第11話

 彼女が来て五日、私がこの町に訪れてから十五日の夜、彼女はこんなことを訊いた。


「そういえば、名前は?」


 困った質問だった。私は私の名前を知らなかった。実のところ、私は私の名前がないことにずいぶん前から気づいていたが、重苦しい思索に投げ出されそうで考えをやめていたことだった。私は、正直にそのことを告げた。


「名前がない、ということをどう思えばいいのか、それは僕にもわからない。僕が単に思い出せないだけなのか、それともそもそも僕に名前なんてないのか。名前がないということが、元の、戻る場所がないということにまで繋がるような気がしたんだ。……はじめて『先生』と会ったとき、銀歯の老婆を『ヨッちゃん』って呼んだんだ。あとあと背筋が冷たくなったよ。あいつらにも名前、つまり所属があるのに、僕にはそれがないんだから」


 私のこんな吐露に彼女は平然としていた。それでいて、聖母のような慈愛の顔さえ見せた。


「じゃあ、わたしが名前をつけてもいいかしら」


「え?」


「あなたの名前を、わたしがつけるの。ネーミングセンスに自信はないけど、それでいいなら」


「も、もちろん」


 私が口ごもって頼むと、彼女は私の顔をじろじろと見つめた。私は戸惑った。戸惑いながら、視線は宙に舞う紙片のように彷徨った。すると私たちのまなざしはあるとき一点でぶつかって、それで笑った。


「ごめんね、急に目が合ったもんだから……。でも、わたし決めたわ、『ヨーキ』って、どう? だいたいカタカナで、伸ばして呼ぶ感じなんだけど、漢字で書くとしたら陽だまりの『陽』に大樹の『樹』。どうかしら」


「どうかしらも何も、とてもいい名前だ」


「……わたしね、『キヨ』って名前なの。だからその反対で、『ヨーキ』、なんて……。自分で言っててすこし恥ずかしいわ」


「全然。たぶん、この世界でいちばんいい名前だよ」


 その夜、私はこの幸福をどう言い表せればいいかわからなかった。いやそもそもこういう温かな喜びは何かに喩えるべきでもないかもしれない。私は幸福についての自問より、より幸せな出来事の想像で眠りについた。


『この町を出たら、ふたりで町を歩き、いろんなところを巡ろう。吐しゃ物も排泄物もない道を行って、安全で健やかに闊歩しよう』


 私は瞼の裏で、キヨが私の名を呼ぶのを想った。それだけで、私は深い眠りにつけた。

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