11. リヴァル川の戦い

 リノは、ノエルの鳥かごを脇に抱えて、ボートを走らせていました。

 小さな水路は、この先でリヴァル川に突き当たります。

 ゆうべの嵐で、水流は茶色くふくらんでいました。ボートは上下に弾みながら、もたもたと流れをさかのぼり、ようやくリヴァル川へたどり着きました。

 ここからは、港へ向けて下るだけです。

 川の両岸には、かわいい建物がすきまなく並び、雨に洗われた色とりどりの屋根や壁を、朝日にさらして乾かしています。ノエルが愛した、あのカラフルでかわいらしい町並みが、いま見上げる視界いっぱいに、広がっていました。

 ノエルは、鳥かごのなかだというのに、思わずその景色に、目を奪われました。

 そして、その美しい町並みを、目に焼き付けるように、まばたきもせずに夢中で眺めました。

「せいぜい楽しんでおけ。見納めだ。フハハハ……!」

 そのとき、連なる建物の窓のひとつが開き、家の住人が顔を出しました。そして、川を走るボートに気づいて、声をかけました。

「やあ、リノさん、おはよう! 素晴らしい朝じゃないか!」

 リノは、大きな声で挨拶を返しました。

「まったくですとも! わたしの人生で、はじめてですよ! こんなに素晴らしい朝はね!」

 するとその声を聞いて、建物の窓がまたいくつかひらきました。

「やあ、無事だったかい!」「実によい朝だね!」「今日も素晴らしい日を!」

 町の人たちが次々と、川を下るボートに声をかけてくれます。

 ノエルは、鳥かごの中から、みんなを見上げました。

 格子の向こうの人たちに、いますぐリノの正体を叫ばなくてはいけない、と思いました。でも、なんと言えばいいのかわかりません。

「——今度はみんな、お前の言うことを信じるだろうぜ」

 ゆうべ、ガラコの言ってくれた言葉が、思い出されました。ノエルの頭の上には、天使のお印が輝いています。

「どうした、助けを呼んでみるかね?」

 リノが、自身に満ちた顔でいいました。

「このオレの正体を叫んでみるがいい。リノ・ボルケーノはペテン師だと叫ぶがいい。お前のいうことなど、誰が信じるかな?」

「きっと信じるわ」

 ノエルは鳥かごのすきまから、リノの指にいきなりがぶりと噛み付きました。

「いててっ!」リノは思わず鳥かごを落としました。鳥かごは落ちた拍子に勢いよく転がって、ボートの一番後ろでかろうじて止まりました。

 ノエルは、胸いっぱいに空気を吸い込んで、町中に聞こえるような大声で叫びました。

「みなさーん! あたし、天使です! 天使のノエルです! 昨日、この町にやってきました!」

 建物の窓が、また新たに次々と開かれました。顔を出した人たちは、何事かというようすでボートに注目しました。そのうち、誰かが言いました。

「おい、ありゃ天使だぞ!」

 すると続いて、別の誰かが声をあげました。

「そうだ!昨日、町中をめちゃくちゃに引っ掻き回した天使だ!」

「オレのランチをひっくり返しやがった!」

「あたしは荷物をぶちまけられたわ!」

 にわかに、あちこちで人々が騒ぎ始めました。

 ノエルは、みんなの声に負けないよう、ますます大きな声で叫びました。

「みなさん、あたしは、今日でこの町とお別れです! 最後に、お願いがあります! 教会再建のための寄付が、まだまだ足りません!」

 それを聞いて、みな口々に喚き始めました。

「……寄付が足りないだって?」

「うちのパンを盗んだのはあいつだよ!白い羽根が証拠に残ってる!」「こっちは薬をやられたんだ!」「あいつは魔女なんだよ!」

 町中のどよめきに、リノは焦りの表情を浮かべていいました。

「おい、何を言い出すんだ! それ以上余計なことを言うと……」

 ノエルは、構わず叫びました。

「みなさん、どうかご寄付を! 天使ノエル、最後のお願いです! どうか、どうかみなさんのご寄付を!」

 次の瞬間、川の両岸から、ボートめがけて降るわ降るわ……。

「どろぼう!」「ペテン師!」「金返せ!」

 開け放たれた窓という窓から、フライパンに植木鉢、傘に枕にぬいぐるみ、パンツにほうきに生卵……。ありとあらゆるものが、ボートめがけて投げつけられました。

「いて! いててて……! おい、やめろ!」

