第3話 接触

 人は常に選択と向き合って生きている。些細な選択が人生を大きく変えることもある。時として、生死を別けるほどに。そして多くの場合、結果としてその選択が正しかったかどうかの判断ができるまで、長い時間を要する。

 三年前に国を裏切ったこの男の選択は正しかったのだろうか。沢渡は解読された暗号文を読んで、その男が下した決断に喉の渇きを覚えた。

 人生において最後に与えられる権利は、残された者の幸せを願うことだろう。暗号文からは、父としてのその権利を放棄した男の決意が見えた。

「日本に帰ってもいいんだぞ。ここから先、無理に付き合う必要はない」

 解読された文章は、既に内調へと送られている。それでもまだ無言でパソコンのモニターを睨みつけている柏木に、沢渡が遠慮がちに声を掛けた。だが、返答はイエスやノーでは返ってこなかった。

「中国人民解放軍海軍東海艦隊司令員、張建成海軍中将。この人がカルデラの運用責任者ってわけね。『カルデラって兵器を使ったでしょ?』って問い詰めても相手にされないよね」

「ん? ああ、そうだな。それに、その中将がどれだけの発言力を持っているかもわからない。しかもこれは三年前の情報だ。参考程度に頭に置いておくくらいで良いだろう」

 返しながら沢渡は、柏木の横顔を覗き見ている。無理して気丈に振る舞っている様子は見られない。三年の間に気持ちの整理は済んでいるのだろうと、沢渡はそれ以降、父を失った娘へと向ける心遣いは止めた。

「でも、どうしてすぐに知らせてくれなかったんだろう。実際に運用されてから知らせるなんて」

「考えるのは俺達の仕事じゃない。だが、そうだな、強いて言えば信憑性の問題かもな。権藤チーフの話では、ターゲットが富士山だと言われて、ようやく禿げオヤジも話を聞く気になっていたと言っていた。計画の段階で情報が入っていても、鼻で笑って終わっていただろうな。あの権藤チーフでさえ」

 権藤の情報に対する動き方を揶揄しようとした沢渡のスマートフォンに、その権藤からの着信を知らせる文字が表示された。

「盗聴の反応は無かったはずだけど」

 タイミングの良さに冗談を言って苦笑しつつ沢渡は電話を受けた。

「はい、沢渡」

「そこに居るのか?」

 権藤は誰がとは言わなかった。だが、所在を確認する対象は一人しかいない。

「ええ」

「スピーカーにしてくれ」

 思わぬ申し出に、沢渡は眉根を寄せた。言われるとすれば、部屋を出ろと言われた方が自然な気がした。だが、余計な不信感を与えない為だろうと納得し、言われるままにスピーカーに切り替えた。

「どうぞ」

「こっちもスピーカーだ。総理もいらっしゃる」

 暗に「禿げオヤジとは言うな」と釘をさしているのだ。ただ、その伊達が話をする気配はない。

「早速だが、明日正午に上海科技館駅に行ってくれ」

「そこの学芸員にでも情報提供者が?」

「いや、科技館には行かなくていい。行くのは改札を出てすぐの地下街だ」

「地下街? そこで何を?」

「行けば情報提供者が接触してくる。目印には赤い傘を指定された。明日は晴れの予報らしいな。すまんがこちらには相手の性別すら分からん。警戒を怠るな」

「二人で行って良いんですよね?」

 沢渡は柏木の顔を見ながら権藤に尋ねた。柏木に不安げな表情は見られない。

「もちろんだ。柏木君もオブスキュリティの一人だと思って行動してくれて構わん」

 それを聞いた柏木は笑顔を浮かべていたが、名前を捨てた外務調査員のオブスキュリティとして扱うということは、自分の命は自分で守らせろということだ。万が一任務中に柏木が死んだとしても、沢渡に責任は問われない。

「では明日の正午ですね。報告は何時に?」

「日付が変わるまでにしろ。それまでにコールのひとつも無ければ次の段階に進める」

 次の段階に進めるとは、二人が死亡したと考えて動くということだ。

「了解しました。では明日」

 必要最低限の通話で電話を切り、沢渡は柏木の前に右手を差し出した。

「聞いた通りだ。改めてよろしくな」

 柏木がその手を力強く握り返し、沢渡に白い歯を見せた。

「こちらこそ。さしずめ臨時採用って感じね」

 外調のような組織にあって、上からの命令は絶対だ。それが柏木の言う臨時採用であっても。

「赤い傘は綾が持てよ。俺はごめんだ」

「あら、早速役に立てそうね。もちろん持たせてもらいますよ、赤い傘の一本や二本。赤い三度笠ならお断りだけど」

 そう言って笑う柏木が、赤い三度笠を小脇に抱えている姿を想像して、沢渡も笑った。


 上海亜太新陽服飾礼品市場。地下にある上海科技館駅の改札を出てすぐ、そう書かれたネオン看板が目に入った。時刻は指定された正午の十五分前だ。それなりの賑わいを見せてはいるものの、平日とあってか混雑しているという程ではない。

