太陽の音を忘れない

朝吹

声のかぎりに


 住んでいる家から八キロ先の地点に何があるだろうか。

 すぐには想い浮かばなくとも、コンパスを持ち出して、地図上で八キロの距離にぐるりと円を描けば、だいたい家から八キロ離れた地点がどのあたりなのか分かるはずだ。

 コンパスで線を描いた、八キロ先の線上。そこに建つ木造建築。戦時中でも囲碁の対局戦は行われていた。第三期本因坊戦。終戦の夏の対局のことはよく知られている。

 第一局は七月下旬、のちに爆心地となる中島町で行われた。「ここは危ない」との再三の勧告を受け、会社の寮を提供してくれる人を頼り、続く第二局が行われたのは中島町から離れた郊外。日程は八月四日から六日。

 運命の朝、決着をつける対局は行われた。

 碁石の材質は石と決まったわけでないが、ここでは石とする。碁石をうちわで扇いでみよう。水に浮かべた紙の舟のように、すいすいと動くだろうか。動かないはずだ。

 対局者は碁盤を挟んで向かい合っている。

 縁側越しにその光は見える。突然、真っ白に世界が発光する。彼らは訝しむ。何だ今のは。

 わずかに遅れて、轟音と突風が寮の中を通り抜ける。障子や襖が桟から外れ、盤上に並べた碁石が全て庭まで吹き飛んで散乱し、硝子窓が割れ、碁石だけでなく人間まで庭に転落する。

 暴風が走り抜けた家の中はめちゃくちゃだ。

 彼らが庭から振り仰げば、空一面が雲になっているのが見えただろう。入道雲を何百倍にも広げたようなものすごい雲だ。沸き上がる雲のお化けは、きらり、きらりと、赤や青、さまざまな色に移り変わりながら空を埋めている。

 これが、爆心から八キロ離れた地点で起こったことだ。



 地上から約六百メートルといえば、ちょうど東京スカイツリーのゲイン塔の中ほどあたり。その高さで原子爆弾は炸裂した。

 比較するようなことではないのは承知だが、広島の原爆が長崎の原爆に比べてより悲惨な感じが少し強めに想うのは、犠牲者に十代がとびぬけて多いからだ。

 人が暮らしている街にその爆弾は落ちてきた。長崎でも子どもは大勢死んでいる。だが広島の場合はその朝、軍令により、建物疎開の片づけをさせる名目で常よりも大勢の学生が爆心地近くに集められていた。

 

 戦場に赴いた成人男性にかわる労働力として、畠や工場に動員されていた子どもたち。夏休みもない。当時の中学は男女別だったので、それぞれの男子校、女子校から、級単位、学年単位で子どもたちは指定された場所に日替わりで赴いた。その朝もそうだった。広島市の中心部に、八千人にもおよぶ中学一年生、二年生がいたのだ。

 原爆は彼らの頭上に落ちた。屋外作業なので遮るものもない。直下にいた十三歳前後の彼らは、まともに熱線と爆風に晒されてしまう。その日動員された八千人のうち六千人以上の死者を広島は出している。

 中学生が六十人死んだと聴いてもつらいが、六百人でも倍の千二百人でもないのだ。

 六千人。

 当日の欠席者を除けば全滅した学校もある。



「百メートルくらいぱっと走って、逃げられなかったものでしょうか」


 原爆による被害と死亡状況をみると、投下地点から半径五百メートル以内はほぼ消失、原子野と呼ばれる真っ黒こげの更地と化した。今の平和記念公園のあたりだ。そこから百メートル単位に、外側に向かって生存者の数が増えていく。この生存者はその日に死ななかったというだけで、大怪我を負い強い放射能を浴びている彼らは後から次々と死ぬ。2km~離れたあたりから少しずつ生き残りが増える。百メートルごとの同心円の外側に向かうにつれて生存者は増えていく。一方で、爆心地に近いところにいた子どもたちは投下当日のうちに三千人が死んだ。


 はげし日の真上にありて八月は 腹の底より泣き叫びたき


 原爆で中学生のわが子を失った母親が詠んだ歌だ。この歌を詠める親が、犠牲となった子どもの数だけいた。



 六千人の子どもが死んだということは、六千人分の親がいる。親の方にも多大な犠牲が出ているので全員ではないが、動ける親たちは、わが子を探し求めて焼野原を彷徨った。

 戦争中の話ではないし、事件の犠牲者は中学生ではなく小学生だが、負傷者十五名、二年生と一年生あわせて八名の児童が刺殺された2001年の附属池田小事件。混乱の中、到着した何台もの救急車に大急ぎで刺された者を運び込んだのは致し方がなかったことだ。しかし教員が誰も同行しなかったために誰がどこの病院に緊急搬送されたのかまるで分からなくなってしまった。避難場所の校庭に我が子の姿を見いだせなかった保護者たちは、子どもたちが運ばれていった病院を自力で探し回る。運ばれた病院は他県にもまたがった。確認作業に時間がかかり、学校を出た時にはまだ生きていた子の死に目にあえなかった親がいる。

 点々と廊下に遺された血痕。みんなの後を追って外に逃げようとしたのだろう、包丁で刺された子どもがよろめき歩いた跡だ。事件から二十年以上が経つが、遺族の方は今でも毎年、命日に小学校を訪れてその廊下に赴き、わが子が息絶えた場所に手をおいて撫ぜる。