 リノはたまらず、両腕で頭を覆いましたが、本だの酒びんだのが、後からあとから降ってきます。

 ノエルの鳥かごにも、長靴やらお鍋やらが、次々にぶつかりました。

「ええい、面倒なやつらだ!」

 リノは突然、ローブの下からピストルを取り出し、手近な窓に向かって2、3発撃ち込みました。

 パン!パン!と大きな音がして、建物の壁に小さく鋭い穴があきました。

 同時に、窓から投げつけられるガラクタは、ピタリと止まりました。

 しんと静まった川の町並みにむかって、リノは叫びました。

「お前らの寄付は、このオレが、たしかにいただいたとも! ハハハハハ!」

 リノは、ノエルの鳥かごを再び拾い上げると、吐き捨てるようにいいました。「あばよ、まぬけども!」


 リノのボートが、小さな橋をくぐり抜けた、そのときです。

 橋の欄干から、ボートへ向かって一足飛びに、ひらりと人影が舞いました。

 カラスのように黒いマントがはためき、ところどころに空いた穴から、いくすじもの朝日が走りました。

 影は、ボートを捉え、一直線に飛び込みました。反動で、ボートは一瞬、水しぶきに覆われました。

「きさま……どうやってここまで……」

 リノは、驚きの表情を浮かべました。

「ガラコ!」

 ノエルの鳥かごの格子の向こうには、相変わらず痩せこけた、ガラコの姿がありました。

「チェッ。あれだけ余計なことするなって、言ったのによぉ」

 リヴァル川の上空で、悪魔のグリムが、腕組みをしながら舌打ちしました。ただし、顔だけはニヤニヤと嬉しそうです。

 リノは、ノエルの鳥かごを片手に、もう一方の手に握ったピストルの銃口を、ガラコに向けました。

「どうやって死にぞこなったのか知らんが、ここできっちり、あの世へ送ってやろうじゃないか」

 リノは、薄ら笑いを浮かべながらいいました。

 しかし、狐のようにつり上がったガラコの目には、恐怖の色などどこにもありません。まるで、その視線で相手をしばりつけるように、ガラコはまっすぐにリノをにらみました。

「そのこをよこせ」と、ガラコはいいました。

「ガラコ……! あたしにもう構わないで!」

 ノエルは泣き出しそうになりました。もしかしたら、ガラコは本当に自分を助けにきてくれたのかもしれない。ノエルは、心の底では、そう思いたくて仕方がありませんでした。でも、もし助けにきたのではなくて、やっぱりただ見世物小屋に売り払うためだけに、取り返しにきたのだったら……。

 ノエルは、ガラコにそんなふうにされるくらいなら、リノに売り飛ばされる方がましだと思いました。ノエルにとって、ガラコだけは、もう特別な人間になっていたからです。

「ノエル、すまなかった。お前をサーカスに売りとばそうって考えてたのは、本当さ。だが、いまは違う」

 ガラコは、ノエルに眼差しを向けました。相変わらずの目つきの悪さです。でも、こんなにまっすぐに、ガラコがノエルと目を合わせたのは、はじめてのことでした。

「お前が天使だろうが、どろぼうだろうが、オレにとっちゃ、もうどうでもいい。ただ、お前がどこかで泣いてると思うと、我慢ならねえのさ。あんなにオレに笑顔をみせてくれたのは、お前だけだよ」

 このとき、ガラコの尖った眼差しの中に、ガブリエルさまのような優しさとあたたさがあるのとわかったのは、この世できっと、ノエルだけだったでしょう。

「ガラコ……」

 ノエルは、もうガラコの言葉を疑う気には、なれませんでした。

「ふっ、見えすいた芝居を……」

 リノがいよいよ引き金に手をかけたとき、またしても、川岸の住人たちが騒ぎ始めました。

「リノはペテン師だ!」「容赦はいらねえ!」「金返せ!」

 そしてまたまた、ボートに向かって容赦無くガラクタの雨が降り注ぎました。

「いて! いててて! おい、やめろ!」

 ひるんだリノのピストルに、分厚い百科事典がぶつかって、リノは、ピストルを落としました。

「くそ!」

 ガラコは、リノのスキをついて、殴りかかりました。大ぶりのパンチを、リノはのけぞってうまくかわし、反対にげんこつを振り下ろそうとしましたが、そのとき降ってきたウクレレが頭に直撃しました。ウクレレは、ポロロンときれいな音を鳴らして、川に落っこちました。

