第5話
「ふうー、暑いなぁ」大股で前方をゆく由希が、呻いた。「しかし、この道もかなり荒れ果ててるね」
昨日の、参道とも登山道ともつかない道とは違い、今日辿っている道は一応舗装されている。とはいえ、長らく利用されていないためか、あちこちに亀裂や窪みができ、ゴロゴロした岩も転がっていた。
「車を借りてこようかとも思ったんだけど、道がどうなってるかわからなかったからさ」
そう言う由希の頭には、麦わら帽子が乗っている。首にはタオル。そのタオルで、こめかみにびっしりと浮かぶ汗を拭った。
「以前は、車で来てたの?」
「うん。車とかバイクでね。んな、カッコつけたものじゃなく、親から借りた軽トラとか、ボロボロの中古バイクとかだったけど―― ああ、看板だ」
うねうねと曲がりくねる道の遥か上方に、錆だらけの縦長の看板が覗いている。展望台・レストランはこちら、とかろうじて読める文字が、錆のせいで赤い涙を流しているように見えた。
「うわぁ、随分古い看板だね」
「廃業してから、ずっと放置されてるからね……」
史樹も、昔ここいらに展望台があった、という話は聞いたことがあったが、それ以上詳しいことは知らなかった。「いつ廃業したの?」
「十年以上前じゃない? バブル期にできて、その後、経営不振で会社が倒産した、って聞いたけど。ま、バブル期はともかく、町ぐるみで観光事業に乗り出したんだろうね。で、一時は流行ったけど、次第に客足が減った、と」
「それで今は、レストランだけが残ってるの?」
「そう。平屋の建物だから、放置しても危険はない、ってことなのかもね。――あ、見えてきた。あれだよ」
由希の言うとおり、生い茂る濃い緑の木々の向こうに、四角い建物の陰が覗いていた。
「うわ、これは――」声を上げかけ、思わず絶句する。
そこにあったのは、絵に描いたような”廃墟”だった。真夏のホラー・ドラマから抜け出したような、荒れ果てた建造物。侵蝕されていない部分を見つけるのに苦労するほど、到るところが蔦と苔と蜘蛛の巣に覆われている。蝕んでいるのは、自然だけではない。壁という壁に、スプレー缶で書き殴ったらしい落書きが施されていた。その落書きさえ、年月と雨風に晒され、蝕まれている。
「この中に入るの?」
「わたしに聞かないでよ。あんたが来たいって言ったんでしょ」
でも、ここに入り浸ってたんだろ、と言おうとして、やめた。今と比べれば、その頃はまだましだったのかもしれない。
侵入者を防ぐためか、出入り口のドアには板が打ちつけてあるが、窓ガラスがすべて割れているので、あまり意味を成していなかった。気をつければ窓から中に入れそうだ。
「入っても大丈夫かなぁ」
「入りたければ入れば。中は黴と埃と虫だらけだろうけど」
これ以上なく気を殺ぐ文句を背に、史樹は窓枠に近づいた。「一応入ってみるけど、その前に聞いていい?」
「何?」
「ここで何があったの?」
何かがあった、ということは聞かなくてもわかる。由希の態度を見れば、一目瞭然だ。
由希は肩をそびやかし、黒いジャージのパンツを履いた足を開いて、仁王立ちのスタイルを取っている。
「何って、よくある話だよ。ここで幽霊を見た、って噂を聞きつけて、度胸試しに来た馬鹿が、翌朝、病院行きになったりしたんだ」
「由希自身は、何か見たの?」
すると、硬かった由希の表情が揺らいだ。「一度、ここで夜明かししようとしたんだけど、途中で音を上げた。何かがいる、って感じがしてさ。――その時一緒にいた奴は、様子がおかしくなって、以来引きこもりになっちゃった」
「そうか……」
「気のせいだ、って周りから散々言われて、そうかも、と思ってたけど、ここへこうして来てみると、やっぱり気のせいなんかじゃないって思う。だから、あんたのことも止めるべきなのかも。正直、迷ってたんだ」
「俺は、大丈夫」史樹はそう言ったが、かろうじて見せた笑みは少し引きつっていた。「すぐに戻るから。中に入るの、手伝ってくれる?」
十数分後、史樹は再び窓を乗り越え、建物の外へ出てきた。
どうだった、と聞かれて、カメラを手に微妙な表情を浮かべる。――レストラン内は予想通りの荒れ方だったが、特にめぼしいものや、今回のテーマと関係のありそうなものは見当たらなかった。一応、カメラは回したが、大したものは映っていないだろう。
