第6話

『先生』の話を聞いてから、私は一日のほとんどを駅で過ごした。それは駅で車掌をつかまえ『先生』の話の真偽をたしかめたいのもあったが、一方で駅がこの町でもっともまともな場所ということもあった。駅は改札があるものの、料金がいらず(これは改札に限らず、宿も食堂も、この町にあるものはすべて料金がいらなかった)、自由にプラットフォームまで入れる。ふだん町の住人は駅に訪れず、プラットフォームでは臭いもそれほどきつくない。嘔吐や排せつのあとも少なく、自動販売機のドリンクはまだ飲める味だった。


 睡眠のためだけに宿をつかい、一日一食のためだけに食堂へ行き。暇つぶしの本を本屋で買う。それ以外は駅で過ごした。私はそうして一週間待った。一週間待ったが、列車を望むことは一度もなかった。どうやら列車の発着時刻が定まっていないのも、ほんとうらしかった。


 駅にいるあいだ、私は駅を探索するか本を読むかくらいしかしない。町の空が毎日曇天であるように、駅には毎日激しい陽射しが降り注ぐ。本からふいに目を上げると、熱された線路がある。線路のあたりには蜃気楼が生まれ、ゆらゆらと揺れながら誘惑した。


 抗いきれない誘惑を感じるとき、その剛腕さは誘惑そのものの魅力より、それを受けた人間の貧弱さにあるかもしれない。実際私は極度に疲弊し、貧弱だった。私はこの町のすべてが嫌いで怖ろしく、また孤独で、休まるものもなく、唯一の希望さえ疑いはじめていた。『先生』の言を疑い、また自らたてた希望を疑う。私はもはや信じられるものを求めていた。三週間後の開放日のとき、もし私が機を逸したらどうだろう。私が駅に向かうとき、『先生』の命で捕らわれるかもしれない。いやそれ以前に開放日などないのかもしれない。もしくは私がいないときに列車は来るのかもしれない。私はもうここから出られないのかもしれない。


 この町に降りて九日目のとき、私は線路を逆走した。駅から五分も歩けばトンネルがあり、そこを渡った。トンネルは長く狭い。列車の幅のほかに人ひとり分の余裕もない。だから線路上しか私の道はなく、列車が来ればひき殺されるだろう。むろん、その日は『先生』の言う開放日ではなかった。私は覚悟した。いや覚悟するよりなかった。ひき殺されることが頭をもたげ、冷たい想像に気がおかしくなるころはもう引き返せる場所でもなかった。トンネルの終わりも始まりも、矮小な光点まで縮んでいる。そして終わりの光点が消えたとき、それはおよそ私が死ぬ前兆だろう。……

そして、それはほんとうに起こった。トンネルの光点が消え、かわりにさらにふたつの小さな前照灯が現れ、近づいた。私は踵を返しバタバタと駆けたが、それも無意味だった。


 私は轢かれた。


 翌日、私はまた宿のくすんだベッドで目が覚めた。夢かと思ったが、左手を見るとその小指から中指までが赤黒い色に染まり、あの老婆のような腫れができている。どうやら私は列車から逃げる途中に転び、そのときたまたま身体が枕木にはまって、左手の指の三本だけがレールにかかったらしかった。

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