第5話 準備と用心

 沢渡の姿が画面から消えて一分後。黒いワンボックスカーがタクシーに追突した。追突と言うより、接触したと言った方がしっくりくる程度の速度だ。タクシーのドライバーが運転席を降り、ワンボックスカーの後部座席からは二人が降りてきた。

 直後にワンボックスカーから降りてきた一人が持った拳銃の銃口が光り、薄く煙を吐き出した。うずくまるタクシーのドライバーをそのままに、発砲した人物はタクシーの後部に寝そべるような態勢を取った。ワンボックスカーから降りてきたもう一人の人物は歩道側に回り、タクシーの後部座席を開けて柏木に拳銃を突き付け、彼女をワンボックスカーに押し込んだ。

 タクシーに接触してから十五秒後には、黒のワンボックスカーは画面から姿を消した。

 徐々に通行人が現場に集まり、通行人が二人がかりで撃たれたドライバーを歩道へと移動させると、再び現れた沢渡がドライバーの傷を確認し、撃たれた現場を調べている。タクシーの後方で這うようにしゃがんだ沢渡が、頭上で大きく手を動かしながら歩道に向けて走り出した瞬間、タクシーが閃光に包まれ、沢渡を数メートル吹き飛ばした。

 内閣官房外務情報調査室チーフの権藤と、内閣官房内閣情報調査室長の佐田は、内閣危機管理監の本宮が持ってきた音のない監視カメラの映像を見ていた。三回目の再生を終えた時、本宮の携帯が鳴った。

「はい、本宮。そうですか。権藤君に替わりましょうか? はい。ええ、分かりました。では」

 本宮は権藤に電話を渡すことなく、そのまま折り畳み式のフィーチャーフォンを閉じてポケットに仕舞った。

「総理ですか?」

 自分の名前が出た権藤は、本宮に尋ねた。

「いや、官房長官だ。沢渡君は五分程前に病院に搬送されたそうだ。怪我の程度は分からんが」

 病院に搬送されたと聞いて、権藤は僅かに緊張を緩めた。銃撃されたドライバーの為に、既に救急車が向かっていたのが幸いしたのだろう。だが、心配なのは沢渡だけではない。柏木については情報が何も入っていない。

 本宮が四回目の再生をスタートして、口を開いた。

「犯行声明も要求も無いのでは動きようがないな。まだ中国政府が襲撃に絡んでいると確定したわけでもない。拉致したからには目的があってのことだと思うが」

 モニターではタクシーが爆発し、沢渡が巻き込まれるシーンが映されている。そのシーンを見ていた権藤が、数秒前に戻して再生した。

「怪我をしたのはドライバーと沢渡だけ、ですよね?」

 権藤の質問に、本宮が眉根を寄せた。

「さあ、通行人に被害が出たかは分からんが、その映像では怪我人が出ているようには見えないな」

「官房長官からの第一報で、沢渡は危険な状態だとも聞きましたが」

「私もそう聞いている」

 本宮の言葉を聞いているのかいないのか、権藤は再度映像を戻し、柏木が拉致されるところから、タクシーが閃光に包まれるまでを見終えると席を立った。

「上海に飛びます。総理にそうお伝え下さい」

 その権藤の発言を予測していたのか、本宮は「分かった」とだけ答えた。だが、一方で佐田の表情は冴えない。

「権藤、もう少し情報が揃ってからでも良くないか?」

「準備は万端整えておきたい。それに、欲しい情報は待っていても手に入らない。そんな気がする」

 そう言った権藤の視線の先に座る本宮は、腕組みをして瞼を閉じていた。


「到着したか? そうだ。民間機のチケットを一枚でいい。ああ、できれば搭乗手続きまで済ませてくれ。そうだな、それで頼む」

 部下の安河内やすこうちが運転する車の後部座席で、権藤が一通り電話で指示を出し終えて一息つくと、安河内がルームミラーで権藤を覗い見た。

「チーフ、対象は中国政府でしょう? こんなことに何か意味があるんですか?」

「用心の為だ」

 権藤は険しい表情のまま、流れる窓の外の景色に目をやった。車は京浜運河上の首都高速一号羽田線を南下している。そこから見えるのは、いつもと変わらない風景だ。緑色に濁った水と、モノレール。すれ違う商業車のバンとトラック。この辺りに建ち並ぶビルはどれも無機質だ。そのいつもの景色が、権藤の人間らしい部分を減殺げんさいしてゆく。

