第26話 もうすぐ夏

 利久と一緒に空き教室に戻ると、優花の大きな瞳が零れそうなくらいに見開かれた。

「うっそ、絶対来ないと思った」

「私が呼んだの」

 先ほど優花に不機嫌にさせられたことを思い出したのか、由芽が仏頂面で口を挟んでくる。優花は華やかな笑顔で、そんな由芽に向かってピースサインを向けた。

「由芽ちゃん先輩、ナイス!」

「……えへへぇ」

 あっさりと機嫌を直した由芽である。

 そんな由芽の横にいた利久が、優花の姿を見ていつもの質問を投げてきた。

「ファミレスの名前は何?」

「サイゼリヤと、ガストと、ココスと、デニーズと……あとごめんなさい、忘れた!」

「静岡県にあるのは?」

「さわやかでーす。ふふ、来てくれて嬉しいからいっぱい答えちゃいますよー」

 優花は嬉しそうに肩を揺らして笑うが、利久はそれ以上の質問はせず架月に向かって再び「おはしも?」と問いかける。

 今度の「おはしも?」の意味は少しだけ分かった。

 さっきの緊急事態とは何だ、ということだろう。

「優花先輩、深谷にもう一回電話してみてください」

「もっちろん」

 優花がスマホを操作し始めると、心配そうな顔をしていた莉音がぴたりと架月に身を寄せてきた。

「ねえ架月、純ちゃんと戻ってくるかな」

「それは僕じゃなくて深谷に聞かないと分からないでしょ」

「そういうことじゃないぃぃ……」

「ど、どういうこと?」

「なぁんか架月って、純が戻ってきたとしてもまた怒らせちゃいそうだね」

 深々と溜息をつかれて、心臓が冷える。明らかにやりそうだと思ったからだ。

 架月だって本当は傷つけてしまってから謝るばかりではなく、何のトラブルも起こさずにずっと仲良くしている関係になりたい。

 なりたいけれど、それを目標にするとゴールが途方もなく遠くて目眩がしてしまう。

「電話かけるよ」

 優花はそう前置きしてから、深谷に電話をかけた。


 通話はすぐに繋がった。

『もしもし、誰だろ。今度こそ優花先輩?』

「そうだけど、私以外にもみんないるよ。利久先輩もいる。利久先輩、なんか喋って?」

「喋って」

 ものすごく利久らしい返事に、深谷がホッとしたような息を吐いた音が聞こえた。

『架月が呼んでくれたんだ、ありがとう』

「あ、えぇと――」

 ごめんを言う前に、相手からありがとうと言われてしまった。

 困惑して言葉を失っていると、深谷の声音がワントーン上がった。架月が落ち込むのに比例するように、深谷はどんどん楽しそうになっていく。

『優花先輩、ビデオ通話に切り替えてもらってもいいですか? 利久先輩に見せたいものがあるんです』

「いいけど……深谷くん、今どこにいるの?」

 深谷は答えない。返事がないことに辟易して、優花は言われたとおりに画面をビデオ通話に切り替えた。

「優花先輩、莉音たちにも見せてっ」

 莉音が身を乗り出すので、優花が全員に画面が見えるようにスマホを机に置いてくれる。

 利久以外のみんなで前のめりになってスマホを覗き込んでいると、深谷の方も画面を切り替えたらしくパッと背景の色が変わった。

「「あっ」」

 揃って声を上げたのは、優花と莉音だった。

 画面に映っていたのは、青白く浮かび上がる熱帯魚の大水槽だったのである。


 画面に映し出された光景に、由芽が瞳をキラキラと輝かせる。

「きれい……っ」

 色とりどりの花びらが舞っているような熱帯魚の群れが、スマホの画面越しにでもはっきりと分かるくらい鱗を煌めかせながら泳いでいる。

『見えてる?』

 得意げな深谷の声が聞こえた瞬間、架月は膝から崩れ落ちそうになった。

 ――深谷は水族館の中にいる。

 そのことに気が付いた瞬間、彼が学校を無断欠席してまでやらなければいけなかったものの正体が分かってしまった。

 深谷は逃げたわけではない。

