第3話
「あら!」垣根越しに頭を下げた史樹を見るなり、伯母は声をあげた。「史樹君! 待ってたわよ。さあさ、入ってらっしゃい。由希、史樹君が来たわよ!」
縁側に座っていた由希が、煩そうに顔を上げて庭にいる母親を見た。
「どうも、お久し振りです」
「ほんとねえ。元気にしてた? いつこっちへ?」
「あの、昨日」
ああそう、と言いながら、伯母の梶原秀代は大きな体をくるりと捻り、すたすたと玄関に歩き出した。「それで、お父さんは元気? 仲良くやってる?」
「ええ、まあ」
伯母は何か言いたげに肩越しにこちらを見たが、何も言わなかった。
「由希、由希ったら! 顔ぐらい見せなさい!」
うるせえなぁ、というぼやきが聞こえそうな顔つきで、従姉がのっそりと廊下に現れる。「よっ、史樹」
「やあ」
「もう。よれよれのTシャツにぼろぼろの短パンで。年頃の娘なのに、なんてザマでしょう」
まるで悲嘆に暮れるオペラ歌手のような身振りだ。
由希はまったく気にしていない様子で、じゃ、とこちらに手を振ると家の奥に引っ込んだ。
「まったく、もう。――さ、史樹君、入って。何か話があるんだって?」
「話というか――」
母の秘密を暴く、という作品テーマに沿って撮影がしたいのだ、と言ったところで、どこまで理解してもらえるか。ともかく、この取材にとって、母の実の姉である伯母にインタビューすることは不可欠だった。
「まあ、いいわ」伯母は鷹揚な調子で言うと、足にまとわりついてきた小型犬を抱き上げた。「どうぞ、こっちへ。お話をゆっくり聞かせてもらいましょう。ゆっくり、じーっくり、ね」
<梶原秀代へのインタビュー>
――それでは、よろしくお願いします。
「いやだ、改まっちゃって。それに、カメラを回しながらなんて、初めてだわ。どうしよう、おばさん、緊張しちゃう」
――あの、自然体で話してもらえれば。ただのサークル活動ですし。
「そうね。そういえば、去年もこんなことをやってたらしいわね。逸美から聞いた話では。逸美のところに来た人たちを取材してたんでしょ?」
――はい。今回もまあ、それと似たことを……
「ああ、そう。まあ、わからないではないわ。ああいうことができる人って、そう多くはないもんね。それがたまたま身の周りにいるんだから、取材したくもなるか」
――まあ、そんなところです。あの、質問してもいいですか?
「もちろん。あ、お菓子を用意したから食べてね。こういうの好きかどうかわからないけど。あらあら、ベル。違うのよ、あんたのためのお菓子じゃないの」
――あの、それで質問なんですけど。
「はいはい、わかってるわよ。あ、なんなら由希も呼ぶ? あの子、最近暇しててね」
――いえ、今のところは。質問させてください。
「はい、どうぞ」
――母の”人を治す力”は、いつ、どうやって身についたんでしょう?
「ああ、あの力ねえ。逸美は、神社で祈ってたら不思議な感覚がして、そうなった、って言ってたけど。やっぱり、何か降ってきたのかしらねえ」
――もう少し詳しくわかりませんか?
「うーん。あの子も、そんなに開けっ広げに話すほうじゃないしね。それに、こういうことは、何ていうか、相手がどう思うかも関係してくることだし。あの子なりに、思うところがあるんじゃない」
――偏見を恐れて、ってことですか。でも、家族なのに。
「それはそうだけど。家族とはいえ、ってところもあるでしょう。ほら、あなたのお父さんのことだって…… ねえ? わかるでしょ」
――そうですね…… じゃあ、このことについて、母は自分からはあまり話そうとしないんですか?
「うん、あんまりね。何か、わけがあるんだろうとは思うけど。だってさ、誰も彼もが、神社で雷みたいなものに打たれるわけじゃないじゃない? そこに至る、理由みたいなものがあるはずよね」
――理由…… 何か、見当はつきませんか?
「わからないわ。うーん、そうねえ、一度、神社へ行ってみたら? ここからそんなに遠くないし。ただ――」
――ただ?
