第7話
ロビーのある一階まで階段を駆け下りると、史樹は足を止め、手近なコンクリートの柱に寄りかかった。柱の向こうは待合スペースになっていて、椅子に腰かけた患者たちが受付に名前を呼ばれるのを待っている。かなり大勢の人がいるのに、誰一人声を立てず、大人しく座っていた。むしろ受付の向こうの看護師たちのほうがせかせかと煩く感じる。史樹は込み上げる気分の悪さと戦いながら、その様子を眺めていた。
頭の中では、執拗に同じ言葉が繰り返されている。――もう長くない、というあの言葉は、冗談じゃなかった。母は本気だったのだ。
この、静寂と煩さが同居しているような場所で、もうすぐ自分は死を迎えるのだ。そう言いたいらしい。辺りに濃く立ち込める、消毒薬では拭いきれない死の匂いに、自分もいずれ包まれるのだ、と。
冗談じゃない。そんなに簡単に母を失ってたまるものか。
そう思いはしたが、一体自分に何ができるのか。何をどうすれば、母が受け入れようとしている運命らしきものに抗えるのか。
途方に暮れ、柱に手を突いた時―― 正面玄関のほうから、何やら騒がしい物音が聞こえてきた。振り向くと、五、六人の人影がガラス扉を潜って来たところだった。
怪訝に思い、よく見ると、そのうちの幾人かは警官の制服を身に着けていた。ガラス扉の向こうには横付けされた数台のパトカーがあり、さらに数人の警官がいるようだ。
思わず青褪めながら、史樹はその光景を凝視した。――まさか、という思いが胸の中でどんどん膨らんでいく。
警察がここへ来るはずがない。自分がここにいることを、奴らが知るはずがないんだから―― そう考えて自分を落ち着かせようとしたが、動悸が収まる気配はなかった。呼吸を荒げつつ、史樹はじりじりと後ずさろうとした。
そうしている間も警官の数は増え続け、静まり返っていた待合もざわつき始めた。制服を着ていない者は私服警官なのだろうか、雪崩れ込んできた連中は皆同じ雰囲気を漂わせている。いかつく、目つきが鋭く、動きに隙がない。
その中に、明らかに異なる雰囲気を漂わせた男がいた。グレーの上質なスーツを着た、痩せて背の高い中年の男。顔には皺が少なく、くっきりとした目鼻立ちに、取り澄ました表情を浮かべている。頭髪もきちんと整えられているが、頭にぐるぐると巻かれた包帯がそれを台無しにしている。
男の顔を見た途端、史樹は胸を大きく喘がせ、後ろへよろめいた。そんな馬鹿な! 目で見たものを否定しようとするも、全身が既に震え始めている。
あれは、父だ。
頭の中で叫びたてる声がした。――生きてたんだ! あいつは生きてた!
東京の自宅で、血の池に横たわっているはずの父が、なぜかここにいる。到底信じられない、と何度見直しても、目の前の光景は変わらなかった。
そのうちに、さっきの疑問に対する答えが、頭の奥に湧いた。そうだ、伯母だ。父はまず、伯母と連絡を取ろうとしたに違いない。もしくは、何も知らない伯母が、母の入院を知らせようと父に連絡してしまったのか。いずれにせよ、父は伯母の口から、この場所を聞き出したのだろう。
と、ロビーを見回していた父の視線が、史樹のそれとぶつかった。父がさっと顔色を変え、何ごとかを叫ぶ。史樹は身を翻し、反対方向へ走り出した。
前方に通用口らしき入り口が見えたので、そこに飛び込んだ。荷物の搬入用なのか、緊急搬送用なのか、とにかく通路の先に駐車場への出入り口があった。背後で大きな声と足音がしたので、警官たちが追ってきているのがわかった。史樹は通路にいた病院スタッフの間をすり抜け、荷物を積んだカートを押しのけて、疾走した。
出口に向けて懸命に走りながら、史樹は数日前の出来事に思いを馳せていた。――いつもの如く、父と口論し、いきり立った父に突き飛ばされたこと。背中を打ち、呼吸困難になりながら、なおも襲い掛かってきた父を見て、恐怖に駆られたこと。思わず繰り出した蹴りが父の腹にめり込み、何かが倒れる大きな音がしたこと……
おそるおそる顔を上げると、そこに朱に染まって倒れる父の姿があった。側頭部にぱっくりと開いた大きな傷があり、そこからどくどくと血が溢れていた。倒れた際に打ちつけたのだろう、背後のスチール棚の角が凹んでいた。みるみる広がっていくカーペットの染みに、くらくらと意識が失われかけた。あのままあの部屋にいたら、吐くか気を失っていただろう。父の頭の傷がどの程度か、死んでいるように見えるが本当に死んでいるのか、などは確かめもせず、史樹はそのままふらふらと自室に戻った。そして、身の回りのものを詰めたバッグを手に、家を出たのだ――
病院を飛び出して数分後、追っ手の声や足音は消えはしないまでも遠ざかっていた。史樹は息を切らし、道路の真ん中で足を止めた。左手に工事中の建物らしきものが見えたので、脇腹を押さえながらそこまで走った。建設中のビルか何かだろう、周囲に防音シートが張り巡らされ、それをめくると中に鉄骨の骨組みと足場があった。史樹はシートの間に体を滑り込ませ、辺りを見回した。そして、建設用具の間に押し込まれたブルーシートを見つけ、その上に腰を下ろした。