 彼は逃げたくなるものと向かい合うために、一人で水族館に向かったのだ。

『校外学習の日、クラゲショーが休みだったんですよね? でも今日ならやってるんですよ。せっかく行ったのに観られなかったのは残念じゃないですか』

 深谷はスマホを持ちながら歩いているらしく、色とりどりの魚が泳いでいる水槽の間を縫うように移動していく。

 画面にクラゲショーの入り口の看板が映ったところで、莉音が慌てて利久へと声を掛けた。

「利久先輩、こっち見て! 利久先輩がクラゲ見たがってたから、純が見せてくれるんだってよ!」

 それでも利久が斜めの方向を向いたまま興味を示さないので、莉音が「もうっ」と業を煮やしてスマホを取り上げて無理やり利久に持たせた。

 そこでようやく利久の視線が画面に落ちる。

 ちょうどそのとき、画面いっぱいにクラゲショーの水槽が映し出された。

 ちょっとしたシアターのスクリーンくらいありそうな大きな水槽に、たくさんの白くてふわふわとしたクラゲが気持ちよさそうに揺蕩っている。その水槽が様々な色の照明で照らされて、幻想的な風景が画面いっぱいに広がっている。

 横から覗いていた架月ですら、息を呑みそうになるほど圧巻だった。

 利久はその画面を食い入るように見つめていた。

 やがて彼の唇が、ゆっくりと開かれる。

「深谷」

 その場にいた誰もが、その呼びかけに驚いた。

 利久が誰かの名前を呼ぶことは珍しい。その人に合わせてお決まりの質問を決めていたり、書いてある文字を読み上げるような調子で人物名を口にしたりすることはあるけれど、明確にそこにいる人物に呼びかける様子はほとんど見たことがない。

 電話の向こう側にいる深谷も驚いたようで、画面の動きがぴたりと止まる。

 利久はクラゲの水槽ではなく、スマホで水槽を映している深谷に対して淡々と言った。

「学校はサボっちゃダメ」

『……っ』

 画面越しにも、深谷が息を呑んだ音がはっきりと聞こえた。

 喉の奥から引き絞られたような空気の音が漏れたと思ったら、すぐにそれは声を殺しきれずに溢れた嗚咽へと変わる。

 スマホの画面が、水族館の床を映し出す。スマホを下ろされてしまい、暗くなった画面からは震えた呼吸音しか聞こえない。

「利久先輩、泣かせないで」

 莉音が目を吊り上げるのを、架月は慌てて制する。

 そうじゃない。利久が泣かせたわけではない。

 その一言はむしろ――

「……ねえ、深谷」

 自分がまた余計なことを言ってしまったらどうしよう。

 そんなことを頭の片隅で考えながら、それでも架月は電話の向こうにいる彼へと身を乗り出してしまう。先週、どうして特別支援学校にいるのかと聞いてしまったけれど、それを尋ねるならば同時に彼に言ってやるべき言葉があった。

 まだ遅くないはず。

 そんな願いを込めながら、架月は言葉を紡ぐ。

「この学校は深谷がいてもいい場所だよ」

『知ってる』

 嗚咽を堪えるような細い声で、深谷は答える。

『俺はここまで千円で来られるから』

 架月は自分の予想した深谷の「嫌なこと」が当たっていたことを知り、脱力して近くにあった椅子に座り込んでしまった。

「……そのおかげで、利久先輩にクラゲを見せられたんだから別にいいじゃん」

 黒板に書き付けた運賃やチケット料金と、優花が持ってきてくれたしおりに書かれている旅費は異なっている。

 校外学習のしおりに記録されている料金は、障害者手帳を使った割引が適応された料金なのだ。

 手帳を見せれば市営バスの乗車賃は半額になり、施設に入場するチケット代は一般の料金よりも安くなる。スポッチャに行くまでの運賃は四百二十円から二百十円になり、施設への入場料金は学生料金の千八百円から割り引きされて千円になる。架月たちは校外学習の日、合計千二百十円でスポッチャの施設に到着した。

