第25話 約束

 きっぱりと言い切った架月に対して、言われた側の優花や莉音はいまいち理解が追いつかないような顔をしていた。

「そうなの?」

「はい。優花先輩、もう一回だけスマホ貸してください」

「いいけど、ウェブ検索以外はしないでね」

 釘を刺してからスマホを貸され、架月は言われたとおり余計なところは一切触らずに先ほど利久も見ていた交通情報の検索ページを開いた。

 黒板の前に立ってチョークを手に取ると、莉音が「先生だね」と笑った。

「莉音さん、僕は先生ではないよ」

「いや、知ってるけど?」

 じゃあなんでさっき先生だって言ったんだろう。

 いつもなら架月も気になって「でもさっきは言ったじゃん」と追及しているところなのだが、今は緊急事態なので胸中に生まれた小さな疑問はスルーすることにした。

「まず僕たちが行ったスポッチャコースの場合を考えてみようか」

 黒板に『スポッチャ』と書き付けて、架月はすらすらとその下にウェブで検索した運賃を書いていった。

「学校から一番近い自然公園前のバス停から、スポッチャの最寄りのバス停までの運賃は四百二十円かかる。スポッチャのチケットは学生のフリータイム料金で千八百円。合計で二千二百二十円」

「全然、千円じゃ無理だね」

「そう。次に水族館コースだけど、これも同じ」

 黒板に『水族館』と書いて、架月は再び数字を並べた。

「自然公園前から水族館の最寄りのバス停まで、運賃は四百円かかる。水族館の入場チケットは学生料金で千六百円だから、合計するとぴったり二千円。どちらのコースに行ったとしても、予算を倍以上オーバーしていることになります」

「難しいよ、架月!」

 莉音から咎めるような声が上がり、架月はひゅっと肩をすくめて「えっと、要するにお金が足りないです」と最初と同じ説明を繰り返した。

「えー、じゃあ振り出しじゃん! 絶対に校外学習で行った場所に行ったと思ったのになぁ!」

「……ねえ莉音さん、やっぱり僕たちで深谷の居場所を探すのは難しいよ。安楽椅子探偵じゃあるまいし――」

「やだ、諦めないで! ってか、探偵じゃなくて友達として探してんだけど」

 思いっきり不満そうな顔をして、莉音がぶすっと上目遣いに架月を睨み上げる。

「莉音よく分かんないけど、運賃とかチケット料金とかってネットで検索すれば出てくるんでしょ? そういうみんなが知ってることじゃなくて、もっと友達じゃないと分かんないことから考えようよ! 深谷が何を考えてるのかとか!」

「そ、そんなの超能力じゃん。てか、それをやるなら僕は無理。一番苦手だもん」

「そんなことない、だって架月は自分が深谷に嫌なことしたって自力で気付いたじゃん」

「それは――」

「なんで深谷が逃げたのか、その謎が架月には解けたんでしょ」

 莉音はいっそ責め立てるような口調で、次々と言葉を畳みかける。

「もう、架月は一つ謎を解いちゃってるんだよ。その調子で二個目もいこう!」

「そんなぁ……」

 もはや架月にとって、与えられた課題は「空を飛べ」と言われているのと同じくらいの難易度となった。

 莉音の鋭い眼差しに気圧されて半泣きになっていると、手中に収まっていたスマホが激しく震動した。

「うわっ!?」

 思わず取り落としそうになった瞬間、優花が「危っぶな!」と両手を伸ばして床に落ちかけたスマホをキャッチする。

「架月くん!」

「ご、ごめんなさ――」

 怒られたのかと思って慌てて謝罪をしようとしたら、言い切るよりも先に彼女が架月の眼前にスマホ画面を突きつけてきた。

 そこに表示されていた着信画面を見て、呼吸が止まりそうになる。

 画面に大写しにされていたのは、深谷純の名前だった。

「深谷くんから電話だよ」


 絶句してしまった架月とは対照的に、莉音が驚嘆の声を上げた。

「優花先輩、超能力者じゃん!」

「そんなことない、そんなことない。スマホに連絡あるかもしれないなっていうのは普通に考えて分かる」

 優花は謙遜しているが、魔法としか思えない所業だった。

 探偵よりも魔法少女よりも友達よりも、この世界では空気が読める先輩の方が強いかもしれない。ペンが剣よりも強いように、ねじれた力関係が作用している。

「はい、架月くん」

 呆然としている架月に、優花が震動するスマホを手渡してきた。

「君が出ていいよ」

「いや、あの、でも優花先輩にかかってきたんだし――」

「譲ってあげる。だって架月くんが深谷くんを探そうとしたのって、見つけたときに言いたいことがあったからでしょ」

 ぐいぐいとスマホを押しつけられて、架月は呆気にとられたまま彼女のスマホを受け取ってしまう。優花がサッと応答ボタンをタップすると、『もしもし、優花先輩?』と深谷の声が聞こえてきた。

