第6話 赤い傘

 権藤は沢渡の提案に選択を迫られていた。今二人がいる日系デパートは総領事館へは近いが、情報提供者の店までは地下鉄で一時間、タクシーで高速を飛ばしても三十分はかかる。権藤の表情から考えを読んだ沢渡は、上海科技館のマーケットへ向かうよう進言した。

「俺だって監視カメラの映像は見ておきたい。でも、映像だけならメールで送って貰えば見れます。それに、総領事館は逃げることはありません。ですが……」

「そうだな。分かった。科技館へ向かおう」

 方針が決まれば、後の行動は早い。タクシーの良し悪しは気にせず、目の前を通りかかった空車を止めて乗り込んだ。

「上海科技館駅まで」

 権藤が日本語で行き先を告げる。だが、ドライバーは日本語を解せないようだ。それを確認して、今度は中国語で告げた。高速を使うように指示すると、ドライバーはメーターを倒さずに発車させようとした。直後に、運転席の後ろに座った権藤が、運転席の背もたれを蹴り上げた。

「メーターを倒せ。でなければ、金は払わん」

 これから値段交渉をしようと考えていたドライバーは、ただの旅行者ではないと気付くと、諦めてメーターを倒した。

 一方で沢渡は、ドライバーに日本語が通じないとみて、遠慮なく総領事館へ連絡し、監視画像のデータを自分のメールアドレスに送付するよう依頼した。

「総領事館も相当混乱していますね。目の前での襲撃に加えて、例の飛行機の件で」

 電話を切った沢渡が溜息を吐いた。データが送られてくるのにも時間がかかりそうだ。

「これからもっと混乱することにならなければ良いがな」

 外の景色を眺めながら答えた権藤は、共産圏特有の同じ姿で建ち並ぶ集合住宅に、どこか陰湿なものを感じていた。その権藤に向け、沢渡が口を開く。

「チーフは今回のことはどう考えているんです?」

「どうだろうな。疑いの目を向ければ誰でも怪しい。まだ材料が少なすぎる」

 それでも権藤は自分なりの答えを既に出しているようだった。

 柏木が怪しいと言った沢渡だったが、状況を考えれば疑う理由があるというだけで、これまでの彼女を見てきた沢渡には、どうしても心から疑いきれない。それでも柏木が絡んでいると仮定すれば、それなりに辻褄は合う。柏木は当然沢渡が総領事館へ向かった情報も流せるし、権藤の名前も知っている。権藤の動きを察知するのも容易たやすかっただろう。

 沢渡はもう一度権藤へ視線を向けた。

 権藤ならばどうだろうか――。

 沢渡に資料を総領事館へ運べと指示したのは権藤だ。自分が搭乗していると見せかけた飛行機には、権藤の携帯まで積んでいた。仮に携帯と一緒に、飛行機を墜落させる何かを積んでいたとしたら。

 そこまで考えて沢渡は苦笑した。権藤の言う通りだ。疑いの目を向ければ誰もが怪しい。自分に疑いの目が向けられたとしても、潔白を証明するのは難しいかもしれない。だが、そういう仕事だと沢渡は承知してこれまでやって来た。

 真実を知る為に必要な情報が足りない時は、全てを疑うことも重要だが、疑い過ぎないことも重要だ。元々論理的思考力というよりも、瞬間的な判断力と、いわゆる勘でこれまでの仕事をこなしてきた沢渡は、迷う場面では敢えて思考を止めていた。権藤も既にそうしているのだろう。窓の外をぼんやりと眺めている。沢渡もそれに倣った。

 タクシーが走り出して一〇分後、沢渡のスマートフォンに総領事館から監視カメラの映像が届いた。

「チーフ、映像が届きました」

「そうか。私はもう何度も見ている。好きなように見て構わん」

 沢渡はその言葉に甘えて、揺れる車内で画面を顔に近づけ動画を再生した。特に沢渡自身が映像に現れる前までを繰り返し注意深く観察した。権藤が言った通り、ドアを開けられ、銃を突き付けられた柏木は、自分の足でタクシーを降りて、大人しくワンボックスへと乗り込んでいる。

