第8話 日本
十月十八日。早朝の上海
「海とは無縁で良かったな」
権藤の軽口を耳にして苦笑する沢渡に、柏木が意外そうな顔をしていた。
「海、嫌いなんですか?」
「別に嫌いじゃない。少し苦手なだけだ」
「そう。ふーん。苦手なのか。なるほどなるほど」
興味津々といった風に沢渡の顔を覗き込む柏木に、権藤は頭を掻いた。
「余計なことを言ってしまったな。悪かった。飲み物でも買ってこよう」
沢渡に「すまん」と声を掛けてその場を逃げるように去った権藤を見送ってもなお、顔を覗き込んでくる柏木に、沢渡は嘆息した。
「津波に遭ったんだよ」
「あ、ごめんなさい。そっか、怖くもなるわよね。私はあの時は九州に居たけど」
沈んだ表情を見せる柏木に、沢渡は首を振った。
「違う」
「え?」
「君が思っている津波じゃない」
首を傾げる柏木に、沢渡は真っすぐ視線を向けた。
「二〇〇四年の十二月。当時俺は高校生だった。証券マンだった親父が、営業成績が良かったか何かで、会社から海外旅行のプレゼントがあった。親父以外にも全部で十五人ぐらいいたと思う。行き先はインドネシア。地震があったのは着いたその日だったよ」
スマトラ島沖地震。二十万人以上が犠牲になった史上最悪規模の自然災害だ。
「その会社の関係者で助かったのは俺だけだった。と、いうよりも、俺以外は未だ誰も見つかっていない」
何度も話してきたのだろう。沢渡は無表情で淡々と話した。
「地震の直後、俺は意識が少々混濁していてね。目を覚ましていても問いかけにも応えず、何に対しても反応しなかったらしい。当然名前はおろか国籍も不明の被災者だ。権藤チーフに会ったのはその時だ。当時陸自に所属していたチーフに俺は発見された」
缶コーヒーを手にした権藤が二人の視界に戻ってきた。沢渡の視線はその権藤に向けられている。
「その時に名前を捨てた。沢渡悠平ってのはチーフがくれた名前だ。『三途の川の手前の沢を渡った死に損ない』って意味らしい。本当かどうか知らないけどな」
沢渡は薄く笑みを浮かべているが、柏木は、想像以上に厳しい人生を送ってきた沢渡に表情を曇らせている。その二人の様子を見た権藤は、沢渡が自身の過去を話したのだと悟っていた。
「普段見慣れた缶コーヒーを買ったつもりだったが。こんな物まで真似るかね」
権藤が大袈裟に嘆息して、一本を柏木に渡した。それを手にした柏木は、首を傾げながら缶のデザインを眺めている。そしてしばらくして「あっ」と声を出した。
「本当だ。メーカーが違う」
「これはさすがに軍の工場じゃないだろうな」
沢渡の軽口に、柏木がハッとした。
「そういえば、仁那さんは無事かな」
小笠原の心配をする柏木に、権藤は厳しい視線を向けた。
「簡単に捕まりはしないだろうが、彼女が善人だと決まったわけじゃない。それよりも、自分の心配をした方が良い。一度は拉致されただろう。顔を隠していたとはいえ、実際に奴らに会っているのは君だけなんだからな。逆も言える。奴らに君は確実にマークされている」
「分かってますよ。でも、日本にまで追って来るかな」
「日本から追って来たとも考えられる」
柏木は権藤の言葉に目を見開き、溜息を吐いた。
「『敵は日本政府』か。でも中国にはカルデラっていう脅威が確実にあるわけでしょ? それを阻止しようとしているのは当然日本政府。その為に働いている私達の敵も日本政府って、わけ分かんないですよね」
「政府といっても、中身は人間の集まり。味方もいれば敵もいる。それだけのことじゃないか」
「沢渡の言う通りだ。我々が今やるべきなのは、大山への攻撃を阻止することだ。カルデラ本体に手を出せない現状も、今回の危機を乗り越えれば打破できるかもしれん。矢動丸が言った通り安保理を動かせたとしても、当の中国が拒否権を使うだろうが、カルデラという兵器が公になるだけで充分だろう。我々とは言ったが、無論君には最後まで付き合わなきゃならん義務はない。が、大人しく東京に戻りそうもないな」
権藤はぎらつく柏木の目を見て失笑した。柏木の、意志だけではなく格闘での強さも権藤はその身で体感している。万が一柏木を失うことになっても、自分のチームの人材が失われるわけではない。元々いなかった人間だという割り切りが容易にできる。権藤にとっては荷物にならなければそれでいいのだ。