 一方、水族館の場合は最寄りバス停までの片道料金である百六十円が半額になり、八十円となる。チケットの料金は千六百円から半額されて八百円になるので、合計千円きっかりで到着することができるのだ。

 普通の人は水族館に行くまで二千円かかるが、深谷はたった千円で行けてしまう。

「深谷はすごいね。僕は時間を守ることが苦手で、頑張ってるけど失敗しちゃうことの方が多いのに、深谷は一回で苦手なことを克服できちゃうんだ」

『してない、まだ嫌だ』

 バスを降りるタイミングと、チケットを購入するタイミング。

 それらはいずれも、深谷が知らない人に手帳を見せなければいけないタイミングだった。自分のことを何も知らない人たちに、自身が障害者であることを明かさなければいけない瞬間だ。

 深谷の苦手なことは、それだ。

 この学校にいるうちはみんなに信頼されている優等生でいられる彼が、社会に出た瞬間に配慮される障害者として見られることの苦悩は計り知れない。そこは絶対に分からない。だって架月は深谷ではないから、深谷の気持ちなんて完全には理解できない。

 それでも深谷がそれを嫌がっているのだと気が付いた瞬間、架月も胸のあたりに重石を乗せられたように苦しくなった。

 ――きっと自分たちは、似たような気持ちを抱えている。

 ――そのくらい近い距離で生きている。

 全てを理解できなくても、手を伸ばしたときに触れあえるくらいの近い場所にいられればいいんじゃないだろうか。

 この学校こそが、架月たちにとっての近い場所だ。完全に一致はしないけれど、同じような気持ちを抱えた自分たちが袖を寄せ合っている。社会に出れば集団の中に一人いるかいないかという少数派の自分たちが、ここにいるときは特別な存在にはならない。