 次に沢渡は、ドライバーの足を撃った人物の方に注目した。身長はドライバーが言った通り、一八五センチはありそうだった。その人物が拳銃を発砲した直後、タクシーの後部に移動し、寝そべっている。沢渡が爆弾を発見したのと同じ位置だ。そしてすぐに車へと戻った。

「薬莢は回収してないな。チーフ、人民軍の使用拳銃はリボルバーですか?」

「ん? いや、軍はセミオートじゃないか? 断言はできんが」

「そうですか。いや、現場に薬莢が落ちていなかったんですが、映像を見る限りでは回収した様子もないので」

「なるほど、それでリボルバーか。映像では銃の形までは判別できんからな。黒い点にしか見えん。だが、リボルバーなら自衛隊員も容疑者から除外されるな」

「自衛隊って。まさか本気でその疑いもあると?」

 眉根を寄せる沢渡に、権藤は声を上げて笑った。

「まさか。銃で相手は絞り込めんということだ。人民軍が直接絡んでいるとしても、正規に支給されている拳銃を使うとも限らん」

「そうですよね。そこまで簡単な相手じゃないでしょうし」

「そういうことだ。次に対峙した時の目印にはなるだろうが」

 対峙した時。沢渡は目を閉じ、その場面をイメージした。目出し帽を脱いだその顔は、黒い影に覆われて判別できない。そして、放たれた銃弾は、沢渡の額に深く食い込んだ。

「もしかしたら今回の事件が私の最後の仕事になるかもしれませんね」

 珍しく後ろ向きな話をする沢渡の肩に、権藤は叩きつけるように手を置いた。

「それは困るな。君の力を買っているのは私だけじゃない。他所の連中も一目置いている」

 言葉の途中で表情を曇らせた権藤を、沢渡は怪訝な顔で見つめた。

「どうしました? 何か気になることでも?」

「いや、ちょっとな。それより、病院では警察から事情聴取を受けたのだろう?」

「ええ。でも、現地の警察が犯人を捕まえられるとは思えませんね。病院に来た警官もあっさりしたもんでしたよ。こちらとしては、あれこれ聞かれなくて楽でしたけど」

 権藤は質問に答える沢渡にも上の空の様子で、再び視線を流れる景色に向けていた。


 上海科技館。空から落ちてきたかのような三組手みつくでの骨組みを持った球体が、照明の中で煌びやかな光を放っている。その近代的な風景の地上から地下に潜ると景色は一変し、庶民的な中国の景色がある。沢渡が最初に訪れた日中よりも、その地下街はエネルギーに溢れていた。

 やはり「トモダチ、トモダチ」と話しかけてくる店員達の間をすり抜け、沢渡は一直線に小笠原の店を目指した。

「あの店です。奥に隠し扉が」

 沢渡が権藤の前を歩き、店の奥へと進む。隠し部屋の中で商談をしているのか、小笠原の姿は店の表には無かった。

 隠し扉になっている棚が僅かに開いている。電気の灯りがその隙間から零れていた。沢渡は棚の横板をノックし、隙間に向けて声を掛けた。

「小笠原さん。いらっしゃいますか?」

 声を掛けてしばらく待ったが、中から返事は無かった。沢渡は隙間に耳を近づけてみたが、物音ひとつ聞こえてこない。沢渡は権藤に目で合図をして中に入る意思を示した。権藤は頷いて背後を警戒した。

 扉の隙間に手を入れ、ゆっくり手前に引くと、まず沢渡の鼻が警戒を強めるよう脳に指示を出す臭いを捉えた。血の臭いだ。沢渡は警戒しながらも素早く隠し部屋の中へと入った。そして、権藤に向かって目にしたものを短く報告した。

「一人死んでいます」

 室内は荒らされ、偽物の時計が入ったテーブルのガラス天板も割れている。

 死体はソファーに座っていた。小笠原が昼間に座っていた場所だ。三か所に穴を空け、血に染まったTシャツを着ているその死体は、額も大きく割れていた。沢渡には見覚えのない男だ。