「ええ。今更のほほんと東京には帰れません。権藤さんこそどうなさるんですか?」
柏木は挑むような口調で権藤に尋ねた。
「私は霞が関へ戻る。大山と禿げオヤジは君達に任せるさ」
権藤が笑みを浮かべてそう答えると、搭乗案内のアナウンスが流れた。
午前六時。日の出の時刻を迎え、柏木は、ボーディングブリッジから見えるオレンジ色に染まった上海の空に囁いた。
「結局会えなかったね。サヨナラ、上海蟹」
月の模様が蟹に見えるというのはどこの国だったか。今ばかりは自分の目にも、そこに居るのはウサギではなく蟹に見えるかもしれないと考えながら、柏木は上海の地に別れを告げた。
「それでは、その女には逃げられたわけだな?」
停車している車の中、桜田濠に視線を向けて、後部座席で男が電話で話している。
「済んだことは仕方がないが。さて、どうするか。せっかくあちらさんが総理の目前で出し物をしてくれるというのにな。あちらさんは武装できない。それは外調も同じだが、外調の奴らに邪魔されれば対抗はできんだろう」
濠の周りでは多くのランナーがジョギングをしている。それを眺める男に策を練っている様子はない。
車が動き出すと、男は視線を進行方向に向けた。まだ濃い緑色の葉を多く茂らせている銀杏並木の向こうに、桜色の御影石で建造された国会議事堂が見える。朝日に照らされたその姿は鮮やかさを一層増していた。
電話の相手の答えに満足しているのか、男は視線を正面に向けたまま何度も頷いている。
「外調なら不幸な事件に巻き込まれても騒ぎにはならない。元々存在しない人間達だ。それに、憲法九条改正で自衛隊がグレーから白になれば、より黒に近いグレーのあいつらは存在できなくなる。どちらにしても運命は決まっているさ」
男はそう言うと声を上げて笑った。
「いいか
関空島の東の端にある海上保安航空基地。伊達の第一秘書の加茂が、到着した沢渡達を出迎えた。
「伊丹に寄ってもいいですよ?」
東京に戻ると言う権藤に、加茂が伊丹空港までヘリコプターで送ると進言したが、権藤はそれを断った。
「東京までは新幹線で帰るさ。時間も大して変わらん。それより、彼らをよろしく頼む」
「分かりました」
加茂は感謝の意を込めて権藤の手を握ると、先に総理の私費で手配したヘリコプターに乗り込んだ。
「沢渡、安河内達も昼過ぎには国民宿舎に到着する。合流したら大人しくする必要はない。思う存分やれ」
「はい」
今度は権藤が沢渡の手を握り、肩を叩いて見送った。続いて柏木が権藤に手を差し出した。
「権藤さん、気を付けて下さいね」
「ああ。油断して投げられないようにするよ」
権藤のジョークに、柏木は口を尖らせた。
「根に持つ男は嫌われますよ」
それでも笑顔で握手を交わし、ヘリコプターに乗り込んだ柏木は、ヘッドセットを装着して窓から権藤に手を振った。権藤も手を振り返し、ローターの回転が上がる前にその場を少し離れた。ヘリコプターが視界の中で小さくなると、権藤はジャケットのポケットを探って舌打ちした。
「そういや、携帯は北京に飛んだんだったな」
権藤は代わりにポケットから取りだした飴を口に放り込み、駅までの道程をのんびりと歩き始めた。
標高二千メートルに満たない大山だが、上空から見るその山容は、柏木の目に富士山よりも雄大に映り、圧倒されていた。ヘリコプターは大山の東側を大きく迂回し、北壁の大きく浸食された山肌を正面に、目的地へと近づいてゆく。
ヘリコプターは国民宿舎の五〇〇メートル北に位置するサッカー場へと着陸すると、その場で沢渡と柏木を降ろし、加茂を乗せたまま伊達のいる境港へと飛び立った。
「こんな所が鳥取にあったんだ。砂丘のイメージしかなかった」
柏木は両手を広げて、肺に大山の澄んだ空気を思い切り送り込んだ。周りの木々は所々で色づき始めている。
「とりあえず安河内さん達が来るまでは、やることがないな。この広い大山を二人で警戒しようと思っても無理だ」