 ガラコがふたたび殴りかかろうとすれば、顔面に熱々のピザがとんできて、リノがつかみかかれば、逆さまのバケツが、頭にすっぽりはまりました。

 ノエルの鳥かごにも、隙間からフォークやらのこぎりやらが降ってきて、そのたびに、ノエルは悲鳴を上げて、逃げ回らなければなりませんでした。


 空の上からながめていた、あくまのグリムは大笑いです。

「いいぞ、ガラコ!もっとやれ!イキキキキキ!」

 お腹を抱えて、涙をぬぐっていましたが、そのときふと、視界のはしに、なにか違和感を覚えました。

 グリムはそっと、川上を振り返ってみました。

「………なんだ?」

 リヴァル川の上流は、森の中まで続いて、その先はよく見えません。グリムは、森の中に目を凝らしました。

 暗い森の中で、なにかが起きている……。グリムの胸騒ぎは、そう直感させました。

 足元では、まだ乱痴気騒ぎが続いています。しかし、グリムは、森の出口からどうしても、視線をそらすことができませんでした。

 次の瞬間、グリムは息を飲みました。

 森の出口から、リヴァル川いっぱいに濁流が吐き出されたのです。

 しぶきを上げて、恐ろしい勢いが音もなく近づいてきます。

「いかん、土砂崩れだ!」

 ゆうべの嵐で、山のどこかが崩れたのに違いありません。岩や流木を背負った巨大な泥水の塊が、清らかなリヴァル川の流れを、みるみる飲み込んでいきます。

 グリムは、川をめがけて急降下しながら、地響きのような大声で怒鳴りました。

「土砂崩れだ!みんな、逃げろー!」

 その声に、町中の人はいっせいに振り返りました。そして、すぐそこまで迫った濁流に金切り声を上げ、みな次々と窓や扉を閉ざしました。道を歩いていた人も、桟橋の船乗りたちも、大急ぎで川から離れ、建物の中に逃げ込んだり、街灯によじ登ったりしました。

 ボートの上では、ガラコがリノを打ち負かそうとしていました。リノは、ボートの一番後ろで尻もちをついて、もうこれ以上後ずさりもできません。細腕のガラコが、とうとうリノを追い詰めたのです。

 リノは、ノエルの鳥かごを抱えたまま、屈辱に顔を歪めていました。

 そのとき、ようやくガラコが、ボートのすぐ後ろまで、濁流が迫っていることに気が付きました。

 ノエルもリノも、ガラコの顔色をみて、後ろを振り返しました。

 グリムが、ボートめがけて怒鳴りました。

「全速前進!さっさと逃げろ!」

「ガラコ!エンジンを!」ノエルが叫びます。

 すると、リオの表情に、さっと不気味な笑みが浮かびました。

「……こいつのことは、諦めてやる」

 そういうと、リオは突然、ノエルを濁流にむかって、高く放り投げました。

「ノエル!」

 ボートを思い切り蹴り上げ、ガラコは宙に身を投げました。

 細い腕を、精一杯ノエルに向かって伸ばします。

「はははは……! あばよ!」

 リノは、ボートのエンジンを全開にしてぶっ飛ばしました。

 恐ろしい濁流が、二人を飲み込もうという直前、ガラコの手が、ノエルの鳥かごをつかみました。

「ガラコ!」

 ノエルが叫んだそのときです。

 ノエルの背中に、大きな純白の翼が現れました。

 鳥かごからほとんどはみ出すほどの、大きな大きな翼です。

 翼の放つ光が、二人を包み込みました。

 あっけにとられる間も無く、ノエルはとっさに叫びました。

「捕まっていて!」

 ノエルの翼は、力強いひとふりで、鳥かごにガラコをぶらさげたまま、空高く一気に舞い上がりました。

 ボートから、その光景に見とれていたリノの近くで、ボン!と何かが音を立てました。

 煙の上がるエンジンのそばに、誰かの投げつけたあひるのが転がっていました。

「まずい! 誰だ、こんなもん投げやがったのは!」

 ボートはたちまち失速しはじめました。流木と岩を抱き込んだ濁流が、すぐそこまで迫っています。

「うわああああ!!」

 ボートは、とうとう濁流に飲み込まれてしまいました。

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