「ここから消えた方が良さそうだぞ」

 沢渡が死体に所持品がないか調べていると、入り口に立っていた権藤が沢渡に向かって早口で伝えた。

「警官がこっちに向かってきている。行こう」

 男が履いていた迷彩柄のカーゴパンツには、小銭が少し入っていただけだった。沢渡は舌打ちし、写真を一枚だけ撮影してその場を去ろうと入り口の方へ向き直った。その時、赤い傘がドアの横に掛けられているのが目に留まり、沢渡は深く考えもせず、その傘を手に取って隠し部屋を出た。

 権藤は部屋を出てきた沢渡が赤い傘を手にしているのを見て、眉間に皺を寄せた。

「それは目印に使った傘か? また目立つ物を」

「すみません。自分達に関係のある物があの部屋に残っているのがマズい気がしたので、つい」

「とにかく今はここから離れよう」

 権藤と沢渡は、近づいてくる警官たちに怪しまれない程度の早歩きで、駅の改札方面へと急いだ。


 導かれる。人からであったり、人を超えた存在からであったり。いずれにしても、自身の判断に確固たる自信が持てない時、人は導かれたと感じ、そこに一種の救いを求める。

 小笠原の店で男の銃殺死体を発見し、柏木が持っていた赤い傘を回収し、総領事館へ向かう地下鉄に乗った沢渡は、この後の行動が導かれたものだと感じることになる。

 目立つ傘は電車の中に置いておこう。沢渡はそう考えていたが、そうする前に閉じた傘の中を念のために確認した。

 車両のドア近くに立っていた沢渡は、傘の留め具を外して逆さまにした傘を軽く振ってみた。すると、傘の中から長さ三センチほどの長方形の物体が出てきた。

「なんだ、それは?」

 権藤の問いに、沢渡は首を捻った。沢渡もその問いに対する答えを持ち合わせていない。

「分かりません。俺には見覚えがないですね」

 沢渡が傘から落ちてきた物のキャップを外すと、USB端子が顔を出した。

「USBメモリーですね。ん、いや、これはボイスレコーダーか。ここに小さな穴が。これがマイクでしょう。LEDランプも点いている。録音中か」

 沢渡が小さなスライドスイッチを動かすと、LEDが消えた。

「そのようだが、すぐに回収する予定だったのか? こんな見つかりやすい場所に」

 権藤の指摘は、沢渡も不審に思っていたことだった。何より柏木からボイスレコーダーを仕込んでいたとは聞いていない。沢渡は、小笠原の店を出た後に柏木と交わした会話を思い出していた。

 傘を忘れてきたと言う柏木に、沢渡が盗聴器を仕掛けているわけでもないから構わないだろうと言うと、柏木は「なるほど。その手もあったか」と答えた。あれは冗談ではなかったのだろうか。それならばなおのこと、その時にボイスレコーダーのことを話しても良さそうなものだ。

「とにかくホテルへ戻って録音データを確認しましょう。たった今まで録音状態だったということは、男が撃たれた時の音声が録音されているに違いありません」

「そうだな。そうしよう。総領事館には相応しくない内容だろうしな」

 沢渡達は伊犁路イリロ駅で地下鉄を降り、タクシーでホテルへと向かった。途中、タクシーは日本総領事館の近くを通り過ぎたが、事件の騒ぎなどなかったかのように、上海の街は日常を取り戻している。

 このタクシーにとっては慣れた道のようで、一方通行の道を回り込み、西側からホテルのエントランスへとスムーズに入り込む。

「お帰りなさいませ」

 ドアマンはしっかり沢渡の顔を記憶していたようで、タクシーのドアを開けて日本語でそう言った。

「ありがとう」

 ホテルのロビーに入ると、チェックインした昨日と変わらず、日本人を含めた外国人の姿が多くあった。沢渡と権藤は、さりげなく周囲にも注意を向けながらフロントへと向かった。沢渡が襲撃されてそう時間は経っていない。この場所に敵がいたとしても不思議ではない。

