第17話

 車掌は私を見るなり存外そうな笑みを浮かべた。いかにもうれしい誤算ができたようなそんな感じだった。車掌はいつもの制服で、しかし帽子だけは取り、白い手袋を外して私に握手を求めた。私は彼の要求からすこし遅れて応じた。彼の手はひんやりとしている。まるで手を温めるためにあの薄い手袋をはめているようだった。


「いやあ、変わるもんですね。ここには来れないもんだとタカをくくってたんです」


 私は車掌の好意的な笑みをはじめて見た。帽子を被っていたときは気づかなかったが、彼の顔立ちは端正だった。肌が純白で、唇が赤々とし、頬骨が程度に張っている。黒髪は細かいパーマがかかり一本一本がちがう向きに曲がっているようだ。


「なぜ僕がここに来れないと思ったんですか。メモの通りに来ただけですよ」


 奇妙な感覚はつづいていた。私は理性では車掌の言葉を解していないのに、妙な納得感があった。私は訊きながら、なんて馬鹿なことを尋ねるんだろうと思っていた。


「ああ、ここは意識しないと来れないんです。いや正確には意識しないと入口が見えないんですね。逆に意識すれば見える。あんなにあからさまなネオンですから」


「じゃあ僕がメモをもらって意識しはじめたから?」


「いいえ。そう簡単な話じゃないんです。意識っていうのはその人のベクトルで、そういう意味では無意識ともちかいな。……人にはね、意識してしまうことというのがあるでしょう。たとえば小説家が他人の言葉遣いを気にするみたいに。それは小説というベクトルがその人のなかにあるから、意識してしまうんですね。ふしぎなことに意識しようとして意識することはたいしたベクトルじゃないんです。だって意識すると思わなければ意識できないんですからね。それよりも『意識してしまう』ということ。これはもうその人のベクトルといっていい」


「なら僕のベクトルがここのバーを見つけるのに十分だったと?」


「ええ、そうです。あ、マスター、ゴッドファザーをひとつ」


 マスターはウィスキーとアマレットを注ぎ、車掌に手渡した。


「ええそうです。しかしそう簡単なものでもないんです。人は誰しもベクトルを抱えて生きています。ベクトルは後天的なものも先天的なものも、はっきりと明確につくられたものも、ほとんど日常の積み重ねでできたものもあります。貴方のいまのベクトルは後天的で、明確につくられたものです。決意といっていい。しかし実際はその決意的なベクトルは弱いはずで、ここを見つけられるほどのものではないはずです。しかし貴方はここを見つけた。それはきっと、何か貴方にここを見つけるだけのショックがあったということです」

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