1.きみと出逢って

紫陽花の咲く頃に

 改札を通り、出口の方へと歩いていく。今回で歯の治療も最後だと思うと、自然と足取りも軽くなる。エスカレーターを降りて、出口までの階段を上がっていく。薄暗い中に、外からの日差しが差し込んできた。やけに眩しくて目を細めたくなる。よしっと勢いをつけて駆け上がっていくと、先ほどまでのトントンと鳴っていた足音は、外から聞こえてくる自動車の音に、かき消される。

 出口に立つと力いっぱい背伸びをした。三日振りの晴れに体中が喜んでいる。

 鞄を前カゴに乗せ、ゆっくりと自転車を走らせる。傘をさしていないとこんなにも視界が良好なのかと、顔に当たる光と風が気持ちいい。

 いつも寄り道をするコンビニを通り越して、花陽公園までくると、歩道で自転車を降りて立ち止まった。雨の中ではなかなか気づかなかったけれど、薄い青色の紫陽花が綺麗に咲いていた。花びらが陽射しに反射してキラキラ揺れると、蝶になり今にも羽ばたきそうに見えてくる。

 その奥のコートでは小学生が靴やズボンに泥をつけてサッカーを楽しんでいる。俺も小学生の頃、同じようにサッカーをしていたときのことを思い出す。フェンスの片面にだけゴールを描いたコンクリ壁があり、友達が帰ってもひとりで壁当てをしていたなと、横目で追いながらぼとぼと歩いた。もっと脚を上げるんだよと、教えたくなる。懐かしさに心がほっこりした。

 入り口を過ぎると、ブランコや滑り台で遊ぶ小さな子たちが、キャッキャッと笑い声を上げながら、走り回っている。無邪気で楽しそうな姿が何とも可愛らしい。

 横を向き、そんな光景に目を奪われながら、ゆっくり歩を進める。後ろで、入り口の柵をするりとくぐり抜けてきた男の子が目に入った。道路へ飛び出しそうで危なっかしいなと思っていると、耳に入る自動車の音が徐々に大きくなっていく。思わず前を向くと、軽トラックが迫っていた。運転手は小さな子に気づいてないのかスピードを緩める気配がない。「危ない!」咄嗟に自転車を投げ倒し、三メートルほどの距離を飛ぶようにして男の子に手を伸ばした。

 一瞬、頭を打ったような鈍い感覚と目の前が真っ暗になったけれど、……何ともない。男の子は無事に飛び出さずに済んだ。「すみません、ありがとうございます」その子の母親が驚いた顔で走ってきて、何度も頭を下げてきた。「いえいえ、何ともないんで」と軽く会釈を返した。

 ヤベッ、こんなことしている場合じゃない。歯医者へ行くことを忘れそうになっていた。自転車を起こし跨ろうとしたとき、誰かの視線を感じた。その視線を辿ると、その先に同じ年くらいの女子がいた。目線が合い、少し気まずくて目を逸らした。誰だっけ? と首を捻る。そして、再び見てみると、ニコッと優しい笑顔を向けられた。

 可愛い。

 ……知らないとはいえ、可愛い女子にそんなことされたら照れてしまうし、下を向いてしまう。けれど、それはもったいない、いい出会いかもしれないのに。すかさず不器用な笑顔を返した。それなのに、いない。どこにもいない。こんな数秒もしないうちに消えるなんてことある? 自分の臆病さに後悔しかない。

 絶対可愛かったし、天使みたいに綺麗だった。パッと見ただけだけれど、間違いない。またどこかで会えますようにと願いながら、ゆっくりと自転車を走らせた。




 薄明るい部屋の中、目が覚める。どんよりと重たい空気に、ベッドの上で背伸びをした。あくびをしつつ起き上がり、よろつく足を進ませてカーテンを開ける。窓ガラスにはいくつも水滴がついていて、ため息が出た。視線を先にずらせば、激しくもなく、穏やかでもない雨が、飽きもせず降り続いている。