体中が熱い。筋肉が悲鳴を上げ、肺が肋骨を突き破りそうだ。長袖のTシャツの内側で、全身に滝のような汗が流れている。
いつも長袖の服を着ているのは、父に時々、強く腕を掴まれるからだ。手の形の痣がつき、それが一週間以上も残ってしまう。父は、口論の際の弾みに過ぎない、とそれを軽く捉えていた。同じく、こちらの顔や体を殴ることがあっても、それは”弾み”に過ぎなかった。虐待ではないのか、と問い詰めれば、断じて違う、と顔を真っ赤にして反論しただろう。
――警官たちは、この場所を気に留めなかったか、別の方角へ向かったらしい。シート越しに外の様子を窺い、史樹はそう結論づけた。再び、どっと腰を下ろすと、首にかけたカメラが跳ね、胸に当たった。
史樹はカメラを手に取り、じっと見下ろした。やがて、ベルトを首から外し、電源を入れると、すぐそばに積まれた資材の上に置き、レンズをこちらに向けた。
録画ボタンを押す。
「ええと、いきなりですけど、告白します。僕は人を殺しました。いえ、殺したと思っていました……」
そして、なるべく簡潔に、こうなるに至ったすべてを説明した。――父と母が離婚し、自分は何もわからず父についていったこと。その先で、父が母を憎悪しているとを知ったこと。自分が反抗すると、必ず”あの女”になぞらえ、激しい制裁を加えられたこと。
以前は進路について、最近は就職先について、ことあるごとに衝突した。父は東京の商社に就職しろの一点張りで、少しでもそれに歯向かおうものなら殴られた。史樹は密かに、いつか母の住む家に引っ越したい、と願っていたが、それを父に知られでもしたら、顔が変形する羽目になっただろう。しかも、そのやり方は実に巧妙で、暴力を振るう頻度や程度は目につくほどではなかった。当然、周囲がこのことに気づくはずもなく、史樹もまた、誰かに訴えるすべを見失っていた。訴えたところで、父は高笑いして、”弾み”だと言い張っただろう。
密かに貯めた金で一人暮らしに踏み切るか、母のもとへ行く。それが、史樹にとって考えうるすべての方法だった。
当然、大学は辞めることになるだろう。自分はそれでも構わないが、父は烈火の如く怒るに違いない。もし知られれば、殺されてもおかしくない、とすら思えた。史樹は息を潜めるようにして、毎日をなんとかやり過ごしていた。
そして、あの日。――無我夢中で放った蹴りを食らい、父は動かなくなった。家を出る際、カメラを持ち出したのは、取材も兼ねて母に会いに行こう、と既に予定していたからだ。母の体調のことや、これからのことを相談したい、と考えて。
それが、こんな形の帰省になろうとは。無論、母に本当のことは話せなかった。何日か、何事もないふりをして一緒に過ごし、時機が来たら消えよう。そんなふうに朧げに考えていた。結局、その時機は逃してしまったが。
まさか、父が生きていて、自分を追って来るとは――
そこまでカメラに向かって喋った時、シートの外で物音がした。複数の足音に続き、シートを払いのける音。「いたぞ!」吠え声が響き、眩しい外光が史樹を照らす。
史樹はカメラを掴むと、地面を蹴った。警官たちがいるのとは反対方向へ飛び出し、闇雲に突っ走る。シートに遮られたお陰で、警官たちはすぐには追って来れないようだ。その隙に民家と民家の間の路地を駆け抜けた。
父はあの出来事を、警察にどう説明したのだろう。息子が一方的に暴力を振るった、とでも言ったのだろうか。あの男が事実をありのままに話すとは思えないから、おそらくそうなのだろう。そして、警察はそれを鵜呑みにしたに違いない。
その考えは、汗だくで走っていた史樹の心を萎えさせた。すべては無駄で、時間の浪費に過ぎない気がした。あんな奴のために、どれほど辛い思いをすればいいのか。こんなことが、いつまで続くのか。
次に逃げ込んだのは、人気のない老朽化したビルだった。罅割れの走る壁に避難階段が取り付けられており、入り口には低い柵が設けられている。とにかく逃げなければ、と焦る気持ちから、史樹は柵を乗り越え、その階段を上っていった。
上るにつれ、ビルの後ろの林から風が強く吹きつけ、上気した体をくすぐった。場合にそぐわないほどの心地よさに、思わず足を止め、深呼吸したくなった。――ああ、空が高い。このまま上り詰めて風を受け、何もかも忘れられたら、どんなにいいだろう。
どんどん、上へ――
もう、五階分ほども上っただろうか。意識を向けると、下方から怒号らしきものが聞こえてきた。父のものとも警官のものともつかない、吠えるような声が。
「やめてくれ」思わず、声に出して呟いた。手すりを握り締めながら、「僕に構わないでくれ」
そして、顔を上げたところで気がついた。前方に扉が立ち塞がっていることに。柵ではなく、ノブのついたドアで、施錠されているのか押しても引いても開かない。おそらく、この先は屋上なのだろう。
そうか。
史樹は納得したように呟くと、傍らの手すりに手をかけた。もう、すぐそこまで足音が迫っている。時間がない。だから、簡潔に、手すりに足をかけ―― ひょいとその向こうへジャンプした。
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