梅雨空と恋模様
相変わらず外は激しくもなく、穏やかでもない雨が降り続いている。灰色の雲は、遠ざかる気配がない。
昇降口に響く雨音が、余計と蒸し暑さに拍車をかける。並んだ靴箱の奥のスペースに売店がある。二列の蛍光灯が売店の両端を照らすように、一灯ずつ並んでいる。暗いわけではないけれど、薄明るくて何もなければ、きっとここには来たくない。
額にじわりと滲む汗を拭い、売店の列に並んだ。右から左から列に関係なく発せられる声に、あいよー、待ってねーと難なくかわしていくおばちゃんがかっこよすぎる。
自分の番がきて、注文する前におばちゃんがいつものとあとは何するの? と聞いてくれた。全校生徒ではないけれど、ひとりひとり覚えているのかと感心してしまう。てっぱんのハムマヨサンドと今日はカリッと香ばしさがクセになる焼きそばパン、それとチョコチップの入った菓子パンを買った。ラップに染みるように伸びたマヨネーズが、早く食ってと言わんばかりに食欲をそそる。ごくりと生唾を飲み込んだ。
人混みを避けるように、靴箱にもたれかかった。肩を落としでかい図体を小さくした福居が、よろめきながらこちらに来た。どうしたのかと尋ねると、てっぱんのコロッケパンが売り切れだとしゅんとしている。いつもはチャイムと共に、先行くぞと教室を飛び出しているのに、今日は珍しく授業中に昼寝をしていたせいで、出遅れてしまったようだ。
「いくら肩丸めたって小さくなんないよ」
「そこっ? 今そこじゃなくない? ……いや、それ褒めてんの? まあ、まあな。俺の身長モデル級だもんな」
ポジティブとはこいつのことだろうと思う。別に、貶したわけではないけれど、褒めたわけでもない。
腕を組み、先ほどとは打って変わって胸を張り、一、二センチは身長が伸びたように見えてくる。賑わう売店でも一際目立つ。
「ロカオン、福助」
騒めく中でも、はっきりと張りのある声で呼びかけてきたのは、同じ演劇部の新座明歩だ。
メガネを取り外し、フーフーと息を吹きかけながら、細目でレンズを確認している。掛け直してこちらへと向かってきた。
「聞いたよ。めちゃくちゃ可愛い転校生が来たんでしょ?」
「ぎょぎょっ!」
「さかなくんかい!」
「冗談言ってる場合じゃないの」
「えっ?」
渾身のギャグでもツッコミでもないけれど、絶対笑ってくれるだろうと頭の片隅にはあった。でも、何事もなかったかのように、ごく普通のテンションで返されて意気消沈しそうだ。
新座は人目を忍ぶように、慎重に周りを伺い、ちょっとこっちこっちと、俺たちを人気の少ない入り口側に連れてきた。何やら真剣な顔をしている。
雨音が効果音のように、三人の世界を演出しているようだった。
「新座、どしたの?」
「いい機会じゃない? うちらの代は女子がうちだけだよ。誘うべきじゃない?」
「えっ?」
「えっ? じゃなくてその転校生を演劇部に誘うの」
誘う……ということは、一緒に発声したり、エチュードしたり、絡み合うこと? それは、つまり、手が触れ合ったり、目を見つめ合ったり、予期せぬいいことが起きるということだ。
自分のいけない妄想が頭の中をグルグルと回り出した。息が上がり、胸が苦しくなってきた。
ヤバい、恋だ。まさに恋をしているんだ。これはキュンなんかじゃなくて、もっとずっと強い、ドッッキュンだ。
「ちょっとロカオン、どーしたの?」
「ロカ男、どーした!」
どこか遠いところを見ながら、息を荒げる俺を見て異変に気づいた。目の前で手を振ったり、肩を揺すったようだけれど、反応できなかった。
けれど、頬の痺れる痛みで現実に戻された。
「いってぇ!」
「おっ、やっと戻ったか」
「いや、戻ったって、まあ、引き戻された」
福居に脳天に響くほどの張り手を食らったらしい。首におかしな感覚があり、二回ほど首をポキポキと傾げた。
