第9話 激震の予兆

「俺にどうしろって言うんですか?」

 三年前の釜山。沢渡はセダンの助手席で、目の前の暗い海を見つめていた。対岸にある工場の光が波に揺れている。身体が僅かに震えている気がするのは、苦手な海を目前にしているからだというだけではなさそうだ。

「桜庭さんは、裏切って北に付いたって結論が出されているんですよ」

 沢渡が運転席側に目を向けると、桜庭は窓を開けたドアに肘を掛けて煙草をふかしている。

「チーフからは、私を消せと言われて来たんだろう? あの人のことだ、はっきりと『殺せ』とは言うまい」

「確かに『始末してしっかり掃除してこい』と言われましたけど」

「なら良いじゃないか。そのまま私の存在を消す手伝いをしてくれればいい。私は消されている間に情報を集める」

「でも、とても信じられない。俺には判断できません」

 夜風が煙草の煙を窓の外に吸い上げるように奪ってゆく代わりに、波音を車内に運んでくる。深夜にもかかわらず、常夜灯の下で羽を休める海鳥が高くひと声鳴いた。

「信じられないんじゃなくて、信じたくないんじゃないのか?」

 桜庭のその言葉に沈黙した沢渡は、図星だと答えているも同然だった。

「チーフが二重スパイなのは間違いないんだ。私がチーフだけに伝えた偽の情報が、そのまま北に伝わっていた」

「盗聴やハッキングが無かったと言い切れますか?」

 沢渡の声が思わず大きくなる。桜庭は車の窓を閉めて煙草を灰皿にねじ込んだ。

「確かに、その可能性もゼロだとは言えない。だが、私を消そうとしているのが何よりの証拠だ。とは言っても、私の潔白を今は証明できないが」

「少し考える時間を下さい」

「駄目だ。時間がない。もう十五分もしたら、李も私の命を狙いにやってくる」

 沢渡は深く溜息を吐くと、助手席の窓を開けた。

「煙草を一本下さい。吸い終わった時に答えを出します」

 桜庭は黙って頷き、沢渡に煙草を渡して火を着けた。

 沢渡はひと口目の煙を深く肺に吸い込んだ。ニコチンが体内を回り、血管を細くする。脳が酸欠になり、思考が鈍くなる。そういう気分になるだけかもしれないが、雑念を追い払い、必要なことだけを集中して考える時に、沢渡はいつもこうして煙草をふかしている。制限時間を最後まで使い切るように、フィルターを挟む指が煙草の熱を感じるまで吸うと、ようやく決心して灰皿にフィルターだけになった煙草を沈めた。

「分かりました。桜庭さんの言う通りにします。でも、完全に信じたわけじゃありません。もし、裏切ったのが桜庭さんだったら、今度会った時は」

「ああ、殺してくれて構わん」

「それじゃあ、方法を教えて下さい。桜庭さんを消す方法を。李が来る前に片づけないと」

「いや、消してもらうのは李が来るのを待ってからだ。それまでに準備を済ませて、李には目撃者になってもらう」

 桜庭は口角を僅かに上げると、ダッシュボードから柄だけのナイフと赤い液体の入った袋を取り出した。

「それで騙せますか?」

「バレたら本当に殺せばいい」

 簡単にそう言った桜庭に、沢渡も覚悟を決めた。狂言だと悟られれば、自分も北側に付いたと見られて殺されるだろう。これはそういう芝居なのだ。


 霧雨が降り始めた大山の麓で、沢渡は三年前に交わした桜庭との会話を思い出していた。

「父が生きているなんて、そんなこと」

 急に冷えてきた山の空気と霧雨に体温を奪われ始めた柏木は、しゃがみ込んで自分の肩を抱いた。

「本当に申し訳ない。娘がいるなんてことも聞かされてなかった」

 沢渡は自分のジャケットを柏木の肩に掛けながらそう頭を下げたが、柏木は俯いたままだ。

「じゃあ、私が泣いて抱いていた骨は誰の骨なのよ。何回も祈ったお墓に眠ってるのは誰なのよ!」

「それは俺にも分からない。名前も知らない人間の遺体を使わせてもらった」

 霧雨だった雨粒が大きくなってゆく。沢渡は柏木の腕を掴み、オープンテラスの屋根の下に移動させ、椅子に座らせた。それでも柏木は沢渡と目を合わせようとしない。

 安河内は二人の様子を見て、頭を掻いた。

「私は中に戻っている。落ち着いたら入ってこい」

 頷く沢渡を確認して、安河内は宿舎の中に戻った。

「すぐに納得はできないだろうが」

 柏木の肩に掛けたジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した沢渡は、電話を掛けて、出た相手とひと言交わした後にスマートフォンを柏木に差し出した。

