第2話

 客の名は、伊吹フサ子。七十歳前後と思われる、腰の曲がった女性だ。痩せた体を茶色のブラウスとスラックスに包み、杖でバランスを取りながら歩く。母を見ると、はじめまして、と腰をさらに曲げた。やはり、初対面の相手のようだ。

 史樹が恐縮しながら、施術を撮らせてもらえないか、と頼むと、目をぱちくりさせながらも、いいですよ、と頷いた。人がいいのもあるだろうが、玉澤逸美の息子だと紹介された相手への配慮もあるのだろう。

 二人が座敷へ移動している間に、史樹はカメラを覗いて、先程ふざけ半分で撮った部分を削除した。今後、何分くらい撮ることになるかわからないので、容量をあまり使いたくない。それが済むと、座敷の外でスタンバイし、頃合いを見て録画をスタートした。

 液晶画面に、板張りの廊下と閉ざされた障子が映し出される。

 史樹は小声で喋り出した。「ここで施術が始まるようです」そして、一瞬、レンズを自分の顔に向け、「これから、うちの母の秘密を暴こうと思います」そう告げると、歩き出した。

 障子を開けると、二人はすでに向かい合って話し込んでいた。史樹は足音を忍ばせて、部屋の隅を陣取った。母も、伊吹フサ子も、会話に集中しているのかこちらを振り向きもしなかった。

 客はぼそぼそと、体の不調について訴えているようだ。それに、母が真面目な顔でいちいち頷いてみせている。

 しばらくして、ではちょっと見てみましょう、と言い、母が客人の手を取った。左手で客の右手を取り、その手の甲をもう片方の手で撫でている。いや、撫でているというより、かざしていると言うべきかもしれない。触れるか触れないかの距離で手を重ね、じっと思案しているように見える。

 施術を見学したことはこれまでにもあったので、特段珍しさは感じなかったが、カメラを回しながら、というのは初めてだったせいか、妙に緊張した。

 やがて、母が重ねていた手をどけ、傍らに置いたものを取り上げた。片手で包んだら隠れるくらいの、小さなガラスのコップだ。中には透明な液体が注がれている。

「ちょっとごめんね」と告げて、母はそのコップの中身を客人の手の甲に垂らした。

 それから、塗り込むように掌で擦り、手の甲全体に液体を行き渡らせた。

 何のおまじないだろう、と思ったが、見ていると、離れていてもわかるほどはっきりと、客人の手の甲の色が変わっていった。最初は普通の枯れた肌色だったのが、みるみる濃い朱色へと変化した。

 母はそれから、もう一度その手の上に自らの手をかざし、目を閉じた。

 特に力むでもなく、何事かを唱えるでもなく、ただ数分間じっとそうした末に、目を開けた。「これで施術は終わりです」

 もう終わりか、と普通なら思うだろう。けど、ここへ来た者たちは皆、そんなふうには感じないらしい。伊吹フサ子もまた、ほっと凝縮したため息をついた。「ありがとうございます」

「これから、しばらくは様子を見てくださいね。もちろん、何かあったらすぐに医療機関に行くように。またわたしを頼ろう、なんて思っては駄目。施術はこれきりで、もう二度と見させていただくことはありません。これ以上のことを望む場合は、別のところへ行ってくださいね」

 はい、と客はやや不安げに頷いた。「どうしても、二度目は見ていただけないんですか?」

 母はひどく優しげな笑みを浮かべた。

「はい。それはですね、わたしにできることはすべてやったからなんです。人にはそれぞれ、できることとできないことがあるでしょう。効き目がなかったり、効果が弱かったからって、できないことを何度してもしょうがないんですよ」

「ああ、なるほど」と、客人は何度も頷く。

「効いた場合は、ああよかった、効かなかった場合は、まあしょうがない、と思っていただくしかないんです」

「そうですよねえ」と、どの客もそうだが、皆やけに素直だ。

「お代はやっぱり、いいんですか?」

「ええ。びた一文、いただけません」軽く笑いながら言う。「どうかお気になさらないで」

 でも、と言う客を無理矢理立たせ、追い払いにかかる。「わたしも忙しいもので。さ、どうぞ」

 客がよろよろと立ち上がり―― と思いきや、さっきとは比較にならないほど機敏な動きで座敷を後にするのを、史樹は呆気に取られながら見送る。

 が、すぐに我に返ると、慌ててその後を追いかけた。



<伊吹フサ子へのインタビュー>

 ――施術のほう、お疲れ様でした。

「ああ、いえいえ。すみませんねえ、靴を履きながらで。こちらこそ、お世話になりました。どうぞ、お母さんにありがとうございましたとお伝えください」

 ――わかりました。あの、少し質問させてもらっていいでしょうか?