「とりあえずマーケットの中を回った方が良いのかな?」

 柏木がそう呟きつつマーケットの入り口に向かって歩いてゆくと、早速一人の男が近づいてきた。沢渡が警戒してその男と柏木の間に割って入る。

「ニホンジンノトモダチカ?」

 男は片言の日本語でそう聞いてきた。沢渡がどう返答するべきか考えていると、男はもう一度繰り返した。

「ニホンジンノトモダチカ? ブランドイルカ?」

 沢渡の腕を掴んでそれだけを繰り返す男に、沢渡は睨みを利かせた。

「日本人だが、貴様の友達ではない」

 中国語でそう返した沢渡に怯むことなく、男は呪文のように同じ言葉を繰り返した。沢渡は苛立ち、男の腕を掴み返して絞り上げた。

「腕を折られたくなかったら消えろ」

 そう言って沢渡が男を突き放すと、男は罵声を浴びせながらも店の奥へと消えた。

「悠平さん、今の何? ただの客引き?」

「そうみたいだな。まったく、面倒な場所を指定しやがって」

 上海亜太新陽服飾礼品市場は、コピー商品を扱う店が多く入っているマーケットだった。陳列されている商品とは別に、外国人観光客向けに偽ブランド商品を店舗の奥に隠している。面倒ではあるが、密談するには良い隠れ蓑になるのも確かだ。沢渡は嘆息しながらもマーケットの中へと足を進めた。柏木も、沢渡の左腕に自分の腕を絡ませて隣を歩いた。

 沢渡が最初の店員を追い払う様子を見ていたのか、入り口付近では客引きから声を掛けられることはなかった。それでも角を曲がると、再び呪文のように「トモダチ、トモダチ」と言葉を掛けてくる。

「あんな声の掛け方、誰から教わったんだろ。友達って言うなら、お茶ぐらい出しても良くない?」

 沢渡には、そう言って笑う柏木が、この状況さえも心から楽しんでいるように見えた。だが、周囲への注意は怠っていなかったようだ。

「綾、八時の方向」

「知ってる。ロングヘアの女でしょ? 声を掛けられるまで歩いていればいい?」

 その女は、沢渡たちが最初の角を曲がった直後から、一定の距離を取って沢渡の斜め左後方をけている。いや、沢渡というよりも、赤い傘を持った柏木の方により注意を向けているようだった。ただし、決して上手い尾行とは言えない。

「ああ。どうやら一人のようだ。このままマーケットの中を一周しよう」

 次々に呼びかけてくる店員達を無視して二人が歩いていると、時間を気にしてのことだったのか、正午のアラームがいくつかの店舗から聞こえてきたのと同時に、女が柏木に接触してきた。

「カルデラ、買うか?」

 その女も、他の店員と同じように、物を売りつけるような口調でそう言った。

「良い物でしょうね?」

 柏木がそう返すと、女は頷いた。

「富士山もビックリするぐらい、良いよ」

 柏木と沢渡が顔を見合わせて頷くと、女が誘う店の奥へと誘われるまま進んだ。

 カウンターと垂直に接する棚を女が押すと、その棚が隠し扉になっていて、六畳ほどの空間が現れた。

「入ったら閉めて」

 これまでとは違う、滑らかな日本語で言いながら、女が部屋の電気を点けた。後に入った沢渡が扉を閉めると、女はソファーを勧めた。ソファーの前には、ガラスのコレクションテーブルがあって、中には高級時計が入れられていた。この部屋では普段、偽物の高級時計を売っているのだろう。