「文句は直接親父さんに言ってくれ」

 柏木が自分の前髪から落ちる雨粒を見ながらスマートフォンを耳に当てると、懐かしい声が聴こえた。

「愛里か?」

「お父さんっ」

 父の声を聴いて顔を上げた柏木の視線の先で、大山の姿は白いカーテンに隠されていた。

「子供の頃から無茶はするなと言ってきたはずだけどな。二度と拳銃を持った相手に素手で立ち向かうなよ」

「え?」

「だが、良い蹴りだった。お陰で、好きなピーナッツも食えなくなったよ。まだ顎が痛む」

 それを聞いた柏木は思わず立ち上がった。

「あれ、お父さんだったの?」

 上海の日本総領事館前で柏木を拉致した男。それが自分の父だと知って、柏木は納得した。人生で初めて銃を突き付けられたというのに、恐怖心が全く湧かなかったのが自分でも不思議だったのだ。だが同時に、父だと気付かなかった悔しさもある。

「今まで悪かったな。許してもらおうとか、理解してもらおうなんて都合の良いことは思っちゃいない。ただ、仕方なかった」

「ううん。分かってる。私もお父さんの仕事は理解してるつもり。ただ、ちょっと驚いただけ。目の前にいる馬鹿にはムカついたけど。お父さんはあの蹴りでチャラってことにしてあげる」

 そう言って沢渡を睨みつつも口元に笑みを浮かべる柏木を見て、沢渡は安心した。手を伸ばして柏木に電話を代わるよう求めた。

「その馬鹿に代わるね」

 何らかの攻撃があるかと沢渡は身構えたが、柏木はスマートフォンを渡しただけで何もしなかった。

「すみません。話してしまいました」

「構わんさ。政治家でもない人間が嘘を吐き続けるのは難しい」

「いや、お嬢さんだけじゃなくて、安河内さんと、権藤さんも。話してはなかったんですが、薄々勘づかれていたようで」

「それも構わん。時が来たということだろう。今チーフは近くに居るか?」

「いいえ。確認したわけではないですけど」

「そうか。近くにいると思っておいた方が良い。この二日間が勝負だ」

「桜庭さんも来ているんですね、大山に」

「ああ。外調は国内で武装できんだろう? 汚れ役は私と私の兵隊が引き受ける。下手を打っても私は死んでいる人間だ。どうにでも誤魔化せる」

 そう言って自嘲気味に笑う桜庭に沢渡が同情するわけにはいかない。桜庭が自分で選んだ道だ。

「黒幕に心当たりはありますか?」

「黒幕? どの黒幕だ?」

 桜庭がどの黒幕かと尋ねるのも無理はない。カルデラには多くの人間の思惑が絡んでいる。

「こちら側の人間で、カルデラを利用しようとしている者がいます」

「そっちの黒幕か。ああ、疑わしい人間はいる。今のところ確証はないが、ここではっきりさせてやる」

「それは誰だか聞かせてもらえますか?」

「もちろん教える。だが、何度も言うが確証はない。三年前にチーフを動かし、俺を嵌めたのも、今、カルデラと外調をいいように利用しているのも、恐らく」

 桜庭の口からトーンを抑えて出た名前に、沢渡は不思議と特別な感慨は湧かなかった。外調で働いて十年。騙し合いと裏切り合いの中に、常に身を置いている。桜庭の口から出た人間が、自分と同じ渦の中にいて、逆に向かって泳いでいるというだけだ。

「私の選択が間違いじゃなかったと証明して下さい」

「もちろんだ。その為に三年間死ぬ気で動いてきた」

 桜庭にとって三年という時間はどれ程の長さだったのか。沢渡は自身の三年間を思い返した。三年は長い。内に目を向ければ命令に従い動く日々が続いていて、然したる変化もないが、世界に目を向ければ大きな変化の中に立っている。