 六月も半ばを過ぎれば、梅雨も本領発揮というところか、ここのところ、太陽を目にしていない。もちろん、直視はできないけれど、どうにもこうにも恋しい。

 来月からテストが始まるというのに、この気持ちをどうにか察してほしいところだ。

 洗面所で歯磨きをして、顔を洗っていると、弟の磨都が「おはよ」と寝ぼけた顔で隣に来た。

「兄ちゃん、今はセットアップだよ。何なのそのただダサいの」

 朝一からケンカでもしたいんだろうかと思えてくるけれど、そんなテンションはない。

「お前こそ、ただの海苔巻きじゃんか」

 パジャマ代わりの黒のスウェットが海苔にしか見えてこない。まだ小学生のような風貌で、ファッション雑誌のモデルを真似しても無理があるとしか思えない。

「これだから陰キャは困る」

「誰が陰キャだよ」

 最近やっと反抗期がきたのか、「お兄ちゃん、大好きー」と言っていた数ヶ月前が懐かしい。

 ここで口論していても埒が明かないため、寝癖直しを振り、ワックスを手に取り、そそくさと部屋に戻った。制服に着替えて、ネクタイを鞄に押し込んだ。

 階段を滑るように降りて、リビングのドアを開けると母が忙しく動いていた。


「あっ、絽薫ろかごめん。お母さんパート早出になっちゃってもう行くから、あと頼んでいい?」

「マジ?」

「マジ」

「りょ」


 親指を立てて了解した。同じように母も親指を立ててよろしくー、とリビングを出た。

「タオルー!」と叫ぶ声にため息を吐き、脱衣所まで急いで走り、フェイスタオルを取り出して玄関まで走った。


「ごめん、ありがと。靴履いちゃったから脱ぐの面倒で」


 テヘッとベロを横に出して、愛嬌たっぷりの笑顔を向けてくる。またため息が出てしまう。


「いいから。転ばないようにねー」

 

 手を振る母を見送った。

 その間、のこのことリビングに入っていた磨都が「兄ちゃんまだー?」と椅子に座り口を尖らせていた。

「はいはい、今やりますよー」と母の続きをした。

 何とか朝食を済ませて、洗い物は家を後から出る磨都に頼んだ。今日一番遅出の父の朝ごはんも、ラップをしてテーブルに置いておいた。

 「いってきまーす」と玄関のドアを開ける。一歩踏み出した足を戻したくなったけれど、左右にブルブルと首を振り傘をさした。


 朝のラッシュ時間帯、いつだってむさ苦しいのに、この時期はなおさらだ。ハーとため息混じりにもたれかかった手摺りも、生ぬるい。

 駅を出て、サウナかよっ! とツッコミを入れたくなるほどの、憂鬱な道のりを進む。学校までの五分が地獄の耐久レースのようだ。濡れた靴や裾に追い打ちをかけるように、水溜りが靴下までも侵食する。もはや汗なのか、雨なのかわからない額の水滴を手で拭い、胸元を手早くはためかせる。

 西門前から並行に続く、ポプラの並木道が目に入る。あともう少しだと、急ぐ気持ちから脚がリズムを刻むように、駆け出していく。

 なんとか昇降口まで辿り着いた。傘についた雫を払い、ペン回しのように一回転させてスナップボタンを止める。

 ぐっしょりと重たくなった靴を、靴箱から上履きと履き替える。中学の時とは違い、サンダルなのがよかった。靴下を脱いで履いても、何も違和感がない。不幸中の幸いだ。

 脱いだ靴を逆さにする、ソールに染み込み切れなかった雨水が、絞った果汁のように落ちていく。決してそんないいものではないけれど、そう思いたい。地面に映った水玉模様を見ていたら、「おはよー!」と尻を叩かれた。いってぇーと思い振り返ると、クラスメイトの坂戸輝紀がニヤニヤとせせら笑うようにこちらを見ていた。