「は? いいですよ。本当にお世話になって……」

 ――とんでもない。あの、ここへはどこか具合が悪くていらしたんですか?

「ええ。どこかというか、どこもかしこも。体の節々が痛くってねえ。それで、知り合いの瀬田さんって方にこちらのことを聞いて、来てみたわけ」

 ――体の節々が…… あの、病名は?

「病名は特にないらしいんですよ。強いて言えば、体が歪んでるのが原因だそう。それで整体に通ったり、色々やったの! でも、どれも駄目。まったくよくならなかった。こんなに努力してるのに」

 ――それは大変ですね…… で、ここでの施術はどうでしたか? 効きました?

「正直、よくわからなかったわ。けど、様子を見てと言われたから、見るつもり。なんとなく、今の状態が続くなら、治りそうな気もするし」

 ――今の状態、というと?

「なんていうのかねえ。ぼわーっと温かい。温泉に浸かったみたいな感じ。カチコチだった体が、ふわっとほぐれていくような。玉澤さんに手をさすっていただいたでしょ。あの時から、右手を中心に、体中があったかいの」

 ――それって心地いい感じですか?

「ええ、とっても。夢見心地ですよ」

 ――手に塗り込まれた液体は何でした?

「お酒の匂いがしたから、お酒じゃない? 清酒。お清めに使うもんねえ」

 ――お清め、ですか。

「そう。残念だわ、あの施術をもう二度と受けられないなんて。あんなにいい気分になれるのに」

 ――あの、治るといいですね。

「ええ、ほんとに。ああ、そうだ、息子さんにお菓子をあげましょう。せめてものお礼に。お饅頭と飴、どっちがいい?」



 お疲れ、と言いながら入っていくと、台所のテーブルで頬杖をついていた母がこちらを見た。

「伊吹さん、帰った?」

「帰ったよ。あの人、この辺の人?」

 首を振り、「結構遠いところの人。知人のつてで、わざわざここまで来たみたい」

 宣伝などしていないので、うちへ来る人は大抵、口コミを頼りにやって来る。

「あのさ」テーブルの向かいに座りながら、史樹は言った。「カメラ、回していい?」

「駄目」じろりとこちらを睨みながら言う。「なんか聞きたいなら、直接聞きなさい。カメラ越しじゃなく」

 わかった、と応えて、史樹は渋々、カメラを膝の上に置いた。

「あの、聞いていい?」

「何」

「いつから、ああいうことができるようになったの?」

 母は顔をしかめた。「ああいうこと、って人を治すこと?」

「ほかにないでしょ。それで、いつ?」

「十年ぐらい前かな」

「意外と最近だね。自然にできるようになったの? それとも、何かきっかけがあって?」

 きっかけねえ、と呟く。「あるといえばあるけど。――近所の神社にお参りに行ったら、なんとなく、ビリビリッと来たのよね。それがきっかけ」

 近所の神社で? 「そんなあっさりと?」

「そう思うだろうけど、現実はそんなもん。ドラマみたいな大したことは起こりゃしないのよ」

 母は別に東京生まれというわけではないのだが、面倒臭いとこういう、べらんめえな口調になる。

「あ、そう。――それで、ビリビリッてのは、どういう? 電気に打たれたような感じ?」

「ううん、ちょっと違うかな」頬杖をついたまま、少し上を向く。記憶を探っているらしい。「何かに打たれた感じではあったけど、痛くも痒くもなくて。それよりは、懐かしい、って感じたかな」

「懐かしい?」

「そんな気がした、ってだけのこと」

「それで、次の日にはその力が身についてたの?」

「ううん、そうじゃなくて。しばらくして、いつの間にかできるようになってる、って気づいたの。それから、徐々に噂が広まっていった、ってところかな」

「清酒なんて使って、本格的だね」

「そう? 清酒ぐらい、誰でも使うでしょ。お清めよ、お清め」母は肩をすくめて、腰を上げた。「さ、もういいでしょ。お母さんはもう一回、畑へ行ってくる。あんたはゆっくりしてなさい」

 俺も手伝うよ。史樹は慌てて立ち上がった。

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