「なくなっちゃったのよね、その神社。何年も前に」
――えっ、そうなんですか。
「そうなの。跡継ぎがいなくて、しょうがなかったらしい。小さい神社だったしね」
――じゃあ。
「ああ、でも、神社跡に祠みたいなのが残ってるから、大丈夫よ。お参りに行ってくれば? もしかしたら、あんたにも雷が落ちるかもしれないし」
――いやいや、困りますよ。それに、母は落雷に遭ったわけじゃありません。
「わかってるって。冗談よ、冗談。祠の近くに、宮司さんのご家族が住んでらっしゃると思うから、話を聞いてくればいいわ。場所、わかる?」
――いえ、まったく。
「由希! ちょっとこっち来て! ――案内させるから、ちょっと待って。由希! これ、ベル。お客さんのお菓子に手を出すんじゃありません」
さほど遠くないと聞かされていた祠は山中にあり、そこまでの道のりは長くはないが険しかった。以前は整備されていたであろう道は、今は荒れ果て、ところどころで倒木や岩に塞がれている。そういう障害物と出くわす度に、乗り越えたり遠回りしたお陰で、かなり時間を食ってしまった。
早々に息を切らした史樹と違い、由希は慣れているのか軽快に足を運んでいる。先ほどと同じTシャツと、せめて下だけでも着替えろと言われて従ったらしいジーンズに身を包んだ体がひょいひょいと道に落ちた枝などを跳び越え、その度に金髪に染めた髪が背中で揺れる。
大丈夫? と振り返って尋ねた従姉に、史樹は、大丈夫、と返事をした。
「えらく不便なところだね」
「ま、それもあって、あんまり人の来ない神社みたいだったけどね」
そうか、と呟く。参拝者の減少も、神社がなくなった理由の一つなのかもしれない。
「ここに神社があることも知らなかったよ。うちからそんなに遠くないのに」
「うちも、そんなにしょっちゅう来てたわけじゃないよ。正月とか、気が向いたときに、他に行くところもないから、ってだけの理由で何度か来たかな。叔母さんも、そんな感じだったと思うけどね」
由希の言う、叔母さん、とはうちの母のことだ。
「じゃあ、熱心に通ってた、ってわけでもないんだね」史樹は呟くように言った。それなのに、そんな母になぜ妙な力が授けられたりしたのだろう。
「あいてっ」歩調を落として、隣で歩いていた由希が、声を上げた。「虫に刺されたみたい」
「ほんと? 何の虫?」
「わかんない。アブかな。腫れるかもしれない」そう言って、史樹のほうをじろりと睨み、「あんたはいいよね、長袖だから」
ぶつくさ言いながら、虫に刺されたという左腕をごしごしやり始めた。
「触らないほうがいいよ。ばい菌が入るだろ」史樹は言ったが、由希は聞く耳を持たない様子だった。
そうこうしているうちに、前方に生い茂った木々の間に鳥居が見えてきた。道も参道らしく砂利道になっている。
「神社が見えてきたよ」心なしかほっとして、史樹は声を上げた。獣道のような道には、もううんざりしていた。「今は祠か。廃神社でも、鳥居って残ってるんだね」
「わたしは先に行くよ。どこかで傷口を洗ってくる」
由希はそう言うと、小走りに鳥居のほうへ向かった。一人で大丈夫か、と尋ねると、振り向きもせず、平気平気、と返事が返った。
まあ、いいか。――ため息をつき、辺りを見回す。鳥居のほかは、かつての神社としての面影を留めるものはほとんどなかった。鳥居の向こうには境内だったと思われる場所があり、周囲を木々が囲んでいる。家が一軒収まる程度の広さで、奥に祠らしきものが見える以外は、何もなかった。
由紀はどこに行ったのだろう、と探したが、その姿はどこにもない。きっと、近くの川にでも行ったのだろう。本人もここに来るまでの間に言っていたが、由希はこの山にはかなり詳しいようだ。
よし、じゃあ、撮影を始めるとしよう。――史樹は鳥居に歩み寄り、その下にショルダーバッグを置いた。そして、バッグからカメラを取り出すと、鳥居をくぐった。
録画をスタートし、液晶画面を覗く。歩きながら見てみると、祠は非常に立派な造りだった。神社の拝殿を小さくしたような見た目で、しめ縄もきちんと巻かれている。周囲の掃除も行き届いているようだ。
山道と同じく、荒れ果てた場所を想像していた史樹は、予想が外れて少しほっとした。
祠の前まで来ると、史樹はカメラの外付けマイクに向かって喋り出した。
「ここが、母が不思議な体験をしたという神社の跡です」カメラごと、辺りをきょろきょろ見る。「今はこうして、祠だけが残されています。特に変わったところはありませんが――」
気にするほどではないかもしれないが、道があれほど荒れているのに、一体誰がここの掃除や手入れをしているのだろう。元宮司の家の誰かが、やっているのだろうか。あるいは、今でも熱心な参拝者が訪れているのか――
「よっ」と、背後から声がかかった。
振り向くと、驚いているらしい由希の顔がそこにあった。
「あ、ごめん。撮影中?」
「うん。でも、もういいよ」そう言って、史樹は録画を停止した。これ以上撮っても、得るものはなさそうだ。「それより、腕はどう?」
「洗ってきたよ。腫れたりはしてないみたい。アブじゃなかったのかな」
よかったじゃん、と言って、史樹はカメラを足元に置いた。祠に手を合わせるためだ。それを見た由希が、慌てて隣に並ぶ。
拝むのを終えた時、史樹はふと、祠の格子戸の奥に視線を向けた。何やら分厚い御札のようなものがあるのがわかる。表面には読みづらい字で文字が書かれているようだ。
同じく手を下ろした由希が、さっさと歩き出しながら言った。「で、これからどうするの?」
「宮司だった人の家がこの近くにあるらしいから、ふもとへ下りて探してみるよ」
由希は、ふうん、と興味がなさそうに鼻を鳴らした。史樹はふと、由希に尋ねた。
「そういえば、この辺りに詳しそうだったけど、なんでなの? 山登りなんかするようには見えないけど」
すると、由希は目をぱちくりさせてから言った。「いや、別に。ただね……」と、なぜか口ごもる。
「ただ?」
「その、高校の頃によく来てたんだ。この近くに、心霊スポットがあってさ」
由希によると、当時の仲間たちと頻繁にそこを訪れて”肝試し”をしていたらしい。
なるほど、と史樹は心の中で呟いた。由希が通っていた高校はかなり荒れていたらしいから、柄のよくない仲間とそこを溜まり場にしていた、ということかもしれない。
「心霊スポットがあるの? この辺に」こちらは、高校生になる前に父に連れられて引っ越したせいか、そんな場所のことはまったく知らない。
「うん、まあね―― いいじゃん、そんなこと。それより、早く探しに行こうよ」
「え、一緒に行ってくれるの?」
「邪魔じゃなければね」と、由希は肩をすくめる。「少しは役に立てるかもしれないし、わたしだけ先に帰ったら、うちのアレにどやされるしさ」
史樹は苦笑した。うちのアレ、なんて呼ばれていると知ったら、伯母さんはさぞ立腹するだろう。
「じゃ、行こうか」ショルダー・バッグを肩にかけ、史樹は歩き出した。
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