第2話 空席の女
嫌な予感というものは、本能で察知した危険や、経験から導き出された予測から感じるものだ。
十月十六日。羽田空港発日本航空5643便
――J5
通路側のその席に座り、斜め上に表示されている番号と照らし合わせる。何度見ても間違いはなかった。新幹線であれば、違う列車に乗ってしまっているということも起き得るが、搭乗手続きを行う飛行機でそれはあり得ない。釈然としない状態のままで沢渡が目を閉じると、窓側の席から声を掛けられた。
「上海はお仕事ですか?」
明らかに自分に向けて掛けられた声を無視するわけにもいかず、沢渡は「ええ、まあ」とだけ返した。声を掛けてきたのは、少し明るい髪色をしたショートボブの女だった。年齢は沢渡と同じぐらいだろう。彼女こそが、沢渡に嫌な予感を抱かせる原因だった。
沢渡が任務で民間機を使う場合、国内外を問わず沢渡の座席は通路側で、窓側の席は空席にさせていた。だがこの日、沢渡の隣には色白で細身の女が座っている。通常とは違う事態になると分かっていたのならば、あらかじめ権藤から通達があってもいいはずだ。
――女と金には裏がある。
この女は一体何者なのか。沢渡は窓の外へ視線を向けた女の横顔を盗み見た。都会的な洗練された雰囲気を纏ってはいるが、ブランド品で身を固めているわけでもなく、金持ちの妻がリゾートに出掛けているような様子でもない。強いて言えば、IT系ベンチャー企業の役員が、海外市場の視察に向かっているといった感じか。モデルのようだ、とまではいかないが、それなりに整った顔立ちをしている。男で苦労するようなタイプではない。そんなことを想像している沢渡に気が付いたのか、女が沢渡の方を向いて微笑んだ。
「私も仕事なんですけどね、パートナーがちょっと気難しそうな人だし、期間もいつまでかかるか分かんないから、ちょっと不安なんですよね」
「そうですか。大変ですね」
何者なのかと気になりはしたが、本人の口から仕事について語られたところで、そのくらいしか言葉の返しようがなかった沢渡は、自分に苦笑した。
「あ、私、
女はそう言って、自分の膝に掛けていた上着のポケットから名刺を取り出し、沢渡に差し出した。
「はあ、どうも。私の名刺はスーツケースの中でして」
沢渡は渡された名刺を眺めた。
「柏木エンタープライズ。社長さんですか? 芸能事務所か何か?」
名刺を見て質問を投げた沢渡に、柏木は答えようとせず、ただ笑みを浮かべていた。
飛行機は速度を上げて滑走路を走り出している。高くなったエンジン音の中で、沢渡は再び嫌な予感に襲われ始めていた。離陸速度に達して機首が上がり、浮き上がる身体の動きに取り残された内臓が遅れて浮遊する感覚を覚えた瞬間、名刺に記載された実際には存在しないながらも見覚えのある住所に、沢渡は目を見開いた。直後に顔を柏木の方に向けると、笑って三日月形になった柏木の目と、沢渡の丸く見開かれた目が合った。
「もうお分かりになったみたいですけど、あなたのお勤め先と似た業種ですよ。沢渡悠平さん」
「なっ」
思わず身を乗り出そうとして、シートベルトに下っ腹を圧迫された沢渡は、直後大きく息を吐いて背もたれに体重を預け、片手で顔を覆った。
「権藤チーフに、わざわざ口止めしていたのですか?」
柏木は、明らかに彼女の正体を知らない沢渡の反応を楽しんでいた。沢渡を目の前にして「パートナーが気難しそう」とまで言ってだ。
「いいえ。権藤さんは私の存在をまだ知らないはずです」
「君を知らない?」
「ええ。業種は同じでも、雇い主が違いますから」
沢渡は眉間に皺を作った。雇い主という意味では、沢渡は国に雇われている。
「君は日本人ではないのか?」
雇い主が違うということは、敵ということも考えられる。沢渡の表情は厳しさを増していた。
「ああ、日本人ですけど、民間人なんです。一応。だから、そんなに怖い顔しないで下さい。雇い主が違うって言いましたけど、正確に言えば、私は誰にも雇われていません。っていうか、権藤さんの上司へ半ば強引に頼み込んだというか。ですから、今日中には権藤さんの耳にも入ると思います。私が沢渡さんと一緒に居るって」
「権藤チーフの上司って」
「はい。禿げオヤジです」
柏木は表情を変えずにそう答えた。「禿げオヤジ」とは、現首相の伊達のことだ。
「君は禿げオヤジの身内か?」
沢渡は声を極力抑えて柏木に問い質した。
