第8話【最終話】
夜になり、辺りにようやく静けさが戻った。
山裾の森林に隣接するその住宅地で、常ならぬ騒ぎが起きたのは、数時間前。地響きに近い衝撃音と、それに続く悲鳴、怒鳴り声、などなど―― さらには、救急車やパトカーのサイレン、大勢の人間が足を踏み鳴らす音、ざわざわ、がやがやと押し寄せた野次馬、ひときわ煩い男の声。そういった騒音が、潮が引くように徐々に収まり、ようやく穏やかさを取り戻した頃のことだった。
森林のそばに建つ古いワンルーム・マンション。その付近には、今も濃厚な血の匂いが漂っていた。血飛沫は辺り一面に飛び散り、緑の草地を朱に染めたと見える。激しい衝撃の跡が生々しくそこかしこに残されていた。少年が墜落した現場から、数十メートル離れた草むらに転がる、それ。折り畳み式の液晶ディスプレイが半分もげてしまったハンディ・カメラも、その一つだった。
ざ、ざ、という音が響いた。暗がりを、何かがぬうっと動いている。音はそのものが立てる足音のようだ。雑草を、踏む、というより縫うようにして、それはゆっくりと暗闇を移動している。やがて、足音らしき音がカメラの前で止まり、巨大な何かが上方で首を傾げる雰囲気があった。と、カチッ、とひとりでに硬い音がし、ディスプレイに光が灯った。
生臭い息が、静かな夜気を掻き乱す。
カメラは、触れられてもいないのに、勝手に再生を始めていた。ジジッ、という短いノイズ。その直後に、顔が映る。照れ臭そうな表情を浮かべた、若い男の顔だ。男の口が動き、内蔵のスピーカーから声が流れる。
”これから、うちの母の秘密を暴こうと思います……”
遥かな高みで、緑の双眸が煌めく。吐かれる息に、微かに湯気のようなものが混じる。
夜の森に、カメラのスピーカーが発する音声がとめどなく流れていった。
タクシーが去ると、西尾安近は無人駅の改札口に掲げられた時刻表を見上げた。承知の上だが、あと三十分は待たねばならない。これだから田舎は、と思う。
最寄り駅がこのありさまで、よく耐えられるものだ。元妻は少し変わった女だと思っていたが、その印象は年々強まるばかりだった。つい先ほど、病室で顔を合わせた時もそうだ。あの女は言葉の代わりに苦しげな息を吐き、ただこちらを睨んだ。
医者によると、極度の衰弱に見舞われ、刻一刻と体力を削り取られているそうだ。常日頃は、手をかざすだけで病人や怪我人を治す、とかいうインチキ商売をしているというのに、自分はこのザマか、と呆れた。元妻の非常識さや風変わりさには嫌気が差していたので、病状などどうでもよかったが、一応、亡くなった息子のことでも話そうか、と考えて寄ってみたのだ。しかし、結果は無言の一瞥、それだけだった。
史樹の自殺の件は、昨日のうちに元妻のもとへも報せがいっていたはずだ。おそらく、あの女は勝手に、その責任が俺にあると決めつけているのだろう。理屈も何もない言いがかりだが、そうとでも考えなければ頭がおかしくなってしまいそうなのかもしれない。その気持ちは、まあわからないでもない。
しかし、事実は無論違う。責任どころか、俺はむしろ被害者の側だ。何しろ、息子に怪我を負わされ、半日以上も気を失っていたのだから。ようやく意識を取り戻した時には、息子は俺を置いて逃走していた。俺は仕方なく、自分で呼んだ救急車に運ばれて病院に行ったのだ。その間に息子がどうしていたのかなど、与り知らぬことだ。
その後、当然ながら通報し、起きたことをそのまま警察に伝えた。――ちょっとした言い合いの際に、息子に蹴られ、怪我を負った、と。
俺としては、最大限、大したことではないというニュアンスを込めたつもりだ。そうするのが親として当然かけるべき、息子への情けだと考えたからだ。あいつは恩知らずにも、大怪我を負った俺を放置したわけだが、俺はそんなことで激怒したりしない―― そんな俺自身の落ち着きぶりをアピールする狙いも、もちろん含んでいた。
警察は俺に同情を示したが、この件に関しては刑事事件として扱うと告げた。俺の怪我の度合いと、加害者である息子が行方を晦ましていた点がその理由だろう。俺としても、被害届を出さないわけにはいくまいと考えていたので、異論はなかった。