 深谷はきっと、その場所を受け入れるために水族館に行ったのだ。

 自分が社会の中で特別な配慮をされる人間であることを知るために、特別支援学校の生徒であることを確かめるために、たった千円だけを握りしめてバスに乗った。

「ねぇ純、クラゲ見せてくれてありがと」

 莉音が不意にそんなことを言ってきた。

「でも、もう戻ってきていいよ。あとは今度みんなで行ったときにゆっくり見ればいいじゃん。もうすぐ夏休みなんだし、莉音たち高校生なんだしさ」

 高校生なんだし、という当たり前の一言が胸の深いところに沁みた。

 そうだ、高校生だ。

 自分たちは特別支援学校に通う普通の高校生なんだ。

『……無理だよぉ……』

「なんで? 戻ってきてよぉ、純に会えないとみんな寂しいよ」

『じゃなくって……ここまで来るのに千円使っちゃったから、帰るための金がないの。歩いて帰るしかないけど、道も分かんない……』

 学校に戻ることを「帰る」と言ってくれたことが、もうどうしようもなく嬉しかった。

 気持ちが高揚した拍子に、しっかりと握りしめていたはずの自分の手綱を手放してしまった。うっかりいつものように口が滑る。

「あのさ、帰る気があるならなんで千円を全部使う場所に行ったわけ? 僕てっきり戻る気がないから千円で行ける場所に行ったんだと思ったんだけど」

『分っかんないよ! 行くことと帰ることって別のことじゃん、行くときには行くときのことしか考えないだろ』

「行くと帰るはセットなんだよ。お金を二倍すればいいの」

『か、簡単に言いやがって……』

 莉音がパチパチと目を瞬かせて、「架月の方が強いの、珍しい……」と呟く。

 しかし架月は、そんな莉音の反応も気付かないほど真剣に思案していた。

「じゃあ今から僕たち職員室に行って、事情を話してこようか? 先生たちなら迎えに行ってくれるよ」

『でも、そしたら優花先輩がスマホのことで怒られるじゃん……』

「えー? 全然いいけど?」

 優花はさらりと言うが、深谷の方が『いや、ほんと、それだけは申し訳ないので』と慌ててしまっている。今そんな申し訳ないとか言っている場合じゃないだろうとも思うが、多分ここで強引に押し切ってしまったら深谷はあり得ないくらい尾を引いて落ち込むだろう。何となく、そういう面倒くさいところがある奴だということは今までの付き合いで察することができる。

 架月は、ふっと思いついた案を口にした。

「じゃあ、タクシーは?」

『へ? タクシー?』

「そう。タクシーって後払いじゃん、料金。タクシーを呼んで学校まで連れてきてもらって、あとは学校の先生にお金を立て替えてもらえばいい。それなら迷わず学校まで帰ってこられるし、優花先輩のスマホのこともバレないよ」

『でも、タクシーってどうやって呼べばいいのか分からないんだけど……』

「水族館の入り口にスタッフさんいるでしょ? タクシー呼びたいんですけどどうしたらいいですかって聞けばいいじゃん」

『……お、俺には無理だよ……』

 そういえば深谷は、分からないことを他人に表明するということが苦手なのだった。

 だが生憎、分からないので助けてくださいと言うのは架月の得意なことでもある。

「分かった。じゃあ電話繋いだまま、スタッフさんのところに行ってスマホ渡して。僕が深谷の代わりに説明するから」

「えええ待ってよぉ! 架月の説明って分かりづらいから、知らない人に分かってもらうの無理だって」

「えぇー……?」

 莉音に横槍を入れられて、架月はがっくりと肩を落とす。

 そんな後輩たちの様子を見て、隣にいた優花がにっこりと破顔した。

「そういうことなら私が説明するよ。これでも接客班のリーダーだから、知らない人と話すのもお客さんに分かりやすく商品の説明するのも慣れてるし」

「絶対に優花先輩に任せた方がいい! ね、深谷もそれならいいでしょ?」

『……う、うん』

 どうやら満場一致で、架月よりは優花の方がマシだという判定らしい。架月自身もそれには同意なので、素直にスマホを持ち主のもとに返す。

「よし、深谷くん。そっちのスマホ画面を音声通話に切り替えて、スタッフさんを捕まえてちょうだい」

『どうして音声通話なんですか?』

「高校生が話し相手だったら怪しまれちゃうかもじゃん。私、深谷くんのお姉ちゃんってことで電話してあげるから」

『……マジで言ってます?』

「マジだから早く動けよぉ! 先輩命令だぞ」 

 優花に揶揄うような口調で急かされて、深谷は慌てて画面を切り替える。

 その瞬間に、ふっと全身の力が抜ける。思いのほか深谷と話すことに緊張していたらしい。

 椅子の上で脱力してしまった架月に、そっと莉音が歩み寄る。

「ねえ架月、夏休みになったらみんなで水族館に行こうね」

 彼女は悪戯っぽく笑って、そんなことを囁いた。

「みんなでバスに乗って、水族館に行って、スポッチャにも行って、あと映画館にも行きたいな」

 映画料金も手帳を見せると多少は割引が利く。だから莉音は、お姉さんが自分と一緒に映画に行く理由を「莉音と一緒だとお得だから」と解釈していたのだ。

 架月がいいよと頷くと、莉音は嬉しそうに目を細めた。

「やった! 夏休みにやりたいこといっぱい出来たね、楽しみっ」

 ――深谷も楽しみだと思ってくれるといいな。

 そんなことを考えながら、架月は小さく笑って「うん」と頷いた。

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僕たちの青春はちょっとだけ特別 雨井湖音 @rain_koto

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