03. あくまのグリム

 さて、みんなの去った広場に、銀貨が一枚、転がっていました。それは、誰かが、さきほどの寄付金集めのふくろに入れようとして、投げ損ねたものでした。

 そこへ通りがかった少女が、銀貨に気がつき、拾いあげました。

 それをみて、ノエルはさっそく、腕をまくりました。

「それきた、あたしの出番!」

 ノエルは、くるりと宙返りして、少女のすぐそばまで近づいて、いいました。

「いい子ね、おじょうさん。拾ってくれて、ありがとう。そのお金は、教会へ寄付されるはずだったものよ。さあ、一緒に届けにいきましょう。案内するわ」

 ノエルが、にっこり笑顔を作ると、少女の反対側の耳元で、別な声がささやきました。まるで、重たい木のを、ゴロゴロと引きずるような、気味の悪い低い声です。

「おじょうちゃん、それはおまえが拾ったんだ。届けることはない。おまえのものさ、シシシシシ」

 ノエルは、驚いて、声の主に目をやりました。

 うすむらさき色の体に、背中から生えた、コウモリのような黒い羽根。腰から下は、黒ヤギのように毛に覆われて、蛇のようにくねくねと動く尻尾の先が、矢じりのように尖っています。

 それが悪魔だということは、はじめて見たノエルにも、すぐにわかりました。

「くだらねえ天使の言うことなんて、聞くこたないぜ。寄付金なんて、あぶく銭よ。いちいち気にしねえで、さっさとポケットにしまっちまえよ、キキキキキ」

 ノエルは、悪魔のむちゃくちゃな言い分に驚き、腹を立てました。

「なんていやらしくて、卑しくて、下品で不潔ではしたない誘惑かしら! 汚らわしい! おじょうさん、あんなの言うことに、惑わされてはいけませんよ」

 少女は、目を丸くして、自分をはさんで言い争う二人のことを、交互に見つめました。

「なにが卑しいだ、なにが汚らわしいだよ。どうせこいつが拾わなきゃ、別の誰かが拾うんだ。そいつはきっと、迷わず自分にものにしちまうだろうな。オレは、親切で教えてやってるんだぜ? おじょうちゃん、バカ正直に、丸損するこたないってな」

「騙されないで! おじょうさん、正直に届けて、丸損だなんてでたらめよ! それに、拾ったのは、他の誰でもない、あなたなのよ。他の人ならどうするかなんて、関係ないこと。よく考えてみて。大切なのは、あなた自身が、どうするべきかっていうことよ」

 二人の言い分を黙って聞いていた少女は、しばらく考えてから、手に握っていた銀貨を、ポケットにしまいこみました。

 ノエルは、悲鳴に近い声で言いました。

「ちょっと、嘘でしょ?」

「ギャハハハ! いいぞ、おじょうちゃん! それが、正しい選択っていうもんだ」

 少女は、天使にむかって、言いました。

「言ってることは、わかるけど、あんた、頭の上のお印がないんだもん。天使のふりしてるけど、何者なの? ちょっと、信用できないかな」

 走り去る少女の後ろ姿を、ノエルは、呆然と見送るしかありませんでした。


「ヒヒヒヒヒ、フフフフフ……」悪魔は、込み上げてくる笑いを、しばらく抑えられずにいました。「いや、失敬。どうも嬉しくてね」

 そして、自分の胸を押さえつけて、ようやく落ち着かせると、気を取り直して言いました。

「オレは、悪魔のグリフというんだ。長い間、待っていたよ。この町に、天使が降りてくるのを」

 グリフがニヤリと笑うと、耳まで裂けた大きな口に中に、ギザギザに尖った歯が、びっしり並んでいるのが見えました。ほほからあごにかけては、足を覆う真っ黒な毛と同じ、ごわごわしたひげが生えていて、あごの先っぽの方で、くるりと反り返っています。

「ガブリエルのやつ、何年も何年も、地上に天使をおろさねえもんで、オレも張り合いがなかったんだ。お前、よくお許しが出たじゃないか。よほど期待されてるんだろうぜ。名前は?」

「べ、別に期待されてるってわけじゃないけど……。ノエルよ」

 ノエルは、不覚にも、グリムの言葉に、密かに舞い上がってしまいました。本当は、期待どころか、ガブリエルさまの目を盗んで抜け出してきたなんていうことは、もちろん自分が一番よくわかっています。でも、それはさておき、このグリムとかいう悪魔には、ノエルの姿が、ガブリエルさまの期待にふさわしい、ひとかどの天使にみえたのでしょうか?