「朝からなに? 女の尻揉めないからってとうとう男に走ったの?」

「んなわけねーだろ。って何だよ、その髪」

「えっ?」


 スマホのカメラを向けられ自分の髪を見た。ハハッ、と自分でも苦笑してしまうくらい、左右にうねった天パの髪に余計に肩が落ちる。


「今日ワックスつけたか?」

「まーね」

「よしっ、じゃあ貸してみ」


 そう言い、徐に俺の髪をいじり始めた。たった数秒のマジックのようだ。最後に仕上げのスプレーまでしてくれた。


「完っ璧! 見てみ」


 またスマホのカメラを向けられ、半信半疑で確認する。


「やばっ!」

「だろ? ゆーて何もしなくてもキャワメンが押し出されてるけどな」

「な、なに、褒めてんの。や、やめろやい」

「あっ、このスプレー雨の日マジでいいから、お前も買えよ」


 さすがはサッカー部でオシャレ番長でもある。


「絽薫はいいクセしてんだから、ワックスでもっと髪を立ち上げればいいんだよ。俺みたいに刈り上げもいいぞ」


 確かにかっこいいと思う。サイドはがっつりと刈り上げられ、前髪は長めに残して、風が靡いているかのように立ち上がり、横に流している。少し日焼けした小麦色の肌に、獲物を捕らえたら離さないような、キリッとした目、女子にモテないはずがない。


「まーそーなんだけどね」


 たぶん、どんな髪型にしたって、思い通りに扱えないと思ってしまう。器用にこなしてそうで、以外と不器用なのは自分でも承知している。

 

 靴下を靴の上に干して、廊下へ行こうとしたとき、大きな影が後ろに見えた。


「ピー! そこ、朝からイチャつくなんてずるいんだぞー!」

「うーわっ! 福居」

 耳元でかなりの大声で話してきたのは、福居昇流だ。

「なんだよー、俺だって、サッカー部のサッカサッカサッカードくんに髪の毛やってもらいたい!」

 

 一八五センチの高身長に、低音ボイスの甘えた声が絶妙に気持ち悪い。胸の前で綺麗に交差をして結ばれた手がなおさら拍車をかける。


「サッカサッカってなげー、もっと縮めろよ」

「サカドくん!」

「それな! ってか福居のそのベリーショート直しようがないかんな」

「残念、無念、しゃーないねん!」

「もうええわ!」


 ついついつっこんでしまう。二年生になり、同じくクラスになった福居に誘われて、演劇部に入った。嫌でも、いや、嫌ではないけれど、一緒にいる時間が増えたことで、こんな状況がたまにある。


