ミズチ

「ふうー、暑いなぁ」

 前方をゆく由希が呻いた。「しかし、この道もかなり荒れ果ててるね」

 昨日の参道とは違い、今日登っているこの坂道は、一応舗装されている。とはいえ、長らくほったらかされているためか、あちこちに亀裂や窪みができ、倒木や伸びすぎた枝が道を塞いでいた。

「車を借りてこようかと思ったんだけど、借りなくてよかったよ」

 確かに。4WDでも、この道を走るのは難しいだろう。

 史樹は由希に追いつくと、隣に並んだ。頭に麦藁帽を乗せた由希を振り返る。

「以前ここへ来た時は、車でだったの?」

「うん。車とかバイクでね。んな、カッコつけたものじゃなく、親から借りた軽トラとか、ボロボロの中古バイクとかだったけど―― ああ、看板だ」


 うねうねと曲がりくねる道の遥か上方に、錆だらけの縦長の看板が覗いている。展望台・レストランはこちら、とかろうじて読める文字が、錆のせいで赤い涙を流しているように見えた。


「うわぁ、随分古い看板だね」

「廃業してから、ずっと放置されてるからね……」

 史樹も、昔ここいらに展望台があった、という話は聞いたことがあったが、それ以上詳しいことは知らなかった。「いつ廃業したの?」

「十年以上前じゃない? バブル期にできて、その後、経営不振で会社が倒産したらしい。当時は、町ぐるみで観光事業に乗り出してたんだけど、次第に客足が減ったんだってさ」

「それで、展望台は取り壊して、レストランだけが残った?」

「よく知らないけど、展望台は公共事業だったんじゃない? だから役所が取り壊した。でも、レストランはそうじゃなかったから、放置されてる、ってわけ。――あ、見えてきた。あれだよ」


 由希の指差したほうを見て、史樹は思わず声を上げた。


「うわ、これは――」


 生い茂る木々の向こうに覗くそれは、まさに侵食されつつある廃墟、だった。


 濃い緑が、四角い建物のそこかしこにはびこっている。蔦や苔、雑草、そして床を突き破ったらしい樹木までが茂っていた。

 建物内には、植物だけでなく、昆虫や動物の類いもはびこっているだろう。蝕んでいるのは、自然だけではない。外壁のそこかしこに、スプレー缶で書き殴ったらしい落書きがあった。


「この中に入るの?」

「わたしに聞かないでよ。あんたが来たいって言ったんでしょ」


 でも、ここに入り浸ってたんだろ、と言おうとして、やめた。今と比べれば、その頃はまだましだったのかもしれない。

 侵入者を防ぐためか、出入り口のドアには板が打ちつけてあるが、窓ガラスがすべて割れているので、あまり意味を成していなかった。気をつければ窓から中に入れそうだ。


「入っても大丈夫かなぁ」

「入りたければ入れば。中は黴と埃と虫だらけだろうけど」

 これ以上なく気を殺ぐ文句を背に、史樹は窓枠に近づいた。「一応入ってみるけど、その前に聞いていい?」

「何?」

「ここで何があったの?」


 何かがあった、ということは聞かなくてもわかる。由希の態度を見れば、一目瞭然だ。

 由希は一瞬、怯んだ顔つきになったが、すぐに真っすぐこちらを見返した。


「何って、よくある話だよ。ここで幽霊を見た、って噂を聞きつけて、度胸試しに来た馬鹿が、翌日、病院送りになったんだ」

「病院送り?」

「……そう。わたしはその場にいなかったけど、居合わせた奴の話では、そいつはひきつけを起こして、白目を剥いて倒れたらしい。以来、様子がおかしくなって、ずっと引きこもってる」

「そうか……」

「幽霊なんて馬鹿げてる、って周りが言うから、そうかも、って自分に言い聞かせて来たけど、ここへ来たら、やっぱり本当かも、って気がしてきた」

「……」

「だから、もしかしたらあんたを止めるべきなのかも」


 史樹はかろうじて笑みを見せた。「俺は、大丈夫」

 生憎、その笑顔は引き攣っていたが。

「すぐに戻るから。中に入るの、手伝ってくれる?」

 蔦で塞がれた扉を強引にこじ開け、史樹は屋内へと足を踏み入れた。

 約十分後、カメラを構えたまま、史樹は出入り口から姿を現した。

「どうだった?」

「うーん」

 レストラン内は、予想通りの荒れ具合だったが、特に変わったものや、今回のテーマと関係のありそうなものは見つからなかった。一応、カメラは回していたが、めぼしいものは何も映っていないだろう。