 沢渡の胸に、権藤から外調に誘われた時の言葉が蘇ってきた。

 ――国の為に働くなどと考えるな。自分が仕事終わりに旨い酒を飲む為と思えばいい。

 初めてその言葉を聞いた時には、ふざけたことを言うオヤジだと思った沢渡だったが、今ではその言葉の真意もよく分かる。

「今回の件が終わったら一杯奢らせて下さい」

「駄目だ」

「桜庭さん」

 桜庭はこの国に失望しているのだ。疑いが晴らせたとしても、過去の生活に戻るつもりはないのだろう。もっと早く手を打てば桜庭の人生も違ったかもしれないと、沢渡はほぞを嚙んだ。

「一杯では割に合わん」

「え?」

「三年分だぞ。三年間、旨い酒とは無縁だったからな」

「了解しました。覚悟しておきます」

 電話を切った後に見せた沢渡の晴れやかな顔に、柏木は思わず沢渡の腕を掴んだ。

「何を話したの?」

 沢渡が見慣れていた表情に戻っている柏木に、沢渡はそのままの内容を伝えた。

「酒を奢る約束をした」

 予想していた内容と違ったのか、柏木は何度か瞬きをしていたが、すぐに笑顔を見せた。

「当然私も奢ってもらえるのよね? 一杯だけじゃ割に合わないからね」

「親子だな。同じことを言う」

 沢渡はそう言って笑いながら宿舎の中に戻った。その姿を柏木はその場で見送ると、背中に温かい光を感じて振り返った。

「女の心も、ここまでは変わりやすくないよね」

 雨はいつの間にか上がり、大山の山頂が雲の上に顔を出していた。

 柏木は目を閉じ、今日何度目かの深呼吸をした。雨上がりの匂いも、都会のそれとは違い、柔らかな土の匂いを多く含んでいる。その中に、沢渡のジャケットに染み込んだ煙草の匂いがした。

「煙草くさ」

 柏木は顔をしかめてジャケットを脱ぐと、それを片手で振りながら沢渡の後を追った。


 十月十九日午前七時。大山周辺に外調の三チームが散らばった。安河内と北条は西の伯耆ほうき町、安達と本木は北東の琴浦ことうら町、沢渡と柏木は県境を越えて南東の岡山県真庭まにわ市へと移動した。

 何も起こらないまま、時間だけが過ぎてゆく。それぞれの胸に様々な不安がよぎり始めた午前十一時過ぎ。琴浦町に居る安達から、柏木を含む全員にメッセージが届いた。

 ――船上山せんじょうざんダムで一人を降ろし、白いミニバンが県道三四号線を西進。本木がバンの追尾を開始した。

 直後に本木からバンを後方から捉えた画像と、車両ナンバーが送られてきた。

「どうやら反時計回りに回っているようだな」

 沢渡の言葉に、柏木が腕時計へ視線を動かした。

「ここに来るのは一時ぐらい?」

「早くてそのくらいだろうな」

 答えながら沢渡は、届いたメッセージを桜庭に転送した。

「さて、どう動くか」


「さあ外調さん、どう動く」

 同時刻、釣竿を入れるロッドケースを背中に担いだ男が、単眼鏡を覗いている。その単眼鏡は、千丈せんじょうだき展望駐車場近くの物陰に潜む男を捉えていた。そして、その男の視線は、近くのベンチに座るリュックを背負った男に向けられている。

