天使がいた夏

みずみずしい梅雨の晴れ間に

 梅雨の晴れ間は、空気がみずみずしくて気持ちがいい。暑過ぎない気温が、肌の潤いを保ってくれるし、この紫陽花なんかはアクセサリーをつけたように、より一層煌めいて見える。

 公園に入りベンチに座った。周りを見渡すと、キャッキャッとはしゃぎ動き回る子ども達と、それを一息つく暇もなく追いかける母親、微笑ましくて自然と口元が緩んでくる。買ってきたチョコレートをひとつ口にして、しばらくその光景を眺めていた。

 何気なくスマホを見ると、家を出てきてから四〇分は経っていた。いつまでも道草を食っているわけにはいかない、まだ小物類の整理が残っている。早く帰らないと何かあったのかと心配させてしまう。

 六月一六日、ここに降り立ち、引越しをして、わたし自身の中に時間が刻まれていく。雨上がりの匂い、いろんなものに触れた感触、チョコレートの味わい。何もかも新鮮でこれからの日々へ大空を飛び回りたいくらいの期待をしてしまう。今はそんなことはできないとわかっているけれど、それが素直な気持ち。

 公園を出て歩いていると、後ろから地響きが起きるくらいの衝撃音がした。振り返るとトラックがポールに突っ込んでいた。なぜだか胸騒ぎがして、騒然の中、ゆっくり近づいていく。


「絽薫……」


 本当なら嬉しくて、虹を渡る時のような喜びの声でこの名前を呼びたいのに、こんなところ見たくなかった。

 頭から血を流し、服には血が滲み、破れている。

 泣き叫ぶ子どもの声にごめんなさいと泣き崩れる母親。パニックでどうにもできない運転手。信じたくない光景が目の前にはあった。


「こ、こど、もは……」


 手を上げて、消えそうな声でわたしに何かを伝えようとしていた。屈み込み手を握った。


「こども、こど……」

「大丈夫」


 こんなになってまで、自分以外のことを気にかけているなんて、涙が溢れた。この人は本当に優しくて真っさらで、純白な心を持っていると、嬉しかった。

 意識を失いそうな彼を見て決意をした。また、涙が溢れてきた。今度はぽろぽろと梅雨のように流れ出した……。

 わたしの命をこの人に、天使の力を生命力に、笹井絽薫を助けてください。

 神様、こんな身勝手をお許しください。でも、この人は生きる価値があります。彼をお救いください。





     ♤   ♤   ♤





「モア、ここでちょっと待っててね」


 つい先程、ゴミ置き場にいたわたしを救い出してくれた。そして、公園へ行き友達に会うと、秒も立たないうちにまたねと別れを告げ、それから初めて家というところに連れてこられた。

 泥やほこりに塗れた全身を、母親とふたりで綺麗に洗ってくれた。初めての事で怖くて気持ち悪くて、逃げ出そうと何度も試みたけれど、お母さんに捕まり、結局は雨のようなシャワーを充分に浴びさせられた。その後にはドライヤーを満遍なく当てられて、突風のようで息ができなかった。

 絽薫はわたしをタオルに包みダイニングテーブルに置くと、何かをするためにここを離れていった。見慣れない空間、広いけれど、四方も上も壁に囲われていて、何をされるのかと落ち着かなかった。けれど、どこかへと行く力もなくて、柔らかなタオルに包まっていた。


「モア、はい牛乳」


 お母さんにいろいろアドバイスをもらって、牛乳を持ってきた。お湯で薄めてほんのり温かくして、子猫のわたしにも飲めるように。

 久しぶりのこの匂い。最近まで似たような匂いを嗅いでいたのに、いつの頃からかなくなった。わたしのお母さんはどこかへ行ってしまったのか、誰かに連れて行かれたのか、理由は知らないけれど、いつもの場所に戻ってこなかった。それから、何日か雨水を飲んだり、落ちていたお菓子を食べたりと、なんとか生きなくちゃと思っていたけれど、まだわたしは小さくて、他の野良猫のようにうまくいくはずもなかった。

 怖さなんかは後回しで、一気に飲み干した。おいしさと懐かしさで、心も身体も満たされた。視線を感じ見上げると嬉しそうな笑顔があった。そのときかもしれない、この人に任せようと、甘えることにしたのは。

 他にもツナを湯がいて塩気と油を取り、食べやすいように、片栗粉で少しとろみをつけてくれた。初めてお腹いっぱいを体感した。安心感で満たされて、その場で眠ってしまった。

 しばらくすると、何かの吐息を感じ目を覚ますと、数ミリの距離に誰かの顔があった。磨都くんだ。幼稚園の年中で今がいちばんのイタズラ盛り。

 驚いた拍子に飛び降りた。思ったよりも床が近くて、その勢いでソファーの下に潜り込んだ。どうやらソファーに移されていたようで、柔らかいクッションで居心地がよくてすやすやと眠ってしまっていた。