「何もなかったなら、よかったじゃん」

 見るからにほっとした様子で、由希が言う。

 確かに、何もなかった。――とはいえ、乱雑に積み上げられた椅子やテーブル、足下に散乱する割れた皿などを撮影している間中、何かに見られているような感覚を覚えたし、厨房に続く入り口の奥の暗がりがやけに気になったりもした。

 もし、あのまま厨房に入り、嫌な感じのするほうへと進んでいたら、どうなっていたか。そう考えると、ぞっとする。


「うん。でも、怖くて、早めに切り上げちゃったんだよ」

 それでいいんだって、と由紀がこちらの背を叩く。「さっきの話の続きだけど。――仲間の一人の知り合いに、霊能者がいてさ。その人にここに来てもらったらしいんだ」

「へえ」史樹は目を丸くした。「それで?」

「わかってるよ。ありきたりな動画チャンネルの企画みたいな話でしょ。でも、そいつは病院送りになった奴の友達でさ。本人は大真面目だったんだ」と、由希は肩をすくめる。「それで、その霊能者の話では、ここいらには元々、悪い気が集まりやすいんだって。だから、ここがこうなってるのは不思議でも何でもないんだ、と」

 悪い気―― 「もし、本当にそうだとしたら、そもそもここに展望台やレストランを建てたのが間違いだった、ってことだね」

「うん。でも、霊能者が言うには、こうなったのは割と最近だろう、ってことなんだ。この場所の邪気を何かが抑えてたのに、その抑えてたものがなくなったんじゃないか。そう言ってたらしい」


 邪気を抑えていたもの。その何かが、なくなった。


「神社だ」

 史樹は声を上げた。「神社が取り壊されたから、邪気が溢れ出したんだ。そうじゃないか?」

 由希がぽかんとこちらを見つめた。「――あんたって天才かも」

「時期的にも合ってるんじゃないかな」

「たぶん、合ってる。神社がなくなったのって、確か七、八年前だもんね。ここに幽霊が出るって噂が立ち始めたのも、その頃だ」


 では、邪気を追い払っていた神社の効力は、どこへ消えたのだろう? 持ち去られたご神体とともに、消えたのだろうか。


 うわーん、という周囲の虫の声が、一際大きくなった気がした。史樹はぼそりと呟いた。「人探しをしなくちゃな」


  ◇


<矢内弘之へのインタビュー>


 ――それでは、よろしくお願いいたします。


「え? ああ、はいはい。カメラのことね。まあ、いいですけどね。民俗学の課題のためにインタビューして回ってるなんて、なかなか感心だと思うし。わたしの頃は全然そんな、勉強なんて。まあ、わたしは不真面目な学生でしたしね。わっはっは」


 ――いえ、僕も単位が欲しくて仕方なくやっているだけですから。それでは、質問に移らせてもらいますが……


「いいですよ。どうぞ。それにしても、よくわたしの居場所を見つけましたねえ。親父が死んでから、地元とも、神社と関係のある人たちとも縁を切って暮らしてきたのに。いきなりうちへ来て、宮司の息子さんですね、だものなぁ。いや、吃驚しましたよ」


 ――すみません、驚かせて。


「いやいや。しかし、一体、どこでわたしの居場所を聞いてきたんです?」


 ――町役場で、亡くなった宮司さんのご遺族にインタビューしたい、と尋ね回ってみたんです。そしたら、内緒だけど教えてあげる、と……


「なぁるほど。役場にだったら、知ってる人がいるだろうな。いや、迷惑とかね、そういうんじゃないんです。ただ驚いただけで。それと、案外、過去を断ち切るのは難しいんだな、と思って」


 ――過去、ですか。


「ああ、そんな大層なことじゃない。ただ、わたしも責任を感じてはいたんです。自分が後を継がなかったばっかりに、代々続いてきた神社がなくなってしまった。悪いことをしたな、とは思ってる。そういう思いから、地元と縁を切って、大して離れちゃいないが、よその町へ引っ越したってわけです」


 ――今は、何をなさってるんですか?


