とか調達できたのよ。国共党の中央情報部が買収先企業への根回しや情報の秘匿工作を行ってくれていたおかげで、買収は比較的スムーズに完了したわ」

「すげえ話だな。一族の資産へのアクセスが制限されている中、巨額の金を借り入れるのは怖くなかったのか?」

「経営者なんだから、勝負所でリスクを取るのは当然よ」

「流石だな。それで、今海野が社長をやっているということは、その時のいざこざについては一応解決しているという認識で良いんだよな?」

「ええ。対立した分家の人間とは、別の創業家の人間の仲介もあって、一応和解している。社長就任後は、私が一旦個人で買収した企業も当初の予定通り、海野インダストリーの傘下に入れた」

「じゃあ、今海野個人に借金はないんだな?」

「いや、海野インダストリーは私が個人資産で買収した事業を当初の予定通りの金額、すなわち私が買収した時よりも安い金額で買っているから、その差額分の借金が今もいくらか残っている。ただ、今は海野家の当主になったことで、一族が全体で管理する莫大な資産にもアクセスできるようになったから、正直そんなことはどうでも良いのよ。それよりも、未だに創業家の内部で対立の火種が燻っていることの方が問題よ。後継問題では形式上和解したとはいえ、今でも両者の間には溝がある。実際、分家のほとんどが反沙輝派を支持していることからも明らかよ」

「なるほど……状況は理解した。そういう事情なら、あまり悠長にしている暇はないな」

「ええ。今は中央情報部の全面協力もあり、何とか沙輝派が優勢を保てているけど、決して楽観できるような状況ではない。そもそも、中央情報部の協力だって、いつまで続くかはわからないもの。中央情報部には原理主義者が多いとはいえ、六月の党大会で私が国共党の最高評議会に入れなければ、その時点で協力関係を解消するでしょうね」

「ん、待て、どういうことだ?」

「ああ、朝比奈君にはまだ説明していなかったわね。私は社長に就任した時期がイレギュラーだったこともあり、まだ国共党の最高評議会常務委員にはなれていないの。三大大手オタク企業の社長が、国共党の信任の証として最高評議会に入るという伝統については、朝比奈君も知っているよね?」

「ああ」

「通常、毎年行われる六月の党大会で、三大大手の新社長は国共党の最高評議会に入るのだけれど、私は去年の九月に社長に就任したから、まだそこには入れていない。普通なら難なく六月の党大会で入れるところだけれど、今は派閥抗争中ということもあってか、楽観はできない状況ね。党内には分家よりの幹部も一定数いるし、何より分家や反沙輝派の人間が私の最高評議会入りを妨害するべく、党に対して様々な根回しを始めているとの情報もある。最高評議会に入れなければ、それは国共党が私を社長としては信任しないという意味になるから、彼らとしてはそれを狙っているのでしょうね」

「なるほど。つまりそうなると、中央情報部としても海野を支援することが難しくなるというわけか」

「ええ。原理主義者が比較的多い中央情報部とて、党本部の方針には逆らえない。本心では協力したくても、大々的な支援は難しいでしょうね。もちろん、党本部に隠れてこそこそやることはできるでしょうけど」

「実際、分家による国共党への根回しは、どのくらい上手くいっているんだろうな」

「そうね、中央情報部からの情報によると、まだそこまでは党内に浸透していないとのこと。でも、去年よりは増えているみたいだから、警戒は必要」

「そうか。まあ、俺もこれまで様々な国共党関係者と取引をしてきたが、その中で海野を陥れるための世論工作を依頼されたことは一度もないからな」

「そりゃ、当然よ。だって、あなたに分家寄りの国共党関係者との繋がりがないことは、事前にちゃんと確認しているもの」

「マジか」

「マジかって、当たり前でしょ。敵の工作員を自陣営に招き入れるようなことしてどうするのよ。そこのところは、中央情報部に念入りに調べてもらったから」


 小馬鹿にするような表情で、海野は淡々とそう告げる。冷静に考えれば、彼女の言う通りだ。今日は突拍子もないことが続いているせいか、少し思考が淀んでしまっているらしい。一度深呼吸をして、頭の中を綺麗にする。


「まあ、何にせよ沙輝ちゃんによる経営体制を盤石にするため、世論工作などを通じて派閥間の対立を一日も早く解消する。それが補佐官であるあなたに与えられた仕事よ」

「了解しました」


 覚悟はしていたが、いざ詳細を聞いてみると想像以上にキツそうな仕事だ。しかし、ここで仕事を成功させなければ、海野という超絶美人と距離を縮めるなど夢のまた夢。俺の性格と生活様式を考えれば、こんなかわいい子と接する機会はおそらくこれが最初で最後となる。たまたま降りてきたこのチャンスを、無下にするわけにはいかない。


