第4話

「別にいいんだ、君はいまからこの一本道を走り抜けるんだろう」


 声は言った。まだ私は振り返ってはいない。その男の指摘の通り、脚になけなしの力を込めている。


「いまここで走り抜ければきっと君は駅に着き、すぐにでも列車に乗れるだろう」


 私は黙った。この男が、いやおそらく『先生』が私の狙いを知っているのなら、私が逃げだした駅の付近でもうすでに待ち伏せしているのではないだろうか。そう、私はこの男が『先生』だとほとんど確信していた。あの丘の上からやって来るとして、小屋以外に誰か住んでいるとも思えない。そして『先生』は、奴らの親玉であろうから、つまりこの町をああいう風にした立役者であるはずだった。もしくは立役者ではなくとも、この現状を維持したい側の人間であり、私のような人間の価値観とはちがう。


 では『先生』はなぜこんなことを私に告げたのだろう。いやそもそも『先生』は私に何を望んでいるのだろうか。……たとえば『先生』は私を囚人にさせたいのだろうか。私はここまで囚人じみた苦しみを味わった。しかしきっと真の囚人というのは脱走を希望するものではなくて、より従順な、脱走さえ諦めた者ではないだろうか。であるなら……


「なあ、そんなにあれこれ考えるなよ。俺はただ君に警戒してほしくなくて言ったんだ。別に駅に待ち伏せてもいない。だから君がこのまま下って列車に乗ることを誰も妨げられない」


「なぜ僕の思うことがわかるんです」


 私は道と、標高のおかげで露わになった駅を眺めながら言った。駅だけは、雲の切れ間から日光があたり輝いている。それはまるで神聖な礼拝堂の趣きのようで、あの黄金色の煌めきには線路の反射もあるはずだった。線路。そこを通って列車は来た。列車は、きっと私の戻るべきところへもつづいている。


「考えるべきは、どう戻るかではなく、なぜここまで来たかじゃないかね」


「え?」


「前の質問に答えよう。俺は君の考えなんざわかっちゃいない。俺はここで長く『先生』をしてきた。そして君のような若者がここまでやって来るのも多々あった。しかしどうもはじめのうちは戻りたがるんだ。ふしぎがっているとある若者がすべてその心情を吐露してくれてね。それであてずっぽうに言っただけさ。でも毎回こんなことをして、当たるんだな、意外と」


 声の主は近づき、私の肩に手を乗せた。肩の感触からしてやはり男だった。しかしそれ以外はわからない。あまりに軽く手を乗せたから、それを振り払えるか、振り払ったとして逃げ切れる相手かどうか判然としない。


「それで、君はどうなんだ」


「どうなんだ、というと」


「君はどこに戻るんだい」


 男はつねに穏やかな口調だった。そういう意味で、車掌とはちがう。


「ここではないどこかに戻るんだ」


「ここではないどこかに君の場所があるのかい」


「あるさ。あるから戻ろうという気が起きてるんだ」


「おかしいね。君の場所があるならそんな物言いはしないさ。場所の名前を一言告げればそれで終わりのはずなんだ。戻ろうという気があるから自分の場所があるはずだ、なんて楽観的な妄想さ」


 ……駅や町の建物で線路上の様子は把握できない。列車はもう来ているのか、来ていないのかわからない。もし、いまここで走り出したら列車はあるのだろうか。それとももう手遅れなのだろうか。


「だからさ。こう仮定はできないかな。君はどこからか出て行ってここまで来たんだ。なぜだか知らない。しかし現に君は列車に乗ってここに着いた。なぜ列車に乗ったんだろうね」


「いや、僕にはここではないどこかに戻るべき場所があるんだ」


「それは車掌が言ったんだろう。そんなのを受け売りするのかい。でもやはり君は列車に乗っていたし、しかも寝ていた。目的地がありそこで用事済ませれば帰る人間の行為には見えないね」


 私はもはや黙るほかなかった。この男の言は何かしらの的を得ているかもしれない。しかし私はここを出たいし、私の場所はなくともここではない場所でその思索をしたかった。


「……ちなみに、君の思いとは裏腹にさっき列車は出て行ったよ」


「え?」


「やっぱり気づかなかったね。俺らがこんな問答をしているうちに、列車は駅に入って出て行ったんだ」


「……騙したのか」


「騙していないよ。俺の言葉のどこに嘘があったんだ。そしてね、意識さえあれば君も列車の発着がわかったはずなんだ。知ってるかい、小さい音だがあの汽笛はここまで聴こえるんだ。しかし君はそういうレベルで意識が向かなかった」


 脚の、込められた力が死んだ。列車がもう発車したということも男の嘘であるかもしれないのに、私はもう立つ気力もなかった。


「まあ、寄っていきなよ。ゆっくり話をしよう」


 男は私を立ち上がらせながら言った。

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