「不動産業ですよ。仕事のほうはまあまあ順調です。この方面の才はあった、ってことですかな。宮司の素質は、まるでなかったですがね」


 ――素質、というと。


「宮司になるには、とにかく昔のことについて書かれた本をたくさん読まなきゃならないんです。だが、わたしはそういったものへの関心が薄くてね。やろうとはしてみたが、実社会と無関係なこんなものを頭に入れて一体何になるんだ、としか思えなかった。こういう人間は、神職には向いてないでしょう。神様のほうでお断りだ」


 ――わかります。僕も、都会で就職するよう言われたんですが、自分は都会に向いてないんじゃないか、と思ってるんです。


「なるほど。そういう押し付けは、親がしてくるんだろう? 親の言うこともわかるがね、言うべき時には、がつんと言ってやらないといけないよ」


 ――わかりました。ところで、その、神様についてですが。神社ではどういう神様が祀られてたんですか?


「君、神社跡へは行ってみたの? 祠があったと思うけど」


 ――はい。祠の中を覗いてみましたが、像などはなくて、何か書かれた御札らしきものがあるだけでした。


「ああ、そう。その御札には、水霊蛟之神、としたためられている。中には木札が入っていて、それがご神体になる」


 ――ご神体、ですか。よそへ移されてはいなかったんですね。


「そう。移す場合もあるけどね」


 ――水霊、蛟、というのは。


「蛟。ミズチという名を聞いたことはありますか」


 ――ええと、いえ。


「日本書紀によると、大蛇のような見た目をした水を司るものらしい。とはいえ、見た目に関しては諸説あって、広く水霊のことをさすとも言われる。蛟というのも当て字でね。中国から伝搬した蛟竜の字が当てられている。蛟竜というのは竜の幼体のようなものらしいから、本来はまったく似て非なる存在だ。とはいえ、その字が当てられたことで、ミズチは大蛇というイメージが定着した」


 ――本当は大蛇じゃない、ということですか?


「水霊というだけあって、蛇の姿であることが多いが、そうと決まったわけでもない。少なくとも、あの町では違っていた」


 ――というと、どんな。


「あの町の蛟は、所謂、精霊の一種でね。四つ足の動物の姿をしていると言われている。まあ、言い伝えだがね」


 ――四つ足……


「この辺の土地では昔から稲作が盛んで、水神を信仰する人たちも多かったんだよ。今は、そうした村や集落自体が少なくなって、それとともに神社も少なくなった」


 ――蛟の神社も同様、ということですね。


「ああ。結局は、そういうことかもしれないね」


 ――実は、それと関係あるかはわかりませんが、神社がなくなった頃から、近くの廃墟が妙なことになっていて。


「妙なこと? どういうことです?」


 ――平たく言うと、心霊スポット化してるんです。


「心霊スポット? 何だい、それ。ああ、つまり、幽霊が出る、ってこと?」


 ――ええ、まあ。


「そういう影響はあるかもしれませんよ。だって、ほら、神社といえば結界でしょう。それがなくなったんだからね。結界がなくなれば、色々と、バランスが変わるでしょう」


 ――そうなんですか。でも、祠にご神体があるのに。


「ご神体、っつったって、ただの木札だしね。そこに留まるかどうかは、神様の気分次第でしょう。わたしには、神様の腹の内まではわかりませんよ。なんたって、宮司としては落ちこぼれですしね」


 ――じゃあ、もしかすると、祠があるにはあるが中は空っぽ、かもしれないんですか。


「うーん、まあ、そういう言い方もできますね。別の言い方をすれば、結びつきが弱くなった、というところかもしれない。でも、言わんとするところは同じです」


 ――なるほど…… だとしたら、神様は、蛟はどこへ行ったんでしょう?


「いやあ、そこまでは。わたしには想像もつきませんよ。しかしまあ、あれこれ考えてみるのも面白いんじゃないですか。それこそ、いいレポートの材料に…… おや、君、顔色が悪いけど大丈夫かい?」


 ――あ、はい。あの、すみません、そろそろ。


「これで終わり? もちろん、そっちがいいならそれでいいんだが。わざわざ探し出してくれたんだ、実のあるインタビューになっていればいいがね」


 ――大変、貴重なお話でした。ありがとうございます。


「とんでもない。こちらこそ、関心を持ってくれて有り難かったよ」

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