第4話
<枡内春子へのインタビュー>
「へえへえ、うちは五十年以上、神社の掃除の手伝いをさせていただいてます。神社がのうなってからは、祠の掃除を。へえ、壊れた柵や屋根の修理なんかもね、させてもろうてますよ。それがどうされたんです?」
――実は、宮司さんだった方を探してまして。
「ああ、矢内さんなら、亡くなりましたよ。あの方、もう九十でね。二年前だったか、三年前だったかに亡くなりました。ご足労かけて申し訳ないねえ」
――そうでしたか。あの、では、このままちょっとお話をお聞かせ願えませんか。カメラも回したままでいいでしょうか?
「ん? まあ、何でもいいですよ。お座りなさい。そっちの金髪のお嬢さんも。縁側でよければ、いくらでも休憩しておいきなさい」
――ありがとうございます。
「それで、あんた、名前は何ていうたかねえ?」
――あ、西尾史樹といいます。ご存じかどうかわかりませんが、玉澤逸美の息子です。
「はあ、玉澤さんの。苗字が違うね。離婚したの、あの方?」
――そうなんです。それで、あの。
「まあ、そう。お母さんとは親しくないけど、むかーし、お会いしたことがあるわ」
――そうなんですか。
「うん。二十年以上前かな」
――あの、母とはどういったことで知り合ったんですか?
「あのね、この辺りで大雨が降ってね。川が氾濫したり、土砂崩れが起きたり、えらいことになったのよ。その時に、わたしはお母さんに助けてもらったの」
――え?
「ご存じない? ま、話してないのかもねえ。随分前のことだし、あの方自身はそんな大したことはしてないと思ってるかもしらんし。でも、お陰でわたしは助かった。わたしだけでなく、大勢の人がね」
――え? あの、それって、どういう。
「戸惑うのも無理ないわ。知りもせん話、急に聞かされてもね。その上、あの場にいなきゃ到底信じられんような話だし。わたしも、この目で見たから事実だって言えるけど、そうでなきゃ、とても信じられんよ」
――一体、何があったんですか。
「むかーし、あの山には展望台があったのよ。短いけどケーブルカーもあってね。展望台のそばには、レストランもあった。当時はかなり人気でね。今思うと大した眺めでもないのに、人が大勢押しかけて、レストランは大賑わいだった。――そんな時に、暴風雨が来たの」
――枡内さんも、そこにいらしたんですか?
「うん。うちの嫁と、孫と。空模様の悪い時にあんな場所に行ったこっちも悪いけど、ほんとに、あっという間に空が掻き曇ってねえ。大粒の雨が、叩きつけるように。あんな凄まじい勢いの雨には遭ったことがなかった。強風でケーブルカーは動かなくなるし、低い山とはいえあんな天気の中、山を下るのも勇気が要って。何十人もの客が立ち往生になっちゃったのよ。ほんと、あれは恐ろしかったねえ」
――そこに母も居合わせた?
「そう。お母さんは、親御さん二人と一緒だったかな。席が近かったから、なんとなく覚えとる。あん時は二十歳そこそこだったんじゃないかねえ。あんたと似て、可愛らしい顔をしとったよ」
――そ、そうですか。それで、どうなりました?
「時間が経つにつれ、みんな苛々しだしてね。なんとかしてここを出よう、という者が現れたのよ。ほかの者も、待てど暮らせど救助が来ない状況に痺れを切らしてた。当時は連絡手段がなかったし、あったとしても、あの混乱状態じゃあね。川が増水し、避難だ救助だと、麓の人たちは走り回ってたわけ。そりゃ、こっちにまで手が回るはずない。でも、みんなそんな麓の状況、知りやしない。何がどうなってるのかまったくわからず、不安に駆られて、下山の提案をする者が現れたというわけ」
――それは、ちょっと危険そうですね。
「後で考えると、間違いじゃった。でも、その時は何人かが提案に乗りかけたのよ。うちの嫁と孫も、一緒に山を下りたらどうか、なんて話し合ってた。実際そうしてたかもしれない、と思うと冷や汗ものだ。とにかく、それを止めてくれたのが、お母さんだった。お母さんはみんなの前に出ると、物怖じしない声でこう言った。――外に出ないほうがいい、危険だから、と。なんでそんなことがわかる、という声が飛ぶと、こう答えた。――さっき、神様からそう聞いたから、と」
――神様?