沢渡はポケットから煙草を取り出して火を着けた。澄んだ青空に細い煙が登ってゆく。
「悠平さんもこんな空気の美味しいところで煙草なんか吸わなくてもいいのに」
大山に背中を向けて歩き出した沢渡に、柏木は腕組みをして、大袈裟に首を横に振りながら言った。
「空気に味なんかあるかよ。だが煙草には味がある。それと、その『悠平さん』というのはもう良いんじゃないか?」
「せっかく慣れてきたのにな。綾って名前も気に入ってたのに」
「アイリ、だったか。字はどう書く?」
「愛情の愛に、郷里の里。お母さんがシャーロック・ホームズのファンでね」
「アイリーン・アドラーか。ピッタリだな」
沢渡の言葉を聞いて、後ろを歩いていた柏木が沢渡の前に進み出て顔を覗き込んだ。柏木の好奇に溢れた顔を見て沢渡は立ち止まった。
「なんだよ」
「いや、シャーロック・ホームズを読んでたんだっていうのも意外だし、私にピッタリって言ったのも意外だったから。褒めてるんだよね、それ」
沢渡は鼻を鳴らしただけで指に挟んでいたタバコを咥え、目の前の柏木を躱して再び歩き出した。
関西空港駅。切符売り場から出てきた権藤に、一人の女が近づいてきた。
「桜庭のボスだな?」
権藤は、その女が誰か聞かずとも理解した。
「小笠原仁那か? いつからここに居る?」
答えを聞く前に想像できていた権藤だったが、それを認めたくない気持ちがその質問を口にさせた。
「同じ便に乗っていた。お前はヘリに乗らなかったんだな」
小笠原に敵意は感じられない。ただ、しきりに周囲を気にしている。
「あの男達はどこに行った?」
「大山だ。カルデラを使うのだろう? あのレコーダーの音声は聞いた」
「違う、桜庭の娘達じゃない。兄の部下を殺した男達はどこに行ったかと聞いている」
「何? じゃあ、君の店で死んでいたあの男を撃ったのは君じゃないのか」
「違う。日本人の男だ。名前は知らない」
権藤の目は驚愕で見開かれた。
「その様子じゃ何も知らなそうだ」
小笠原の舌打ちに、権藤は返す言葉が無かった。
「何があったか話してやろう。私が店に戻ったら、あの部屋から男の怒鳴る声がした――」
沢渡達にカルデラの情報を渡した後、小笠原は店を偽のブランド時計を持ってきた男に任せて食事に出た。いつものようにマーケットの南側にある食堂で簡単に食事を済ませて店に戻った瞬間、胸騒ぎがした。奥の隠し扉が開け放たれたままになっている。慌てて奥へと急ぐと、中から聞き慣れない声が響いてきた。
「日本人はどこに行った!」
怒号の直後にガラスが砕ける音がした。小笠原は一度カウンターへと戻り、レジの下の引き出しからボイスレコーダーと拳銃を取り出した。拳銃は腰の後ろに隠し、ボイスレコーダーを手のひらに握り締めると、一度深呼吸をして隠し部屋へと向かった。
「日本人と話したのは私だ。その男は何も知らない」
小笠原は赤い傘の中にボイスレコーダーを落とし込んでそう言うと、両手を挙げて怒鳴っていた男の前へと進んだ。小笠原の背中の方では、割れたガラスで額を切った男が傷口を抑えて呻いている。
「お前は小笠原徹の妹だな?」
「そうだ。兄の名前が出てくるということは、カルデラの件だろ? 今更ここを襲っても遅い。もうあの二人の日本人に全て話している」
「全て? 嘘だな。お前なんぞがそんな情報は持っていまい。奴らは何を知っていた?」
男は小笠原にそう言いながら上着の中から拳銃を抜いて、銃口は下に向けたままでトリガーガードに人差し指を添わせて握った。
「さあ、どうだろうね。ただ、さっきも言ったが全て話している。富士山は噴火させられそうにないな」
そう言って笑った小笠原に、男が笑い返した。
「なるほど、よく知っているようだ。だが、誰も富士山を噴火させようとは思っていない。そう信じているのは間抜けな連中だけだ」
「何?」
小笠原が男に一歩詰め寄ると、男は銃口を小笠原に向けた。
「どうやら死ぬ覚悟はできているらしい。それなら教えてやろう。三日後に日本の首相がタイミングよく火山に行くようでな。大山とかいう山だ。そこを攻撃させてもらう。阿蘇で動いた六人をそのまま使ってな」
小笠原は更に半歩男に近づいた。銃口は小笠原の額に付きそうな位置に来ている。
