第16話 夜の庭園に舞う
ふつりと、室内の明かりが落ちた。
「きゃっ! 何……?」
突然周囲が真っ暗闇に覆い隠される中、部屋を出ようとしていたティアラの悲鳴が響く。それと共に、くぐもった打撃音とドサリと地面に何かが倒れた音がリーシャの耳に届いた。
状況がわからず、リーシャはその場に固まることしかできない。その身体が、不意に抱え上げられた。
「ひっ」
「しー、静かに」
思わず悲鳴を挙げそうになるのを耳元で囁く声が制止し、大きな手のひらがそっとリーシャの口を覆った。そのほぼ息のような小さな声と、身体を包み込む見知った気配。
照明の失われた真っ暗な部屋で相手の顔など何も見えないのに、それだけの手がかりでリーシャはほっと身体のこわばりを緩めた。静かに身を任せれば、闖入者はリーシャを軽々と肩に担いで走りはじめる。
一瞬の浮遊感と同時に、リーシャを抱えた人物が地面に降り立った気配がした。とはいえその衝撃はほんの僅かで、彼が肩の上のリーシャを大切に運んでいることは容易に窺い知ることができる。
ふわり、と新鮮な冷たい風がリーシャの銀色の髪を揺らした。まだ闇に目が慣れていないながらも、その風の気配にリーシャは自分たちが外に出たことを察する。おそらく、先程の休憩室の窓から飛び降りたのであろう。
夜の庭園がまるで別世界のように静かにリーシャたちを包み込む。瑞々しい植物の香りが鼻腔をくすぐった。
しばらく庭園の中を進み完全に人の気配が途絶えたところで、リーシャを担いだままその人物はようやく足を止める。
「ありがとう、助かったわ。お姫様抱っこで脱出、だったらもっと嬉しかったのだけれど」
なにしろ今の姿勢は二つに折り曲げた状態で、肩に担がれているのだ。これでは荷物と変わらない。
落ち着きを取り戻すためにそんなつまらないワガママを口にすると、リーシャの身体を抱えている人物の緊張がふっと緩むのを感じた。
身体を捻ってなんとか顔を上げれば、少しずつ暗闇に慣れたリーシャの目は窮地を救ってくれた人物の輪郭を徐々に見出していく。
……彼女の唯一にして最大の味方、執事の姿を。
「慌ただしい運び方になってしまって、申し訳ございません。また、駆け付けるのが遅くなりました。平にご容赦を」
優しい彼の声。それだけで、リーシャの身体の震えは徐々に収まってくる。
「本当はお嬢様に不埒な行為をしようとしたヤツらを、再起不能になるまでぶちのめしてやりたいところですが……」
怒りに震える執事の声に、リーシャは抱えられたままの姿勢でそっと首を振った。
「これからのことを考えると、ここで揉め事を起こすわけにはいかないもの。抑えてくれて、ありがとう。貴方が来てくれて良かった。また、貴方の名前を教えてくれる?」
「……ツルギです。お嬢様、立てますか?」
すとん、と地面に降ろされたリーシャは、しかし、地面に立つことができずに弱々しく目の前の肩に縋りついた。まだ腰が抜けているのだ。
「失礼します」
そんな彼女を見て、落ち着いた声と共にぐいとリーシャの脇と膝の後ろにツルギの腕が差し込まれた。
身体が浮き上がる。先程までの、肩に抱ぎ上げる姿勢とはまるで違う、宝石を手にするような繊細な抱き上げ方。
地面から離れる心許ない感覚に思わず目の前の身体に縋りつけば、抱き上げられた彼女の顔はツルギのすぐ横へと迫っていた。
彼の吐息がリーシャの前髪を揺らす程の至近距離。ほんの少し顔を寄せたら、彼の頬に触れてしまいそうだ。包み込む温かなツルギの体温が、肌寒い外気の中で彼女を守るように覆う。
自分のうるさいくらいに鳴る鼓動が彼に気づかれるのではないかと、リーシャは咄嗟に身体を固くして視線を地面に落とした。
(確かにさっき「お姫様抱っこ」と口にしたのは私だけれど……)
声には出さず呟きながら、リーシャは羞恥に瞳を潤ませる。
(それが、こんなに恥ずかしい気持ちになるものだったなんて!)