 怪しい気配は感じられず、沢渡がフロントへ部屋番号を伝えると、思わぬ答えが返ってきた。

「お連れ様がもう戻られております」

「連れ? 連れって、柏木綾が?」

「はい。十五分ほど前に」

「そうですか。どうも」

 フロントに背を向け、柱に身体を預けて周囲を見渡していた権藤が、戻ってきた沢渡の表情を見て怪訝な顔をした。

「どうした?」

「彼女が戻ってきていると。十五分ほど前だそうです」

「なんだと? 本人に間違いないのか?」

「でしょうね。ここのスタッフは中々優秀です。私の地味な顔でも覚えているくらいですから」

 権藤は考えを巡らせたが、それはほんの一瞬だった。行って確かめてみるしかない。それは沢渡も同様の考えだ。緊張感を持った表情はしているが、そこに迷いはない。

「チーフは手を出さないで下さい。反撃されますから」

「私の方を心配してくれるのか。それはありがたい」

 沢渡の言葉に権藤は鼻で笑った。沢渡は時々権藤を年寄り扱いする。権藤も若い頃は陸自の第一線で任務をこなしていた。だが、今の沢渡には実戦で引けを取るのも確かだ。それでも女相手に力で負けるはずもない。

「部屋は何階だ?」

 権藤がエレベーターのボタンを押して尋ねた。

「八階です」

 沢渡はエレベーターの正面に立ち、そう答えた。権藤はボタンを押した位置で壁に左肩を預け、エレベーターの到着を待った。箱の中からは死角になる位置だ。権藤の肩に微かな振動が伝わり、エレベーターのドアが開いた。

 沢渡はその瞬間、半歩下がった。同時に目が見開かれる。沢渡のその反応を見た権藤は身構えた。

「悠平さん!」

 そう声を出しながら両手を広げて沢渡に飛びかかろうとした女の腕を、権藤が掴んだ。その次の瞬間、権藤は大の字になってロビーの天井を見上げていた。


「本当に申し訳ありません」

 ホテルの部屋で、権藤は氷を包んだタオルを後頭部に当てている。その権藤に、ルームサービスで頼んだコーヒーを柏木が差し出して何度目かの謝罪をした。

「いや、問題ない。本当に、大丈夫だ」

 権藤の歯切れの悪い様子に、沢渡は顔が緩むのを堪えていた。権藤は痛みよりも恥ずかしさが勝っている様子だ。沢渡と目が合った権藤は、沢渡を睨みつけた。表情は我慢できても、目で沢渡が何を思っているかを悟ったらしい。

「それよりも、どうやって戻ったのか教えてもらおうか」

 権藤が厳しい視線のままで柏木に言うと、柏木は力強く「はい」と頷いた。沢渡はタバコを吸わない権藤から少し離れてタバコに火を着けて、柏木の話に耳だけを傾けた。

「まず、車に乗っていたのは四人。全員同じ目出し帽を被っていました」

「運転手と後部座席の二人と、もう一人は助手席か?」

「いいえ、荷室に。その荷室にいた人がリーダーかも。一番落ち着いて見えたから」

 柏木は権藤から質問がないのを見て、続きを話し始めた。

「私は目隠しもされず、後部座席で二人の男に挟まれてた。車内では誰も口を開かないまま車は北に走って、魯迅ろじん記念館近くの古いビルで降ろされた。荷室に居た男が一人降りると、他の三人は車を走らせてどこかに消えた。で、どうしようか考えたんですよね、一応。このまま何か情報を掴むまで大人しく捕まっておくかな、とか」

 話を離れて聞いていた沢渡は、その先が読めてタバコの煙を一気に吐き出し呆れた。銃を持った相手に無茶をする。

「大人しく捕まっていたら、こんなに早く戻ってないだろうな」

 権藤の言葉に柏木は頷いた。

「一人しか男を下ろさなかったのが気になったの。殺すのには一人で充分だと思われたんじゃないかって。だったら、その前に逃げなきゃ、ね」

「馬鹿だな」

 そう言ったのは沢渡だ。

「あっ、また馬鹿って」

「馬鹿だからだ。殺すつもりならタクシーから降ろさずに撃っている」

 沢渡は自分でそう言って、何かに気付いたのか目の色を変えた。「どうかした?」と柏木が口を開く前に、沢渡は自分の口に人差し指を押し当てた。そのままで柏木に近づき、彼女の上着を脱がせると、その上着のポケットや裏地を隅々まで調べた。

