第3話

 駅を出ると、視界には灰色の町並みがあった。さっきまでの晴天が嘘のように厚い雲に隠れ、駅から正面の丘まで延びた一本道は幅が狭く、それだから道沿いに密集した建物の影は対岸までかかっている。建物はたいがい古びた木造で、道は舗装されていない。電柱も街灯もなく、土道の濃い色合いの箇所は放置された嘔吐や排せつのシミだった。まだ列車に乗っていたころ私が嗅いだ異臭はどうやらこのシミから漂ったらしい。


 異臭は車内にいたものより数段きつく、あの酸っぱい臭いがより複雑な鋭利さを伴って全身をかけめぐった。首筋と頬の鳥肌がたち、シャツの裾で鼻を覆った。そうすると肥った老人が私の手をとって、無理やりに臭いを嗅がせてくる。


「そんなことしちゃいかん」


 これが彼の真剣な注意か、はたまたジョークなのか判別できなかった。しかしさっきの酷い殴打を思い出し、私は仕方なく息を止めて歩いた。息は止めきれず、徐々に私の鼻孔と肺を蝕んでいく。胸にはモザイク状のものが沈殿し、それが喉元までせりあがったとき、私はいよいよ観念した。


 私は、永いあいだ吐いた。


 私の嘔吐を彼らは見守った。建物から人々がのろのろと出て来て吐しゃ物の周りを取り囲んだ。彼らはげらげら笑い、その幾人かは私の生み出した真新しいシミをべとべとと指でつつき、その指の腹を私の鼻下にべったりとつけた。私は恥じて吐しゃ物から目を逸らすと、またあの肥った老人が私の顔をそこに押し付けた。私の顔は粘っこいもので濡れた。


 結局、案内のあいだに私は三度吐いた。二度目は食堂に出されたどろどろのスープの、暗緑色の芋虫のような具を飲み込んだ途端に、三度目は宿に通され、私の泊まるはずの部屋で、四人の老人らの性交を見せられ吐いた。吐いているあいだ、彼らは相変わらず笑った。三度目の嘔吐のとき、吐しゃされすぎて水っぽくなったものを眺めながら、自分のなかの何かの明確な危機を感じた。


 私がうつろな目で、口から半透明な糸を垂らし、ふらふらと猫背で歩くさまはきっと囚人のようだったろう。実際、私は囚人に近い心地で痣の老婆に手を引かれた。老婆は細い腕のわりに握力が強く、手錠のようだった。手錠を繋がれ、連行されているあいだ、私は先の車掌のことを思った。あの車掌も、もしかするとここに住んでいたのかもしれない。ここで私と同様、ひどい目にあい、ああいう憎悪を持ったのだろうか。


『だとしたら、ここから出られるのだろうか』


 やはり私は囚人的な考えかたをしていた。振り向くと我々は一本道のずいぶん深くまで来ていたらしく、駅はもう見えない。正面には丘がある。丘には草木がなく、丘というより地面の隆起といった様相で、その頂上の小屋がはっきりとわかった。小屋はやはり古びた木造のようで、大きな旗を掲げており、そこに何かしらの言葉が書かれているらしいが読み取れない。


「ここからはあんたひとりじゃ」


 痣の老婆はそう言って握った手をほどいた。私は彼らの群れから出て上った。のろのろとした歩調をわざとして、丘の中腹のところで振り返れば彼らはもういない。私の見送りは終わり、またそれぞれの生活に向かったらしかった。


『このままあの一本道を走り抜ければ、駅に行けるかもしれない』


 むろん、私はまたあの列車に乗りたかった。そしてそのためには次来る列車の時間を知らないことも勘定に置いた。もしかすれば、駅に行っても列車はなく、こんどこそ肥った老人に馬乗りにされ、一定のペースで無感情に殴られる。しかしそれ以上に私はここを出たかった。いや、というより私はここで『先生』に会えば、もう二度とこの町を出られない気がした。


「具体的な場所は知りませんよ。しかし貴方はここではないところに戻るんです」


 たしかに車掌は合っていた。私はここではないところに戻るべきだろう。私はここにいるべきではないし、いたいとも思わない。……


「どうだろうなあ」


 声がした。背後からだった。声からして男のようだった。

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