「まあ、ありえんだろうな。天使のお印を早々に失くしちまうような、大間抜けじゃな。ギャハハハハ!」

 グリムは、お腹を抱えて、ひっくり返って笑いました。

 ノエルは、真っ赤になって怒りました。

「失くしてなんかないもん!ちょっと貸し出しただけだもん!」

「ヒーヒヒヒ、まあなんだっていいさ。とにかく、歓迎するよ、ノエル。ようこそ、リヴァルの町へ」

 悪魔は、晴れ晴れとした笑顔で天使を見つめ、天使は、精一杯の怖い顔で、悪魔をにらみつけました。

 するとそのとき、二人の間に割って入るように、おじいさんがひとりやってきて、二人の目の前で、吸っていたタバコをポイと投げ捨て、通り過ぎていきました。

 ノエルは、慌てて追いかけました。

「おじいさん、ね、おじいさん。いけませんわ。あなたのような立派な紳士が、ポイ捨てだなんて」

 老人は、まるで何も聞こえていないかのように、歩き続けています。

「気にするなよ、じいさん。タバコの一本や二本、転がってたからって、誰が困る」

 グリムがささやくと、ノエルはすぐに反論しました。

「だめよ、おじいさん。公道は、あなたのゴミ箱じゃないわ。さ、拾いに戻りましょ」

「けっ、くだらないね。いちいち吸いがらのことまで考えて、タバコが吸えるかよ。な、じいさん」

「おじいさん、あのね、そもそも歩きタバコは危ないし、なにより、あなたの健康にも害があるのよ? そのことは、もちろんご存知のはずよね?」

 おじいさんは、そこでようやく足をとめて、天使の顔を、まじまじと見つめました。

「ああ、知っとるとも」

 そして、懐から次のタバコを取り出して火をつけ、深々と吸い込んだ煙を、蒸気機関車のように吐き出しました。

「天使みたいな格好をして、余計なお世話じゃ」

 そう言い捨てると、おじいさんは、再びモクモクと煙を上げながら、去って行きました。

「ゲホッゲホッ! 信じられない!」咳き込むノエルを指差して、グリムが笑い転げています。

「イーヒヒヒ! 人間ってのは、これだから好きだよ! オレさまの二連勝ってわけだ!」

 すると今度は、通りの向こうから、「ガチャン!」と、ガラスの割れる音が聞こえてきました。

 ノエルとグリムは、二人同時に飛び出しました。

 白と黒の二つの翼が、争うように先を急ぎます。

「ヒヒヒ、まだやるかい? 勝負は見えてると思うがな」

「お印なんかなくたって、悪魔になんか負けないわ!」


 音が聞こえてきたのは、大通りから入った狭い路地裏です。

 ノエルが駆けつけると、そこには、なにかを取り囲んでいる様子の、三人の少年がいました。

 少年たちは、手に石ころを持っています。

 一人が、石を投げた瞬間、ひらりと飛び上がったのは、真っ黒な猫でした。

 黒猫のかわした石ころは、後ろの壁にガーンとぶつかって砕けました。

「なにをするの、こんなかわいい子猫をいじめて!」

 ノエルは、慌ててとめに入りました。

「かわいい子猫だって?」少年は、また手近な石を拾いあげました。

「こいつは魔女だぜ? こいつを見かけるようになってから、この辺りじゃろくなことがないんだ」

 悪魔のグリムは、それを聞いて、そこにあった木箱に腰掛けて、残念そうにいいました。

「こりゃあ、オレの出る幕もない」

 ノエルは、少年たちに言いました。

「どうして、このかわいい黒猫が魔女なのよ? 証拠はあるの?」

「その目をみればわかるだろ? 右と左で、違う色をしている。そんな猫、見たこともないぞ」