 車が空港西インターを出て間もなく、権藤が握ったままにしていた電話が鳴った。

「権藤だ。そうか、ご苦労だった。復唱する。中国東方航空、MU522便だな。うむ、ありがとう」

 その通話を終えると、権藤は手にしていた携帯電話をコンソールボックスの上に置いた。

「準備は済んだ。これも返しておこう」

 権藤がそう言うと、安河内がコンソールボックスの上に置かれた携帯電話を、スーツの内ポケットに仕舞った。

「沢渡君は本当に無事なんでしょうか? それに、あの女も」

「どうだろうな。分からん」

 不愛想な返答に、安河内は顔をしかめてルームミラーを見たが、そこに映る権藤の顔を見て、胸に広がる不安と共に詰まっていた息を吐き出した。権藤の顔は、確証を持っている時の強い眼差しを持っている。

「もし私が死んだら」

「はい?」

 突然権藤の口から零れた不吉な呟きに、安河内は思わず聞き返した。

「もし私に何か起きたら、そのままにしておいてくれ」

「そのままに、とは?」

「死んだら死んだままにしておいてくれという意味だ。それで今回の件は終わりだ。無論、上から命令があればそれに従ってくれても構わん。任せる」

「はあ」

 権藤の言葉の意図が飲み込めぬままに車が国際線ターミナル前に到着すると、安河内は最後に権藤へ声を掛けた。

「今回の経費、監査で絶対引っかかりますよ」

 重たい空気を押しのけたい一心で掛けた言葉だった。権藤にもそれは伝わったらしい。霞が関を出て、初めて権藤に笑みが浮かんだ。

「会見を開いて、『国の為にやった』とでも言って泣けばいいさ。お前がな」

「え、私がですか?」

「嫌なら上手く誤魔化す方法を考えることだ。では、行ってくる」

 安河内がトランクを開け、手荷物サイズのキャリーバッグを権藤に渡した。

「ご無事をお祈りします。チーフから連絡が入るまでは皆でオフィスに詰めていますから」

 権藤は無言でそれに頷いて、キャリーバッグを受け取ってターミナルビルへと消えた。


 中国東方航空MU522便が東シナ海上空で消息を絶ったとニュース速報が流れたのは、その日の夜七時を過ぎた時だった。


「安河内君、権藤から連絡は?」

 外調のオフィスに内調の佐田が姿を現したのは、午後七時二〇分。佐田は、空港まで権藤を乗せた車を運転していた安河内に、新しい情報を求めた。

「まだ何も」

 安河内は、オフィスの天井近くの壁に掛けられたテレビに目を向けたまま答えた。テレビは、殺風景なスタジオから臨時ニュースを伝えるアナウンサーを映している。佐田も安河内の隣で、そのテレビに視線を向けた。

「只今の時間は予定を変更して、消息を絶った中国東方航空MU522便に関連した臨時ニュースを放送しております。お伝えしております通り、本日、成田発上海行き中国東方航空MU522便は、午後四時五五分に成田空港を定刻で飛び立った後、午後五時四二分の交信を最後に――」

 リモコンを手にした安河内がテレビを消すと、閉じていたノートパソコンのモニターを起こした。

「さっきも言いましたけど、連絡はありませんよ。こんな外れにいらっしゃるより、内調に戻られた方が情報は早いかと思いますが」

 仮に権藤を乗せた飛行機が墜落していた場合は確かにそうなのだろうが、無事でいれば自分の職場に第一報を入れるだろう。そう期待して外調を訪れた佐田は、思わぬ安河内の冷たい対応に、返す言葉も無かった。他の職員の視線も、普段より冷たく感じられていた。

