第6話
「どうだった?」
「うん、収穫、あったよ」
由希は詳しいことは聞かず、あ、そ、とだけ言った。
「さて、帰ろ、帰ろ。また何かあったら連絡してよ」
「わかった。今更だけど、付き合ってくれてありがとう。バイトとか、予定あったんじゃ――」
由希はひらひらと手を振った。「大丈夫。予定なんてないから」
「そうなんだ」
二人は並んで、来た道をバス停へと辿った。
「けど、考えてはいる。仕事、しなきゃな、って。わたしももう二十歳過ぎだし、うちの奴も心配してるしさ」
「うん」
「真面目な話するの苦手だからさ、わたし。少しでも行動や態度で示せたらな、って思ってる。そういうの、照れ臭いし、嫌じゃん? でも、やらないとね」
行動や態度で、か。由希らしい、と思った。
バスの車中で、史樹はぼんやりと従姉のその言葉について考えていた。やがて、バスが由希が降りる予定の停留所に近づくと、降車口へ向かいかけた由希が振り向き、史樹の肩を叩いた。
「じゃね。取材、頑張りなよ」
ああ、と笑顔で返したものの、由希の後ろ姿がステップを降り見えなくなると、史樹は笑みを引っ込めた。
取材、か。首に提げたカメラを手に取り、見下ろす。――自分は、取材にかこつけて、母との対話を避けているんだろうか。
昨日、母が恐ろしく気になることを言ったのに、自分はそれと向き合うことを避け、なんとなく会話を終わらせてしまったのだ。母のほうも、口にしたことを後悔したのか、嘘、嘘、と誤魔化して話を切り上げていた。そのことに、自分はほっとしたのだ。一体どういう意味なんだ、と問い詰めるべきだったのに。
――もう長くない、なんてどういうつもりで言ったのだろう。まさか、本当に――
目的の停留所に着いた。何かに急かされるようにバスを降り、史樹は家への道を急いだ。早く、早く、と自分に向かって呟きつつ、速足で水田の間の道をゆく。ようやく自宅が見えてきた時、史樹はぎくっとした。昨日、見知らぬ女が佇んでいた辺りに、数人の人影があったからだ。
思わず立ち止まり、そちらを凝視した。人影はどれもこちらに背を向けて、前方―― 史樹の家のあるほうを向いている。人数は五人ほど。性別も年齢もまちまちで、見たところ、例の女はその中にはいないようだった。黄昏に染まったシルエットは、いずれも背中を丸め、頭を垂れている。回り込んで見るまでもなく、わかった。
拝んでいるのだ。
「どうなってるんだ」思わず、そう呟く。
それから、彼らの中に見知った人物がいることに気づいた。伊吹フサ子。帰省した日にインタビューした女性だ。
彼女もまた背を丸め、固く目を閉じ、数珠を握った手をこすり合わせている。
「伊吹さん」史樹は声をかけた。だが、反応はない。「伊吹さん!」今度は声を張り上げ、肩を揺すってみた。
伊吹フサ子の瞼が開き、やや白濁した目がこちらを見た。
「一体―― 何をしてるんですか」
問いただすと、瞬きもせずに口を動かした。
「拝んでるんですよ」
「それはわかってます。一体なぜ、うちを?」
「必要だからですよ」虚ろな目を再び前方に戻しつつ、「お母様をお助けするために……」
えっ、と史樹は声を上げ、思わず一歩退いた。
何を言ってるんだ、この人は。そう思いつつも、得体の知れない恐怖に掌の汗が止まらない。そのまま、一歩二歩と後ずさり、全員の顔を見回した。
皆、何事もなかったかのように一心不乱に祈り続けている。伊吹フサ子もまた、目を閉じ、再び俯いていた。口元が動いているところを見ると、何やら唱えているのだろう。声になりきらない、ぼそぼそという低いさざめきが、周りを取り囲んで膨れ上がっていくようだ。
史樹は後ずさりを続けて、身を翻して家に向かって走り出した。
一体―― 何なんだ、あれは――
それに、母を助ける? 助けるってどういうことだ。
叩きつけるように玄関を開け、家の中に飛び込むと、史樹は呼びかけた。「母さん!」靴を脱ぐのももどかしく、廊下へ駆け上がる。「いないの? 母さん!」
いないわけがない。もう夕方だし、留守にするなんて話は聞いていない。
史樹は悪寒を覚えながら、家の奥の静寂に耳を澄ませた。
「母さん!――」声が虚しく、暗がりに跳ね返される。
いるのか、いないのか。
いるとしたら、なぜ部屋の明かりを点けていないのか。
史樹はそろそろと薄暗い廊下を歩き出した。
一歩ごとに古い木の廊下が立てる、ぎし、ぎし、という軋み声。そこへ、聞こえるはずのない、無数のぼそぼそと祈る声が重なる。
「母さん……」
やはり、返事はない。
居間の入り口に立ち、中を覗いたが、母の姿はない。史樹は明かりのスイッチを入れてから、台所へと向かった。
台所の入り口にかかる玉暖簾の下に、何かが見えた。史樹は息を飲み、駆け寄ると、玉暖簾を掻き分けた。
そこに、母がぐにゃりとした姿勢で倒れていた。
病室に入ると、ベッドにかかったカーテンが幾つか揺れて、その向こうの目が覗くのがわかった。史樹はネームプレートを確認し、奥のベッドへと向かった。
カーテンの向こうに回り込むと、そこに仰向けに横たわる母の姿があった。
「どう? 具合は」
ぼんやりした目をこちらに向け、母は身を起こそうとした。「ごめんね。救急車なんか呼ばせちゃって」
「いいんだよ」史樹は慌てて母を止めた。「起きなくていいから。寝てなよ」
「ううん、大丈夫」