 たった今、先生たちに総出で探されている生徒だとは思えないほど普段通りの声音である。呆然としていた架月が何かの言葉を紡ぐよりも先に、莉音が横から飛び込んできた。

「純! どこにいるの!」

『は? 須田ちゃん? 何で須田ちゃんが優花先輩の電話に出てるんだよ』

「授業サボって純のこと探してんの! 架月もいるんだから」

 さらりと由芽のことはスルーされたが、由芽はこの展開にいまいちついてこれないようで椅子に座ったままきょとんとしている。由芽の名前を出せば深谷が萎縮するのは目に見えているので、架月も敢えて訂正はしないようにした。

『……架月もいるの?』

 尋ねられて、息を呑む。うまく言葉が出てこない。いつもは何かするたびに、しつこすぎるくらいに謝り倒して深谷に面倒くさがられてしまうのに、今日に限ってなぜか普段は安売りしているごめんなさいの一言を出せない。

 謝るのが嫌なわけではない。

 その一言がいつになく重くて、喉の奥に大きな塊となって支えてしまっている。

 架月が言い淀んでいるうちに、深谷は次の話題に移ってしまった。

『そっか、今授業中だったんだ。しくったわ、すみません優花先輩』

「いいよぉ、先生にスマホ預けないでいるような奴だし私」

『またまたぁ』

 学校を逃げた生徒とスマホを無断所持している生徒の会話とは思えないくらい、二人は和やかにやりとりをしている。

 架月が二人の会話についていけずに呆然としていると、深谷は唐突な質問を投げてきた。

『利久先輩はいないんですか?』

 その場にいた一同が、そこで出るとは思わなかった名前に困惑して押し黙る。

 誰かの返事を聞くよりも早く、深谷はその反応を受けて『あ、いないんだ。まあ、そりゃそうか』と一人で納得した。

『なあ架月、お前って利久先輩と仲良いじゃん。今、呼んでこれん?』

「……な、仲良いのかは知らないけど……」

 優花と莉音が、同時に横から架月の肩を叩いてきた。

「呼んでくるって言うんだよ、架月くん!」

「そんなこと言ったら利久先輩が可哀想でしょ、架月!」

「……ぁう……」

 架月がしょんぼりと肩を落としていると、電話越しに深谷が小さく笑う声が聞こえた。

 ――ああ、いつもの深谷だ。

 ホッとすると同時に、じゃあどうして逃げたんだよという疑問が湧いてしまう。いつも通りの深谷にしか思えないのに、それでも彼は学校に来なかったのだ。

 架月たちがいる教室から逃げ出してまで、彼がやりたかったことは何なんだ。

『架月、お願い』

 悪戯っぽく囁かれて、まるで自分が何かやらかした側になったような気分になってしまう。どうしてこの状況で自分の方が窘められているのだろうか。

「……分かった、呼んでくる」

「またかけ直すねー、深谷くん! ちゃんと電話取るんだよ」

『はいはい』

 優花が抜かりなく念を押して、いったん通話を切る。

 彼女が軽やかに肩をすくめると、ポニーテールの先端がふわふわと踊るように揺れた。

「あーあ、やっちゃった。無理やり居場所を聞き出せばよかったかな」

 それは架月も思っていた。

 考えていたけれど、いつも通りにしか聞こえない彼の声に流されてしまっただけで。。

「大丈夫かなぁ。架月くんにオッケーって言わせたのは私だけど、利久先輩が授業をサボってるのって見たことないよ。仲が良いとか悪いとか関係なく、誰が言っても同じだと思うけど」

「言ってあげる」

「由芽ちゃん先輩が言ったって無駄だもん」

「無駄ちがうでしょ!」

 やっと口を挟むことができた由芽が、地団駄を踏んで怒ってしまった。

 しかし、優花が口にしたのと同じような理由で途方に暮れていた架月にとっては、由芽の提案は素直に頼もしい。

「ありがとうございます、由芽先輩。そう言ってくれて嬉しいですが、僕が指名されたので」

「じゃあ一緒してあげる」

「へ?」

 ぎゅうっと腕を引っ張られて、どうやら一緒に利久を呼んでくれるつもりらしいと気が付く。優花は「やめた方がいいって」と納得いかない顔をしているが、架月にとって由芽には助けてもらった思い出の方が多い。