「兄と同じで死にたがりなのかな?」
「兄が何だと?」
「ああ、そうか。それも知らないんだな? 小笠原徹はしっかり仕事を終えた後に死んだよ」
その言葉に小笠原の膝が男の死角から跳ね上がって、男の脇腹を襲った。
「貴様が殺したのか! 貴様が殺したんだな!」
よろけた男を見て、額を割られてうずくまっていた男が、小笠原の隠し持っていた拳銃を抜いた。だが、その銃口が男を捉えるより早く、男の拳銃が続けて三度火を噴いた。直後に小笠原が拳銃を握っていた男の腕を蹴り上げ、脇腹にもう一発蹴りを入れると、隠し部屋を飛び出した。その時に「桜庭、お前の敵は日本政府だ」と一言残して。
「あの男は見覚えがある。桜庭と何度か会っていた」
新大阪へと向かう特急はるかの車内、話し終えた小笠原の目には涙が浮かんでいた。話しながら兄を失った実感が湧いてきたのだろう。権藤は少し間を置いて小笠原に尋ねた。
「その日本人が持っていた拳銃はリボルバーだったか?」
それに小笠原はすぐに首を横に振り、しばらくして口を開いた。
「違う。目の前で見たがノリンコのオートマティックだった」
銃の違いだけでなく、沢渡達を襲った人間とは手口がかけ離れている点からも、権藤は小笠原の店を襲ったのは全く別のグループだと結論付けた。
「何故、敵は日本政府だと? その男は間違いなく日本政府側の人間なのか?」
「一度だけ桜庭との会話が耳に入ったことがある。ほんの一部だけだ。だが『霞が関に帰ったら伝えておく』と男が言っていた。どうだ? 間違いないだろう?」
権藤はそれを聞いて頷いた。
「そうだな。間違いなさそうだ。それで、これからどうするつもりだ?」
権藤の問いに、小笠原は鋭い視線で権藤を睨みつけた。その目に権藤は眉間に深く皺を作った。
「兄を殺された。たった一人の家族だ。男を見つけ出して、私が殺す」
「だが、日本に向かったという確証はないんだろう?」
それに対して小笠原は俯いた。
「しょうがないな。我々にとっても脅威だ。三年前に桜庭と接触していそうな人物の写真を片っ端から見せよう。だが、殺すのはダメだ。気持ちは分かるが、我々としては真実を暴かねばならん」
殺すなと言われ、再び権藤を睨みつけた小笠原だったが、権藤の厳しい視線に再び頭を垂れた。
「分かった。従おう」
午後一時半、東京から七時間以上をかけてやってきた安河内が、疲れた顔をして宿舎のカフェに姿を見せた。他に外調のメンバー三人と、沢渡には見慣れない男を一人引き連れている。
「上海では大変だったな。彼が産総研の矢動丸君」
矢動丸は紹介されると頭を小さく下げた。その顔は不機嫌さを隠そうともしていない。
「権藤の部下の沢渡です。昨晩、お声だけは聴きました」
「ああ」
差し出された沢渡の手を、矢動丸は仕方なくといった風に握り返した。
「まったく、冗談じゃないですよ。一般人を危険な現場に連れ出さなくても。モニターで見ただけでも、ある程度分かるって言ったんだけどな」
矢動丸の口から出た愚痴に、沢渡は首を捻って安河内を見た。
「矢動丸君には、補助装置を設置しそうな場所を選定してもらう。ある程度地図上で計算できるらしいんだが、現地に行った方が間違いないと総理に諭されてね」
経緯を説明する間にも口の中で不満を漏らす矢動丸に、安河内は苦笑した。
「駅に到着してからですよ? 明後日大山が狙われるって聞かされたのは。酷い話だ。噴火する前に私は逃げますからね」
「その噴火を止めるのが仕事だと説明したでしょう。矢動丸君も、選定には自信があると言っていたじゃないですか」
「確かに言いましたけどね。私を除いてここに居るのはギリギリ六人じゃないですか。もっと、こう、大きな捜索部隊を想像していたんですよ」
それには安河内も申し訳ない顔をした。
「それも言ったじゃないですか。必要以上にこの件を人に話すわけにはいかないんです。とにかくやるしかありません。会議室に場所を移しましょう」
安河内は矢動丸の肩を押すような形で、地下の会議室へ移動を促した。
会議室に入ると、矢動丸は背負っていたリュックの中から、四つの白い板状の物を取りだし、それを机の上に並べた。大山の立体模型だ。