「上着じゃない……」

 沢渡の自分を見る視線に、柏木は思わず自分の肩を抱いた。

「バッグは?」

 どうやらこの場で裸にさせられるわけではなさそうだと安堵の息を吐いた柏木は、窓辺に置かれた文机の上を指さした。そこには今日一日柏木が持っていたショルダーバッグが無造作に置かれていた。沢渡はそのバッグを取ると、バッグの中身を見るのは気が引けたのか、柏木の前に置いた。

 バッグを確認した柏木は、普段使っていない飾り同然のサイドポケットに、見慣れない物を見つけた。サイドポケットに指を差し入れ、中から黒いコイン状の物を取り出す。五百円玉と同じくらいの大きさだ。

「チーフ、晩飯にしますか?」

「そうだな。確かに腹が減った」

 この後の沢渡からの合図を見るまでもなく、柏木は二人の意図を把握し、沢渡を先頭に三人揃って部屋を出た。


「狙いはアレだったようだな」

 ホテルの二階にあるレストランで、権藤はやけに塩気が強いスープを一口飲んで、渋い顔で吐き捨てるように口にした。「アレ」とは当然柏木のバッグに忍び込まされていた物のことだ。

「やっぱり盗聴器?」

 柏木が二人に向けて呟くと、沢渡が「だろうな」と頷いた。

「GPSってことはないの?」

 今度は沢渡の首は横に振られた。

「それはない。さすがに小さすぎる。盗聴器としても、発信する電波はそう強くないはずだ」

 つまり、盗聴器を柏木のバッグに仕込んだ何者かは、近くに潜んでいるということだ。バッグを部屋に置いたままで部屋を出て正解だったと、柏木は安堵した。もしバッグを持っているのに音声が拾えていないのを悟られてしまえば、柏木が盗聴器に気付いたと知られてしまう。

 三人は食事を摂りながらも、周囲に意識を集中していた。特に権藤は全身を好感度のアンテナへと変えている。

 レストランは満席に近い。これだけの一般市民を巻き込むようなことは無いと、本来なら思っていただろうが、無関係な人間が多く乗った飛行機が消息不明にさせられている。何が起きても不思議ではない。そう思っていた。

 そんな中、三人の耳に隣のテーブルに座った日本人観光客の会話が聞こえてきた。

「あの飛行機、なんか北京に着陸したんだってよ」

「ウソ? 今日通信が途絶えたとか言ってたヤツ?」

「ああ。ほら、ニュースに出てる」

 聞こえた瞬間、沢渡はスマートフォンを取り出してニュースサイトを確認した。すると、各社が取り上げているようで、CNNでは既にニュース映像の動画もアップロードされていた。沢渡はスマートフォンをテーブルに置き、柏木と権藤にも見せた。

「ハイジャック?」

 権藤がその飛行機の搭乗券を用意していたことも、その飛行機が消息を絶っていたことも知らない柏木は、ニュースを見ながら首を傾げていた。画面に映し出された飛行機は、ボーディングブリッジには接続されず、ターミナルビルからやや離れた所で捜査車両に囲まれている。アナウンサーが現在機長から事情を聴いていると告げたところで、その画面の上に着信の表示が出た。外調の安河内からだ。権藤がその電話を受けた。

「権藤だ」

「あ、チーフ。例の飛行機が」

「北京に着陸した。だろ? たった今ニュースを見ていたところだ」

「はい。詳しい状況は掴めていませんが、乗員乗客は全員無事のようです。ただ、まだ機内に閉じ込められているというか、調べが済むまでは」

「解放されない、か」

「恐らく。狙いはなんでしょうか? あの便だったのは偶然ですかね?」

「憶測を重ねても仕方がないさ。常に後手に回るのは我々の宿命だ。用心するしか方法は無い」

「そうですね。ではくれぐれも」

「ああ。何か分かったらまた連絡をくれ」

 権藤は電話を切って大きく息を吐いた。

「向こうでも詳細は分かっていないようだ。ワイドショーでもしばらくは騒がれそうだな」

 権藤は沢渡にスマートフォンを返すと、状況が飲み込めていない様子の柏木に、簡単に事態の説明をした。

「私のもトレースされてるんだろうな、GPS。これ、禿げオヤジに渡されたヤツだもん」

 柏木はそう言って自分のスマートフォンを手のひらの上で弄んだ。そしてその表情を曇らせている。権藤と沢渡の表情も冴えない。三人とも同じ考えが浮かんでいるようだったが、それを直接口にするのは憚れていた。