 他の五か所でも、同じようにロッドケースを担いだ男たちが息を潜めていた。


 午後一時半。ミニバンの追尾を途中から代わった北条から、沢渡に着信があった。

山中さんちゅうだとは限らなかったようだ」

 やや沈んだ北条の声に、沢渡は怪訝な顔をした。

「どこです? 俺達は牧場の東側に居ますが」

「そこから観覧車は見えるか?」

 沢渡は視線を動かした。南側に小さな赤い観覧車が見える。

「はい、見えます」

「その近くのペンションに入った。ここが最後のポイントのようだ。車内には誰も残っていない」

「ペンションですか。厄介ですね。中で稼働させられると手が出せません」

「矢動丸センセーに確認したが、補助装置一台だけの稼働だけならまず噴火までは至らないだろうと言っていた。とりあえず二人は、最初のポイントを探ってくれるか?」

 そう言われた沢渡は、カーナビを操作した。六つ全てのポイントは既に登録されている。

「倉吉市のポイントですね。了解です。すぐに向かいます」

 電話の内容を説明される前に車を走らせた沢渡に、柏木は口を尖らせた。

「何、どうしたの? 説明してよね」

「最後の一人がペンションに入った。人目がある場所で下手なことはできないだろう? まだ確認できていない最初の一人を捜しに行く」

「そういうことか。それなら私がペンションに泊まって、さりげなく近づくって手が使えるんじゃない?」

 沢渡はその案を聞いて走らせ始めたばかりの車を停めた。

「どうやるつもりだ?」

「最初に言ったでしょ。寝ずに男を落とすのなんて簡単」

「安河内さんに提案してみる」

 反対してくれと心のどこかで祈りながら安河内に話した沢渡だったが、あっさり了承されて小さく嘆息した。その沢渡の様子を見た柏木は表情を曇らせた。

「駄目だって?」

「いや、やらせてみろと言われたよ」

「なら良いじゃない。さ、引き返して」

 そう声を掛けても、すぐには車を動かそうとしない沢渡の顔を柏木は覗き込んだ。

 柏木に覗き込まれ、沢渡は視線を逸らし、車の屋根を見上げた。

「無茶はするなよ」

「誰に言ってるの? 屋根に誰かいる?」

 含み笑いで柏木に言われ、沢渡は柏木を睨んだ。

「君だ。今日対峙するのは紛れもない敵なんだ。それに、河西も」

 激しく柏木に向けて言葉を続ける沢渡の口を、柏木の唇が塞いだ。

「馬鹿な、何をっ」

 顎を引いて逃れた沢渡の頭を両手で掴み、もう一度柏木は唇を押し付けた。観念して沢渡もそれを受け入れる。腰に腕を回された柏木は、顔を沢渡の首元にうずめた。熱い吐息が沢渡の首を撫でる。

「無茶はしません。お父さんと、お酒が待ってるもん」

 言い終えて沢渡の耳に軽くキスをした柏木は、沢渡の両肩に置いた腕を伸ばし、暫くその顔を見つめると、両手のひらで挟むように軽く頬を叩いた。

「いてっ」

「ほら、Uターンして。早く!」

「分かったから、大人しく座っていろ」

 来た道を戻り、観覧車を目印に車を走らせる。ペンションの手前一〇〇メートル、沢渡が乗っているセダンと同型の車が道路の端に寄せて停まっている。その後ろに車を停め、沢渡と柏木が車から降りると、前の車から北条もデジタルカメラを片手に降りてきた。

「この男だ」

 北条は早速デジタルカメラのモニターを柏木に向け、数枚の写真を見せた。正面からの写真はないが、横顔はハッキリと捉えている。口の周りに髭を蓄えているが、意外と若そうだ。

「あまりタイプじゃないな」

 軽口を叩いた柏木の頭に、沢渡が軽く拳骨を落とした。

「自分が言い出したんだ。責任を持ってやれよ」

「分かってますって。それじゃ、行ってきます」

 柏木は後部座席からリュックを取り出し、右肩だけに肩ひもを通してペンションへと歩き始めた。五歩ほど進んで振り返ると、沢渡に向かって手を振って再び歩き出す。

「沢渡、女には気を付けろよ」

 北条は沢渡をちらりと見て言った。

「大丈夫です。そんな気はありません」

「だが、口紅が付いている」

 北条に指摘され、沢渡は慌てて口元を拭った。北条は目尻を下げながら、自分の首筋を指で叩く。

「ここにも付いてるぜ」

「勘弁して下さいよ。誰にも言わないで下さい」

 沢渡は北条の攻撃から逃げるように車へと乗り込んだ。

「それじゃあ、俺は倉吉市へ向かいます」

「ああ、頼む」

 沢渡の車が走り去ると、北条も車に乗り込んだ。二台の車は、国道四八二号線に出たところで東西に分かれた。


 国道沿いのガソリンスタンドで、沢渡は給油している。最近ではすっかり珍しくなったセルフではないガソリンスタンドだ。給油中に店員が窓を拭いている間、沢渡は桜庭に電話を掛けていた。

「ええ、真庭市の蒜山ひるぜん高原にあるペンションです。俺はこれから倉吉に。はい。いえ、不自然になってはいけないので伝えていません。でも、桜庭さんに任せます。そうですか。では、早く終わらせて会ってあげて下さい。会いたがってますから。はい、それではまた」

