ナツキス -ずっとこうしていたかった-

帆希和華

プロローグ

one more

 シャツの上ふたつのボタンを外し、胸元を煽るようにはためかせながら、磨都まとは玄関のドアを開けた。


「ただいまー」


 返事があるはずもなく、どんよりとした空気が抜けていく。ハー、と浅いため息を吐き、サッと引くようにドアを閉める。靴箱の目の前に靴を揃えて脱ぐと、上がり框まで目一杯足を伸ばし超えていく。

 祖父母の家を、両親の結婚を機にリフォームをしたらしい。父親の仕事でもあるため、気合十分に、知識を活かし経験を活かして行われた。昭和感は拭い去られて、当時では流行りの最先端だったとか……。けれど、この上がり框の高さは金銭的な問題もあり、手前に式台を設置しただけだった。

 靴がズレてないか確認して、スタスタと廊下を歩いていく。洗濯カゴに汚れ物を投げ入れ、手洗いうがいをした。タオルで拭き切れなかった雫が、床に散らばったのも気にせず、階段を駆け上がり部屋へと向かった。水色のスウェットTシャツとスウェットパンツに着替えて一階に降りてきた。

 中学一年になってから、ファッションに興味が出てきたのか、雑誌に載っていたセットアップが気に入ったようで、常に意識をしている。高身長の外人モデルが着ていたのに、一四五センチの磨都じゃ、同じものを着たとしても、服に着られてる感は拭えない。

 襖を開け、和室の電気をつけずに祖父母の仏壇に手を合わせてた。リビングから漏れる明かりでも部屋の中は充分見える。

 お供物の大福を取ろうと手を伸ばすと、掴みそびれて床に転がってしまった。追いかけて拾った目の前の柱に、三本線の小さな傷があった。しゃがみ込み、薄明かりの中その傷をよく見てみる。幼い頃であまりはっきりと覚えてはいないようだけれど、磨都は嬉しそうに口元が綻んでいた。兄の持ってきた小さな子猫が、リビングから逃げて一緒にここを走り回っていた。可愛くて楽しくて、そのことが印象に残っていた。

 少し懐かしさに浸り、右手の重さを確認した。その場であぐらをかき誰もいないとわかっていても、左右に首を振りニヤリと口角が上がってしまう。拳の半分ほどの大福を二口で噛み締めた。運動後の甘いものは格別だ。疲れた体に癒しが染み渡っていくような感覚がする。磨都は神様にありがとうとでも言っているかのように、上を向き満面の笑みで飲み込んだ。

 ゴミはポケットに詰めて、服で手を払い、和室とリビングの除湿器を確認して、溜まった水を捨てる。あまりやるなと言われているはずなのに、窓から外を見ると無性にやりたくなってしまうようだ。

 鍵を人差し指でパンッと下げ、勢いよく窓を開ける。そのままバケツの水を撒く感覚で、タンクを右から左に大きく振った。こうすれば芝生の水やりも簡単だ。もちろんアプローチや駐車スペースに水は飛んでいく。

 梅雨のこの時期、小雨が降ったのとなんら変わりはしない。なぜ、見つかると怒られるのか、未だに理解ができずに苛立つのか、小学生のように口を尖らせている。

 何やかんや、テレビを見たり、なくなった麦茶を作ったりといつの間にか、一、二時間と過ぎていた。さすがの磨都もおかしいなと思う心がざわめき出す。

 遅番の母親はとっくに帰ってくる時間だし、兄も帰ってきてもおかしくない。父親は仕事の時間が読めないから仕方ないとしても……どうしたんだろう? と、少し心細くなってくる。

 カーテンをめくると、窓から反射した室内が見える。その先はもう夜の景色になっていた。暗い空気に街灯やら家の明かりが光の道標のようだ。

 突然、トゥルルルと家の電話が鳴った。


「もしもし、笹井ですけど」と面倒くさそうな声で出ると、母の震える声が聞こえた。

 ————。

「えっ? 嘘だよね?」


 言われたことを飲み込むことができなかった。何も言えずにいると、父親に変わり急かされるように、早くこいと言われた。電話の向こう側では母の鼻を啜る音が聞こえていた。

 ROWにメッセージしといたから、すぐくるんだぞと、父親の声も力無く聞こえた。

 電話を切る寸前、わたしは失礼しますと女の人の声がした。

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