Obscurity
西野ゆう
プロローグ
人は概ね一度しか死ねないように作られている。命を賭してでもやり遂げるべき価値のある仕事には、そう何度も出会えるものではない。
「に、日本は、沈む、ぞ」
男が最期の言葉を吐き出した口に赤黒い液体が溜まり、やがて溢れ始めた。沢渡の腕の中で目を見開き、息を吸うことも吐くこともできずに喉を僅かに震わせるだけの男に、沢渡は冷たい視線を落とした。
「ふんっ」と肺に残った空気を一気に吐き出した沢渡は、呼吸を止めて自身の腹に力を込めた。その力を右腕に伝え、男の腹から柄の部分だけ顔を出しているナイフを、時計回りに捻じりながら更に斜め上へと力を加える。力を失った男が、沢渡の腕の動きで僅かに浮き上がった。
沢渡がナイフを抜くと、男は沢渡の腕から滑り落ちるように深夜の桟橋に倒れ込み、数回小さく痙攣して完全に動かなくなった。
「一度寝返った奴は、情報をくれたとしてもこうなると分かっていただろうに。哀れな」
言葉だけではなく、沢渡はその表情にも哀れみの色を浮かべていた。
「シュウ、こいつの名前は消すのか?」
沢渡のことを「シュウ」と呼び、その様子を少し離れていたところで見ていたもうひとりの男が、拳銃をホルスターに仕舞いながら近づいてきた。
「いや、こいつもオブスキュリティだ。初めから名前はない」
「そういう意味、違う。分かっている、だろ?」
男がたどたどしい日本語で沢渡に再度「名前を消すのか?」と聞いた。
「必要ない。DNAがデータベースにある。指と顔を潰しても無意味だ。それに、もうこの国からは出国したことになっている。死体にGPSを供えて、母国に向けて走らせてやるさ。ゴムボートぐらいなら、その辺で手に入るだろう。俺が責任をもって処分する。この国に迷惑は掛けない」
沢渡は桟橋に横たわった動かぬ男に背を向けた。
「シュウも一緒にゴムボートで日本へ帰ったらどうだ?」
男が笑いを含んだ声で沢渡の冷酷な眼に向けて声を掛けたが、沢渡は表情を変えることなく一言だけ返した。
「いや、海は苦手だ」
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