息子の行き先は、数年前に離婚した妻のもとだろう。そう考えて、警察に同行して現地へ向かい、息子を保護しようとしたのだが、保護どころか、みすみす死なせる羽目になってしまった。
もちろん、俺自身は出来る限りのことをしたと思っている。何せ、警察に事実を伝えながらも庇い、現地まで赴いて保護に努めたのだから。
それなのに、と安近はベッドに伏した元妻の様子を思い出して、歯軋りした。あんな目で睨まれる謂れは、俺にはないはずだ。あの目には、子を奪われた女の憎しみがこもっていた。涙の代わりに憎悪が目の縁から溢れ出してもおかしくない、そんな目だった。
何だというんだ。俺だって息子を亡くしたっていうのに。
元妻がどういう病気なのかは知らないが、その見た目は明らかに様変わりしていた。肌は土気色で、唇は生気を失い、かつての溌溂さをすっかり失っている。目は潤んで濁り、なぜか虹彩が緑色を帯びていた。まるで亡者のようだ。そう思い、ぞっとしたものだ。
責められるべき点などないのに、あの場から逃げるように立ち去ってしまったのは、あの異様な輝きを放つ目で見られることに耐えられなかったからだ。
くそっ―― 思い出しただけで腹立たしい、と言わんばかりに口の中で罵りながら、自動切符売り場で切符を買い、無人の改札をくぐる。木造の駅舎はところどころペンキが剥げ、侘しげな風情を漂わせていた。線路を挟んだプラットホームと改札しかない、本当に簡素な駅だ。待合室などはなく、ホームにベンチがいくつか設置されているだけだ。
ベンチに座ろうとした時、ふいに、煩いほどだった蝉の声がやんだ。安近はぎょっとして、思わず動きを止めた。それから、静寂の中、そろそろと腰を下ろした。
と――
雨が降り出した。
大粒の雫が、一つ、二つ。と思ったら、さあっと水のヴェールのようなものが辺りを覆った。
おいおい。安近は顔をしかめ、空を見上げた。無意味な仕草をあえてしてしまうほど、おかしな天候だった。
ついさっきまで、地面に濃い影法師ができるほど晴れ渡っていたはずだ。それが、いつの間にかどんよりと掻き曇り、大粒の雨を降らせている。いや、実際には、晴天の名残りが少しは垣間見えていた。雨雲は空を覆いきれていないし、陽はまだ半分ほど顔を覗かせている。しかし、それもほんの束の間のことで、陽の光は急速に曇天に追いやられてしまった。
参ったな。――念の為、鞄を探ってみたが、やはり折り畳み傘はない。このところずっと天気が安定していたので、必要ないと考えたのだ。仕方なく、ベンチの上で身を縮こまらせたが、雨は激しさを増すばかりだった。ホームが狭いので、屋根もまた狭く、こんなゲリラ豪雨並みの雨を防ぐ役には立ってくれない。しかも、風が強く吹きつけはじめ、雨の跳ね返りが足もとに迫り始めていた。
安近は途方に暮れ、救いを求めるように辺りを見回した。その時になって、ようやくホームにいるのが自分一人だということに気づいた。心細さのあまり、思わず立ち上がって改札の外を窺ったが、やはり人っ子一人いない。通りかかる車も、近隣の者も、誰もいなかった。
駅を出たところで、避難する場所などないだろう。それに、たかが雨じゃないか、といつもの不遜な自分が顔を出した。あと十五分もすれば、電車が来るはずだ。それまで待つぐらい、何でもないだろう。
元通り、ベンチに腰を落ち着け、彼は腹の中で罵り声を上げた。――まったく、なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。それもこれも、あいつの―― あの、ものの道理のわからない息子のせいだ。
まさか、あいつがマンションの上から飛び降りるなんて。まったく、予想外だった。あいつを実社会を生き抜ける強い人間に育て上げようという俺の努力は、水泡に帰した。息子を失ったことへの悲しみは感じているが、それ以上に、反抗してばかりで言うことを聞かなかった息子への苛立ちのほうが強かった。しかも、この苛立ちをぶつける相手は、もういないのだ。苛々やストレスを解消すべく、暴言や、軽い暴力―― 無論、大したものじゃない―― を浴びせる相手は、もうこの世から消えてしまった。