「さ、これで私たちからの説明は以上になるけど、朝比奈君は何か疑問点等ある?」

「そうだな、今までの話に特段疑問点はないが、それとは別に一つ聞いておきたいことがある」

「何?」

「海野は、学校へはどのくらい行っているんだ? これだけの大企業で社長やりながら、きちんと学校に通うのはかなり難しいと思うが……」

「…………」


 学校の話を持ち出すと、途端に海野は黙り込んでしまった。もしかして、彼女に学校の話はNGだっただろうか。

 実は、俺は別の意味で心配している。学校へ行かないことを問題視しているのではなく、学校へ行くことを問題視しているのだ。学校内のセキュリティは社内ほど万全ではない。警備上の問題もあるし、何より情報漏洩のリスクだって少なからずある。今社内が派閥抗争中であることを考えれば、学校へは極力行くべきではない。

 沈黙する海野に代わり、田辺さんが回答する。


「あ、沙輝ちゃんならほとんど学校行っていないよ。週一で顔を出すか出さないかって感じ。朝比奈君と同じく、元々自頭はいいから行かなくても案外なんとかなるみたい。まあ彼女の場合、特殊な立場ということで学校側も最大限の配慮という名の特別扱いをしてくれているからね。受験コースだけど大学受験する予定もないから、最低限単位さえ取れてしまえばそれでOK」

「でも、それならもうわざわざ高校に通い続ける意味はないんじゃないですか。今の会社の状況を考えれば、中退して本業に専念した方が良い気もしますけど……」

「うーん、一応沙輝ちゃんとしては高校までは卒業したいみたいなんだよね。大学はいいみたいだけど……」


 そう言うと、田辺さんは言葉を濁す。それと同時に、海野の無言の視線がこちらに向けられる。表情こそ変えていないものの、明らかに不快だという意思表示だろう。

 彼女が高校に通い続けるのには、絶対に何か理由がある。田辺さん曰く、海野には友達がおらず学校でもぼっちだと言っていたので、少なくとも友達と一緒に卒業したいとか、そういう類の話ではないはず。ならば、学歴コンプだろうか。いや、それもありえない。もしそうなら有名大学への進学を目指すはず。彼女なら実力でもコネでもいいところに入れるはずだ。となると、一体何なのだろう。


「……状況は理解しました。本人の意志ということであれば、自分がとやかく言う話ではありませんね」

「…………」

「余計なことを言って、すまなかった。俺としては、つい、セキュリティ面の方が気になっちゃってね……。実際、学校での警備体制は大丈夫なのか?」


 俺がそう質問すると、海野は馬鹿にするんじゃないといった表情で回答してくる。


「何言っているの、学校の周辺は子会社のUMSによって厳戒態勢が敷かれているし、学内では学生の中に警護官を複数人紛れ込ませている。というより、学生が警護官をやっていると言った方が正確ね。何にせよ、私の警備体制はあなたの想像より何十倍も強固だから、心配する必要なんて一ミリもないわ」

「ん、待て。学生が警護官をやっているとはどういうことだ?」

「だから、文字通り学生が私の警護を担当しているのよ。学生の中で、武道や銃の扱いに慣れた者をスカウトして、私と同じクラスに入れることで私の学内SPをやらせている。一人例を挙げるとすれば、クラスメイトの小野寺綾音さん。彼女は十六歳の若さでUMSにスカウトされた天才で、私が社長に就任して以来ずっと教室内での警護をやってもらっている。中学時代には国共党中央情報部のエージェントとして、学生スパイをやっていた経験もある、超エリートよ」


 予想の遥か斜め上をいく回答に俺は言葉を失う。流石は日本最強の巨大オタク企業、やることのレベルが違いすぎて脱帽だ。


「ま、彼女の表の顔は同人作家だけどねー」

「え?」


 唖然とした俺に、田辺さんの補足がさらに追い打ちをかける。


「日本共和国は一億総オタク社会よ、その事実を忘れちゃったの? 警護官が同人活動をやっていても何の不思議もない。そもそも、緑沢学院はクリエイター育成コースを備えた学校で、学生の多くは何らかの創作活動をやっているんだし」


 言われてみれば、確かにそうだ。実際、国共党の議員や国家公務員でも創作活動をやっているくらいだから、海野の警護官が同人活動をやっているなんて冷静に考えれば大して驚く話しでもない。


