第15話

 車掌と会う日になった。約束の日は私の予想よりもはやく来、まだ気持ちの準備ができていない気がした。私はその朝、車掌に何か聞きたいことはあるかとキヨに訊いた。


「じゃあ海の町があるかどうか、そこには時計台とパン屋や埠頭があるか。それを訊いてくれたらわたしは大満足」


 私は約束の日までのあいだ駅には行かなかった。そのかわり部屋に長く居、キヨと話しつづけた。私がもう時計台や埠頭を思い描けないことを言うとキヨは絵で説明すると言った。私が画用紙と色鉛筆を買ってきた。画用紙は質が悪く、色鉛筆は暗色しかなかったが彼女は見事に海の町を見せた。画用紙のがさがさしたセピアが望郷の夕焼けのようで、また住人たちはひとりひとり細かく描かれ、パン屋のおばさんの大きくずんぐりとした体躯までわかった。


「ごめんなさいね、わたしあんまり絵がうまくないもんだから」


 キヨは町をつくり終えるとちょっと恥ずかしそうにした。


「そんなことないさ。キヨの言ってた町が目の前にはっきりあるようだよ。ああ、これが時計台か。おおきいな。ほんとに町のすべてを見渡せそうだ。船も沢山……」


 町の絵は二枚の画用紙をつなぎあわせていた。もとは一枚におさめるつもりだったのが、筆が乗り紙幅が足らなかった。町は港を中心にしたものと、駅からの商店街を中心としたものにわかれた。キヨの想像は昨夜からさらに育まれたらしく港には海沿いのレストランがあり、時計台からすこし歩けば教会があった。私はこの絵を壁に飾ろうと提案したがキヨは断った。


「それよりこの絵を一枚ずつ持ち歩いていましょう。御守りとして」


「それじゃあ町の全貌は拝めないね」


「そのときはまたふたりの持った絵を重ねればいいわ」


「それでもいいけど……」


「わたしはこの町の半分をあなたに持っていてほしいの。昨日寝るときにまた町のことを考えたんだけど、やっぱりわたしの住む町にはあなたがいてほしいの。あなたがいない町は寂しすぎるわ。だから……」


 私はキヨの言い切る前に抱きしめた。行動は自分でもらしくなく、突飛で、しかし幸福感に溢れていた。抱きしめたときキヨが私の思う以上に華奢なのに気づいた。両手が左右の肘までつき、キヨはその腕のなかでおどろきのあまり祈るように指を組んでいる。それでも私は離さなかった。幸福に愛おしさと決意が加わって腕を離すどころではなかったのだ。キヨはしだいに指をほどき私の脇下から背中へ腕を滑り込ませた。私たちはより密着し、互いの心音を聴けた。キヨの心音は激しかったがそれも凪のように緩くなった。


 私たちは言葉を交わさなかった。それなのにもう数多の会話をしたようだった。きっと私たちは最後に必要な勇気を寄せ集めているのだった。最後……。私たちはその言葉の尻尾をようやく掴みかけている。


 この町に夕焼けはない。太陽がいつ落ちたのかわからず、いつしか暗闇があたりを支配する。私は抱擁をやめ、でかける準備をした。そのあいだ、キヨの眼差しはずっと私をとらえていた。

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