「今朝研究所で、国土地理院のデータから3Dプリンターで出力しました。今朝といっても四時ですけどね。何に使うのか疑問も持たなかった自分が腹立たしいです」
まだ矢動丸の機嫌は直っていないようだ。
「安河内さん、例のデータはまだですか?」
矢動丸が安河内に尋ねると、安河内はワイシャツの胸ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見た。
「まだですね。もうすぐだと思いますけど」
矢動丸は嘆息して腕組みをしている。
「例のデータって何ですか?」
沢渡が安河内に訊いた。
「私達もこっちで色々と調べていてね。六つの補助装置と、六人の人員。阿蘇山で動かすとして、個別に動いたとは考えにくいだろう? 当然レンタカーを使ったと睨んだ。特定するのは難しくはなかった。噴火の前日から噴火後まで中国人がミニバンを借りているのを突き止めてね。今、そのミニバンのナビの軌跡データを復元している。ここに到着する頃には解析は完了するだろうって話だったんだが」
それを聞いて柏木が腰を上げた。
「それじゃあ、コーヒーでも持って来ましょうか? 安河内さんたちは飲まれてないでしょう?」
「ああ。それじゃあ頼んでいいかな。沢渡はいいのか?」
「俺達はさっき飲んだから。一人じゃ持てないだろう? 俺も行こうか?」
「大丈夫、持てなかったら宿舎の人に手伝ってもらう」
沢渡が柏木に向かって頷くと、柏木は頷き返して会議室を出た。
「なるほどね。いかにもできそうな女だ。抱いたか?」
安河内の言葉に、沢渡は思わず咳き込んだ。
柏木が運んできたコーヒーに安河内達が口をつけていると、カーナビのデータよりも先に、沢渡の携帯へ権藤からの着信があった。
「小笠原の店で死んでいた男を撃った奴が分かった。河西だ」
「河西。元外調の河西さんですか?」
「そうだ。裏で糸を引いているのが誰かはまだ分からんが。私は今、小笠原と共に私の別宅に居る」
権藤はここまでの経緯と、小笠原から聞いた話を伝えた。
「それじゃあ、大山の情報が俺達に漏れていると考えて動くって可能性が高いですね」
「そう思っていた方が良い。河西が中国の軍部にどれだけ関与しているか不明だが、小笠原徹の死に関わっているとしたら、それなりに入り込んでいるだろうからな」
「ターゲットが変更されるってことも」
「あるかもしれんが、恐らくそのまま大山を狙うだろう」
「それはチーフの勘ですか?」
「そうだ」
勘と言うわりに自信を持った権藤の答えに、沢渡はそれを信用した。権藤の勘はよく当たる。
「ところで、河西の名前を聞いても驚かないようだな」
「そんなことありません。驚きました」
「まあいい。些細なことでも報告しろよ」
「了解しました」
沢渡が電話を切り、皆にどう伝えるか考えていると、今度は安河内の電話が鳴った。電話を受けた安河内は、会議室から出て話している。しばらくして戻った安河内は、矢動丸一人を会議室内に残して、柏木を含めた外調のメンバーを外に出し、沢渡に権藤からの電話の内容を伝えるよう指示した。柏木を除いた全員が河西とは面識がある。彼らは、河西の名前を聞いてショックを受けていた。
「人に関わるのに疲れて漁師になると聞いていたが、まだ汚れ仕事をしているようだ」
そう話した安河内だけでなく、他のメンバーもその噂は聞いていた。自分達の行く先と重ねたのか、一様に俯きしばらく言葉を失っていた。そこに会議室の扉が開いて、矢動丸が顔を出した。
「データが届きましたけど」
その声に全員が顔を上げて、重たい空気を振り切るように会議室内へと戻った。
「それで、補助装置の設置場所は推測できそうですか?」
安河内が椅子に座りながら尋ねると、矢動丸は大山の模型を指で二度叩いた。
「もう出しましたよ。印を付けている所が候補地です」
それを聞いて、椅子に座りかけた安河内が身を乗り出して模型を見た。確かに大山を囲むように六つの印が付けられている。多くが大山環状道路の近くだ。
「随分と仕事が早いですね」
矢動丸は安河内の言葉に当然だという顔をしている。