母はそう言うと、史樹の制止も聞かず、上半身を起こした。身に着けているのは、史樹があたふたとバッグに詰め込んだパジャマだ。
「姉さんには?」
「ついさっき、連絡した。まだ検査中だ、って言っといたけど、一応来る、って」電話の向こうの秀代伯母は、ひどく取り乱していた。母が倒れるなんて、きっと想像もしていなかったのだろう。
「お医者さんと話、した?」
「したよ。検査の結果を見てみないとわからないけど、今のところ、どこといって悪いところはない、って言ってた」
「そう」
「そう、って――」
母の顔を見つめ、史樹は口ごもった。「他人事みたいだな。こっちは心配してるのに」
すると、母は今気づいた、という様子ですまなそうな顔をした。
「ああ、ごめん。驚かせちゃったよね。わたしも正直、急に来たから吃驚したんだ」
まるで、こうなることがわかっていたかのような言い方だ。史樹は不安を募らせた。
「一体、どうなってるの。いつから――」調子が悪い、というメッセージを受け取ったのは、半月ほど前のことだ。それ以前に、そういった類いの話を聞いた覚えはない。
「体調? うーん、割と最近かな。でもね、母さん、元々そんなに頑丈なほうじゃなかったんだ。持病こそなかったけど、ちょっとしたことで体を壊しやすかった」
それで、あんなことを言ったのか? もう長くない、だなんて。そう尋ねようとしたが、怖くて聞けなかった。
「そういえば、撮影はどうなの? 順調?」
「撮影? あんなの、どうだっていいよ」言われて初めて、カメラを首に提げたままだったと気づいた。
「でも、撮り終わらないと帰れないんでしょ」
史樹は母の顔を見ずに言った。「しばらくこっちにいるよ。どうせ、そうしようと思ってたし――」
母の困ったような視線を感じ、さらに顔を背ける。
やがて、母が口を開いた。「あんた、神社のことを調べてるんでしょ? それで、何かわかったの?」
いや、と史樹は低く答えた。
「そう。じゃあ、話してあげる。病人の戯言だとでも思って、聞くといいわ」母はそう言うと小さく笑った。「例の、人を治す力だけど。神社で拝んでたら、ビリビリッときた、って言ったでしょ」
「……」
「あの時、わたし、死んだんだと思うの」
史樹は激しい驚きに見舞われたが、何も言わずじっと母の声に耳を傾けていた。全身がおこりのように小刻みに震え始めていた。
「何をおかしなことを、と思うかもしれないけど、わたしにとってはそれが自然に行き着いた考えだった。わたしは死に―― ミズチによって引き戻された。もしくは、ミズチと一緒に自分の体に戻った。いずれにせよ、生き返ったの」
「なんで、そんなことが――」わかるのさ、と言い終える前に、声が途切れる。
「なんでって、わたし自身のことだし、その後のこともあるから。わたしのその後の人生は、ミズチに貰ったものだった。あれはわたしに不思議な縁を感じていたみたい。わたしも、それは同じだけど」
深い息継ぎをして、母は続ける。「とにかく、それ以来、わたしは人を癒せるようになった。わたしの体の中に入り込んだミズチの半身が、そうさせてたの。あれとは意思疎通できなかったけど、と同時にわたし自身でもあるような、変な感じだった。とはいえ、助けてもらった恩があるし、わたし自身もそうしたかったから、ああして他人を家に招いて病気や怪我を治すような真似をしてた。ミズチはお酒が好きでね。清酒を手の甲に馴染ませると、不思議と効きがよくなるの。ああいう治療師は、一回ごとに大変な体力を使うんですって。でも、わたしは一人二人治したくらいじゃ、まったく疲れなかった。なぜだろう、って首を傾げてたけど、今にして思えば当然よね。なにせ、神様を宿してたんだから。少々のことじゃ疲れるはずがない」
母さん、と史樹は呼ぼうとしたが、舌がこわばって声が出なかった。
「こんな話、実の息子にもなかなかできやしなかった。今は話せて、凄くすっきりしてる。ずっと、話したい、と思ってたからね。それに、もうあまり時間もないし」
再び口を開こうとした史樹を、母は身振りで止めた。
「わかってる。こんなおかしな話、聞きたくないよね。でも、言っておかなくちゃならないの。――さっき、ミズチの半身がこの中にいる、って言ったでしょ。でも、その後、神社が取り壊されて、行き場のなくなったミズチの御霊がすべて、わたしのところへやって来た。それはそれで、もちろん構わない。わたしは、生かされている立場だし。でも、こうして数年過ごして―― 人間の脆弱な体は、神様の器には脆過ぎたのかもしれない。あるいは、どうにか持っていたわたしの寿命が、限界に近づいたのか。とにかく、体にガタがきてるようだった。自分でもわかるの。もう、あまり長く生きていられない、って。たぶん、後数日も持たないと思う。――ごめんね、いきなり」
声を詰まらせ、母は言葉を切った。史樹は絶句して、頭を垂れた母の項を見つめていたが、やがて堰を切ったように口を開いた。
「そんな馬鹿な話って。寿命? 何だよ、それ!」
「史樹――」
大声に驚いたらしい同室の患者たちの視線が集まるのを感じたが、そんなことはどうでもよかった。
「俺は信じないから」そう言うと、ベッドから離れた。「きっと、何か手立てがあるはずだ」
そして、椅子に足を取られそうになりながら、病室を出て行った。
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