 そんなことが、六千人分あったのだ。



 偶然が重なり合って即死を免れた爆心地近くの生存者は証言する。光も音もなかったと。その瞬間の記憶はないのだ。

 光を視た者は少し離れた処からだ。さらに少し離れてようやく、人々はその『音』を聴いた。

 太陽が地上に落ちてきた音だ。

 ぴかっと光ってドンという音。これが原爆を端的に表す言葉として定着した。人々は誰もが想った。近くの工場が爆発したのだ。家の真上に爆弾が落ちたのだ。呼べば救援が来るはずだ。そこに、広島を焼き尽くした猛火が迫ってくる。


 県立第一中学校および第二中学校は、動員されていた生徒が全滅した。一中、二中は学業優秀を誇る学生を集めていただけあって、両親もしっかりしているのだろう、読み継がれるにふさわしい遺族の遺稿が今でも市販されている。女学生の方も2021年に他界した関千枝子が『広島第二県女二年西組 原爆で死んだ級友たち』を書き遺した。これは当日欠席していたことで助かった関(旧姓富永)が、あの朝、クラスの友だちはどこでどのようにして死んだのかを、戦後四十年も経ってから出来るだけ追いかけて突き止めていったものだ。

 どんなに探しても、どんなに調べても、まるで行方が分からない。そんな子どもたちが沢山いる。川に落ちて海に流されたり、他の遺体と一緒にまとめて焼かれてしまったせいだ。

 機能しなくなった市に代わり広島湾の小島に重傷者は早い段階から移送されていった。戦後何十年と経ってから行われた似島にのしまの発掘作業では、似島に運び込まれた学生たちのベルトのバックル、学生服の釦などが土中から見つかっている。

「行ってきます」

 いつものように家を出て行ったきり、学生たちは帰って来なかった。

 

 きっともう取り壊されてしまっただろうが、昔、特集番組を通して知った家がある。広島市郊外のビル群に囲まれた平屋の一軒家、昔ながらの瓦屋根の小さな家に、原爆で中学生の娘を失った老夫婦が住んでいた。木塀に囲まれた小さな庭も、あの朝ここから娘が出て行ったというその門も、当時のままだ。

 夫婦は娘を見つけることが出来た。大火傷を負ったその身体から剥ぎ取った制服を遺品として箪笥の抽斗に入れていた。焼け焦げて血の痕が茶色く染み込んでいるその衣は愕くほど小さい。

 

 広島には川がたくさん流れている。橋もたくさん架かっている。暑くなる前に早めに集合した中学生は整列し、点呼を受けて、その日の作業を始めようとしていた。

 建物疎開とは防火帯をつくって、敵機の落とす爆弾で発生する火災が家から家へと燃え広がらないように空き地を作っておくことだ。火事の多かった江戸の町で延焼を防ぐために生まれた知恵だが、空から広範囲に爆弾を落としてくる空襲においては、この防火対策は役に立たない。

 意味がないことを分かっていながら、壊した家屋の後片づけに中学一年生が動員されていた。

 実は各学校はこれに猛反対したのだ。都市空襲が続いており、軍都広島が空襲を受けるのは時間の問題だった。それまで広島は無傷だったわけではない。大規模空襲がなかっただけで、戦闘機の機銃掃射が市内を撃ち抜いて過ぎていた。最も狙われる市の中心部で、全員が入れる防空壕もない街中で、もし何かあったら生徒たちをどうやって守るのだ。敢然と軍令に逆らって奇しくも八月六日、生徒を作業に出さなかった学校もある。


 警報は解除されていた。空襲は編隊を組んで夜間に来るのだと誰もが信じていた。あんなに高いところを飛んでいる。あれはいつもの偵察機だ。

 背中に火がついたままの教師が、幽鬼のように歩きながら子どもたちを河原に連れて行く。そこで息絶えた学徒たちは男女の区別も分からぬ姿で、川という川をぎっしりと埋めた。

 戦時下で子どもの命をあずかっていた当時の教師の義務感というものは、現代では比較にならない。ある小学校では校庭で遊んでいた子どもたちが全員黒焦げになって死んだが、自らも重傷を負いながら教員たちは、子どもたちを探しに来るであろう親のために児童の遺体を整然と校庭に並べ、それを終えてから、魂が消えるようにしてばたばたと折り重なって死んだ。

 川にかかる長い橋。

 橋を見るたび、大火傷を負った身でこの長い橋を走って逃げたわが子の姿を想い浮かべて哀しくなると、そんなことを二中の遺族がいい残している。別の橋の上では、焼死体がうつ伏せになっていて、子どもを探しに来た母親が「見つからん」とあちこちさ迷い歩いた挙句もとの橋に戻って来てみると、うつ伏せで死んでいたのがわが子だったという話もあったそうだ。

 子どもたちを奪い去った光と音。



「百メートルくらいぱっと走って、逃げられなかったものでしょうか。どこかの建物の陰に入れなかったものでしょうか」


 夏が巡るたびに、腹の底より泣き叫びたい、声のかぎりに。

 投下された爆弾はしばらく上空を漂っていた。爆発まで四十三秒。

 近づく爆弾を目撃した子どもたちが、その瞬間に走って一メートルでも二メートルでも遠くに逃げていたら、百メートル走をして、次の同心円の向こう側に逃げ込んでいたら、或いは助かる子もいたかもしれない。運動場を颯爽と走りまわる子どもたちの姿を見てきた親ならではの、悲痛な無念がにじみ出た言葉だ。



[了]

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太陽の音を忘れない 朝吹 @asabuki

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