第14話

 キヨが心配そうな顔で待ち、私の姿が見えると、一目散に駆け寄って抱き着いた。


「どうしたんだ、いったい」


 私が困惑してそう言うと、


「だって車掌さんに会えたんでしょう。わたしたちがこの町から出れるかもしれないんでしょう? そう思うといてもたってもいられないの」


 私はキヨの肩を持って彼女を離した。キヨはまたも感激屋の調子がでて、瞳は喜びの涙で濡れていた。


「でもまだ車掌と会う約束をしただけで、まだ何もわからないんだ」


 それでもキヨは心から喜んだ。彼女はあたかももう町を出る間際みたいにこんなことを言い出した。


「わたしね、もし町を出たら海に行きたいわ」


「海?」


「ええ、毎朝海に行って砂浜を歩きたいの。だから住み着くとしたら海の町。レンガ造りの、赤茶の屋根とすこしくすんだ石壁が海と砂浜を囲んで、まるで人工の崖みたいなの。でもその崖からいくつかの埠頭が飛び出して、その先端には灯台があるわ。埠頭は朝に水夫の人たちが荷を下ろして、寝起きの太陽と活気を運んでくれる。昼にはたくさん船が並んで、夜になると静まり返った空と海に灯台の光が回っている。その町の砂浜を歩くの。毎朝と言ったけど、いつでも、どんなときにでも歩きたいわ。砂浜に行く前には町で一番高い時計台に上って町の機嫌を眺めるの。そうして潮風も心地よくて、気まぐれな若者の弾き語りも聴こえる日、そんな日にはそのままの脚で、パン屋さんでサンドイッチを買うの。パン屋さんのおばさんは声が大きくてちょっとお喋り好きだけど、いつもハムを一枚多くはさんでくれる。そんな小さな一日を過ごしてみたいわ」


 そう語るキヨの姿は美しかった。まだ何にも犯されていない尊いものがあった。私はもうここを出てからの景色を想像できなかった。海の町の話を聞いても、私は頭のなかで字面を追うだけだったし、時計台も灯台も埠頭も一切思い浮かべなかった。きっととっくに私はこの町が染みこんでいたのだろう。


「君はそこに行けるよ。僕が保証する。僕がどうなっても、君をそこに連れて行くから」


 私はどういう顔でこれを言ったのかわからない。けれども本心の、混じりけのない言葉のような気がした。もう私にとって私自身がこの町を出られるかということより、彼女が汚れないままここを出られるかということが大事だった。実のところ私は彼女のいない世界に半ば興味を失い、その一方で彼女がここにいることは許せなかった。私は彼女と一緒にこの町を脱出するか、私を犠牲に彼女が脱出するかしか望める選択肢がなかった。


 仮に、私だけがここを出たとする。この想像は何よりもおそろしかった。そのときはきっとこの無垢な娘が私のための犠牲になるということで、私はもうすでに彼女へ多大な犠牲を強いているのに、これ以上の重みは耐えられない。もし私がここに留まり、キヨが脱出したとしたら、きっとこの彼女の空想を何度も思い浮かべるだろう。キヨが時計台から町を眺められるのを瞼裏に描こうとするだろう。そして描こうとし、結局想像の乏しさに落胆しながら今度は彼女の空想を語る希望的な表情に癒されるのだ。……


「ここを出るときはあなたも一緒よ。あなたも、海の町に行くの」


 キヨはそう言った。

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