「ロカオン、あんたの変態妄想に付き合ってる場合じゃないの」
「変態って、な、何それー」
福居の袖を揺すりながら、小さな子どものように地団駄を踏んだ。
「ロカ男、男はみんな変態だ!」
「それな!」
昔の熱血ドラマのように、肩を抱き合い、空に広がる夕焼けがふたりには見えていた。
新座は咳払いをして「いい? ちゃんと考えといて」と言うと、左右を確認して頷き、そのまま教室の方へと行ってしまった。まるで、忍者かスパイだ。そこまで内密にしなくてもよさそうなものを、さすがは演劇部の脚本家志望だ。些細なことでも、自分の中でストーリーとして脚色しているようだった。
俺と福居は、売店の先にある連絡通路の販売機で飲み物を買い、その横にある青いベンチに座り、パンを食べた。屋根がついていると言っても、背中側はフェンスが並んでいるだけで、壁なんかはない。ふたりとも汗ばんでいるかのように、大小の水玉模様がくっきりとシャツに浮き出てしまった。冷たくて気持ちがいいと思えたのも数秒で、ベタつくシャツが余計と暑苦しい。
教室のドアを開けると、一瞬動きが止まってしまった。葵さんを中心にして輪ができていた。何やら、質問攻めにされている。迷惑そうな顔を一切見せずに、笑顔の受け答えで、遠目からでもわかる。
天使だ。
あ、やべー、俺もあの輪の中に入りたい。そう願う心と、これ以上質問攻めにするのはよくないよと、ふたつの心がぶつかり合っていた。
けれど、気づくとスラロームをするように、狭い机の間を難なくすり抜け、輪の中へと入り込んでいた。
「ろくん、むりくりきたね」
「えっ? みっちゃん。何やってんの?」
「何って、お前と一緒だよ」
俺の両隣にはみっちゃんと輝紀がいた。周りを見ると十数名ほどだろうか、好奇の眼差しを向けている。いくら転校初日だからといって、こんなに群がっていては葵さんに悪い気がしてしまう。けれど、俺だってどんな子なのか興味があるし、今日のところは多めに見てほしい。
「今、あたしが喋ってなかった?」
「さー、知らねーなー」
「俺は知ってるぞ」
普段の声から響きがいい。葵さんが中心なのに、福居に視線が向いている。
「な、なんだ。今日の主役は俺じゃない、葵さんだ!」
「そう! 主役はあんたじゃない! ——葵さんって言うの?」
そう言って教室のドアの前に立ち止まり、リズムを取るかのように軽快に輪の中まで入ってきた。ゆっくりと葵さんに近づき、覗き込んだ。
唖然として、みんなは視線を向けるけれど、俺は逸らした。
「そう、葵百彩です」
葵さんの言葉を聞いているのかいないのか、突然やってきた
「噂は本当だったみたいね……可愛い。あなたをスカウトする! っていうか、入るべきね、アイドル部」
「えっ?」
一直線に人差し指を葵さんに差して、逆に、果し状でも渡したかのような雰囲気だ。
「あの、わたし……」
「いきなりでごめんね。でも、考えてみて、葵さんならトップになれる。この愛夏が保証する!」
「あっ……」
前のめりな勢いに、言葉を失ってしまったようだ。葵さんは、呆然と榎園さんを見ている。
「ねぇ、ちょい待ち」
「んっ? これはリンリン」
「あたし、リンリンじゃないから」
「えっ、いつから?」
みっちゃんは深いため息を吐き、面倒くさそうに言葉を続けた。
「榎園さんの頑張りはいいと思うよ。でもさ、どう見ても嫌がってんじゃん」
「えっ? アイドルになりたくないの?」
葵さんと紙一重ほどの距離に接近して、目からキラキラビームを出しているかのように、瞬きをしていた。
「あの、そういうわけじゃ……」
「それだよ。そんな近くに言ったら何もいえないでしょ?」
みっちゃんは榎園さんの腰を掴んで、磁石を剥がすように後ろに引っ張った。
「んー、仕方ない、待つか。リンリンみたいに助っ人してくれるかもだし」