「チーフ、部屋に戻ってボイスレコーダーを聞きましょう。気をもんでいても仕方がない」

「そうだな。仕事を進めよう」

 沢渡と権藤との会話に、再び柏木が首を傾げた。

「ボイスレコーダーって?」

「小笠原仁那の店に男の銃殺死体があった。その現場に残されていたボイスレコーダーだよ。あの赤い傘の中に隠してあった。やっぱり入れたのは綾じゃなかったか」

「銃殺、か」

 柏木はそう呟いて自分の胸辺りを両手のひらでさすった。自分が銃撃されるところを想像したようだ。沢渡は立ち上がると、その柏木の肩に手を置いた。

「行こう。何があっても立ち止まるわけにはいかない。引き返すわけにも、な」

「分かってる」

 柏木はテーブルの水を一口飲んで立ち上がった。権藤も最後に立ち上がり、三人は部屋へと向かった。


 沢渡は部屋に戻ると、まず盗聴器を柏木のバッグの中に戻し、テレビの前に置いた。そしてテレビをつけ、ボリュームを大きめにした。

「それじゃあ、再生しますよ?」

 沢渡のタブレット端末には、赤い傘から出てきたボイスレコーダーが既に接続されている。そのボイスレコーダーに見覚えがないと答えた柏木も、再生される音声に耳を集中させた。

 だが、音声ファイルの冒頭五分間で交わされている言葉は、その内容が全く聞き取れなかった。はっきりと聞こえたのは三度の発砲音がした直後の一言だけだ。

「桜庭、お前の敵は日本政府だ」

 その可能性を考え始めていた三人は、小笠原仁那の声で告げられたその言葉に驚かなかった。だが、少なからずショックは受けていた。

 メッセージの真意は不明だが、ボイスレコーダーを残したのが小笠原だということだけははっきりとした。その言葉の後は、無音状態が続いていた。

 沢渡はタブレットにイヤホンを接続し、もう一度初めから再生したが、すぐにイヤホンを耳から外して首を横に振った。

「駄目ですね。声が小さいですし、どうやら上海語のようです。上海語は私には……」

 沢渡は自分を見つめる二人に視線を向けたが、二人とも首を横に振った。上海語は誰も聞きとれないらしい。

「日本に送って分析してもらいたいところだが……」

 権藤が険しい顔で腕組みをして呟いた。小笠原の「敵は日本政府だ」と言う言葉が、そのままの意味だとすれば、安易にその方法を採るのは危険だ。

「小笠原本人に話を聞くのが一番なんでしょうけど。どこに居るのか見当もつかないですね」

 沢渡は大きく溜息を吐いてソファーの背もたれの上部に後頭部を預けて天井を見上げた。権藤も考えが浮かばない様子で、腕組みをしたままだ。

「お兄さんに接触できないかな?」

 柏木の呟きに、権藤が鋭い視線を柏木に向けた。

「小笠原徹だったな。うむ、出発点に立ち戻ってみるか」

 自分の言葉に頷く権藤を見て、沢渡は立ち上がった。

「カルデラの実戦運用の阻止、ですね」

「ああ。途中降りかかる火の粉はその都度対処しよう。そのやり方が我々らしいだろう」

 権藤の口調に、柏木は失笑した。

「なんか、『僕たち筋肉馬鹿です』って言ってるみたい」

 散々沢渡に馬鹿と言われていた柏木が軽く復讐をしたが、その柏木の言葉にも沢渡は笑って見せた。そして、テレビを消し、柏木のバックから盗聴器を取り出した。

「今夜、お前らのアジトにお邪魔させてもらうことにした。酒は必要ないが掃除をしっかりしておけよ」

 沢渡は盗聴器に向かってそう話すと、盗聴器をグラスの水に沈めた。

「アジトって? 私が車から降ろされた所はアジトって感じじゃなかったよ?」

「ハッタリだよ。別に何の意味もない。昼間はこっちが脅かされたから、脅かし返しただけだ」

 沢渡の行動に、権藤も苦笑いしていた。

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