 給油が終わり、店員が窓をノックした。エンジンをかけ、パワーウィンドウを下げて伝票にサインをすると、店員が話しかけた。

「観光ですか?」

 レンタカーのナンバープレートを見てそう判断したのだろう。手には大山の観光パンフレットを手にしている。

「ええ、そうです」

 沢渡がそう答えると、店員はパンフレットを差し出した。

「次回割引になるクーポンも中にありますので、お帰りの際にもご利用下さい」

 突き返す理由もなく礼を言って受け取ると、店員が国道への合流を誘導した。

「懐かしいな。昔はどこもこうだった」

 日本は確実に変わり始めた。自国文化の物差しだけでは通用しない世の中だ。この変化が進歩と呼べるものになるかは、自分達の働きに掛かっている。沢渡はステアリングを掴む手に力を込め、アクセルを踏み込んだ。


 午後五時。大山の国民宿舎に、パトカーに先導されてマイクロバスが到着した。主な従業員が、玄関の外に並んでその客を出迎える。

 二人のSPに続いて伊達がマイクロバスから降りてくると、従業員たちは大きな声で挨拶をして頭を下げた。それに伊達が片手を挙げて応える。伊達とSP以外にも、十五人の客がバスから降りてきた。

 全ての客が降りると、毎年恒例なのか、慣れた様子で大山をバックに整列した。記念撮影だ。中央には伊達が板についた笑顔で立っている。

 シャッターが二回切られると、列は崩れてそれぞれ宿舎の中へと移動していった。

 宿舎の中に入る前、伊達と秘書の加茂が振り向いて見上げた大山は、色づき始めた紅葉が夕陽に照らされ、山全体が炎に包まれているかのようだった。


 六つの補助装置の設置場所と、ペンションに泊まっている一人を除いた五人のテント設営場所を確認した外調のメンバーは、それぞれ近くの食堂や民宿、車の中で待機している。

 この日の日没は午後五時二三分。その時間以降、柏木のタイミングに合わせて一斉に行動に移すことになっている。

 だが、柏木は苦戦していた。

 さすがに警戒心が強い。髭面の男は夕食も食堂では食べず、自室で済ませたようだ。この様子では風呂へも入らないだろう。一度部屋をノックしてバーへ誘ってみたが、あっさりと断られた。

「やっぱり強行突破しかないか」

 時刻は六時を回った。柏木は決心して五分後に決行するとメッセージを流した。

 すぐにペンションを抜け出せるように準備を済ませ、ウイスキーのミニボトルを開けて、一気に口に含みうがいをした。

「よし、行こう」

 柏木は自分の頬を数回叩き、ブラウスのボタンを開けて、覗いた白い胸元も手のひらで叩いた。白い肌がみるみる赤くなる。姿見の前でもう一度「よし!」と気合を込めると、髭面の男の部屋に向かった。

 部屋をノックすると、面倒くさそうな返事の後に、十センチだけドアが開いた。

「バーが嫌いなら、お部屋で飲みません?」

「いらない。いらない」

 日本語がそれ程得意ではないのだろう。語彙少なく断ってはいたが、その目は胸元に向いていた。

「あたしのお部屋のお酒無くなっちゃったの。ねえ、一杯だけ。ね?」

 柏木はそう言って上目遣いで両手を顔の前で合わせた。同時に二の腕で胸を寄せて膨らみを強調させる。

 男はドアを開けて柏木の背後に誰もいないのを確認して、柏木を招き入れた。

「入れ」

「ありがとー」

 柏木は男に抱きつくと、部屋の中を見渡し補助装置を確認した。それはリュックから出され、ベッドの足元に置かれていた。

「お礼にこれ、受け取ってね」

 柏木はスタンガンを男の首に押し当てた。

「うぐっ」

 男は呻き声を発し、無様に涎を垂らして足元から崩れた。

「うえーっ、涎がブラウスに付いちゃったじゃない」

 柏木は軽く男の脇腹を蹴ってから、男を跨いで補助装置のあるベッドの方へ向かった。

「これ、持てるかな」

 補助装置には指を掛けられそうな所が全くなかった。持ち上げて口の開いたリュックに入れるのは難しそうだ。柏木は補助装置の上からリュックを被せた。

「一個ぐらい少し壊れても良いよね」

 柏木はそう呟くと、補助装置をリュックの開口部が上になる様に一八〇度転がした。「よし」と頷きチャックを閉めると、しゃがんで肩ひもに腕を通した。身体を前に倒して、腰に補助装置の重みを感じながら、ようやく立ち上がると「回収完了」とメッセージを流して部屋を出た。