「何もなかったなら、よかったじゃん」由希はほっとした表情を浮かべているが、こちらとしては少しがっかりだ。
それでも、乱雑に積み上げられた椅子やテーブル、足下に散乱する割れた皿などを撮影している間中、何かに見られているような感覚を覚えたし、厨房に続く入り口の奥の暗がりがやけに気になったりもしたので、まったく何もなかった、とは言えないかもしれない。もし、あのまま厨房に入り、嫌な感じのするほうへと進んでいたら、どうなっていたか。そう考えると、怖じ気が走る。
「うん。でも、怖くて、早めに切り上げちゃったよ」
それでいいんだって、と由紀がこちらの背を叩く。「さっきの話の続きだけど。――仲間の一人の知り合いに、霊能者がいてさ。その人にここに来てもらったらしいんだ」
「へえ」史樹は目を丸くした。「それで?」
「わかってるよ。ありきたりな動画チャンネルの企画みたいな話だろ。でも、そいつは病院送りになった奴の友達でさ。本人は大真面目だったんだ」と、由希は肩をすくめる。「それで、その霊能者の話では、ここいらには元々、悪い気が集まりやすいんだそう。だから、ここがこうなってるのは不思議でも何でもないんだと」
悪い気―― 「もし、本当にそうだとしたら、そもそもここに展望台やレストランを建てたのが間違いだった、ってことだね」
「うん。でも、霊能者が言うには、こうなったのは割と最近だろう、ってことなんだ。この場所の邪気を何かが抑えてたのに、その抑えてたものがなくなったんじゃないか。そう言ってたらしい」
邪気を抑えていたもの。その何かが、なくなった。
「神社だ」史樹は咄嗟に声をあげた。「神社が取り壊されたから、邪気が溢れだしたんだ。そういうことじゃない?」
由希がぽかんとした顔でこちらを見る。「――なるほど。そうかも」
「神社跡には祠が建ってたから、ご神体はそのまま残されてるんだと思ってたけど、実際はその効力は消えるか、薄れてるんじゃないかな」
「たぶん、時系列もそれで合ってる気がする。神社がなくなったのって、確か七、八年前だもんね。幽霊が出るって噂も、その頃からだ」
では、邪気を追い払っていたという神社の効力は、どこへ行ったのだろう。神社の取り壊しと同時に、消えてなくなったのか?
うわーん、と周囲を取り巻く虫の音が大きくなった気がした。史樹は両手でカメラを構えたまま、呟いた。「人探しをしなくちゃな」
<矢内弘之へのインタビュー>
――それでは、よろしくお願いいたします。
「え? ああ、はいはい。カメラのことね。まあ、いいですけどね。民俗学の課題のためにインタビューして回ってるなんて、なかなか感心だと思うし。わたしの頃は全然そんな、勉強なんて。まあ、わたしは不真面目な学生でしたしね。わっはっは」
――いえ、僕も単位が欲しくて仕方なくやっているだけですから。それでは、質問に移らせてもらいますが……
「いいですよ。どうぞ。それにしても、よくわたしの居場所を見つけましたねえ。親父が死んでから、地元とも、神社と関係のある人たちとも縁を切って暮らしてきたのに。いきなりうちへ来て、宮司の息子さんですね、だものなぁ。いや、吃驚しましたよ」
――すみません、驚かせて。
「いやいや。しかし、一体、どこでわたしの居場所を聞いてきたんです?」
――町役場で、亡くなった宮司さんのご遺族にインタビューしたい、と尋ね回ってみたんです。そしたら、内緒だけど教えてあげる、と……
「なぁるほど。役場にだったら、知ってる人がいるだろうな。いや、迷惑とかね、そういうんじゃないんです。ただ驚いただけで。それと、案外、過去を断ち切るのは難しいんだな、と思って」
――過去、ですか。
「ああ、そんな大層なことじゃない。ただ、わたしも責任を感じてはいたんです。自分が後を継がなかったばっかりに、代々続いてきた神社がなくなってしまった。悪いことをしたな、とは思ってる。そういう思いから、地元と縁を切って、大して離れちゃいないが、よその町へ引っ越したってわけです」
――今は、何をなさってるんですか?