「ちょっと! その黒歴史もう絶対アップしないでよ」
榎園さんを女豹のような目力で押さえつけた。
「あれなら、よかったけどなー。俺はよかったけど、なあ?」
そう言いながら、輝紀が脇腹を突いてきた。
「えっ? あ、ああ。可愛かった」
「ちょっと、何言ってんの」
去年の文化祭を思い出して、急に恥ずかしくなったのか、顔を赤くして黙ってしまった。
「あれっ、笹井様! こんなとこで会えるなんて」
軽く会釈をされた。
「あのさ、その呼び方やめない?」
「推しを呼び捨てだなんて、絶対できない!」
「笹井様は俺のものだ!」
むさ苦しさが全身を覆ったと思ったら、福居がバカなことをいいながら、俺に抱きついてきた。
「あ、ああ」
榎園は頭を抑えて、倒れそうな雰囲気でふらつくように足を動かした。
「福居昇流、絶対許さない。笹井様は愛夏の推しなんだからー」
そう言うと、腕で目を隠しながら駆け出した。周りのやつらは、一斉に道を開けたため、誰にもぶつかることなく、止められることなく出ていった。
絶対泣き真似だった。そんなことをして何をしたいんだろうと、首を傾げることしかできない。
「俺のおかげだよな?」
福居がドヤ顔を見せてきた。
「えっ? ま、まーね」
「ってか、ごめんね。なんか変なのきちゃって」
みっちゃんがコクンと頭を下げた。
「ううん、わたしこそごめんなさい。何だかよくわからなくて」
「あっ、いいの、いいの。あれはいなかったってことで」
「へー、そうなの」
「そうそう、あれは笹井に狂っちゃっただけだからさ」
「輝紀、やめろよ。そんな言い方したら俺となんかあるみたいじゃん」
「はっ? 何もないことあった?」
「何もない!」
何もないと言い切るしかない。実際、俺からは何もない。ただ、好きだから、推しとして応援したい。と宣言されてしまったから、どうぞと了承しただけにすぎない。
「笹井絽薫」
不意に葵さんが俺の名前を呼んだ。それに釣られて振り向くと、三秒ほど目が合った。
「んっ?」
純粋でキュルンとした眼差しに、心臓が熱くなり、血液が激流のように身体を巡り出した。
「あっ、ささいろかで思い出した。ねえ、ろくん何だったけ? ほら、名前を間違えられてさ、みたいな話……」
「えっ?」
唐突に何を言いたいのかと思えば、俺の名前の話らしい。
「小さいときに名前聞かれて、笹井絽薫って言ったら笹色か? って聞き間違えされて、色のこと聞いてるんじゃないよーって言われたんだよね?」
「そーだよ。それにさ、磨都もいて笹井磨都って言ったら待たなくていいからちゃんと帰りなーって……別に名前で笑い取ろうとしてないからね」
「ロカ男、存在自体ですでに目立ってるじゃん! ずるいぞ」
福居に肩を勢いよく叩かれたせいで、足元がふらつき、葵さんの机に腕をつき膝から崩れ落ちた。
「うわぁー」
「きゃっ」
————。
こんな偶然あるのだろうか、一瞬イラッとしてしまったけれど、そんなことはすべて帳消しだ。今、葵さんの顔が三センチほどの至近距離にある。しっかりと視線を捕まえて、今すぐにでも初キスができるくらいだ。生唾を飲み込んだ。ここが教室であることなんかは、すっかり目にも耳にも入ってこない。まるでこの空間がふたりを包み込んでしまったようだった。
「ちょ、ちょっとろくん、子どもじゃないんだからしっかりして」
何かが身体を引っ張り上げて、霧が晴れるように、ふたりの空間はあっという間になくなっていた。
「あ、あはは。みっちゃんありがと」
「もう。ごめんね、葵さん」
「ううん」
「姉貴と弟かよ。ろかちゃん、膝はいたくないでちゅかー、いい子でちゅねー」
輪の中にいたことを全く気づいていなかった道脇が、ここぞとばかりに出しゃばってきた。
「はっ? 道脇何言っての? あたしがいつそんなこと……」