 教室に着くと、何やら賑やかだった。いつもそうだけれど、何かスパイスを振られたかのように、少し熱が高い気がした。

 席に着き、フーッとため息を吐く。ズボンからシャツを出して、下から空気を入れるようにはためかせる。


「おはよー、ろくん」

「みっちゃん、おはよ」


 三咲凛花、小学生からの付き合いで、たまたま高校も同じになった。腐れ縁ってやつなのか、クラスまで二年連続で一緒だ。


「今日転校生が来るんだって」

「へー」

「女子らしいよ。しかも可愛いみたい」

「へー、そーなんだ」

「興味ないの? 道脇がわざわざ職員室に行って、見てきたみたい」

「えー、マジで。可愛いとか最高じゃん!」


 みっちゃんの横を陣取るように割ってきたのは輝紀だ。

 ゔ、ゔんとみっちゃんは軽く咳払いをした。

「別にあんたに言ってないけど」

「はっ? 別にいいじゃん。話聞いてたら悪いわけ?」

「誰も悪いとは言ってないけどね!」

「じゃあ、いいだろ? で、転校生って?」

「転校生に興味あるんだ? なんで? 付き合っちゃおっかなーって?」

「いや、相手がいいって言わなきゃ、無理じゃん」

「ってかいいって前提で話してない?」

「なんで、そーなんだよ。一言もそんなこと言ってねーし」

「へー、そーなんだ。顔に書いてあるけどね!」

「はっ! どこにだよ? 顔のどこに書いてあんの?」


 このふたりは大概こうなる。何ともないようなことでムキになり、いずれは喧嘩になる。


「えっ? どこだどこだ」


 ピリピリとした空気を察したのか、福居が大袈裟な動きをしてやってきた。坂戸の顔を両手で挟み、至近距離で舐め回すように覗き込んでいる。


「あっ、あった。ここだー」


 期待を膨らますような陽気な声でこちらを向いた。自分の顔に貼り付けた紙を指さして、みっちゃんに読め読めと口パクをしている。


「イケメンですみません……」

「お前なんかい!」


 再びツッコミを入れて、今度は「はい~」と俺と福居は思い切り変顔をした。


「……もう、いいよ」

「なら、俺も」


 ふたりはプイッと反対方向を向いて自分の席へと戻っていった。やれやれというところだ。お互いに顔を見合わせて、ハハッと苦笑いをした。


「仲良いんだか悪いんだか」

「喧嘩するほど仲がいいって言うしな、俺らのいないところだと仲がいいのかもよ」

「そう?」


 本当にそうだといいんだけれど。みっちゃんははっきりとした性格だから、嫌なのもは嫌だろうし、我慢してまで仲良くするなんてことはないと思う。でも、毎度口論しつつも同じ場所にいるということは……何なんだろう?

 そんなことを思いつつ、駄弁っているとと、教室のドアがゆっくりと音を立てて開いた。


「はーい、席についてー」


 矢村先生の一言で一斉に席についた。貫禄があるというか、目が弱いらしく、スモークのかかったメガネと、ゴツっとした体格が教師とは違う、何かを醸し出している。

 廊下を見て軽く会釈をしたようだった。何をやっているのか、気味が悪い。そして、ゆっくりとドアを閉めた。

 そのまま無意識にドアを見ていると、窓ガラスの奥に、何かがあった。左右前後と大きく首を回した。誰も気づいていないのか、全くそれを無視している。こんな朝から、そんなこと……。数秒間、この暑さが嘘のように、俺の周りだけ冷たい空気が纏っていた。でも、それは勘違いだと、すぐにわかった。


「みんなももう知っとるかもしれんけど、今日から新しい仲間が加わるでな。入っといで」

「はい」


 あっ、転校生か! おばけじゃない、あるわけないかと胸を撫で下ろした。


「じゃあ、少し挨拶をしてもらおうか」

 

 たおやかと言えばいいのか、麗しいと言えばいいのか、教壇の隣に来ただけなのに、芸能人オーラ的なものが見えた気がした。


「はい。あおい百彩もあといいます。初めて学校に通うので慣れないこと……」

「初めてって、葵さんは小学生ですかー?」

「えっ? あっ、あの、ごめんなさい……」


 他人の失敗や噂話が好物であろう道脇が、おちょくるように悪気もなく言い放った。クラスの中にクスクスと笑い合う声が聞こえてきた。

 葵さんは黙って俯いてしまった。


「せんせーい、葵さんの声聞こえませーん」

「大丈夫かい?」

「あっ、すみません。大丈夫です」

 

 少し驚いたように先生の方を見て、浅く深呼吸をした。

 数名だろう噂話をするように、コソコソと何かを話している。転校初日にそんなことされたら、気分は良くないはずだ。


「えっと、葵百彩です……」

「それさっき、聞きました! ハハハッ」 


 頭の中で何かがブチッと切れる音がした。


「道脇うるせーよ! 初めてで緊張してるかもしんないのに、余計に喋れねーだろ!」


 三拍程、クラスが下校後のように、閑散とした。


「何だよ、笹井。冗談に熱くなってんじゃねーよ。一目惚れでもしたのかよ!」

「一目惚れ⁉︎」


 その言葉についつい葵さんを見てしまった。お互い、目線がしっかりと交わったのがわかった。不安そうな顔から優しい笑顔を向けてくれた。

 突然、ピンク色の突風が吹き付けて、甘い香りが嵐のように過ぎていった。

 目が眩みそうになったけれど、葵さんを見返すと、まだ、笑顔を向けていた。すかさず笑顔を返した。

 可愛い。

 ホイップのような素肌、キュルンと潤んだ瞳、艶があって柔らかそうな唇——なぜだか息が上がってきた。張り手をするように顔を触り、妄想が膨らみそうだったのを何とか抑えた。どんな顔して見ていたのか少し不安になる。気持ち悪がられていないだろうか。

 再び目が合い、ニッと笑って見せた。頼むから笑ってくれと願う心が届いたのだろう、先ほどと何も変わらず、優しく笑顔を返してくれた。力が抜けて足から崩れ落ちそうで、そのまま席に座った。