 その頃沢渡は、補助装置があるテントに近づくことさえできなかった。

 テントまでの距離は三〇メートル。そこで足止めされている。

 沢渡が背中を預けているヒノキの皮が爆ぜた。

「くそっ、どこから撃ってきている」

 まさか銃撃があるとは予想していなかった。他の五人は無事なのか。光を放つスマートフォンを出してそれを確認することはできない。

 再びヒノキの皮が爆ぜる。敵は自分の位置を完全に把握しているようだ。だが、こちらは相手の位置は大まかな方向しか分からない。この状況では、相手を倒すことはおろか、補助装置を回収することなどとてもできはしない。

 沢渡は意を決して林の中をジグザグに駆けた。二度銃弾が樹に当たる音が聴こえたが、沢渡の身体に痛みが走ることはなかった。

 暗闇の中で、何度か根に足を取られ、落葉にも滑らせた。銃撃が止んでも気を緩めることなく走り続け、ようやく沢渡が林を抜けると、雑草の茂った休耕地に出た。その先には道路が見え、車も走っている。肩近くまで伸びている雑草を掻き分けながら畦道を走って道路に出ると、ようやく息を吐いてスマートフォンを出した。

「柏木は上手くやったのか」

 回収完了のメッセージは、柏木からしか届いていない。沢渡は「銃撃あり。一旦撤収した。負傷無し」とメッセージを流した。だが、三分待っても誰からも応答はなかった。

 沢渡は林の方へと視線を向けた。沢渡が乗ってきた車は林の反対側にある。車に戻るのは殺されに戻るようなものかもしれないが、放置しておくわけにもいかない。沢渡は林を南に迂回して、車へと向かった。


 補助装置の入ったリュックをペンションの裏手の物陰に隠し、部屋に纏めてある荷物を取りに戻ろうとした柏木に、一人の男が声を掛けた。

「リュックをあんな所に置いたままで良いのかな? 盗られないように見ておいてあげようか?」

 人に見られていたとは思わず、柏木は肩をびくつかせて振り向いた。

「いや、大丈夫です。すぐ戻りますから」

 愛想笑いと共にそう返した柏木だったが、異様な雰囲気にその表情を凍らせた。男はじりじりと柏木に近づいてくる。街灯を背中に浴びて、男の表情は見えない。

 ブラウスの前が大きく開いたままだと気付き、柏木は慌ててボタンを閉めるが、男は不敵な笑い声を漏らして柏木に近づいてきた。

「この場所が一番の難関だったはずだ。沢渡が来るかと思ったが。まさか女を寄越すとはね」

「え?」

 柏木が異変に身構える前に、男は腰から拳銃を抜いて柏木に標準を合わせた。思わず目を閉じた柏木の耳に、別の男の声が聴こえた。

「残念ながら、女だけじゃないんですよ、チーフ」

 警告もなく発射された銃弾は、柏木に向けられていた拳銃を弾いた。

「くそっ、誰だ!」

「見張るのに精一杯で、見張られているのに気付かないなんて、楽して旨い飯を食い過ぎたんじゃないですか?」

 新しく現れた男は、そう言って柏木の前に立った。

「怪我はないか、愛里」

 柏木に背中を向けたままそう聞いた懐かしい声に、柏木は思わず涙ぐんだ。

「お父さん」

「大丈夫なようだな。下がっていろ。私がケリを付けねばならん相手だ」

 有無を言わさぬ口調に、柏木は言われたままペンションのガレージに身を潜めた。それを確認した桜庭は、跪いて右手を抑える男に近づいた。

「正直この場で頭をぶち抜きたいところですが。黒幕が誰かを吐いてもらわなくちゃならない。話してもらえますよね、チーフ」

「お前、やはり生きていたのか」

 男が顔を上げ、落ちていた拳銃に左手を伸ばしたが、今度は桜庭の放った銃弾が男の左肩を貫いた。男は大きな声を上げて悶絶した。

「ああ、申し訳ない。今のは鎖骨下動脈をズタズタにしてしまったようです。しっかり圧迫して下さい。死んでしまいますから」

「き、貴様っ。本当は知っているんだろう?」

「さあ、どうでしょうね。とりあえず今回はこれで引き揚げます。そろそろ誰か通報しているかもしれない。貴方も逃げた方が良いでしょうね。ボスに迷惑が掛かりますよ、チーフ。いや、もうチーフじゃなかったですね。河西さん」