 身内が立て続けにトラブルに巻き込まれて参っているのだ。そう佐田は捉えて、安河内の言う通りにした。

「忙しいところ邪魔したようだ。何か分かれば」

 何か分かれば伝えてくれ、と言おうとした佐田は言葉を飲んだ。「何か」が起きていた場合、より内閣の中心に居る自分の方にいち早く情報が入る。

「何か分かったら連絡する」

「はい。よろしくお願い致します」

 安河内は事務的に答え、パソコンのテキストファイルを開いた。その行動は、無言のうちに佐田へ「仕事があるから帰ってくれ」と伝えていた。

 佐田がオフィスを去るのを見届けると、安河内は嘆息した。

「チーフ、このままどうしろって言うんですか」

 安河内はパソコンのモニターを再び閉じ、自分のスマートフォンを眺めていた。新規のメッセージは無い。


 上海市内の総合病院。正面入り口から入った男が、受付に立つ職員に近づいた。受付の女は、紙袋ひとつを下げて帽子を目深に被った男に身構えたが、その男の口から出た丁寧な言葉に緊張を解いた。

「恐れ入ります。今日、沢渡悠平と言う日本人の男性が搬送されたと思うのですが、こちらで間違いないでしょうか?」

 流暢ではないが、ゆっくりと丁寧に話された中国語に、受付も普段話す上海語ではなく、日本語で返した。

「日本の方ですか?」

 男がその問いに頷くと、受付の女は笑みを浮かべて流暢な日本語で話し始めた。

「沢渡様ですね。はい、こちらに入院しています。奥の突き当りを左に曲がって、二つ目のエレベーターで三階に上がって下さい。三〇五号室が沢渡様の病室です。ただ、面会時間があと二〇分しかありませんので」

「ありがとう」

 男はそう言うと、足早にその病室へ向かった。

 二十床全てが個室の病室には、入り口横にネームプレートが入れられている。日本人医師も多く居るようで、談話室では入院患者と医師が日本語で会話をしていた。

 男がノックの後、中からの返事を待たずに開けた三〇五号室の中では、食事を終えた沢渡が、傷の程度を確かめるようにベッドを降りて身体を動かしていた。

「爆発に巻き込まれた六時間後に、もう筋トレか?」

 男は帽子を脱ぎながら、脚だけをベッドに乗せて床で腕立てをする沢渡に声を掛けた。

「すみません、油断しました。わざわざチーフに来てもらう事態になるなんて、情けない」

 沢渡は苦笑する権藤を見て、ベッドに腰掛けた。

「やはり怪我は大したことなさそうだな」

「ええ。あれは爆弾というよりも」

「スタングレネード。だろ?」

 先を越して話した権藤に、沢渡は頷いた。

「恐らくスタングレネードに水を少し足して改造しただけの物です」

 スタングレネードの主な材料であるマグネシウムは、燃焼中に水に触れると、水分子から酸素を奪い、残った水素と反応し爆発する。タクシーの下に仕掛けられた爆弾は、画面を通せば激しく見える爆発も、実際の威力は小さかった。その威力が大きく見えたのは、他でもない、巻き込まれた沢渡が衝撃を逃がす為に自ら飛んだからだ。

 その沢渡に、権藤が持って来ていた紙袋を差し出した。

「すぐこれに着替えろ」

 沢渡はその紙袋を覗き込み、長袖のシャツだけを取り出した。

「ジーパンは無事ですから、これだけで大丈夫です。あの医者、きっと人のシャツをハサミで切るのが趣味なんですよ。こっちは何ともないって言ってたのに」

 権藤はその様子を想像して医者に同情した。恐らく診察台でも沢渡は大人しくしていなかっただろう。

「この帽子も被った方が良い。ここに来る前に、私は受付の女と話している。並んで前を通れば気付かれるかもしれん。病院を出る時は私より先に出ろ。私は一分後に出る」

 エレベーターの中で落ち合う場所までの道順を聞いた沢渡は、権藤が被っていた帽子をやはり目深に被り、足元にだけ視線を送って権藤の指示通り素知らぬ顔で病院を出た。

 沢渡が搬送された病院は、総領事館から直線距離で五〇〇メートル強。上海中心部を東西に走る都市高速を挟んで南側にあった。東に目を向ければ、日本で見慣れたデパートの看板も光っている。沢渡はそのデパートに足を向けた。

 閉店時間間近のデパートの前。到着した沢渡が病院の方へ視線を向けたが、権藤が出てくる様子は無かった。五分が過ぎ、不安が胸を覆おうとした頃、ようやく権藤が姿を見せた。