「みんな! 静かにしよーよ。こんなんじゃ挨拶ができないままだろ? 惚れたとか、そんなこと失礼じゃないか。絽薫さんだってそう思うだろ?」

 学級委員の茶谷が机をバンっと手で叩き、立ち上がった。

 クラスの視線が一気に俺に向けられた。ふぉわんとした頭の中が、早々と現実に向けられた。といっても、茶谷が何を話していたのかほとんどわからなかった。葵さんの笑顔のせいで、やはり淡い妄想に陥っていたのかもしれない。最後のそう思うだろ? 以外、耳に入ってこなかった。


「……そうだよ。そうに決まってるよ。本当にそうだよね? うん、茶谷の言うとおりだよ?」


 何を言っているのか、自分でもよくわかっていなかったため、周りを少し伺うような話し方になってしまった。福居は俺に親指を立てていたけれど、輝紀とみっちゃんは首を横に振っていた。


「はいはい、茶谷と笹井の言うとおりだ。すまんね、悪い子たちではないんだけど、喋り好きが多くて」

 矢村先生が葵さんに目線を送りながら頷いた。

「いえ。……短い、あっ……わからなくて迷惑かけることもあると思いますが、よろしくお願いします」

「それじゃ、席は……」


 透き通った声に、意識を持っていかれそうになる。いい気分になりそうなのを、何とか堪えて、俺だけじゃないよね? と、周りをキョロキョロと見回してみる。誰からか視線を感じそちらの方を見た。

 間違いない。

 心臓にネジを押し込むよりもさらに強烈な痛みと、それを上回る快感と幸福感が全身を巡った。息ができなて、苦しくて、荒がる鼓動がどうしようもなくて立ち上がった。目線を逸らすことなく、吸い込まれそうな瞳を捕らえたまま身動きが取れない。


「どうした? 笹井」


 金縛りにあったように、先生の言葉にもなかなか反応ができない。

 俺の変な事態に微笑みを絶やさぬまま、一歩一歩ゆっくりと、距離を縮めてくる。クラスのみんなが何々? と、この状況に少し呆気に取られているようだ。けれど、俺にはそんなことどうでもいい。あと少しあと少しと、もう目の前に葵さんが来てしまった。


「大丈夫?」


 俺の顔を覗き込むように、上目遣いで見つめられた。歓喜が沸点に達ってしまったんだと思う。身体がその勢いに耐えきれず、鼻血が出た。


「血、鼻血出てるよ。大丈夫? これ使って」


 心配そうな顔をして、優しく俺の左手を握り「はいっ」と、ポケットティッシュを手渡してくれた。


「えっ?」

 

 右手で鼻下に触れると、ヌルッと生暖かいものを感じた。見ると赤い鼻水がついた。


「笹井、座らんのか?」

「えっ、はい」

「学級委員は時間があるときでもいいから、校内を案内してやってくれ」


 どうしたんだろ? 一体さっきから何があるというのだろうか。頭がおかしくなったのか、それとも変な病気とか……いや、そんなことはない。確かに暑いと言われたら暑い。それは梅雨のせいであって、熱が出たわけでもないし、体調不良でもない。

 ふと道脇の言葉が思い浮かんだ。

『一目惚れ』

 心に特大の花火が上がった。

 ピンクの風も心臓の痛みも、ドラマやら映画やらで似たようなことを見たことがある。まさか、そんなことが本当にあるなんて、思いもしなかった。

 生唾を飲み込み、左隣の一つ前の席に座っている葵さんを見た。

 ——好きだ。葵さんのことが好きだ。

 初恋ではないけれど、それ以上に、惹き寄せられていると気付いた。

 葵さんが俺の視線に気付いたのか、こちらを振り向いた。でも、目を逸らしてしまった。なぜだか、まともに見ることができなくなっていた。

 どんな顔をして見たらいいのか、急に恥ずかしさが込み上げてくる。

 鼻にティッシュを突っ込みながら、ため息混じりに窓の外を覆う灰色の雲と、いつまでも降り注ぐ雨を見た。

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