「……じゃあ、一緒に」

 架月が頷くと、由芽はパァッと晴れやかな笑顔になった。


 二人で教師がいないか警戒しながら三年生の教室まで行き、入り口の扉を薄く開けて中を覗く。二時間目と同様に自習中になっていて、一年生の教室よりも自由で賑やかな空気感だった。

 どうやって利久先輩を呼ぼうか。

 窓際で小説を書いている利久の姿を見つけて、架月が途方に暮れていたときだった。

「利久、おいで!」

「うわっ」

 由芽が教室の扉をいきなり全開にしたので、扉によりかかっていた架月はそのまま廊下に横倒れになってしまった。

 尻餅をついた架月のことは意に介さず、由芽はズカズカと教室に乗り込んで利久の眼前まで踊り出る。乗り込むも何も元々彼女の教室なのだが、クラスメイトたちの視線が一斉に刺さる。

 クラスメイトの一人が「何やってんだよ、由芽ちゃん」と言い捨てて、それから架月の方に訝しげな眼差しをやった。

「お前さっきも来てたじゃん。授業中に何やってんの」

「え、えっと――」

「架月を怒っちゃダメ!」

 由芽が自分よりも大柄なクラスメイトの正論をぴしゃりと封じる。

「電話なの! おいで、利久!」

「電話って何だよ。てか、由芽ちゃんも授業サボるなよ。先生そのうち巡回に来るぞ」

「ねえ、利久ってば!」

 クラスメイトの真っ当な注意は全てスルーして、由芽はひたすら自分の世界で小説を書いている利久にのみ訴えかける。

 利久は自分が呼ばれているのが聞こえないみたいにペンを動かしていた。架月ももつれる足を必死で動かして教室の中に転がり込み、由芽の隣に並んで利久へと声を掛ける。

「利久先輩、僕たちと一緒に来てください」

「授業はサボっちゃダメでしょ」

「由芽の真似っこしないの! ダメ!」

 由芽が鋭く叱りつけると、利久はペンをぽろりと手から零して「んー……」と不満そうな声を漏らす。由芽に叱られていることが嫌というよりは、自分の作業を妨害されたことに苛ついている様子で申し訳なさが募る。ちゃんと授業を受けている人に教室を抜け出せと言っているのだから、悪いのは完全に架月たちの方だ。

 でも、深谷と約束したのだ。なぜか深谷は利久のことを求めている。

 祈るように両手を合わせて、架月は真面目な先輩に頼み込む。

「お願いします、利久先輩。深谷が大変なんです、緊急事態なんです」

「おはしも?」

「へ?」

「おはしも?」

 言い直して聞かれたものの、その言葉の意味がピンとこない。

 架月がぽかんと黙り込んでいると、業を煮やしたように――あるいは記憶のスイッチが入ったように――利久が流暢に語り出した。

「訓練では大事なことが四つありますね。四つの大事なお約束、分かる人はいるかなー、分かる人は手を上げて発表しましょう」

「えっと……あっ、避難訓練ですか?」

 手を上げろと言われたので、架月は律儀に挙手をして答えた。

「押さない、走らない、喋らない、戻らないです」

「はい」

「…………」

「…………」

「…………はい?」

 ぴたりと会話はそこで終了してしまった。

 ――何だったんだ、今の。

「ねえ、利久。行こうよ」

 再び由芽が呼びかけると、今度は利久はすんなりと椅子を立った。

 架月も由芽も、そしてその場にいたクラスメイトたちも、利久が由芽の言葉に従ったのを見て目を丸くする。

 架月は慌てて、利久の気が変わらないうちにと「こっちです!」と廊下に誘導する。利久はわずかに足取りが重いものの、ちゃんと架月の背中を追いかけて歩いてくれた。

 ――もしかして、避難訓練だったら授業中に廊下に出てもいいから?

 架月が必死の形相で「緊急事態なんです」と訴えたのを聞いて、一緒に行ってやってもいいかなと思ってくれたのだろうか。でも授業をサボることはルール違反だから、これはルール違反にはならない例外でしょう?と確かめる意味で「おはしも?」と架月に聞いたとか……?

 ――いや、待て待て。

 自分は超能力者じゃないのだということを忘れずにいなければ。「おはしも?」は利久のいつもの脈絡がない独り言だったのかもしれないし、小姑のようにガミガミ言ってくる由芽がうるさいから渋々従っただけかもしれない。

 廊下に出て、架月は少しだけ不機嫌そうな利久に小声で囁いた。

「ありがとうございます、利久先輩」

「ありがとうございます」

 利久が鸚鵡返しで繰り返す。自分の小さすぎるくらいの声がちゃんと届いていたことにホッとして、架月は足早に廊下を進んだ。

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