怒って当然だと思う。みっちゃんは少し驚いたような表情で、俺と輝紀の顔を見返した。
「そうだよ! 三咲がいつそんなこと言ったんだよ」
輝紀がみっちゃん以上に怒りを露わにして、強い口調で道脇に突っかかった。
「輝紀」
「サカドくん」
今にも殴りかかりそうだったのを、俺と福居で止めた。
「何だよ。冗談だろ? そんくらいでさ。つーか、姉貴で、兄貴……いや、彼氏で義理の弟か。俺が守ってやる的な」
道脇は高笑いをして、後ろの方へと歩き出した。周囲の空気が読めていないみたいだ。誰もいい気はしていないのに、ひとりで勝手なことを言って何が楽しいのだろうか。
「お前、いい加減にしろよ!」
周りが引きそうなくらいの怒号が響き、掴み掛かろうとする輝紀をふたりで必死に抑えていた。
そこに椅子の引く音がしたと思ったら、葵さんが立ち上がった。えっ? と思っているとそのまま道脇のところまでスタスタと歩いていってしまった。
「葵さん……」
何をしたいのかわからず、止めることもできずに、名前を呼ぶことしかできなかった。
「どうしてそんなこと言うの? 本当はそんなこと思ってないのに」
クラスのみんな目が点になっていたと思う。この状況に普通女子なら怖くて近寄り難そうなものを、そんな素振りを一切見せずに、動じていない。ただただ、素直に冷静に言葉を発した。
「えっ、なんだよ。かんけーねーだろ」
「……関係ないの?」
「はっ? お前にかんけーねーだろ?」
「どうしてそんなこと言うの?」
葵さんは首を傾げて、何かを考えているようだった。後ろ姿からでもわかった。それに、不思議な感覚があった。みんなは感じているのかわからなかったけれど、俺は感じていた。葵さんの話す言葉が心をくすぐり、穏やかな気持ちになっていくようだった。沸騰したお湯がしていなかったかのように、いつの間にか常温に戻っていた。
どんな顔をして見つめられているのだろう。背中まで伸びた髪が揺れると、道脇の口元がほんのわずかだけれど、ニヤけた気がした。
「じゃあ、どーしたらいいんだよ」
「来て」
優しく言葉をかけると、葵さんが振り向き距離を縮めてくる。それと同時に道脇は手を握られて、一緒にこちらの目の前まで来た。茶化していたやつが偶然にもあの綺麗な手を握るなんて、怒りを通り越してショックでしかない。
「こういうときはちゃんと謝らなきゃ、ねっ?」
葵さんはにこやかにな顔で道脇を見つめていた。
道脇はもじもじと床と俺たちを何度か交互に見て、浅くため息を吐いた。
「あ、あの、さ、今回は言いすぎたわ。……ごめん」
「いや、あたしは気にしてないよ。別に、うん」
「そ、そか、わりー」
挨拶するように片手を上げてそう言うと、バツが悪そうに自分の席まで戻っていった。
「葵さん、大丈夫?」
「うん、わたしは大丈夫だよ」
「ありがとね、助かったよ」
「三咲も平気か?」
輝紀がみっちゃんの頭を撫でた。
「えっ? だ、大丈夫。あの……、あっ、もう少しでお昼休み終わるしトイレに行ってこようかな?」
「じゃあ、俺も」
「えっ? 輝紀はいいの。あのあの……」
「わたしも行こうかな?」
「そうでしょ? じゃあ行こ」
「ならば、俺も行かなくては」
「福居はいいよ」
「なぜ!」
いつも通り俺と福居がバカなオーバーリアクションをしても全くの無反応で、みっちゃんはそのまま葵さんとドアまで小走りをして、そそくさと出ていってしまった。
いつもなら何バカなことやってんのっとツッコまれていたはずなのに、どうしたんだろうと、男子三人顔を見合わせて愛想笑いをするしかなかった。
ダルい梅雨の時期、新しい風が心を抜けていく。キラキラとした毎日に期待を膨らませて、夏を待つばかりだ。
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