「実際、彼女はクリエイター育成コースに所属して頑張っているみたいよ。将来は表向きクリエイターとして活動しながら、裏では警護や諜報活動などの仕事がしたいんだって」

「……なんか、そういうの厨二っぽくて正直憧れますね」

「あら、朝比奈君だってブログ活動を通して色々と裏で工作活動やっているんだし、似たようなものじゃない」

「いえ、自分の場合は単にネットでコソコソやっているだけですから。彼女のようにリアルで戦っている人間とは、正直全然違いますよ」

「そうかな。でも実際のところ、朝比奈君はリアルでも国共党関係者を始め、多くの人脈をもっているでしょ。私から見れば、あなたは十分デキる男よ」

「あ、ありがとうございます……」

「だいたい、そうでなければ我々もあなたを補佐官になんてしないわよ。大人社会で様々な取引や駆け引きを経験してきた高校生だからこそ、我々はあなたを任命した。最近は、海外での情報工作もやっているんでしょ?」

「ええ。最近は海外向けのサイトやSNSでの世論工作にも力を入れていて、今では海外のインフルエンサーとも何名か接点があります」

「やっぱりあなた、ただ者じゃないわね……」

「でも、そんな朝比奈君にも一つだけ弱みがある。あなたは匿名でブログやSNSをやっている以上、身バレだけは絶対に避けたい。そうよね」


 俺をベタ褒めする田辺さんをよそに、海野は一つ俺の欠点を指摘してくる。表情を見る限り、彼女からすれば、俺は所詮ネットでイキっているだけの人間という認識なのだろう。まあ、指摘内容は事実なので否定しない。


「そうだな、確かに俺にとって身バレはリスクだ。もちろん、俺自身のプライバシーの問題もあるが、社長補佐官になった今となっては世論工作がやりづらくなる点の方が大きいだろう。基本的に世論工作というのは手の込んだステマみたいなもので、依頼主や工作の対象者とは無関係であることを装っておかないと、ほとんど効果がないからな。社長補佐官である事実がバレた状態での、海野のための世論工作は実質不可能だ。ただ、現状で身バレのリスクはほぼないなので、そこのところは心配しなくていい」

「どうして、そう言い切れるの?」

「そもそも、社長補佐官の俺が実は世論工作をやっている某有名インフルエンサーだと知っているのは、君たちと、国共党の中央情報部だけだ。この状況で情報が外に漏れるとは考えにくい。一応確認をしておくが、社内で他の人間に対し、俺のハンドルネームを言いふらしたりはしてないよな」

「ええ、もちろんよ。知っているのは私と田辺さん、それに側近の今村秘書官だけ。沙輝派も含め、他の社内の人間には朝比奈君がインフルエンサーであること自体を口外していない」

「そうか」


 俺はそう言うと、指で秘書室の方を指す。俺の聞きたいことを察した、海野が回答する。


「知らないわよ。まあ、偶然こちらの話が聞こえてしまう可能性もなくはないから、私たちは念のため、ここでは具体的なハンドルネームを一切口にしないようにしている。だから、心配は全くいらないわ」

「了解した。そうなると、社内の人間から情報が漏れる心配はまずない。後は国共党の中央情報部だが、こちらは俺が補佐官になった経緯を考えても、味方であることは明らかなので、特に情報を外部に漏らす心配はいらないだろう。以上より、身バレの心配はほぼないと俺はみている」

「なるほどね。でも、これまでに朝比奈君が取引をした、国共党の議員や中央情報部以外の関係者から情報が漏れるということはないのかしら」

「ないな。俺は彼らに対して、これから社長補佐官に就任するとは一切伝えていないし、今後も伝えるつもりはない。ただ、ホームページに役職と顔写真を載せたりすると、そこからバレる可能性があるから、それは止めてほしい。俺と対面で取引したことのある人なら、顔写真を見て俺が社長補佐官をやっていることに気づいてしまうということもあるだろう。それに、学校でも騒ぎになると色々面倒くさい」

「元々、取締役でも役員でもないあなたの名前や顔写真をホームページに載せる気はないから、その点は大丈夫。でも、私と一緒にいる際にマスコミが写真を撮ってくることまでは制限できないから、そこは覚悟してね。もしあまり映りたくないというのなら、社外では原則別行動にしなさい」