「うん。確かにそう聞いた。みんなはぽかんとしてたけど、わたしはレストランの近くに神社があるのを知ってたから、さほど驚かなかった。そして、みんなに神社のことを教えたの。そしたら、何人かは吃驚した顔でお母さんを見てた」
――みんな、信じたんですか?
「いいや。表面的には。でも、あの状況では、信じないことのほうが難しいのよ。人ってのはそうできてるの。少なくとも、当時の人たちはね」
――なるほど……
「みんな、口では馬鹿馬鹿しいと言ってたけど、下山しようという意志はすっかり挫けてた。それで、もうちょっと待ってみようということになり、結局、救助が来るまでそのまま待ち続けたの。後で聞いたら、ちょうどその頃、付近で土砂崩れが起きてたらしい。それを聞いて、芯からぞっとしたよ。あの時、孫たちが下山していたら、とね」
――じゃあ、全員助かったんですね。
「そう、全員。下山すると言い出した人も、文句たらたらではあったけどその場に残ってた。その後、消防団か何かが助けに来てくれた時、土砂崩れのことを聞かされて、ほかの人たちと一緒に青くなってたよ」
――それで、母は。
「ちょっと呆然としてるようだったけど、ごく普通の様子で座ってた。凄く落ち着いてるように見えたけど、どういう気持ちでいたんだろうね。神様から聞いた、って話について聞いてみたかったけど、そんなことが聞ける雰囲気じゃなかったからねえ。お礼も、直接は言えないまま。でも、ほんとにありがたいと思ってる」
――母は昔から、その、お告げを受けていたんでしょうか。
「わからないね。それは、お母さんに聞いてみないと。わたしとしちゃ、稀有な人だと思っとるよ。あれ以来、お母さんの噂を色々聞くけど、まあ、当然のことだ、とそう思うね」
――色々、って、治療のことでしょうか?
「うん。あれも、神様から授かった力なんだろうねえ。恐れ入った話だ」
――……
「お母さんに、よろしく、言うといてな。あの時は助けられた、ありがとうございます、と」
――あ、はい。わかりました。
「うへー、たまげたなぁ」枡内春子の家を後にすると、由希が首を振りながら言った。「なんか、凄い話だったじゃん」
「俺も、吃驚したよ」
やや気の抜けた声で、史樹は同意した。驚きのあまり、頭の中の整理が追いつかない、といったところだった。
「あんた、叔母さんから何も聞いてなかったの?」
うん、と俯いたまま答えると、由希は肩をすくめた。
「まあ、そりゃそうか。うちの奴だって、自分が若い頃の話なんか、わたしにしないしね。わたしが聞く耳を持たないせいかもしれないけど」
「俺は、聞くよ」史樹はぼそぼそと言った。「もし、話してくれたら、ちゃんと聞いたと思う」なのに、なぜ、母はそれについて一度も触れなかったのだろうか。
史樹の心の声が聞こえたかのように、由希が振り向いた。「うーん。親だからって何でもかんでも話しちゃくれないと思うけどね」わたしが言えることじゃないか、と低い声で付け加える。
「で、これからどうする? どっか行くなら付き合うけど」
由希の言葉に、史樹は浮かない顔のまま言った。
「実は――」
と、言いかけた途端、前方を歩いていた由希がぴたりと足を止めた。「ちょっと! あんたまさか――」
その、まさか、かもしれない。史樹も足を止め、腕組みをする由希に笑顔を向けた。
「展望台に行ってみたい。さっきの枡内さんの話にあった」
由希はそれを聞くと、ふーっとため息をついた。「残念だけど、展望台はもう取り壊されて、なくなってる」
「そうか――」
「でも、レストランはまだ建物が残ってるよ。もう、ずっと廃屋のままだけど」
廃屋。ふと、史樹は引っかかるものを覚えた。
「もしかして、さっき言ってた心霊スポットって――」
「当たり。それでも行く?」
史樹は黙り込んだが、考えるふりをしているだけなのはお見通しだったろう。