「悪い、待たせたな」

「何かあったんですか?」

「ああ。その前に電話を貸してくれ。持っているだろう?」

「はい」

 権藤は沢渡から渡されたスマートフォンで、安河内へと電話を掛けた。すると、コール音が鳴る前に、安河内の声が聴こえた。

「もしもし!」

「なんだ、随分電話を受けるのが早いな。スマホゲームで遊んでいたわけじゃないだろうな?」

「チーフ! これ、沢渡君の電話ですよね? ってことは」

「ああ、無事だった。怪我もかすり傷程度だ」

「良かった。いや、でもそれどころじゃなくてですね」

「知っている。さっき沢渡が入院していた病院のテレビでニュースが流れていた。正直、あそこまでやるとは思わなかった」

「やっぱり撃墜でもされたんでしょうか? 念のために機内に預けた荷物に入れていたGPSは、済州島の南西一二〇キロ辺りで消えましたが」

「まだ情報は集まっていないのか?」

「ええ。今しがたようやく搭乗員名簿が回ってきただけです。乗客の三割が邦人、六割が中国人、一割がそれ以外の外国人、といったところですね。もちろんチーフの名前も入っています」

「そうか。空港でも伝えたが、私は死んだことにしておいてくれ。今日はもう帰れと言ってやりたかったが、私が死んだとなると帰るわけにもいかんな」

 笑いを含んで言った権藤に、電話の向こうでも笑う息がマイクにぶつかる音がした。

「本当ですよ。そそくさと帰るのを他に見られたら、薄情な部下たちだと思われますからね。あ、そういえば、内調の佐田さんが様子を見に来られましたよ」

「佐田が? そうか、分かった。また連絡する。まだ沢渡ともろくに話してないからな」

「了解しました。では」

 終話した権藤に、沢渡は早速質問を投げた。

「チーフが死んだことになっているんですか?」

「ああ。乗り込んだ飛行機が消息を絶ってな。GPSの信号は、済州島の南西一二〇キロで消えたらしい。中国の領空内だ」

 権藤は「中国」という部分を強調して言った。

「いや、しかし」

 沢渡は権藤の足元を指さして訝しんだ。

「私が搭乗したことにした飛行機が、だな。正確に言えば」

「偶然、ってことはないでしょうね、やっぱり」

 心の奥では、偶然であることを望んでいる権藤は大きく息を吐いた。

「ない、だろうな」

 権藤のその言葉を最後に、二人はしばらく黙していた。二人とも考えていることは同じだ。誰が権藤の搭乗情報を掴み、誰が飛行機ごと葬ったのか。中国の領空に入った瞬間ということは、普通に考えれば中国側の犯行と思える。

 二人の頭の中には別々の人物が浮かんでいた。

「柏木、でしょうか?」

 先に名前を口に出したのは沢渡の方だった。権藤はその名前を聞いて唇を噛んだ。そして、イエスともノーとも言わず、別の質問を沢渡に投げた。

「沢渡も見たか? 彼女が拉致される映像」

「いえ。まだ見ていません。見る前に、アレでしたから」

「映像を見ればもっと彼女が怪しく見えるだろうな」

「映像に何か不審な点でも?」

「全く抵抗していなかった。銃を突き付けられてはいたが。それに、私が知る限りでは犯行グループからの要求が未だ何もない」

 沢渡の目には、権藤はそう言いながらも別の方向を見ているように見えた。

「他に何か気になることがあるんですね?」

「ああ。だが確証も何もない今は、口にできることは何もない」

 口を噤んだ権藤を横目に、沢渡はこの数時間に起こった出来事の整理に頭を必死に働かせようとした。だが、あまりに多くの事件が起こったからか、全く頭が働かない。一度深呼吸をして、時間を遡り、見てきた物を映像として脳内に再生した。

「小笠原仁那」

 沢渡が一人の名前を呟いた。

「あの情報提供者か?」

「ええ。もう一度彼女に会ってみましょう」

 沢渡のその提案に、権藤は乗り気ではないようだ。

「しかし、その情報提供者を尋ねた後に襲撃されている。彼女も関係しているかもしれないぞ」

「分かっています。だからこそです」

 危険は承知の上だ。沢渡の瞳はそう語っていた。

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