「表には『強化商標専用権保護』と張り出していても、裏に回ればまだこの通りさ」

 時計に視線を向けていた沢渡に、女が自嘲気味にそう言った。

「私は小笠原おがさわら仁那にな

「日本人?」

 柏木の問いに、小笠原と名乗った女は首を横に振った。

「国籍は中国。父は日本人で、母が中国人。二人ともとっくに死んでいる」

 小笠原の話す日本語は、僅かに中国訛りのような部分もあるが、沢渡が使う中国語よりは遥かにマシだ。若干男っぽい言葉遣いなのは、父親から日本語を教わったからだろう。

「お前が桜庭さくらばの娘だな?」

 小笠原から言われて、柏木は驚くことなく頷いた。

「あなた、父と働いていたのね?」

 柏木だけでなく沢渡も、情報提供者が柏木の父親と関係していた人物だろうと予測していた。情報提供者が、娘である柏木が来ることを予測していてもおかしくはない。

「そうだ。私は桜庭の妻だった」

 小笠原は、試すように柏木の顔を見つめてそう言った。だが、柏木の表情にはやはり変化がない。

「妻とは言っても見せかけの結婚。桜庭のターゲットは私の兄だった」

 変化を見せなかった柏木の表情に、小笠原はつまらなさそうな溜息を吐いて、軋むソファーの背もたれに体重を預けた。そして彼女は、コレクションテーブルの引き出しを開け、中に陳列してあった時計をひとつ出した。

「この時計、兄の部下が作らせていた」

 その時計は、素人が見ただけでは本物と区別がつかない。だが、偽物に対する考え方が日本人のそれとは違う。日本人がこれだけの偽物を作ったとすれば、本物と偽って売るだろう。対して中国人は、本物と一見変わらない偽物を安価で作る技術を誇りにしている。決して偽物を本物と偽ることはない。

 ただし、本物と変わらないのは外見だけだ。耐久性も正確性も、日本で買える玩具のような千円程度の時計にさえ遠く及ばない。

「お兄さんは、桜庭さんが居た間も偽物を?」

 沢渡の質問に、小笠原は頷いた。

「作らせていた。兄ではなく、兄の部下が小銭稼ぎにね。兄も、この時計を作っている者も軍人だ。何故この国から偽物が無くならないと思う?」

 その問いには柏木が答えた。

「軍が作らせているから、なのね」

「そうだ。質の悪い物は民間人が作っている場合が多いが、A級品と呼ばれる物は全て軍の工場で作られている。だから、偽物は無くならない。しかし」

 小笠原は一旦言葉を切って立ち上がると、金庫を開けて中から封筒を出した。そして再びソファーに座ると、封筒の中に入っていた書類の束をテーブルに置いた。

「ある時、摘発されるはずのない工場が摘発された。兄の部下が仕切っていた工場のひとつだ。工員は逮捕され、軍の底辺の人間たちは他に飛ばされ、兄の部下は殺された。そして兄はそれから一年間帰ってこなかった」

「つまりはその工場で?」

「兄の指揮の下、カルデラが作られた。その書類が証拠だ」

 驚くべきことに、書類の中には設計図の一部も含まれていた。電気系統の一部のようだが、虫眼鏡で見なければ文字のひとつも判別できないその設計図を見たところで、沢渡にはその回路が何の働きをするのか見当もつかない。ただ、右下に書かれていた「破火山」の文字と、小笠原とおるという名前だけはハッキリと読み取れた。

「徹というのが君の兄さんか。しかし、なぜこんな物がここに? 簡単に持ち出せる物ではないだろう?」

 沢渡の問いに答える前に、小笠原はタバコに火を着けた。煙を二回吐き出した後、ようやく口を開いた。

「桜庭の手柄だ。兄に掛けられていた洗脳を解いたのが桜庭。兄はMITを出ている。贔屓目なしに見ても兄は優秀だ。父親が日本人であることを差し引いても軍は兄を手放さない。兄は今、カルデラの補助装置の高出力化に携わっている」

「補助装置? カルデラには本体以外の補助装置が必要なのか?」

 初めて聞く内容に、沢渡は身を乗り出した。仕事では桜庭と名乗っていた柏木の父からの暗号文にも、補助装置に関することは書かれていなかった。

「カルデラから放出されるエネルギーは、安定した物質を通り抜ける。だが、ある一定の波長で振動する物と反応してエネルギーを熱に変える。その波長を持つ素粒子を標的に打ち込むのが補助装置。複数の角度から一点に向けて打ち込むと、周辺の物質も振動を始める。阿蘇山の実験では、そこの金庫ほどの大きさの補助装置を六個使った。重さは一個が三十五キロ」