 桜庭は河西の拳銃を拾い上げると、柏木が置いた補助装置を背負い、柏木と共にその場を去った。


 沢渡が車まで戻る直前、スマートフォンが小さく震えた。次々に「回収完了」のメッセージが届き始めた。その中で、桜庭から音声通話の着信があった。

「はい、沢渡」

「銃撃は止んだはずだ。今話せるか?」

「ええ、大丈夫です」

「随分手間取ったようだが、そっちの敵も片付いたと連絡が入った。補助装置の回収はお前に任せる」

「皆無事なんですね?」

「ああ。私の兵隊が二人かすり傷を負った程度だ」

「ありがとうございます。助かりました」

「気を抜くなよ。これからが本当の闘いだ」

「はい。分かっています」

 電話を切った沢渡は、補助装置が設置してあるテントへと急いだ。桜庭が言った通り、林は静けさを取り戻していた。


「ご苦労だった。君達も一緒にやってくれ」

 外調のメンバーを国民宿舎で迎えた伊達は、上機嫌で食事の席に全員を誘った。支援者達と既に酒を注ぎ交わし終えていた伊達は上機嫌だ。だが、安河内以下外調の面々は、冷笑を浮かべている。それでも伊達に対してハッキリと苦言を呈する者はいなかった。外調のメンバーの中には、であるが。

「総理、馬鹿笑いしている場合じゃないですよ。とりあえず今回の危機を脱しただけです。私はすぐにでもラボに戻って補助装置の解析をしたいんですがね」

 そう言い放ったのは矢動丸だった。

「それに、今回の作戦を邪魔してきた奴もいるんでしょう? まだ宴会には早いと思いますけど」

 あまりに容赦のない言い方に、沢渡も笑いを堪えている。呆気にとられている伊達に、柏木がとどめを刺した。

「矢動丸さんの言う通りですよ。まだ何も終わってない。ほんと、孝蔵おじさんは能天気なんだから」

 伊達の親戚である柏木が、わざとプライベートで使う「孝蔵おじさん」という呼び名で伊達のことを呼ぶと、伊達は飲んでいた酒でむせた。このままでは総理大臣としての面目が保たれないと、安河内が助け船を出した。

「しかし、確かに皆も腹を空かせているだろう。今は食事をしっかり摂った方が良い。総理、有難く頂きますが、酒はまだ我々には早い。総理も程々になさって下さい」

 矢動丸も小言を呟きながら、席について箸を運び始めた。柏木は水の入ったグラスを持ったまま、大山の聳える窓の外へと視線を向けた。しかし、窓ガラスに映るのは、座敷に並んで座る自分達の姿だ。

「親父さんが心配か?」

 食事に手を付けない柏木に、隣に座る沢渡が声を掛けた。

「心配、なのかな。よく分かんない」

 柏木が三年振りに見た父の姿は、父親ではなかった。自分と話す父は、確かに父親だったが、その後に河西へ銃弾を浴びせていたのは別人だ。だが、オブスキュリティとして生きる父は、ずっとあの姿だったのだろう。それは、父が死んだと聞き、その仕事内容を初めて耳にした時から理解していたつもりだった。だが、本当の意味では何も理解していなかったのだと柏木は痛感した。

「命懸けって、言葉だけじゃないんだよね」

 ふと呟いた柏木の言葉に、沢渡は首を傾げた。

「どういうことだ?」

「普通の人はね、命懸けでやるって言っても、本当は命なんか懸けない。でも、父も、あなたも、他の人達も違う。本当に自分の命を平気で天秤の上に乗せる」

 柏木はグラスの水面を揺らして眺めている。

「平気でってことはないと思うけどな」

 頭を掻いて答える沢渡に、柏木はグラスを膳の上に置いて嘆息した。

「あなたも今日死にかけたでしょ? 私は河西に銃口を向けられた時、何もできなかった。本当に殺意を持った相手を目の前にして、身体が動かなくて、目を閉じることしかできなかった」

