めでたしめでたしのその後について。
ふとした拍子に、そんなことを考える。
例えばアクション映画。
悪い奴らをちぎっては投げしていく爽快疾走超人主人公が、時に傷つき、時に思い悩みながら敵をやっつける。
後に残るのは満足感だ。
あー、面白かった。なんかスッキリした。よーし、明日からまた頑張るぞー!
……で、終わり。
それ以上のなにも残らない。
物語のその先について初めてはっきりと意識させられたのは、たぶん『シャーマンキング』というジャンプ漫画だったと思う。
やったら、やり返される。
最初は悪役だったが、なんのかんのあって主人公と和解した蓮というキャラがいる。彼は物語序盤でいろいろとやらかしていて、中盤で自分のやらかしたことに足をすくわれた。
改心した、今はもうやらかしてはいない、というのが通用しない。
主人公と和解してめでたしめでたしな空気があったけれど、そんな都合のいい話はないよと言わんばかりだった。
笑いの風で人々を救おうと奮闘しているチョコラブというキャラがいるのだが、彼も過去にだいぶやらかしていた。
蓮は序盤に散々圧倒的悪役感をだしていたけれど、チョコラブの登場の仕方は“そこそこのいい奴”だった。ワルしてた時期もあるけど、それは過去のこと。今は改心して笑いの風で世界を救ううんぬん。
でも、彼も過去の行いに足をすくわれた。
衝撃だった。
やったら、やり返される。
本人が反省したかどうかではない。
第三者が許すか許さないかではない。
やられた方が納得したかどうか、なのだ。
やられた側からすれば、それは過去のことではない。
「めでたしめでたし」のエンドロール後の、物語に一旦区切りのついた側からすれば衝撃的なことではあるけれど、彼らにとってはまだ区切りなどついてはいない。
「めでたしめでたし」のエンドロールはまだ先にあって、物語は継続中なのだ。
次に意識させられたのは、三浦綾子の『続氷点』だったと思う。
『氷点』で船旅中事故にあった啓造が、船が沈む恐怖の中、救命具を得られなかった乗客がパニックになりかけているのを見つける。啓造は運よく救命具を得ている。誰も運の悪い乗客に手を差し伸べないのだが、たまたま乗り合わせていた宣教師が自分の救命具をその乗客にやってしまうのだ。
後に、なんとか九死に一生を得た啓造だが、宣教師は助からなかった。
『氷点』作中では啓造はこの思いは一生忘れないようにしようと心に決めている。
……が、もちろんそうはいかなかったようだ。
『続氷点』で日常を取り戻した啓造は、自身でも呆れるくらいあの時の殊勝な心が消えている。啓造は友人から、たった一回そんな体験したくらいで人間は変わらないというようなことを言われ、そんなものかと納得したようなしていないような半端な心持を抱く。
啓造にとっての「めでたしめでたし」は、きっと宣教師の行いに感動した瞬間だったのだと思う。
アクション映画と同じ。
あー、面白かった。なんかスッキリした。よーし、明日からまた頑張るぞー!
……で、終わり。
後に残るのは満足感だ。それ以上のなにも残らない。
その満足感すら、日常の中で消え失せていく。
虐めやらDVやらなんかで、「謝った」「そんな昔のこと」「あの時はこどもだった」「あの時はまだバカだったから」なんて加害側が口走るようだけど、それは加害側のエンドロールが流れただけであって、やられた側の「めでたしめでたし」ではない。
例えば、物語を執筆する中で、作者にとっての物語の「めでたしめでたし」が、本当に物語にとっての「めでたしめでたし」なのだろうか、と考えてみる。作者は物語に幕引きが出来て、思うところはいろいろあるものの、それでも達成感に包まれるのではないだろうか。
あー、ようやく書き終わったぜー。なんかすっげー達成感で半端ねえースッキリだー。よーし、手直し終わったらまた次の作品頑張るぞー!
……で、終わり。
後に残るのは満足感だ。それ以上のものはそうそう残らない。
その満足感すら、日常の中で消え失せていく。
めでたしめでたし、のその後。
本当に、書き上げたこの物語たちは、「めでたしめでたし」を迎えられているのだろうか。
私は本当の意味で、物語たちと向き合えているのだろうか。
今まで出会って来た物語の中に、見誤っていたもの・見落としてきたものは本当にないのだろうか。
ふとした拍子に、時折そんなことを考える。