なんてことだ。あの母にして、あの息子あり、ということか。二人とも、どうにも素直さに欠ける、ひねくれた連中だった。俺の言うとおりにすればいいものを、そうしなかったから、妻とは離婚することになり、息子は非常階段から身を投げた。まあ、母親のような敗残者にならなかった分、息子のほうがましと言えるだろう。
そうとも、俺がここへ来たのは、家族への責任を果たす、という崇高とも言える役目を果たすためだったのだ。そのために、わざわざ仕事を休み、こんなうんざりするような田舎まで足を運んだ。その結果が、息子の死と、瀕死の元妻の一瞥、そしてこの滝のような雨というわけだ。
気づくと、靴の中がぐっしょり濡れていた。見下ろすと、革靴が濡れた段ボールのようにぐずぐずになり果てていた。ちっぽけな屋根では防ぎきれないほど雨が激しさを増し、細かい飛沫が全身を濡れそぼらせつつあった。不快さに、思わず喉もとに手が伸びる。元々緩めに締めていたネクタイをぐいと引き、それだけでは足りず、毟り取った。自由になった喉もとを、雨とも汗ともつかないものが伝い下りる。
――なんだ、これは。
何かが、おかしい。異常だ。そう感じてはいたが、どうすることもできなかった。もう後少しの我慢だ。そう己に言い聞かせながら待ち続ける以外。
ついさっきまで、空は青く澄み、虫の音がやかましいほど聞こえていたのではなかったか。それが今や、すべてを覆い尽くすほどの勢いで広がった曇天に飲み干されてしまった。見えるものといえば、分厚い雨のカーテンに、うっすらと透けて見える反対側のホームのみ。まるで、この世界に残されたものはそれだけだというように。
――助けてくれ!
――いつになったら電車が来るんだ!
いくら何でも、もう三十分は経ったのではないか。そう思い、腕時計を見ようとしたが、文字盤にひっきりなしに水滴が落ちて読むことが叶わない。苛立って、顔を近づけたが、無駄だった。時計を覗き込むその顔にも無数の水の筋が流れていることに、ようやく気づく。恐怖に喘ごうとしたが、口を開ければその口に水が入り込んでくる。慌てて口を閉じ、よろよろと立ち上がった。
一体、いつになったら電車が―― まさか、この雨で運行中止にでもなったのだろうか。
タクシー。そう、タクシーだ。電話番号を調べて――
しかし、取り出した途端、スマートフォンは指をすり抜け、足下に落ちてしまった。ずぶ濡れになったそれを拾い上げるも、どこをどう押しても反応しない。壊れてしまったのだろうか。
くそ! 四つん這いになりながら、安近はスマートフォンを地面に叩きつけた。そのまま、ぎこちなく立ち上がると、降りしきる雨を見渡した―― 凄まじい質量で襲い掛かる、水の刃を。
最早、息をすることも難しい。鼻腔は完全に水で詰まっているし、口を開ければ大量の水が侵入してくる。こんなのは異常だ、こんなことはありえない。そう何度も唱えながら、もがくように、あるいは泳ぐように、前進した。
やがて、ホームから落下したのか、強い衝撃と痛みが襲った。呻きながら身をもたげ、激痛の走る足に手を伸ばす。靴が片方脱げているが、そんなことはどうでもいい。濡れそぼった、ずっしりと重い体を持ち上げ、ふらつきながら立ち上がった。
耳を聾するほどの雨音の向こうから、何かが迫ってくるのがわかる。石礫の如く尖った雨粒に打たれながら、安近は茫然とそちらを見据えた。眩しい。何かが近づいてきている。
それは、二つの目だった。眩い光を放つ双眸が、凄まじい勢いで突進してくる。狂おしいほど大きく見開かれたそれが、あっという間に眼前に迫り、そして―― 轟音が彼を飲み込んだ。
跳ね飛ばされ、寸断され、ミンチになる直前に、安近が見たもの。それは、迫りくる二つの光の中心を囲む、緑色を帯びた虹彩だった。
雨の向こうから 戸成よう子 @tonari0303
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