06. どろぼうのやり方
「リノの居場所は、わかったの?」
「そう遠くへは、行っちゃいないはずだがな」
天気は、いまだ小雨の続く小康状態でしたが、人通りは、だんだんと少なくなってきています。ところどころ、嵐に備えて、早々に店じまいをしているところもありました。
「この天気だ。あいつらの集会も、今日はおひらきってとこだろうな」
「どこにひきあげたのかしら」
「嗅ぎ回るしかねえよ」
ノエルが目をつむって、くんくん鼻をならしてみると、焼きたてパンのいい香りがしてきました。途端にノエルのお腹が「ぐうう」と大きな音を立てました。
「バカ。そういうことじゃねえよ」ガラコは呆れていいました。
「ああ、いい匂い! 十年生きてきた中で一番! ほらガラコ、あそこ!」
ノエルは、匂いの出所をすぐに嗅ぎつけ、指さしました。
曲がり角に、小さなパン屋さんが見えます。お店の中は、オレンジ色の照明に照らされて、いろんなパンがパンがお行儀良く並んでます。
丸いのや四角いの、細長いのやお月さまの形のもの……。ノエルの目の奥は、流れ星が降ってきたかのように輝きました。
「ガラコ、あたしにも金貨」
ノエルは、パンにうっとり見とれたまま、片手をさしだして、クイクイっとガラコに合図しました。
「もうねえよ」ガラコは肩をすくめました。
「えっ? じゃ、あのおじさんにあげたので終わり? なんてバカなことするのよ、信じられない!」
「おい」
「お金もないのに、カッコつけて! 見栄っ張りっていうか、自惚れ屋っていうか」
「おいおい」
「そんなだから、いつまでたってもボロ屋住まいで、そんな汚い格好を……」
「おいおいおい! わかったわかった、仕方ねえ、教えてやるから勘弁しろよ」
「教えるって、何を?」
「泥棒に決まってるだろ。オレの助手に、なるんだろ?」
ノエルは、一瞬たじろぎました。
泥棒になると言い出したのは、たしかに自分です。でも、まさか、こんなに突然、そのときがやってくるとは、思ってもみませんでした。
だって、いまは別に、飢えて死にそうなほどの空腹というわけでもありません。生きるか死ぬかで、追い詰められているわけでもないのです。
ただ、天使でいることをあきらめた自分には、おそかれはやかれ、他に残された道はないように思えました。
「うん、教えて。やってみる」
ノエルは、そう口にしたとき、体中の血が、どす黒く汚れていくような気がしました。しかし、一旦口にしてしまった言葉は、もう引っ込めることはできません。
「ついてこい」
ガラコは、雨に濡れたマントを一度はずして、バサッと雫を払ってから、もう一度丁寧に身につけました。そして堂々とした足取りで、お店の扉を開け、中に入りました。
店の中は、さほど広くはありませんが、お客が3人ほどいて、手に手にお盆を持っては、目当てのパンを選んでいました。レジカウンターの向こうでは、白いコックコートにコック帽姿のお店の人が、何人か立ち働いています。
外からは見えなかった奥の壁にも、3段ずつの棚が設えられていました。どの棚にも、たっぷりのバターでつやつやと化粧したパンたちが、きれいに並んでいます。クリームをはさんだもの、フルーツを乗っけたもの、ソーセージに巻きつけたもの、木ノ実をまぶしたもの……。ノエルの瞳には、再び流れ星が流れました。
「どうしよう、選べない……」
ノエルが、小さな両手を、あごのしたにキュンとくっつけたそのときです。
ガラコがいきなり、そこらのパンを、ひょいひょいと手当たり次第に、懐の中に投げ込みました。
店の中は、時間が止まったかのようでした。
「逃げるぞ」
一言いうと、ガラコは振り向きもせずに、店から飛び出て駆け出しました。
「どろぼう!」
店の人たちが叫んで、一斉にあとを追ってきます。
ノエルは、ガラコにおいてかれないよう、無我夢中で翼を動かしました。
驚いたことに、ガラコの痩せ細った両足の、どこにそんな力があったのか、逃げ足はまるで、疾風のごとき速さです。走る走る、ガラコの猛烈なスピードに、あとを追うノエルの翼は、いまにも火をふきそうでした。
曲がり角を3つ曲がって、4つ曲がって、ノエルがもうこれ以上飛べない、と思ったとき、ようやくガラコは走るのをやめ、リヴァル川の橋の下にひっくり返りました。ひっくり返ったまま、しばらく二人は、口も聞けぬほど息を切らしていましたが、やがて、絶え絶えの息の下、やっとノエルが言いました。
「どろぼう、教えるって、ただ、走って、逃げる、だけじゃないの……」
「これが、教えだ、よく、おぼえとけ……」
ノエルとガラコは、リヴァル川の橋の下で、遅い昼食を平らげました。