「お、おう……」


 海野と別行動でも、補佐官の仕事に支障はない。俺の主戦場はネットで、基本的には裏方で支える側なので、表の仕事は秘書や秘書官にやってもらえばよいだろう。しかし、俺としては正直、海野の傍で行動ができないのは中々ショックだ。せっかくこんな美少女の部下になったのに、同伴すら許されないなんて。


「あ、朝比奈君、『これじゃあ海野との距離を縮められない』とか考えたでしょ。もう、露骨だなあ」


 そう言うと、田辺さんは俺の肩を押してくる。俺としては特に表情に出したつもりはなかったのだが、女の勘は中々鋭い。


「ふっ、何馬鹿なこと考えているのかしら。くだらないオタクの妄想はやめて、業務の方に集中しなさい」

「まあまあ、沙輝ちゃんもあんまりそういうこと言わないの。第一、あなた彼氏はおろか、友達の一人もいないんだから、少しは愛想よく接しないとダメよ」

「…………」


 痛いところを突かれたためか、彼女は反論しようと口を開けたが言葉が出てこない。


「ま、沙輝ちゃんが今のままでもいいっていうなら、それはそれで構わないわ。お姉さん的には、沙輝ちゃんが朝比奈君みたいな男の子と、いきなり仲良くなっちゃっても困るしー」


 田辺さんはそう言いながら俺の片腕をつかむと、肩と肩が触れ合うレベルで身体を密着させてくる。さりげなく自分の胸を軽く押し付けてくるあたりが、かなりあざとい。


「ちょっと田辺さん、いい年して高校生に絡むとか恥ずかしくないの?」

「あら、あなたは朝比奈君のこと何とも思っていないんじゃなかったの?」

「私がどうとか以前に、それ完全にセクハラよ。だいたい、三十後半に差し掛かろうとしている女が高校生に手を出すとか、見苦しくて見ていられないわ」

「うっ……」

「くだらないこと言ってないで、話を本筋に戻すわよ」


 年齢をほぼ暴露され、ショックのあまり黙り込む田辺さんをよそに、海野は話を再開する。


「私の学校の件以外で何か聞いておきたいことや、疑問点はある?」

「そうだな、俺としてはどのくらい勤務すればよいのか、目安を知りたい。渡された資料には、特に勤務時間については書かれていなかったからな。一応インフルエンサーとして、今後もブログの更新作業や、国共党関係者との取引は続けていくつもりなので、その辺教えてもらえると助かる」


 俺はブログやSNS上での活動を通して社会への影響力を保っている以上、補佐官になったからといって活動を辞めるわけにはいかない。俺からネットでの活動を取ったら、その時点で普通の高校生に逆戻りだ。これまで形成してきた政界での人脈も、一瞬にしてパーになるだろう。ネットでの大衆世論への影響力こそが、俺の存在価値なのだから。


「そうね、補佐官は正社員ではないので、基本的には自分の好きな時に出勤していい。ただ、私との打ち合わせや会議については、基本的にこちらのスケジュールに合わせてもらうことなるから、そこのところはよろしく。それ以外は基本的に自由ね。結果さえ出してくれれば、特に契約の更新に影響することもない」

「そうか、了解した」

「他に、何か聞きたいことはある?」

「そうだな、特にない」

「そう、それなら最後に身分証と社章を渡すわ」

「なんだ、もうできていたのか。てか、俺の顔写真はどこから入手したんだ?」

「あ、それなら普通に緑沢学院から貰ったわ。制服姿だと色々問題だから、高校出願の際にあなたが提出した写真を使わせてもらった。朝比奈君が補佐官候補になった時点で、学校からは様々なデータを提供してもらっているからね」

「そうだったのか……」


 流石世界最大のオタク企業。緑沢学院とも、裏で勝手に個人情報を入手できるくらいには、コネを持っているらしい。


「これは、常につけておいた方がいいのか?」

「ええ、セキュリティ上の問題から取締役の秘書、秘書官、警護官に関しては全員つけてもらうことにしている。朝比奈君は補佐官という立場だけど、社長室に出入りするという点では彼らと同じなので、社章バッジと一緒に必ずつけといてもらえるかしら」

「わかった」


 こうやって手にしてみると、なんだかちょっとかっこいい。バッジには、海野インダストリーのシンボルであるライチョウとラベンダーをモチーフにしたイラストが刻まれており、身分証には肩書きと共に俺の顔写真とその透かしが印刷されている。特別職社長補佐官、いい響きだ。俺は国内最大のオタク企業の社長の傍、すなわち権力者の下で仕事をするのだ。状況によっては、今以上に社会への影響力を持てるだろう。世界を動かすことだってできるかもしれない。