 たしかによく見れば、黒猫の目の色は、片方が緑、片方が青に光っています。

「それがどうしたっていうの? ますますかわいいってだけじゃない!」

「目の色だけじゃない。不吉なのは、全身真っ黒ってことさ! 黒猫は不吉の象徴だ。この町によくないことが起こるのは、みんなそいつのせいだ!」

「馬鹿馬鹿しい! とんでもない言いがかりだわ」

 ノエルは頭を抱えました。一体なにから説明すれば、このトンチンカンな三人組に、お導きを与えることができるでしょう。

「ウヒャヒャヒャ……! どうした、ノエル。オレでよけりゃ、手を貸すぜ?」

「うるさい! 悪魔の助けなんていらないわ。この子たちに必要なのは、天使のあたしのお導きです」

 ノエルは、グリムの茶々を黙らせて、少年たちに向き直りました。

「あなたたち、弱いものいじめるをするなんて、おやめなさい。トイレの扉を開けたまま用を足すより、恥ずかしいことですよ。それに、黒猫が不吉だなんて、いまどき愚にもつかない迷信です。もう少し、日々のお勉強に身を入れて……」

 ノエルのお説教の途中で、少年のひとりが叫びました。

「おい、待てよ! 天使だなんていって、頭のお印がないじゃないか!」

 ノエルは慌てて、頭のてっぺんを両手で塞ぎました。

「これは……ちょっといま、貸し出し中っていうか……」

「怪しいぞ、こいつこそ、本当は魔女かもしれない!」

「きっとそうだ、違いない! それ、捕まえろ!」

「きゃーっ!」

 ノエルは飛び上がり、入り組んだ路地裏を、全速力ででたらめに飛び回りました。


 さあ、そこから先はもうめちゃくちゃで、カフェテラスのテーブルを片っ端からひっくり返す、買い物帰りのおばあさんにぶつかって、オレンジだのレモンだのを残らず道にぶちまける、車通りを突っ切って、あっちこっちで追突事故を起こさせる、挙げ句の果てには、それに見とれた川の船乗りたちまでが、そこら中でぶつかり合って、ドボンバシャンと、みんな川の中に放り出される始末です。

 やがて、警官隊が駆けつけると、町の人たちは一斉にわめきたてました。

「小さなつばさの天使を見たわ!」

「ほら、白い羽根が落ちてる! これが証拠よ!」

「ぼくたち見たんだ、お印のない偽物天使さ! きっと魔女だよ!」

 町中が大騒ぎする中、ノエルは赤茶色の屋根の上にひっくり返って、息を切らしていました。

「キヒヒヒヒ……」またしても、意地の悪い笑い声が、しつこく聞こえます。「よう、ノエル。お前、オレよりも向いてるんじゃないか? あくまの仕事が。ガハハハハ!」

「グリム! あんたって、本当に嫌な奴。あたしの仕事がうまくいかないのは、光の輪を寄付しちゃったせいよ。だけど、いまにきっと、人間たちにも、その慈悲の心が伝わる日がくるわ」

「バカ! まだわからねえのかい? 人間ってのは、お前が思ってるより、ずっと愚かで、ずっと恐ろしいぜ。きっと、次にはお前を誘拐でもして、天国へ身代金を要求するだろうよ。イーヒヒヒ……!」

 そういうと、グリムは、またしても不愉快な笑い声をあげて、転げまわりました。

「ヒヒヒヒ……、あれ? ……おい、ノエル!」

 ようやく笑いのおさまったグリムが、あたりを見回すと、ノエルの姿がどこにもありません。

「おい、間抜けの天使! まさか、本当にさらわれちまったんじゃねえだろな……」

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