「『遠い親戚より近くの他人』って言われるくらいの遠い親戚です。でも、私の父も禿げオヤジの部下だったから」
冗談めいたことを言いながら真剣な目をしている柏木が、胸の内に燃える炎へ静かに酸素を送り込んでいるのを沢渡は感じた。
「そのお父さんが、今回の件に関係しているってワケか」
「さすが外調のエースですね」
柏木が言った「外調」とは、外務調査室の略だ。組織図で見れば外務省国際情報統括官組織の中にあるが、実際は独立して首相直轄で動いている。
「私の父は」
そう口にしたきりで柏木が言い淀んでいるのを、沢渡はそのまま静かに待った。無理して聞き出すような話でもなさそうだと感じたからだ。
そのまま沈黙した柏木が再び口を開いたのは、水平飛行に移った機内に機長のアナウンスが流れた後だった。
「三年前。政府の職員が遺体で発見された事件があったでしょう。島根県沖の高島という無人島で」
飛行機は四国沖上空を飛んでいる。窓の外に日本海は臨めないが、柏木は遠くその海を眺めているようだった。
沢渡は全神経を自分の表情に集中させた。何でもないように装う為に。
「ああ、知っている」
「最後まで身元は発表されなかったけど、あれが私の父だった」
沢渡は聞きながら柏木の表情も注視していた。だが柏木は、今隣に座っているのが、自分の父親を消した男だと知っていてその話をしているようには見えなかった。
首相の伊達は、当然沢渡が柏木の父親を処分したことを知っている。それでも柏木の同行を許す、正当な理由などあるはずはない。
「さっき君は禿げオヤジに頼み込んだと言っていたが。許しは出たのか? 止められたのを無視してこの便に乗ったんじゃないのか?」
沢渡が言ったことが図星だったようで、柏木は苦笑していた。
「そうですね。許してはもらえませんでした。でも、こうして最終的に私はこの便のチケットを手に入れて、飛行機も上海に向けて飛んでいるんですから。それで充分でしょう?」
柏木の言っている意味は、沢渡にも伝わっていた。空席にする為のチケットを柏木が持ち、その便が僅かに遅れたとはいえ羽田を飛び立った。柏木を止めるつもりなら、出国審査で止めることだってできた。それをしなかったのは、最終的には渡航を許されたからだ。そして、少なくとも国は、柏木が沢渡に同行していることを認識している。
「ところで君、ホテルの手配は?」
沢渡がそう聞いた瞬間の柏木の目を見て、沢渡は何度目かの嫌な予感に襲われた。
「大丈夫ですよ。ちゃんと手配してあります」
「そうか。ならいい。詳しい話はどちらかのホテルでしよう。君がどの程度仕事ができるのかも聞かせてもらわなければな」
沢渡は嫌な予感が外れたと安心し、話を切り上げて目を閉じた。
「君が手配したというのは、こういう意味か」
「『君』じゃなくて、『綾』って呼んで下さいね、悠平さん」
ベルボーイが去った後、沢渡は旅行者を装って浮かべていた笑顔を引っ込め、柏木に向き合った。
「まあ良いだろう。しかし、俺は君のことを信用していない。眠っている間に喉を切り裂かれないという保証はどこにある?」
「『綾』って呼んでって言ってるのに。ちょっと待って下さいね」
柏木は警戒を解かない沢渡とは対照的に、自宅のリビングにでも居るかのように隙だらけだ。その柏木が操作していたスマートフォンから男の声が聴こえてきた。その画面に向かって、柏木が話しかける。
「
沢渡は柏木から差し出されたスマートフォンを受け取った。沢渡が画面を見ると、確かに見覚えのあるスーツの男が映っている。
「沢渡さん、この度は申し訳ございません。総理に代わってお詫び申し上げます」
「謝られる必要はないですよ。ただ、本当に彼女を私のパートナーとして使ってもよろしいのですか?」
「もちろんです。この後、本会議が終わり次第、総理からも直接ご連絡を差し上げます」
沢渡が柏木の方を見ると、顎を突き出して胸を張っていた。その子供っぽい主張の仕方に、沢渡は肩をすくめた。
「分かりました。彼女が言った通り、今日はホテル内で今後の方針を決めて終わるでしょうから、連絡は何時でも構いません」
沢渡がそこまで伝えると、柏木がスマートフォンを沢渡から奪い取った。
「それじゃあ、加茂さん、よろしくお願いしますね」
柏木はそう言いながら画面に向かって小さく手を振って通話を終了させた。
「これで信用してもらえましたよね、少しは」