 磨都くんの勢いに初めこそ戸惑っていたけれど、その優しい表情にすぐに慣れていった。

 しばらくすると、玄関チャイムが鳴り、お母さんが急いでバスケットを持ってきた。


「おばあちゃん帰ってきたから。絽薫わかるよね?」

「はっ? 何? 意味わかんない」

「わかるでしょ? うちじゃ飼えないからね」

「えっ? 飼うんじゃないの?」

「おばあちゃんがアレルギーだって知ってるよね?」

「ねこちゃんいなくなっちゃうの?」

「そうだよ。ねこちゃんはいらないんだって」 

「ぼく、ねこちゃんともっと遊びたかった」


 そう言うと、磨都くんは涙を頬からポロポロと垂らしながら泣き出した。


「ちょっとろか変なこと言わないの!」

「……なんでいっつもいっつもおばあちゃんがって、おばあちゃんに何でも許してもらわないといけないの? お父さんとお母さんはもう大人でしょ? だったら関係ないじゃん!」

「聞き分けのないこと言わないの!」


 ————。


「もういい!」


 そう吐き捨て、絽薫はわたしを抱きかかえると勢いよく勝手口から出ていった。


「ろか……」


 母親の呼び止める声も、空気に溶けていくようだった。


 どこへ向かうのかわからなかった。でも、絽薫に抱きかかえられて安心しきっていた。

 着いたのは友達にわたしをお披露目したときの公園だった。大きな木の下のベンチに座り、高い高いをされた。そのまま鼻と鼻をくっつけて睨めっこ。くすぐったくてくしゃみが出た。

 しばらくの間、公園で遊んでいたけれど、少しずつ辺りが薄暗くなってきた。再びベンチに座り話をした。

 八月半ばを過ぎても、まだ、夜は蒸し暑い。じわりと額に汗をかき、夕焼けの過ぎていく空を見上げていた。


「モア、どうしようか? このままここにいれないし、靴だって……」


 家を飛び出したとき、勝手口のサンダルを履いていた。サイズも合っていないし、このままどこかへ向かうにも歩きづらい。

 お金もない、着替えもお風呂もごはんもない。

 わたしと同じだ。

 絽薫は少しあーだこーだ口にしながら、何かを考えていた。


「よしっ! モア、めちゃくちゃいいこと考えたよ」


 そう言うと立ち上がり、またどこかへと歩き出した。わたしは少し疲れてしまい、腕の中でぐったりとしていた。

 明日の作戦を話しながら、目を輝かせて歩を進める。

 家に帰ってきたようだ。

 家族に見つからないように庭に行き、わたしをバケツの中に入れた。室外機の上に置き、ポケットからビスケットを取り出して、はんぶんこにして置いてくれた。


「あとでミルク持ってくるからね。明日までの我慢だからね」


 絽薫は優しく笑いかけ家の中へと入っていた。

 わたしはビスケットを食べられなかった。ダルくて眠くて、何もしたくなかった。けれど、絽薫に撫でてほしくて、その気持ちだけが身体を動かした。

 バケツから出て飛び降りた。そこでわたしは倒れてしまった。徐々に意識が薄れていき、わたしは眠りについた。

 もう目覚めることはなかった。

 やがて雨が降り出し、朝を迎える頃には泥水に浸っていた。

 




     ♤   ♤   ♤





 彼はずっとわたしの死を自分のせいだと思っている。ミルクをあげるのを忘れて寝てしまったこと。もしあげていたら、もし雨に気づいていたら……バケツに水が溜まって溺れたのか、夏とはいえ雨に打たれて冷えてしまったのか、ずっと頭の中を巡っている。

 もう忘れてもいいのに、何かあるたびにいろんなでき事を話してくれる。



 ふたりを中心に白い光に包まれていく。この空間だけが瞬時に巻き戻されていくように、事故のヒトカケラさえ消えていく。そして、少し手を加えられて再び動き出す。

 わたしは花陽公園の向かいのT字路に立ち、絽薫を様子を確認してからその場を去った。



「ただいま」


 玄関ドアを開けると、木の香りに包み込まれる。いわゆる新築の匂いがするとは違い、心地いい森の中に来たような気分になれる。無垢フローリングを素足で歩くと温かみのある感触が気持ちいい。

 廊下に手洗い場が置かれていて、まずは手洗いとうがいを済ませる。広い玄関ホールにはアウトドア用品や自転車が置いてあるため、そのまますぐに手洗いができるのは便利だと思う。向かいにある木製のおしゃれな引き戸を開けると、キッチン、ダイニング、リビングに繋がる。


「おかえり、街の中でも探検でもしてたの?」

「えっ?」


 ママがどうしてそんなことを言うのか意味がわからなくて、首を傾げた。


「だってもう四〇分は経ってるから、ちょっと心配しちゃった」

「ごめんなさい」


 やはり、心配させてしまったようで申し訳ない気持ちになる。


「どうして謝るの? 別に悪いことなんてないのに……あれっ? 何かあった?」

「えっ? 何もないよ」

「そう? ならいいけど」


 新しいキッチンで鼻歌を歌いながら調理をしている。ママは綺麗で可愛らしくて、でも、しっかりとした芯があり、縁の下の力持ち。


「うん、大丈夫」

「本当にそう?  ママの勘は意外と鋭いんだよ。もう何年ママしてるんだか」

「そうだね」


 もう何年か……ママに、パパに、わたし……どういう風に過ごしてきたのか、頭には入っている。けれど、それが実際にはどんなものなのか、わかっていても戸惑うところはある。

 わたしは恋のキューピッドとして、ちゃんとやれていたのかなと、少し疑問になった。

 でも、もうわたしは違う。

 これから、どうして過ごしていけばいいのか、迷路に迷い込んだような感覚で不安になる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ナツキス -ずっとこうしていたかった- 帆希和華 @wakoto_homare

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