 沢渡と柏木は小笠原の後ろにある金庫に目をやった。大きめの登山用リュックに充分収まる大きさだ。

「カルデラ本体が止められなくても、補助装置さえ使わせなければエネルギーは素通りするってわけか」

「カルデラ本体の開発は完了している。補助装置ももうすぐ新型が完成するだろう。完成すれば、予定を早めて運用するかもしれない。そのくらい、今の中日関係は最悪だ」

 日中関係とは言わず、中日関係と言う辺りが小笠原のナショナリティを表していた。

「お兄さんは、どうして今も開発に携わっているの? 洗脳は解けたんでしょう?」

 柏木の質問に、小笠原は鼻で笑ってタバコを灰皿に押し付けた。

「桜庭が消えて、兄はあっという間に政府の犬に逆戻りだ。私には洗脳は解けないからな」

 小笠原のその言葉に、柏木は唇を噛んだ。

「話はそれだけだ。この書類は好きにしろ。桜庭の置き土産だ。謝礼はケチるなと上司に伝えておけ」

 小笠原は立ち上がって、扉に手を掛けた。

「仁那さん。あの、私の父は、桜庭さんは誰に殺されたか知っていますか?」

 沢渡は柏木の後ろに静かに立っていた。小笠原に父親を殺した人間を聞いたところで、知っているはずがないと確信している。

「知らないな。だが、桜庭は死を覚悟していた。それが当然の報いだと納得していた。殺されたことが、桜庭の最後の仕事だったんだろう」

「そうですか。分かりました。お兄さん、戻ると良いですね」

「期待していない。さあ、帰れ」

 最後は小笠原から追い出されるように背中を押され、沢渡達は隠し扉から店へと戻った。そして、小笠原はそのまま隠し部屋に残り扉を閉めた。


「あっ、傘忘れてきちゃった」

 マーケットを出て駅構内に戻ったところで、柏木が舌を出した。

「構わんだろう。盗聴器を仕掛けていたわけでもない。ただの目印だ」

 沢渡の冗談を聞いて、柏木は自分の手のひらを拳の横で叩いた。

「なるほど。その手もあったか」

「馬鹿。そんなことしてもすぐにバレるに決まっている」

「ほう、馬鹿とか言っちゃいますか。そうですか。でも、こういうやり取りって恋人同士っぽいですよね、悠平さんっ」

 そう言って脇腹に向かって飛ばしてきた柏木の突きを、沢渡は軽く手刀で叩き落とした。

「痛いなぁ、もう。そうだ、悠平さん。切符買っといて。私、ちょっと行ってくる」

 柏木はそう言って指を差している。沢渡がその指の先に視線をやった。

「ん? ああ、便所か」

「言い方! もう、絶対女にモテないよね、悠平さんって」

 再び飛んできた柏木の突きを、沢渡は甘んじて受けた。

「余計なお世話だ。さっさと行ってこい」

 小走りでトイレへと向かった柏木の背中を見送って、沢渡は言われた通りに自動券売機に並んだ。高速鉄道等と違い、上海の地下鉄は日本のそれと切符の扱いは近い。ICカードも普及している。券売機には三人しか並んでおらず、柏木がトイレから戻る前に、沢渡は二人分の切符を買い終えた。

 十分近くが経っても戻らない柏木に、電話を掛けてみるかと沢渡がスマートフォンを操作し始めると、ようやく柏木が戻ってきた。

「お待たせ。切符は買えた?」

「ああ。ところで昼飯はどうする? こいつを部屋に置いてからにはなるが、せっかくだ、本場の中華でも食うか?」

 沢渡が書類の入ったバッグを手で叩きながらそう言うと、柏木がその腕に自分の腕を絡ませた。

「悠平さんに任せる。悠平さんが食べたいのでいいよ」

 少々わざとらしいような気もするが、カップルに見せかける為の行動だ。沢渡は柏木の好きなように振る舞わせた。その柏木が、背伸びをして沢渡の耳元に口を近づけた。

「父を殺したのはあなたでしょ?」

 それだけを言って元の態勢に戻った柏木は、目があった沢渡に対して笑顔を向けた。

「やっぱり。会う前はそうに違いないって確信してたんだけどね。会ってみたら自信が揺らいじゃった。いいんだ。仕事だって分かってるから。でも、欲を言えば悠平さんの口から言って欲しかったかな。話してくれるの待ってたんだけど」

 沢渡は相変わらず腕を絡めている柏木を見下ろした。

「すまない」

 二人は人の波に逆らわず駅の構内を進む。

「それは何に対して謝ってるの? 殺したこと? 話さなかったこと?」

 柏木は前を向いたままだ。沢渡も前を向いて答えた。

「どちらでもない。これからもその件に関しては何も言えない。そのことに対する謝罪だ」

「そっか」

 乗り口に並ぶと柏木は腕を解き、沢渡に正対した。

「私、決めた」

「ん?」

「北京ダックにする。飛び切り上等なヤツ。悠平さんの奢りでね」

「払うのは俺じゃない。国だ」

「知ってる。知ってて言ってるの。馬鹿ね」

 三度みたび飛んできた柏木の突きは、体重の乗った重たい突きだった。

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