四
男は駅と反対の方へ歩いて行く。
私も黙って男の後を追う。
この先に、赤く古びた指輪を渡したい相手がいるそうだ。
先ほど男が言っていた「うまくいけば今日中に解決」する事柄について質問したら、口で説明するよりも直接見た方が早いとのことで、同行させてもらうことになった。
駅近にあった居酒屋から少し離れると、街並みがガラリと変化する。
飲食店はおろか、見渡す範囲にコンビニすら見当たらない閑静な住宅街。
「あ、いた。あそこです」
男が嬉しそうに声をあげ、手を振った。
対して私は絶句してしまう。
周囲に人気は無く、当然男が手を振る先にも誰も居なかった。
しかし、男の視線の先に何もないわけでもない。ぽつりと立つ街灯の頼りない明かりに照らし出されているそれは、以前にこの場でひき逃げがあったことを示す看板だった。
「……ふざけてるの?」
私が若干引き気味に言うと、男は心外そうな顔をする。
「あの子、あんまりいい家庭環境じゃなかったみたいなんですよ。親から暴力なんかも受けていたみたいで、すっかり委縮しちゃってて。あの場所で亡くなって、そのまま身動きが取れなくなっているんですけどね、このままじゃマズイことになるんで」
男の言葉の意味がまるでわからない。
私が微妙な顔をしていると、男は再び口を開いた。
「ええと、亡くなった人には行くべき場所があって、基本的には現世に留まっていてはいけないんですよ。それなのに、あの子は行くべき場所へ行けないでいる。そのせいで、よくないモノがここに集まり始めていまして。このままだと、あの子もよくないモノに取り込まれてしまうんです。だからこの指輪を、と思いまして」
亡くなった人? まさかあの看板にあるひき逃げされた人の幽霊が、ここにいる、と?
仮にそうだとして、幽霊に指輪? 普通、亡くなった人へのお供えは故人の好きだったものやお線香などといったものだろう。ではここで亡くなった人は指輪が好きだったということ?
困惑する私をよそに、男は迷いなく看板へ向かっていく。
目と鼻の先ほどに看板へ接近するといきなりしゃがみ込み、虚空へ向けてにこやかに何やら語りかけ始めた。
この男は頭がおかしい、と考えるのが普通なのかもしれない。だとしたら、今のうちに逃げてしまった方がいいのだろうか。でも気になる。男が何をしようとしているのか。
私の中で好奇心と警戒心が行ったり来たりしている間に、男はポケットから小さな物を取り出した。先ほど友人からもらった赤い古めかしい指輪だ。
男はそれを芝居かかったような様子で虚空に向かってゆっくりと突き出していく。……まるでそこにいる誰かの指にはめてあげているような、そんな動作だった。
男の動きが止まる。そして、指輪からぱっと手を離した。
なにをしているのだろうと目を凝らすと、驚いたことに指輪が空中に浮かんでいた。
見間違いではないかと、もっとよく見るため近づこうとした、その時。
突然耳を塞ぎたくなるような大きな音がして、私はギクリとして立ち止まってしまった。
バサバサと、まるで鳥が勢いよく羽ばたくような音に、あわてて周囲を見回してみる。
だが、暗がりの中に鳥なんてどこにも見当たらない。
男が立ち上がり空を見上げ、どういたしましてと呟いた。
男の視線をたどるが、もちろん何もない。
もう一度浮遊する指輪を確認しようと視線を戻すも、指輪はどこにも見当たらず、周囲の地面に目を走らせたが見える範囲にも指輪は落ちていなかった。
何が起こっているのか聞きたいと思った。
しかし、なんだか今は聞ける雰囲気ではない。
男は、まるで飛んで行ってしまった鳥を見送るかのように、じっと夜空を見上げていた。
男とはそれきりだった。
もっといろいろと話をしてみたいと思い連絡先の交換を申し出たが、こういったことにあまり深入りしない方がいいですよと断られた。
友人からは一度だけ、連絡が来た。
そっけない様子でベランダから音がすることも、指輪が置かれることも、赤い小鳥がやって来ることも無くなった、と。
おまじないが効いた、らしい。
私は日々、オカルトとは縁遠い日常を過ごしている。
でも、あの日から私は、ふとした瞬間にぐらりと強い眩暈を感じるようになった。
確固として足元を固めていたはずの常識が揺らぐような、そんな強い眩暈を。
どこからともなく、鳥の羽ばたきが聞こえる気がするのだ。
コト リ 洞貝 渉 @horagai
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