迂闊なことを口にしたと後悔するが、今更もう遅い。彼の顔を直視できず、火照る頬を隠すように俯いてリーシャは彼の服の裾を握る。
「もう、このまま帰るわ。馬車まで連れて行って」
恥ずかしさを隠すようにぶっきらぼうな声になってしまったが、気にする様子もなくツルギは静かに微笑む。
「かしこまりました、お嬢様」
人ひとりを抱えているとは思えないきびきびとした足取りで、ツルギは夜の庭園を迷いなく歩いていく。その黙々と歩く足音に混ざって、やがて小さく楽団の
「あら……ここまでワルツの音楽が聞こえるのね」
会場からはどんどん離れていっているはずなのに、風向きの影響かその音は徐々に大きくなっていく。
「ねぇ。もう大丈夫だから、いったん降ろしてちょうだい」
そう言って地面に立つと、リーシャはその音を全身で受け止めるように目を閉じて風を浴びた。火照った身体に染み渡る冷たい夜の風が心地好い。
「……どうしたの?」
隣に佇むツルギが息を呑む気配がして、リーシャは薄く目を開けた。
「いえ、何でもありません。失礼しました」
「そう。なら良いのだけど」
その答えに特に気を留めることもなく、リーシャはもう一度目を閉じる。木々のざわめきと混ざり合いながら遠くから聞こえてくる弦楽器の旋律に、自然と身体が歌うように揺れはじめた。
――リーシャ本人が、気づくわけもない。月の光を浴びて夜の庭園に浮かび上がる彼女の姿が、月の精霊のように神秘的で幻想的な美しさを醸し出していることを。
銀の髪は月の光を集めて溶かし込んだかのように透き通り、水色の瞳は夜空に散らばる星のように輝く。その繊細で優美な佇まいは、指先で触れればそっと消えてなくなってしまう雪の結晶のよう。
ツルギはただ眩しそうに、月影が照らし出すリーシャの姿にそっと見惚れる。
しばらくして、リーシャは思い出したように目を開いた。
「そういえばせっかくパーティに出たのに、結局ダンスを踊れなかったのは残念ね。新作のドレスの踊り心地を、試してみたかったのだけれど」
右手をしなやかに挙げて、リーシャは遠くの楽団の音色に踊る姿を夢想する。
そっとツルギがその足元に跪き、手を差し出した。
「では、ここで少しだけ一緒に踊りませんか?」
「ツルギ、貴方踊れるの?」
「お嬢様が幼いころ、体格の合うものが居なくてしばらくダンスの稽古の相手を務めていたことがあります。拙い踊りでもよろしければ、いかがでしょう」
「ふふっ、誰に見せるものでもないもの。構わないわ」
彼の手を取り、耳を澄ませる。最初は音楽に慣れるようにゆっくりと身体を揺らすだけ。それがやがて、メロディに合わせて複雑なコンビネーションが組み込まれていく。言葉などなくとも、気持ちが通じ合うのがわかる。
ツルギの腕に身を任せて身体を逸らし、拡げ、跳び、舞う……型など何もない、児戯にも等しい拙いダンス。でも、その自由がとても楽しい。
「ふふっ、うふふふふふ……! ツルギ、私、とっても楽しいわ!」
ドレスの裾を風に靡かせながら、リーシャは顔を上げる。優しい灰緑の瞳が、その満面の笑みを穏やかに受け止めた。
身体がまるで羽根が生えたように軽い。いつまでだって踊っていたいくらいだ。誰の目も気にすることなく、リーシャは夜の庭園に舞う。
楽団も居ない、シャンデリアもない二人きりのダンス。しかしそれは、彼女にとって史上最高の舞踏会であった――。
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