「少しは、な。それで、君、いや、綾には何ができる」
柏木の睨みに、沢渡は呼び方を変えた。
「寝ずに男を落とすぐらいのことは。中国人が相手でもね。それと、まだ私しか知らない情報を持ってる」
「情報? 例の兵器のか?」
柏木は沢渡に「もちろん」と言いながら頷いて返した。そして、スーツケースの中からモバイルパソコンを取り出して起動させた。
「今の段階では、とりあえず例の兵器のアウトライン程度でしかないけど、重要な情報であることには違いないはず。だって、あの噴火の翌日、私にメールで届いたんだもの。父が使っていたアドレスからね」
立ち上がったパソコンのデスクトップには、テキストファイルがふたつ置かれていた。そのファイルのうちのひとつを柏木が開くと、カタカナの文字が、文章を作っているかのように所々で改行されていたが、そのまま読んでも意味を成さなかった。
「これはすごく単純な暗号だった。父が昔、私に教えてくれた方法で解けたから、私にとっては、だけど」
解けたと柏木は言ったが、その解いた文章はどこにもない。開いたテキストファイルは暗号文だけだ。
「解いた文章は君の頭の中だけか?」
「『君』じゃなくて『綾』だって。私もバカじゃないから。解いた文章を保存してしまえば暗号文の意味がないことぐらい分かってる。これはヴィジュネル暗号なの。鍵は私の生年月日」
ヴィジュネル暗号は鍵となる単語を用いて、暗号文の文字を一文字ずつ置き換えてゆく暗号だ。
「で? 生年月日は?」
「プレゼントをくれるのなら教えてあげてもいいわよ」
「それまで生きていればな」
断られると予想してプレゼントを要求してみた柏木は、予想外の返答で次に用意していた言葉を見失った。
「どうした。早く教えろ」
「あ、うん。一九八八年九月四日」
沢渡はその後も続けられたプレゼントの約束をせがむ言葉を無視し、パソコンのモニターに集中した。
【イサイホ テヘモスウセ ヘネウフコウヘカエテフメ キトスモトホ ナエキノユコタホ キケニコナトナ ササツヘトワシ】
この文字列を、鍵の数字分だけ五十音順で上か下へスライドさせる。鍵が分かっている場合は、数文字試せば上下どちらにずらせば良いか分かる為、わざわざ上下を指定されることはない。鍵は198894。この場合、ずらす方向は上だ。最初の「イ」はひとつ上の「ア」。次の「サ」は九つ戻って「イ」。鍵は六桁しかないが、七文字目からは再び鍵の一桁目から対応させてゆく。そうやって解読した最初の一文はこうだった。
【アイリニ コノメエルカ トトイテイルトイウコトハ ワタシハシニ シンカタヘイキハ カンセイシタト イウコトタロウ】
「『アイリにこのメールが届いているということは、私は死に、新型兵器は完成したということだろう』……これが噴火の翌日に?」
「アイリ」とは柏木の本名だろうが、それは沢渡にとって、現時点ではどうでもいいことだった。
「どういうことだと思う? 父が死んで三年が経っているのに、どんな仕掛けだったんだろ」
柏木が気にしていることは、それほど重要なことではないと沢渡には思えたが、正解と思わしき答えを柏木に与えた。
「それほど難しいプログラムじゃない。兵器の使用に伴うコードを認識して、且つ、君の父親が自動送信解除の操作をしなければメールが送信されるようになっていたんだろう。それだけ君の父親が新兵器開発に深く関わっていたという証拠だ」
「まだ『君』って言ってる。でもそうね。開発に関わっていたのは間違いないみたい。開発の中心に居た専門家を手配したのが父みたいだから。あ、このメールの続きに書いてあったんだけどね」
メールの文章は、A4サイズの紙にプリントアウトすれば、十枚ほどにもなりそうな分量だった。それを解読するのは大変だろうと、柏木は要点を沢渡に伝えた。
「机上で兵器を完成させたのは北朝鮮。でも、それを形にするだけの余裕はあの国にはない。むしろ、初めから設計段階で売りに出すのが目的だったみたい。中国の組織にあっさり売った。お金じゃなくて、核弾頭二十発でね」
「組織? 中国政府とは違うのか?」
「うん。政府の中に潜り込んでいる組織。これは推測みたいだけど。最終的な目的が政府のそれとは違うって。ただ、その組織も政府の一部には違いないから、政府と呼んでも問題ないんだろうけど。まあ、それもこれから説明する」
柏木は沢渡から新たな質問が出ないのを見て話しを続けた。