由希が、あ、そ、と呟く。
「そんなにヤバイ場所なの?」
史樹の問いに、相手は少しためらった末、答えた。「まあね。高校の頃はいきがって、わざわざあんな場所を溜まり場にしたりしたけど、内心はブルブルものだったんだよ。できれば、二度と行きたくない」
「無理にとは言わないけど――」
案内もなく、山奥の廃墟へ行くなんて想像するだけでぞっとする。そう思っていると、由希が、わかったわかった、と声を荒げて言った。
「行くよ! 一緒に行くけどさ」そこで表情を曇らせ、「明日にしようよ。今からだと、ほら――」
「もうじき暗くなるもんね。わかったよ」史樹は慌てて言った。
歩き出した由希が、ふーっと再び派手なため息をついた。
由紀と別れた後、家への道を辿っていた時のことだ。もうすぐ着く、というところで、史樹ははたと足を止めた。道の前方に、立ち塞がるように人影が立っていたからだ。
後ろ姿だったので、最初はよくわからなかったが、よく見ると、その人物は史樹の家のほうを向いて首を心持ち前へ倒しているようだ。おそるおそる近づいて、横から覗くと、両手を顎の下で合わせていた。太い数珠が、片手の指に絡みついている。
拝んでる? ――呆れると同時に、史樹はぞっとするものを覚えた。
相手は女で、年齢は六十歳前後に思えた。見覚えはないが、近隣住人にいたかもしれない、と思わせる顔立ちだ。俯きがちで、目は固く閉じ、何事かを唱えているのか、口元を動かしていた。
声をかけようか、と迷っているうちに、気配を感じたのか女が顔を上げた。化粧っ気のない、農家のおかみさん風の顔が、史樹を見るなり相好を崩し、お辞儀する。
史樹は返事もできず、慌てて目を逸らすと一目散に家へ帰った。玄関に飛び込むまでの間、あの女の視線がこちらを追っているかもしれないと思うと、気持ち悪かった。
――一体、何なんだ。人の家を拝むなんて。
認知症、か何かだろうか。あるいは、母を訪ねてきたことのある客の一人かもしれない。
玄関ドアをぴしゃりと閉めると、家の奥に耳を澄ます。台所のほうから物音がしたので、ただいま、と声をかけて、自分の部屋に向かった。
気になって、窓から外を窺ったが、もう表に女の姿はないようだ。
ほっとして、バッグを置くと、部屋を出て母のいる台所へ行った。「さっき、外に変な人がいてさ――」
テーブルに向かい、雑誌を見ながら豆を剥いていた母が、顔を上げずに言った。「変な人?」
「うん。うちを拝んでたんだ」
「へえ」
母がさほど驚いた様子を見せなかったので、史樹は拍子抜けした。「なんだ、反応悪いな」
「あんたが大袈裟なのよ。この辺の人は信心深いの。お年寄りなんかは、ちょっとしたことでも手を合わせるもんなのよ」
母のほうこそ、ことを適当にあしらい過ぎてる。そう思ったが、あの女は確かに高齢だったし、信心深さ故と言われれば、そうかもしない、という気がする。
「ところで、今日、聞いたんだけどさ」
「何を?」
「母さん、昔、神様のお告げで人を救ったことがあるんだって?」
視線を雑誌からこちらへ移し、顔をしかめる。
「――どこで聞いてきたの、そんなこと」
「枡内さんって人。そのレストランに居合わせたんだって」
「枡内さん? 覚えてない」
「母さんは覚えてなくても、向こうは覚えてるんだよ。お礼、言ってたよ。お陰で助かった、って」
母は目を伏せた。「そんな、お礼を言われるようなこと、してないわよ」
「でも、下山を止めたんだろ? それで、実際多くの人が生き延びた」
「まあ、そうだけど。わたしは、そうしろって言われたから、そうしただけ」
「それが、お告げ?」いよいよ確信に迫る質問をする、という段になって、史樹はにわかに緊張を覚えた。「一体、何があったの?」
母はしかめ面のまま、こちらをしげしげと見つめた。