ノエルは、焼きたてのパンを生まれて初めて食べて、こんなに美味しいものは、今までにないと思いました。
——もちろん、これが、盗んだものでなければの話です。
ノエルにとって、初めての人間の食べ物は、いままで食べた中で一番美味しくて、いままで食べた中で、一番美味しくないものでもありました。
「さあ、元気を出していかなくちゃ」
ノエルはふわりと浮いて、思い切って背伸びをしました。どうも、体が重い気がします。
「食べ過ぎちゃったかな?」
ノエルがいうと、ガラコがふいに言いました。
「お前の翼、そんなに小さかったか?」
ノエルは肩越しに、自分の背中を覗き込みました。
ガラコの言う通り、翼が、あきらかに縮んでいます。足元には、抜け落ちた白い羽根が、いくつも散らばっていました。
「天使でいられなくなるって、本当だったんだ」
「なに? そりゃどういうわけだ」
ガラコは、ノエルの言葉に狼狽しました。
「言ったじゃない、忘れたの?」ノエルは、小さな指を、ぴょんと2本立てて見せました。
「ふたつ。光の輪を取り戻したって、あたしは天使でいられるとは限らない。……ね? 思い出した?」
「なんだって、そんなことになるんだよ!」
「そうね。ガブリエルさまには、こう教わったわ。堕落した人間たちと一緒にいるうちに、なにもかも失望して、天使でいることさえ諦めてしまうって。まったく、そのとおりになっちゃった。あたしの言うことなんて、誰もきいてくれないし。……でもまさか、泥棒にまで落ちぶれるとは、思わなかったけど」
ノエルはまるで他人事のようにのんきでしたが、どういうわけだか、焦っていたのは、ガラコの方でした。
「お印さえ取り返せばいいんだろ? それつけて、もう一回天使やれよ!」
「いいえ、無理よ。あたしもう、人間に対して、深く深く失望しちゃってるもの」
ガラコは、しつこく尋ねました。
「じゃあ、天使に戻る方法はないのか?」
ノエルは、気がのらないようすでこたえました。
「……もしも、人間にとって必要とされ、心から大切な存在になれたら、あたしは、一人前の天使になれるの。でも、ダメみたい。ガブリエルさまの言う通り、天使を必要とする人間なんて、どこにもいなかった」
ガラコは、もうそれ以上なにも尋ねず、ただかすかな声で口ごもりました。
「じゃあ、そのわずかな翼が残ってるうちに、売っぱらっちまわねえとな……」
雨が、少しずつ強くなってきました。川の流れは、ノエルが小舟に乗ってきたときよりも早くなっています。
「ガラコの家、大丈夫かしら」
ノエルは川の上流に目を向けました。
「心配ねえよ。ああ見えて、頑丈にできてんだ」
ノエルは今度は川下の方を見ました。雲の上からよく眺めていたので、この先が海へつながっていることは、知っています。
次に、橋の越えた通りの向こうに目をやると、空に向かって、おぼろげに十字架が立っているのに気がつきました。
「あれ、リヴァル教会? まだ建物が残ってる。もしかして、リオの根城って、あそこじゃないの?」
「いいや。かろうじて、十字架がおっ立てるだけでな。教会なんざ、壁も天井もほとんど崩れて、雨ざらしさ。オレの隠れ家より、よっぽど悪い。野良犬も住まわねえようなところだよ」
「でも、とにかく、行くだけ行ってみようよ。あたし、見てみたいし」
「ま、ほかに目星もつかねえし、そうするか」ガラコは、そういったあと、少し付け足しました。「だが、教会がどんなに荒んでたって、知らねえぞ」
橋の下から、通りへ上がろうとしたとき、ノエルがなにかに気づきました。反対側の橋の付け根のすぐそばに、小さなトンネルがみえています。
「ねえ、あのトンネル通っていけないかしら」
リヴァル川の水路は、大きいものから小さいものまで、町中に無数に張り巡らされています。ときどき、その上に建物や道路が作られるので、トンネルの水路が、町のあちこちに隠れているのでした。
ノエルの見つけた小さなトンネルは、水の流れの端っこに、ほんのわずかな足がかりがありました。奥の方は真っ暗で、どこまで続いているのかわかりません。目的地へ近づけるかどうかはともかく、少なくとも、このトンネルを使えば、雨に打たれる心配はありません。
ガラコはトンネルをじっと覗き込んだあと、背伸びして教会の十字架の方角を確かめました。
「うむ。うまくいけば、あのあたりへ出られるかもしれねえ」
ノエルとガラコは、トンネルへと足を踏み入れました。
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