「中国での兵器のコードネームは
二〇二〇年の八月六日といえば、東京オリンピックの開催期間中だ。沢渡の表情を見て、彼がそのことに気付いていると悟った柏木は「そうなんだよね」と頷いた。
「スポーツで国力をアピールしたがる中国政府が、自国民を、それもトップクラスのスポーツ選手を巻き添えにする作戦を立てるなんておかしいでしょ? だから一部の組織が主導しているに違いないって読んだんだってさ」
「まだそうとも言い切れんだろう」
沢渡の言葉に、柏木は首を傾げた。
「どういうこと?」
「オリンピックをボイコットするって可能性もある。そうする言い訳は山ほど転がっているからな」
「あっ、そうか。なるほどね。なんか、そっちの方が可能性高そう」
「ああ。だが、ボイコットされる段階まで作戦を進められたらこちらの負けだ。できれば次の実験の前に阻止したい。しかし、八月六日か。時間も八時一五分に合わせて計画していそうだな」
柏木はその沢渡の予想を聞いて驚いている。
「どうして分かったの? 確かに八時一五分って書いてあった」
時間を言い当てた沢渡のことを感心している様子の柏木に対して、沢渡は逆に呆れていた。
「一九四五年八月六日午前八時一五分。核兵器が初めて使用された日時だ」
柏木もそれを知らなかったわけではないらしく、言われてハッとした表情になった。直後に気付かなかった恥ずかしさからか顔を赤らめ、話を父親からのメールに戻した。
「ひとつ目のファイルはそんなとこ。で、ふたつ目が全く分からない」
柏木はそう言ってもうひとつのファイルを開き、沢渡に見せた。ひとつ目と同じく全てカタカナで、スペースや改行の使い方も同じだ。
「やっぱりヴィジュネル暗号だとは思うんだけど、鍵が違うのよ。鍵の順番を逆にしてみたり、ずらし方を逆にしてみたり、色々試したけどダメだった。父や母の誕生日でもダメ。ファイルの作成日時とか、メールのメタデータ。鍵になりそうなものは手あたり次第に試してみたけど、全部ハズレ。こういうのって、違う人が挑戦したら、あっけなく解けちゃったりするんだよね」
そう言って顔を覗き込む柏木を見て、沢渡は長い夜になりそうだと、この日一番大きな溜息を溢した。
沢渡がシャワーを浴びている間も、柏木は暗号文と向き合っていた。鍵になりそうな数字や単語、名前をいくつも当てはめてみる。暗号文は膨大だが、鍵を探す作業はそれほど難しくはない。文の冒頭だけ意味を成す文になるか確認するだけでいい。ただ、時間がかかるだけだ。
「鍵は開いたか?」
スウェットを着てバスルームから出てきた沢渡は、そう口にしながらソファーに座りタバコに火を着けた。
「まだのようだな」
返事もせずにモニターを睨んでいる柏木を見て、沢渡は火を着けたばかりのタバコを灰皿に押し付け、すぐに立ち上がった。
「思い当る言葉が鍵じゃないとすると、闇雲に当てはめてみても無駄だろう。探し方を変えるんだ」
柏木の背後に立った沢渡が、柏木の肩を叩いて場所を譲らせた。
「シャワーを浴びながら考えたんだが、文節ごとに入れられたスペースと、綾に向けて、いや、アイリに向けて書かれた文章だというのがヒントになりそうな気がする」
「スペースと名前?」
「ああ。そして、暗号文から鍵を作るんだ」
柏木は、沢渡の言う意味が理解できぬまま、暗号文の冒頭を口に出した。
「スラロ、トハユコニスクラ、ナエスムセ、クイヌステミキフロワマ。これから鍵を作るって、どうやって?」
「これも『アイリ』に向けて書いた暗号文だろう? だからこの暗号文を解読すれば、かなりの確率で序盤に『アイリ』という単語が出てくるんじゃないかと思ってね。手始めに、最初の『スラロ』を『アイリ』にする鍵を作る」
その説明で、柏木にも沢渡の考えが理解できた。
「分かった。じゃあ、ちょっと待って。エクセルでマクロを組むから」
柏木がそう言って、再びパソコンの前の場所を沢渡から奪った。そして、三分も要さず、入力フォームに文字列を入力すると、鍵を作成するマクロを組み上げた。
「ふーん、やるもんだな」
「このくらいならね。昔取った杵柄ってヤツ?」
感心する沢渡の言葉はさらりと流して、柏木はフォームにスラロと入力した。画面に表示された鍵はシユウ。次に入力したトハユではテネロ、ナエスではトイテ、クイヌではキンヘと出た。