「不動産業ですよ。仕事のほうはまあまあ順調です。この方面の才はあった、ってことですかな。宮司の素質は、まるでなかったですがね」
――素質、というと。
「宮司になるには、とにかく昔のことについて書かれた本をたくさん読まなきゃならないんです。だが、わたしはそういったものへの関心が薄くてね。やろうとはしてみたが、実社会と無関係なこんなものを頭に入れて一体何になるんだ、としか思えなかった。こういう人間は、神職には向いてないでしょう。神様のほうでお断りだ」
――わかります。僕も、都会で就職するよう言われたんですが、自分は都会に向いてないんじゃないか、と思ってるんです。
「なるほど。そういう押し付けは、親がしてくるんだろう? 親の言うこともわかるがね、言うべき時には、がつんと言ってやらないといけないよ」
――わかりました。ところで、その、神様についてですが。神社ではどういう神様が祀られてたんですか?
「君、神社跡へは行ってみたの? 祠があったと思うけど」
――はい。祠の中を覗いてみましたが、像などはなくて、何か書かれた御札らしきものがあるだけでした。
「ああ、そう。その御札には、水霊蛟之神、としたためられている。中には木札が入っていて、それがご神体になる」
――ご神体、ですか。よそへ移されてはいなかったんですね。
「そう。移す場合もあるけどね」
――水霊、蛟、というのは。
「蛟。ミズチという名を聞いたことはありますか」
――ええと、いえ。
「日本書紀によると、大蛇のような見た目をした水を司るものらしい。とはいえ、見た目に関しては諸説あって、広く水霊のことをさすとも言われる。蛟というのも当て字でね。中国から伝搬した蛟竜の字が当てられている。蛟竜というのは竜の幼体のようなものらしいから、本来はまったく似て非なる存在だ。とはいえ、その字が当てられたことで、ミズチは大蛇というイメージが定着した」
――本当は大蛇じゃない、ということですか?
「水霊というだけあって、蛇の姿であることが多いが、そうと決まったわけでもない。少なくとも、あの町では違っていた」
――というと、どんな。
「あの町の蛟は、所謂、精霊の一種でね。四つ足の動物の姿をしていると言われている。まあ、言い伝えだがね」
――四つ足……
「この辺の土地では昔から稲作が盛んで、水神を信仰する人たちも多かったんだよ。今は、そうした村や集落自体が少なくなって、それとともに神社も少なくなった」
――蛟の神社も同様、ということですね。
「ああ。結局は、そういうことかもしれないね」
――実は、それと関係あるかはわかりませんが、神社がなくなった頃から、近くの廃墟が妙なことになっていて。
「妙なこと? どういうことです?」
――平たく言うと、心霊スポット化してるんです。
「心霊スポット? 何だい、それ。ああ、つまり、幽霊が出る、ってこと?」
――ええ、まあ。
「そういう影響はあるかもしれませんよ。だって、ほら、神社といえば結界でしょう。それがなくなったんだからね。結界がなくなれば、色々と、バランスが変わるでしょう」
――そうなんですか。でも、祠にご神体があるのに。
「ご神体、っつったって、ただの木札だしね。そこに留まるかどうかは、神様の気分次第でしょう。わたしには、神様の腹の内まではわかりませんよ。なんたって、宮司としては落ちこぼれですしね」
――じゃあ、もしかすると、祠があるにはあるが中は空っぽ、かもしれないんですか。
「うーん、まあ、そういう言い方もできますね。別の言い方をすれば、結びつきが弱くなった、というところかもしれない。でも、言わんとするところは同じです」
――なるほど…… だとしたら、神様は、蛟はどこへ行ったんでしょう?
「いやあ、そこまでは。わたしには想像もつきませんよ。しかしまあ、あれこれ考えてみるのも面白いんじゃないですか。それこそ、いいレポートの材料に…… おや、君、顔色が悪いけど大丈夫かい?」
――あ、はい。あの、すみません、そろそろ。
「これで終わり? もちろん、そっちがいいならそれでいいんだが。わざわざ探し出してくれたんだ、実のあるインタビューになっていればいいがね」
――大変、貴重なお話でした。ありがとうございます。
「とんでもない。こちらこそ、関心を持ってくれて有り難かったよ」
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