第12話

 ふしぎと幸運はつづくもので、私は名をもらった次の日、早朝に目が覚め、それと同時に町の異変に気づいた。ふだんの蠅の飛び交う羽音が消え、人々の雑多な喧噪が町を覆っていた。私は窓の布団をめくりその隙間から一本道を窺った。まだ日の出切ってない時刻ではこの町はほとんど夜にちかいはずだった。しかしその日は大勢、それもほぼすべての住人がガス灯を掲げ、土道や建物を照らしていた。これほどの明かりを、私は見たことがなかった。


「なに、どうしたの」


 キヨが寝ぼけた声で訊いた。


「いま、ここの住人たちが大群で駅に向かっているんだ」


 私は興奮して返した。


「え、なに? 祭りでもするの」


「ちがうさ。これだけ人が集まるってことは、つまり列車が来るんだ。列車には降りる誰かと車掌がいる」


 私は着替え始めた。持っている服のうち、もっとも汚れていないシャツとジーンズを着た。


「もう出るの?」


 キヨは訊いた。


「ああ、前にも言ったろう。車掌に会って、すべてを訊くんだ。これで僕らがやるべきことがより確信に変わる。僕らは町を出れるんだ!」


 私はそう叫んで、キヨの返事よりも部屋を出た。この朝だけは、玄関にはめ込んだ箪笥もスムーズに取り除けた。部屋を出ると、私はきっとこの世の何よりも速く走った。一本道にいる群衆を搔き分けることも苦ではなかった。途中、肥った老人が私の左腕を掴んだ。しかしそれもたいしたことはない。私は前とおなじくあいつの頬をぶった。ぶつとまた肥った老人は尻もちをつき、こんどは股ぐらを蹴られないように両手でそこを守った。私はそれすら無視して先を急いだ。私は何よりも速かった。


 駅に着くと、まだ誰もいなかった。というより、私の肥った老人への殴打があいつらの集まりを逆流させたらしかった。肥った老人ははじめの日に嘔吐した私のように取り囲まれた。そしてあのときとおなじようににやつかれ、恥をかいたらしかった。


 汽笛が聴こえた。トンネルのほうから暗闇を切り裂くように列車が現れた。陽射しを逃さない黒々とした機体。その長い影が刻々と駅へと近づいている。前照灯の鋭い目つきと私のまなざしとが合った。


「みんな、早う! 早う!」


 痣の老婆が来て、背後の群衆に呼びかけた。群衆は気持ちだけ急ぎ、手際悪く横断幕を広げる。潰れた『よ』の楕円がまた現れた。


「あんた、邪魔じゃあ!」


「あんたじゃない、ヨーキだ!」


 痣の老婆のより大きい声で叫び返すとすぐにあいつらは沈黙した。どうやら肥った老人との二回の殴り合いで、あいつらは私を怖ろしく思っているらしかった。私は「出ていけ!」とまた叫んだ。それでも老人たちは困惑するばかりで動こうとしなかったから、こんどは入口のほうへ寄ってベンチを蹴り上げた。老婆たちは恐怖に震えながら引き返していった。


「ずいぶん騒がしいですね」


 停まった列車から声がした。車掌がひらいたドアにもたれ、私に話しかけていた。


「僕はあなたに話があったんです。それなのに、こんなに集まられては互いの声が聞けないでしょう」


 私は努めて愛想のいい顔をした。


「……話?」


「ええ。開放日の話です。月に一回、必ず列車の通らない日があるでしょう」


「……はい」


「その開放日の次の日がいつなのか知りたいんです」


 車掌はあのきめの細かい頬を左手で撫でた。肌も手袋も純白で、陽射しはその白さに跳ねっ返り、彼そのものを煌々とさせた。


「それを知ってどうするんです」


「僕らはその日に線路を渡って他の町に行くんです」


 車掌は押し黙った。汽笛が鳴る。車掌は制服の内ポケットからメモを取り出して、何事かを書き記し、私に投げた。


「もう行かなきゃならない。どうやら今回の乗客は眠ったまま折り返すらしい」


「これは……?」


「三日後の夜、ここのバーで会いましょう。正直、こんな町一分でも滞在したくないがここを出たい者がいるなら仕方ない」


 車掌がそう言うと、ドアは閉まった。「出発!」という掛け声とともに列車は重たい腰をあげ、加速していく。列車はまたトンネルの暗闇に溶けた。

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