第二章
第6話 婚約解消への一歩
眠れない夜にも、やがて朝は訪れる。
「昨日、あれから考えたのだけれど……」
翌朝、眠たげな目をしながらも、リーシャは晴れ晴れとした顔で執事へと告げた。
「やっぱり私、あんな自分勝手で他人を顧みない方とは生涯を過ごしたくないわ。婚約を解消しようと思うの」
ひと晩寝る間も惜しんで考えた結論。それは単純だが、間違いのないものだった。
ハロルドとの婚約さえなくなれば、あの愚か者との関係はおしまいだ。くだらない言いがかりで殺される未来も回避できるだろう。
「……よろしいのですか」
少しだけ驚きを滲ませながら、それでも落ち着いた声で執事は返した。
その顔は相変わらず、少し視界から外しただけでリーシャの記憶から滑り落ちていく。
声も顔も髪もととのっているというのに、まるで
とはいえ毎日新鮮な気持ちで執事の顔を眺めるのも、これでもう三日目。この不自然な状態にも、だいぶ慣れてきた。そこさえ気にしなければ、彼は忠実で有能な執事なのだから。
「もちろん解消が簡単にいかないことは承知しているけれど……でも、ひとまずの目標設定はそこ。何としても勝ち取ってみせる」
覚悟を決めた表情で頷いて見せるが、執事の気遣わしそうな視線は変わらない。
「喜んで協力させていただきますが……しかし、お嬢様はハロルド様を好いていらっしゃるのでは?」
「私が? まさか!」
とんでもないことを言われて、思わず大きな声が出た。慌てて声を落とし、リーシャは首を振る。
「私がハロルド様を尊重して、彼の我が儘に必死で応えてきたのは家のためよ。決して、彼が好きだからではないわ」
その言葉に、執事の唇がふっと緩むのが見えた。隠し切れない彼の喜色を前にして、リーシャは何故かソワソワした気持ちに襲われる。
「だっ、第一、彼は私の好みとはかけ離れているもの!」
「お嬢様の好みと言いますと?」
「ハロルド様は自分のことを美丈夫だと思っているようだけれど、私に言わせれば身体が華奢すぎるわ。頼り甲斐が全然感じられない。私はもっと、がっしりとした方が好みなの。彼は背もあまり高くはないし……長身の私には難しいとわかってるけれど、私の理想は男性の方を見上げて話すくらいの身長差。そして、言うまでもないけれど彼は性格が悪すぎる! お互いを想い合って優しさを贈り合うような、そんな関係に私はあこがれているのに……」
一気にそこまで不満をさらけ出してから、ここまであけすけに好みを口にするのははしたない行為だと気づいてリーシャは慌てて言葉を切る。
しかし、執事からはいつまでも反応が返って来ない。どう受け止められたのだろうとこっそりその顔を窺ったリーシャは、手で顔を覆い隠した彼の肩が細かく震えていることに気がついた。
(笑ってる……? なんだか、すごく機嫌が良さそう……)
その反応の意味が分からず、リーシャは呆然とその場に立ち尽くす。
その時の彼女は、気がついていなかったのだ。
――今挙げた特徴が、目の前の彼に通ずるものばかりだということに。
たっぷり数分はその姿勢で笑いを湛えていた執事は、やがて「失礼しました」と何事もなかったかのように澄ました表情で顔を上げた。
「お嬢様のお考え、しかと承知いたしました。それでは、婚約解消に向けて動いてまいりましょう」
先程見せた歓喜がなかったかのような、落ち着いた声。
その反応にさっきの反応は何だったのかと蒸し返すことが躊躇われて、リーシャは気まずい想いで目を逸らしながら人差し指を口元に当てる。
「でも、そのためには何をしたら良いのかしら。本来であれば、婚約を解消したいとまずお父様に相談するのが筋だとはわかっているけれど……」
そう言って、諦めたようにゆっくり首を振る。
「そんなことをしても、馬鹿なことを口にするなと一蹴されるだけよね。ただの時間の浪費にしかならないわ」
彼が娘の苦しみを目にして考えを改めるような男だったら、前回の人生でリーシャが死ぬような目に遭うことはなかっただろう。
リーシャがいくらハロルドの仕打ちを訴えようと、彼は婚約を見直すことはおろかハロルドに苦言を呈することすらしなかった。ただ、「ハロルド殿下に気に入られるように振る舞いなさい」と言い聞かせるだけ。
父にとって、娘のリーシャとハロルドとの成婚は人生を賭けた悲願だ。それと娘を秤にかけ、彼は自分の野望を選んだ。そんな父親に、今更期待することなどない。
「それでは……大旦那様にお会いするのはいかがでしょうか。大旦那様であれば、きっとお嬢様の相談に乗ってくれるはずです」
「お祖父様に? ……ああ、確かにそれは良い考えかもしれないわ!」
目をパチパチと瞬かせてしばらく思考していたリーシャは、やがて顔を輝かせながら執事を見上げた。
「考えてみたら至極当たり前のことなのに、全然思いつかなかった。貴方の助言のおかげで、道筋が開けそう。ありがとう!」
喜びのあまり、思わず彼の手をギュッと握り締める。
淑女としてはあるまじき行為であったが、執事は一瞬だけ驚いた表情を浮かべてから柔らかく微笑んだ。
それは春の雪解けのような、窓から差し込む一条の光のような、そのまま瞼を閉じて身を委ねたくなる温かな笑み。希望と喜びに満ちた感情。
彼が向ける揺らぐ灰緑の瞳はとても甘やかなのに、何故かその視線にえも言われぬ熱を感じてしまうのは何故だろう。それは切望でもあり、哀切でもあり――そして、過去を見つめる懐旧でもあった。
――ああ、その微笑みが記憶に残ることはないけれど。握るこの両の手の中にある彼の温もりは、とても心地好い。
「ご納得いただいたようで何よりです。それでは、大旦那様にお会いするための手配、進めておきますね」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
リーシャの祖父であるジェドは、自由人だ。既に当主の座を退いた彼は派閥にとらわれず幅広い貴族と親交を深め、色々な情報に精通している。ジェドに聞けば曽祖父の隠し子のことまで教えてくれる――そんな噂すら囁かれる程だ。
むしろそれだけの慧眼を有していたからこそ、彼は
そんな人柄ゆえか彼を嫌う者は少なく、前線を退いた今もなお彼の元には多くの客人が足を運んでいる。
……ただし。
実の息子、つまりリーシャの父との仲は険悪であった。
(その所為で、前の人生で私はお祖父様に会うことができなかったのよね)
遠い目をして、リーシャはため息をつく。
ジェドの息子であるリーシャの父親は、悲しいくらいに凡庸であった。そして、凡庸でありながら周囲から認められたいという欲は人並み以上に持ち合わせていた。才能に恵まれた父を前に努力では太刀打ちできないセンスの差に打ちのめされ、そして本人にはどうしようもない出自のことで周囲からは成金と侮られる……。
だからこそ、彼はジェドの反対を押し切ってこの婚姻に飛びついたのだ。それこそが、この状況をひっくり返すことのできる彼にとって唯一の
そして、ジェドはそんな息子に呆れて家を出てしまった。
(でもきっと……私から会いたいと伝えれば、歓迎されることはなくても相談には乗ってくれるはず……)
色々な貴族と親交のある彼を味方につければ、できることもぐんと広がるだろう。
長い間不義理を続けてきた彼にそんな目的で再開することに幾分かの後ろめたさを抱えながらも、リーシャは次への行動に向けて想いを馳せたのであった。
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