 そう考えると自然と笑みがこぼれる。俺は権力を手にしたのだ。社長の下で権力を振るい、そして俺は――


「ねえ、何ニヤニヤしているの?」

「い、いや何でもない」


 いけない、いけない。俺は何も、権力欲のために補佐官になったわけではない。なって早々目的を見誤りかけた俺は、自分に喝を入れるべく一度大きく頬を叩いた。

 しかし、なおも彼女はこちらを怪訝な目で見ていたので、正直に今考えていたことを彼女に話す。


「悪い、ちょっと余計なことを考えていた。補佐官っていう言葉の響きがかっこいいなって思ってさ……」


 気まずくなった俺は、少しばかり視線を下にずらす。しかし、不幸にもその視線は偶然彼女の胸を捉えてしまう。いつも冷静で動じない彼女も、流石に俺の視線を不快に感じたのか、少しばかり赤面してこちらを睨んできた。


「な、なによ。もしかしてあなたそういうこと考えていたの?」

「い、いや、違うんだ。今話した通り俺は……」

「……はぁ、まったくもう。これだから男は……」


 彼女は呆れたように、短くそう告げると荷物をまとめだす。


「私は夕方の会議に出るから、そろそろ失礼する。朝比奈君は、もう今日は帰っていいわよ」


 そう言うと、海野は俺に目もくれず部屋を後にした。


「怒らせちゃいましたかね……」

「そうね、でも夕方に会議があるのは事実だし、そこまでは怒っていないんじゃない。彼女、基本的にそういう話はあまり気にしないタイプだし。過度に気にする必要はないかもよ」


 そう言うと、田辺さんはポンポンと軽く俺の肩を叩く。どうやら、年齢を暴露されたショックからは立ち直ったらしい。


「それにしても朝比奈君、大人達とは積極的に交流するのに、同年代の人たちとは一切交流しないわよね。どうして、あなたは友達を作ろうとしないの?」

「そうですね……単純に色々と面倒くさいから、ですかね。友達作ると、必然的に自分の時間が減りますし」

「面倒くさい、か。そうね……あなたの性格を考えれば、そういう理由になるのも何となく理解はできるわ。ただ、あなたは彼女が欲しいんでしょ?」

「えっと……まあ、そうなりますね」

「友達も恋人も、別に時間との対価交換で、何か見返りを求めたりするものではないのよ。根柢の部分にそういった意識が存在している限り、あなたの思い通りには恐らくならない。そこは、人生の先輩として一つ、アドバイスをしておくわ」


 時間との対価交換。別にそういう風に意識的に考えたことはなかったのだが、改めて振り返ってみると、小学校以来ぼっちの俺は、潜在的にそういった思考を抱えていたのかもしれない。俺はこれから先、初めて同級生と一緒に過ごすことになる。海野に対して補佐官としてではなく、一人の同級生として接することが、果たして俺にはできるだろうか。


「まあ、朝比奈君くらい仕事ができる子なら、恋愛も決して難しくない。着実にこなしていけば、いつか可愛くて美人な彼女ができるわ。補佐官にもなったんだし、きっと大丈夫」


 田辺さんはそう言うと、俺を鼓舞するかのような視線を送ってくる。


「……さ、私もそろそろ失礼するわ。再来月のキャリア組の人事に向けて、やらなきゃいけないことが山ほどある。今日はお疲れ様」


 そう言うと、田辺さんは社長室を後にした。


「ふぅ……」


 思わず、ため息が漏れる。田辺さんはあんな感じでのほほんとしているが、あれでもナンバー2の実力者なのだ。キャリア採用後、わずか十一年でナンバー2の上級副社長まで昇りつめた天才で、キャリア組の人事を一元管理する特別人事センターのトップも兼任していることから、社内では人事の鬼として恐れられているという。

 海野インダストリーではキャリア組とノンキャリア組で出世スピードにはっきりと格差があるので、比較的若くして部長クラスまで昇りつめることは珍しくない。が、それでも三十代で取締役まで昇りつめるのは異例中の異例だろう。事実、大半の取締役は還暦を超えている。

 彼女の超スピード出世にはいくつかの理由があるとされているが、俺が聞いている限りでは、人事局時代に創業家の意向に沿わない人間を次々と失脚させた実績や、父親が国共党幹部で母親は有名アニメーターという、オタク業界屈指の系譜が高く評価されたらしい。


「はぁ……俺は、すごいところに来ちまったな」


 俺は半ば無意識のうちにそう呟くと、社長室を出て帰路についた。

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