第19話
『先生』はマスターの首を掴み、その首を押すような感じで立ち上がらせ、カウンターに立たせた。マスターはもうあの老紳士的な微笑みをなくして、ビールサーバーを震えながら操っている。
「おどろいた。どうしてお前が」
車掌は言った。おどろいてはいるが、歓迎はまずしていないという口調だった。
「安心しろよ。俺はここの入り口を見えちゃいない。だから記憶を頼りにしらみつぶしに探したんだ」
よく見れば『先生』はいつにも増してボロボロの恰好をしていた。汗の黄ばみと埃で汚れ切ったTシャツ、短パンから生えた脚は膝のあたりに血と正体のわからぬ透明な液体がとめどめもなく滴っている。
『先生』は車掌の隣に座った。車掌は『先生』の異臭から私のほうへ席を遠ざけようとした。しかしむろん『先生』はそうさせず、車掌の肩を組んだ。
「おい! やめろ!」
車掌は叫んだ。
「なあ、こいつからどんな話を聞いたかわからんが真に受けすぎるのもよくないぜ。こいつはぼやかしてそれっぽいことを言っているがその実目的がある。目的があるということはその発言は君を騙そうとしているということだ」
「貴方は聞くべきじゃありませんよ、耳を貸さないでください」
「まあ、こっちの意見も聞いたほうがいいじゃないか。公平なためにも。……いいか、こいつの言ったベクトル云々はたしかに間違っちゃいない。だがここを出ることが良いことか、それはまたちがった話なんだな。いいか、こいつの言い分じゃあこの町や住民はあたかも加害的でひどいところみたいだが、そうじゃない、この町は世界として見ればもっともひどい被害者ともいえる」
「聞いちゃいけない!」
車掌は肩からやってくる異臭に苦しみながら言った。マスターがビールをカウンターに置く。泡の比率がめちゃくちゃだ。
「なあ、世界のベクトルという話を聞いただろう。ん? 細かいことは聞いてないか。意識にベクトルがあるなら世界にもベクトルというものがあるんだ。しかしこいつはそれを皆の意識のベクトルの総体だと説明するだろう。まあ皆が望んだ方向性という感じかな。しかしよく考えてみろ。皆が皆、そのベクトルを望んでいると思うか? いいやちがうね。もっと人間は複雑さ」
『先生』はそう言って空いた左手で器用に煙草を吸いはじめた。胸ポケットからボックスとライターを取り出し三本指でそれらを持ちながら人差し指で箱を開く。そうして煙草を一本出して口に加えるとライターに持ち替え火を点けた。もくもくと紫煙があがる。煙は空調のせいで車掌の顔にあたり彼はむせた。
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