「あんた、今日一日、そんなことを調べ回ってたの? 呆れた」
「別に、いいじゃないか」
「それもこれも、サークル活動のため?」緩く首を振りつつ、母は言う。「まあいいわ。話してあげる。ただし、カメラは禁止よ」
はい、はい―― そう答える史樹を軽く睨みながら、母は口を開いた。
「例のレストランで何があったかは、じゃあ、知ってるのね」記憶を探ろうとしてか、遠い目をしつつ、「凄い雨と風で、お客がみんな足止めを食っちゃって。何時間も、待ちぼうけを食わされたのよ」
「何人くらい?」
「三十人くらいかな。厨房の人も合わせれば、もっとよね。わたしは、祖父ちゃん祖母ちゃんと一緒だったんだけど、人の多さに気分が悪くなっちゃって。それに、みんな苛々してて、それに当てられて耐え切れなくなったの」間を置いてゆっくりと、母は続ける。「それで、出入り口に腰を下ろして、外を眺めてたんだ。――土砂降りの雨を」
そこで、なぜだかくすくすと笑う。
「おかしいでしょ、雨なんか見て。でも、その時の雨は特別だったのよ。本当に、滝のように軒先から水流が流れ落ちててさ。雨というより、水の壁がすぐそこに迫ってきてる感じで。そりゃあ凄い迫力だったのよ。後にも先にも、あんなに恐ろしい経験はしたことがない。だけど、同時に、心惹かれるものもあったのよね」
心惹かれる――
「それで」
「それで、座ってドアに凭れてたら、何かが雨の向こうから現れたの。すうっと。ぬーっと、かな? かなり大きかった。ううん、とても大きく感じた」
「それが――」神様? と聞こうとして、舌が喉の奥に貼りついた。
「うん、まあ、あんたが想像してるとおりのものだと思う。ただ、姿は見たけど、はっきり覚えてはいないの。上手く説明できないだけかもしれないけど。大雑把な言い方をすると、四つ足の獣みたいだった。鹿のようでもあったけど、もっと別のものかもね。とにかくそれが、わたしの前まで来て、言った。この雨は危険だから外へ出てはいけない、その中は安全だから留まるように、って」
「そう、言ったの?」
「声に出して、ってこと? そうじゃない。声以外の、何かの方法でよ。何、って聞かないで。わたしにもわかんないんだから」
「わかった。それで?」
「それだけ。気がつくと、それはもういなくて、わたしは建物の中へ引き返した。そして、外に出ちゃいけない、ってみんなを諭したの」
その何かは、人間たちを救うために現れ、たまたまそこにいた母に託したのだろうか。所謂、託宣というやつを。あるいは、母という存在に惹かれて現れ、注意しろと告げたのだろうか。
「そういえば、前に言ってたよね。神社で、ビリビリッときた時、なんだか懐かしい感じがした、って」
「そう言ったわね」
あれはつまり―― 「じゃあ、やっぱり、雨の中から現れたのは、神社に祀られてた神様?」
「そうなのかもね」母が低い声で言う。半ばどうでもよさそうだった。
「ということは、母さんは偶然、お告げを受け取ったんじゃなくて、気に入られた、ってことなんじゃないの? だから、神社で再会した時、特別な力を授けられた。そういうことだろ」
興奮すると同時に、強い違和感を、史樹は感じていた。母が、妙に冷静だ。いや、冷めている、と言ったほうが近いかもしれない。
「まあ、そうなんじゃない」
「どうしたんだよ、母さん。自分のことなのに、どうしてそんなに――」なんだか、まったく関心がないみたいじゃないか。そう言おうとして、史樹は声を途切れさせた。母がもの言いたげにこちらを見たからだ。
「あのね、史樹」再び豆を剝きながら、母は言った。目線は手元に落ちている。
「何」
「母さん、もう長くないんだ」そう言うと、母はぽとりと落ちた豆を拾い、口の中へ放り込んだ。
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