「ニュートリノの観測データが元々ありましたからね。狙っている深度は分かっていましたから。この場所で間違いないって言っても良いです」
「疑うわけではないですが、これらの場所にした根拠は?」
「詳しい割り出し方の説明は理解が難しいでしょうから、簡単に言います。まず大切なのは同じ標高で正六角形の頂点上に設置するということ。多少の誤差は問題ないでしょうけどね。それと、一か所につき一人ということで、車を降りた位置からそれ程離れないはず。補助装置と、一泊分の装備。それなりの重量でしょうから。それを踏まえて、今回の計算で出した標高が約四一四メートル。その標高近くに車で行けて、六か所が等間隔になる場所を選定すると、この一パターンしかありません」
最初の一言には多少腹立ちもしたが、矢動丸の説明に安河内は何度も頷いた。
「思ったよりお互いの距離が離れているな。中心も山頂とは随分ずれているようだが」
「山頂が火山の中心だとは限りませんから。裾野が広がった全景を基準に見たらほぼ中心は重なっているでしょう? 六角形の対角線の長さは約十五キロです。車で一周するのに三時間半から四時間ですね」
「よし、初めから全員が別れてその場所に散る必要はない。まずは三つのチームに別れよう。各ポイント近くでレンタカーのミニバンを見つけたら報告の上、追尾。その場合も一人は必ずポイントに待機だ。ギリギリの人員だが、それでいいな。異論はあるか?」
安河内が各人の顔を見渡すと、口々に「ありません」と答えた。安河内は一度頷き指示を続けた。
「日没を待って、六つ同時に補助装置を手に入れる。今回の最優先事項は、大山を噴火させないことだ。中国側が作戦を中止して、追及にシラを通したとしても、それで構わん。安達、本木、北条は車を手配してきてくれ」
「了解です」
安河内に指示された三人は、引き締まった顔で会議室を出た。
「矢動丸さんはどうしますか?」
「ついでです。最後まで見届けますよ。明後日には総理も来るんでしょう? 嫌味のひとつでも言わないと収まらない」
冗談でもなくそう言った矢動丸に、安河内は表情を崩さずただ頷いた。
「沢渡と柏木、ちょっといいか」
「はい」
席を立った安河内の後に続いて、沢渡と柏木も会議室を出た。そのまま宿舎を出て、大山を目の前に仰ぎ見る。
「弁当忘れても傘忘れるな、か。北陸だけじゃなく、山陰の方でも言われるらしいな」
さっきまで秋晴れの空が広がっていた大山上空に、厚い雲がかかっている。それを見た安河内がそう呟いて、後ろに立つ沢渡へと振り向いた。
「柏木君にあの男のことをどこまで話した?」
そう言った安河内の視線は、沢渡の隣に立つ柏木に移った。
「どこまで、と言いますと? 私が手を下したことは話しました。と言うよりも、勘づかれたって言った方が」
小声で答える沢渡の横で、柏木は何の話かと不安そうな顔をしている。
「真実はまだ話していない、か。沢渡は知らんだろうが、私と権藤チーフは気付いているぞ。禿げオヤジは気付いてないだろうがな」
安河内が何を言っているのか理解した沢渡は唇を噛んだ。
「話していないんだな? あの男に連絡は?」
「まだです」
答えて沢渡は失言に表情を歪めたが遅かった。
「やはりな。チーフがすぐに連絡を取って欲しいということだ。河西が絡んでいると分かれば、あの男に話を聞くのが確実だ。連絡先は分かるんだな?」
観念した沢渡はそれに頷いた。
「はい。暗号の中にありましたから」
同時に外に連れ出されたにもかかわらず会話に置いて行かれている柏木は、安河内と沢渡の間に立った。
「何の話をしてるの? あの男って誰?」
柏木にその答えの予測はできていたが、はっきりと聞くまでは信じられなかった。沢渡の顔を下から睨みつける。
「君の親父さんだ。二つ目の暗号文。二十四文字目の『テ』が抜けていた。あれはミスじゃなく、俺に連絡先を知らせる為の暗号なんだ」
言葉を失った柏木の代わりに、大山の空から雷鳴が響いた。
「君の親父さんは生きている」
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