「まあ、俺達は皆、一度は死んだような奴らばかりだし。少し麻痺してるのかもな」

 その言葉を聞いて、柏木は更に溜息を落とすと立ち上がった。

「ちょっと外の空気吸ってくる」

「そうか。それじゃあ、俺も付き合う」

「あなたは空気じゃなくて、煙吸うんでしょ?」

「ん、まあな」

 部屋から出て行く二人を見て、北条がニヤついた顔で沢渡に視線を送ったが、沢渡はそれを片手で払いのけるように手のひらを動かした。

 二人が外に出ると、無数の星が瞬いていた。星明りで大山の稜線がくっきりと見える。外に出るなり煙草に火を着けた沢渡は、口を上に向けて、その星空に青白い煙を吐きかけた。

「煙草、止めればいいのに」

「どうして?」

「健康に良くない」

「だから?」

「長生きしないよ?」

「それを言うなら仕事を辞めた方が長生きする」

「辞める気なんかないクセに」

「ああ。仕事も、煙草もな」

 自分が何を言っても、この男は生き方を変えるつもりはないのだろう。それでも柏木はそれに「はい、そうですか」と答えるつもりはなかった。

「せめて煙草は吸わない方が良いよ、やっぱり」

「そう言われてもな」

「だって臭いもん」

 柏木からその一言を聞いて、沢渡は渋々煙草を携帯灰皿に押し込んだ。

「臭いって言われるのは結構堪えるな」

 タバコの火と煙が消えると、一層星が輝きを増したように見える。その星空を、二人はしばらく無言で眺めた。多少の見え方の違いはあっても、地球の周りには等しく星は輝いているはずだ。だが、東京の空には、ここの十分の一程も星は姿を見せてはくれない。

「本当は東京の空にも、これだけの星があるんだよね」

「ああ」

 沢渡は東京の空ではなく、インドネシアの空を思い出していた。地震で電力が止まり、灯りのひとつも無くなった闇の中。無数の星は、多くの命を奪った海を称えるかのように優しく幻想的に照らしていた。存在の小ささを自身に突き付ける夜を、何度も何度も繰り返すうちに、沢渡は命の小ささを実感していった。

「綺麗だよね、ほんと」

 柏木は沢渡の胸の内など知らず、飽きずに星を眺めている。星だけではない。闇に浮かぶ大山の美しさにも目を奪われていた。

 その大山の上空で点滅する小さな明かりに目が止まると、しばらくその灯りを見ていた柏木が、その不自然さに口を開いた。

「あの光、飛行機じゃないよね。同じ場所でずっと光ってる」

 柏木がそう言って指さす方向に沢渡も視線を向けた。

「鉄塔でもないよな。あんな所に鉄塔なんかない。ヘリ、いや、大型のドローン?」

 沢渡がそう言った瞬間、地面が激しく振動した。短く、突き上げるような振動だ。大きな揺れは一瞬で収まったが、その余韻のように細かい揺れが続いた。

「地震?」

 沢渡と柏木が宿舎に戻るよりも早く、矢動丸が外に飛び出してきた。そして、大山の東西に延びる長い稜線を注意深く見つめた。

「噴火の気配はない。でも」

「矢動丸さん、今の揺れは?」

 沢渡の問いかけは矢動丸の耳には届かなかったようで、すぐに建物の中へと戻っていった。その矢動丸と入れ替わりに安河内が出てきた。

「大山の山頂から三キロ圏内に避難指示を出す。私達もここを離れるぞ!」

 小さな揺れはまだ続いている。沢渡は安河内の指示に頷き、もう一度大山を見た。点滅する光は変わらず同じ場所にある。

「安河内さん、山頂の上空を見て下さい」

「山頂? 山頂と言ってもどこだ?」

 長い稜線のどこを山頂と指しているのか分からない安河内に、沢渡は隣に立って指さした。

「あそこです。光が点滅しているのが見えますか?」

 光を見つけた安河内は「まさか」と呟いた。

「新型の補助装置じゃないでしょうか?」

 それから約三分後。長く続いた揺れが収まると同時に、その光は北西の空へと消えていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る