「シユウ。雌雄を決す、の『雌雄』かな。他は、『て寝ろ』に『解いて』。三文字だとどれも文章の一部に見えなくもないね」
険しい表情の柏木の後ろで、沢渡の鼓動は速まっていた。脳裏に浮かんだ鍵を当てはめると、文章に意味が生まれていった。
「『シユウ』じゃない。『シュウ』だ。俺が三年前に使っていた名前だよ」
「え? じゃあ、鍵は私や父に関係したことじゃなく?」
「いや、そうじゃない。アイリをシユウという鍵で変換したのではなく、シュウをアイリという鍵で変換しているんだ。最初がアイリで、十二文字目でナエスに変換するトイテという鍵。見覚えがあるだろう?」
「アイリ、トイテ。あっ!」
答えに辿り着いた様子の柏木に、沢渡は頷いた。
「灯台下暗し、だな。難しく考えすぎた。ま、暗号なんて解いてしまえばそういうもんだが」
柏木が、ふたつの暗号文のウインドウを並べて表示させた。ひとつ目の解読文、それが、ふたつ目の暗号文の鍵になっていたのだ。柏木がマクロを組み直して、ふたつ目の暗号文をコピーし、フォームに貼り付けてボタンをクリックすると、一瞬で暗号文が解読された。
【シユウ ワタシニツツイテ アイリマテ メントウヲカケシマツテ モウシワケナイ】
「シュウ、私につついて。続いて、か。アイリまで面倒を掛けしまって? 掛けてしまってだよね。面倒を掛けてしまって申し訳ない、ね。慌ててたのかな。『掛けしまって』だってさ」
寂しげにそう言う柏木に、沢渡は罪悪感を抱くわけにはいかなかった。自分の仕事に正義があると信じていなければ、判断を迫られた時に迷いが生じて命取りになる。
「間違いに気付いても、脱字を埋めようとすれば、その後の文字も全て直さなくちゃならないからな。時間がなかったのだろう。しかし、これで面倒でもひとつ目の暗号文も、もう一度全て解読しなくてはいけなくなったな」
柏木は手を一度叩いて立ち上がると大きく背伸びした。
「でも先が見えたことだし、私もシャワーしてくる。シャワーから出たらマクロに頑張ってもらうよ。ネットに繋がなければ情報が漏れることもないだろうし」
柏木は沢渡に背を向けたままそう言って、バスルームへと消えていった。柏木が背伸びをする時に、顔を手で拭っていたのに気付いていた沢渡だったが、掛ける言葉も見つからなかったし、言葉を掛ける必要性も感じられず、気付かぬ振りをした。
バスルームからシャワーの音が聞こえ始めたのと同時に、沢渡のスマートフォンが鳴った。画面に「禿げオヤジ」と表示されている。
「はい、沢渡です」
「私だ。柏木君は近くに居るか?」
「いいえ、今風呂です」
「そうか。いや、すまなかったな。本来なら、現地に常駐している人間を付けてやるべきだったのだろうが」
「構いませんよ。それに、彼女も結構やります。実戦の場ではどうか分かりませんが」
「それは心配していない。油断していたとはいえ、私のSP達が一瞬でやられたからな。君も、間違っても彼女の風呂なんか覗かんことだ。殺されるぞ」
伊達はそう言って電話の向こうで笑っていた。
「そんなことはしませんよ。それより、彼女の父親から兵器に関する情報が彼女宛てに届いていました。阿蘇山の噴火の翌日にです」
「知っている。そのメールに、君を頼れと書かれてあったのだろう?」
「いや、それは聞いていませんが。まだ情報の全てを確認したわけじゃありませんので。そうか、そうですね。そういうことかもしれません」
だからこそ自分に対してあの男がふたつ目の暗号文で、娘まで面倒を掛けてすまないと謝罪しているのだろうと沢渡は理解した。
「大丈夫なのか?」
「そう仰いますと?」
「そのメール、罠ではないのか? あの男を消したのは君だろう」
「確かに罠という可能性もあるかもしれません。ですが、他に何も情報がない。それに、罠だとしてもあの男はもういない。そうでしょう?」
「うむ、そうだが。私が今更言うことでもないが、充分注意してくれ」
「ありがとうございます。権藤チーフへは?」
「これから会うことになっている。私から事情は説明させてもらうよ」
「お願いします。では」
電話を切った沢渡は、灰皿に転がっているタバコの吸い殻を口に咥えて火を着けた。
「罠かもしれない、か。聞き飽きた言葉だな」
バスルームからは呑気に鼻歌を口ずさむ柏木の声が漏れ聞こえてくる。中国民謡の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます