殺人ピエロのうたのおはなし

枕目

社会性

 鏡の前でピエロの格好をして包丁を手に笑っていた。

 それが今日のおれのハイライトだ。一日でいちばん生き生きとした時間であり、もっとも社会的な時間だった。昨日もそうで一昨日もそうだった。たぶん明日もおれはピエロの格好をして包丁を持って鏡の前に立ちニヤニヤ笑うだろう。それがおれのできることでいちばん価値のあることだった。

 おれは引きこもりだった。

 言葉の意味ってのはどんどん軽くなっていくから、さいきんはちょっと出不精なだけの人間も引きこもりを名乗ったりするが、おれの場合はもう少し重いやつだ。基本的にどうしても出なければいけない理由がない限り家からは出ないし、そんな理由がそれほどあるわけでもない。最後に家を出たのは一年前のことで、理由は父親の葬式だった。

 まあそんな話はいい、とにかくおれはここ最近、毎日欠かさずピエロの格好をして包丁を手に鏡の前で立っている。

 はじめはこの行為を「殺人ピエロごっこ」と認識していた気がするが、やがてそれは「ピエロをやる」に変わり、今では「おれになる」という気持ちだ。包丁を持ったピエロでいるときだけ、人間の形になるような気がする。

 きっかけは久しぶりに包丁を手にしたことだった。俺は部屋から出たくないので、基本的に買い物はすべて通販を使う。買う食品のほとんどに包丁なんていらないが、たまたま、たしか缶詰か何かのフタを持ち上げるためだったか、包丁を手にした。

 100円ショップだかで買ったそのよく切れない包丁を持ってきたとき、たまたま玄関に来客があった。おれは慌てた。来客が得意でないことは当然わかるだろう。慌てたおれは包丁を持ったまま玄関を開けた。というより包丁を置くという過程をすっ飛ばしていたというほうが近い。

 来客は宗教の勧誘だった。

 おれにキリスト教の教えを広めにきた彼女は、化粧っ気のない幸薄そうな中年女性だった。彼女は明らかに、包丁を持って応対したおれに対して恐怖の反応を見せた。彼女は、お取り込み中申し訳ありませんだとかなんだとか、とにかく礼を失わない範囲で可能な限り急いで立ち去った。彼女はおれに怯えていた。

 そのとき、おれがどう感じたかわかるか?

 おれの感想はいたってシンプルだった。

「勝った」

 それだけである。

 それは俺が人生で初めて得た勝利だった。

 およそ、おれは人生で勝利らしい勝利という経験が一度もなかった。挑戦らしい挑戦もしていないのだから当たり前だが、それにしたって、何かに「勝った」と感じた経験がただのひとつもなかったのだ。そりゃ、ジャンケンで勝ったことぐらいあるかもしれないが、これはそういう話じゃない。もう少し精神的な話だ。権力的な話と言ってもいいが。

 とにかく、どんなにくだらなく、薄汚い、ゴミのような勝利でも、おれにとってそれは人生で初めての勝利だった。その日からおれは包丁が大好きになった。包丁を握りしめた俺は明らかに「ちょっとステキな俺」だった。

 その日からおれは包丁を手にして室内で振ったりするようになった。そうすることでおれは自分のことが初めて、少しだけ好きになれたのだ。

 おれは自分をもっと好きになるために、ピエロになることにした。なぜピエロかというと、わからない。ただ、たまたま見ていたSNSで、どこかの人が書いた殺人ピエロについての詩みたいなものを読んだのがきっかけだったかもしれない。

 その変な文書は、べつに大した反応も得られずに消えていくネットの無数の文章のひとつだったけど、その意味不明な詩もどきを、おれはある種の啓示として受け取った。それは辻占いみたいなものだった。道でたまたま聞こえてきた他人の言葉で占うやつだ。おれはそのとき初めて、自分の人生の主人公だと少し思えたんだ。気の迷いか? そうだよ。でもおれはおれでない何かになって、そうなることで自分を少し好きになれると思った。

 はじめは顔を白く塗った。はじめ絵の具を使ったがひどいことになったので、やがてそれ用の白粉を使うようになった。口紅。それから衣装。すべてネット通販で揃えられた。

 こうして、おれは鏡の前でピエロの格好をして、包丁を持ってニヤニヤ笑うようになった。

 ピエロの格好を選んだのは正解だった。というのも、それはおれが人生で一度もするはずのない格好だったからだ。おれは誰かを楽しませるために人前に立つなんてけしてしない人間だ。絶対にできない人間だ。だからピエロはおれを塗りつぶすのに最適だった。

 笑顔もそうだ。だってあらゆる表情のうちで、おれにいちばん合わない表情だからだ。おれは自分の笑っている顔が嫌いだった。それは不自然で、気まずく、居心地の悪い何かだった。顔に張り付く気味の悪い生き物みたいなものだった。

 今は好きだ。

 そしておれは今日も、包丁を持ったピエロとして鏡の前で笑っている。

 これがおれのできる行為の中で、もっとも社会的なものだ。

「これが社会性だ!」

 おれは絶叫した。

「これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ! これが社会性だ!」

 おれは壊れた機械のように同じ言葉を繰り返した。何度も何度も繰り返した。罵声が聞こえ、喉が痛み、喉から血が出た。しかし叫びは止まらなかった。おれは自分の声を止めることができなかった。喉はもうおれの喉ではなかった。声はもうおれの声ではなかった。ドアを激しく叩く音がする。警察という単語が聞こえる。おれは叫び続けたままドアを開けた。手には包丁。社会がドアから流れ込んでくる。助けてくれ。包丁はおれの包丁ではない。だれか助けて。どんな神様でもいいから。

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