第5話 初めてのサボタージュ(2)


 ツルギが休憩場所に案内したのは、リーシャも良く知るカフェテラスであった。

「ここ……ウチの商会が経営しているお店よね。帳簿は見ても、実際に訪れたことはなかったけれど……今、かなりの人気店なんでしょう? 入れるのかしら?」

「ご心配なく。今朝お嬢様から街に行くとお話伺った際に、お席については手配をしておきました」

「ツルギって優秀なのね」

 涼しい顔で答える彼に驚きながら、店内へと進む。


 彼の言葉通り、名前を告げるだけで二人は店の奥へと通された。小さいながらも座り心地の良い椅子に腰かけ、リーシャは静かに店内を見渡す。

 白を基調とした清潔感のある店内。要所要所には女性の喜びそうな可愛らしい小物が配置され、店の中はシンプルながらも洗練された雰囲気を醸し出している。


 貴族だけでなく市民も気兼ねなく来られるようにと、店内の装飾は堅苦しくない程度の上品さだ。壁を彩るのは、重厚な絵画ではなくて可愛らしい花。食器は無地のものを使い、その代わりに華やかなケーキがテーブルを飾る。

 実際に客層を見ると、意外と一般市民の割合は高い。隣に座るカップルも緊張した面持ちで、それでも楽しそうにケーキをつついている。男性が照れくさそうに頬を掻きながらも何処か誇らしげな表情で女性を見つめているのは、彼女のために予約を必死で勝ち取ったからだろうか。二人の間に流れる空気が甘酸っぱい。


「良いお店ね」

 紅茶をひと口飲んでから、リーシャは静かに呟いた。

 ほんの少しだけ特別な、恋人との思い出に一輪の花を添えるような場所。そんな店の在り方を、リーシャは好ましく思う。

 これは、帳簿とにらめっこしているだけでは知ることのできなかった情報だ。


「お嬢様に喜んでいただけて良かった」

 向かいに座るツルギが、柔らかく笑った。自分は控えているからと固辞する彼を説得して、一緒にお茶を嗜んでもらっているのだ。

 彼を説得するのはなかなか大変なことだったけれど、その甲斐はあったとリーシャは心の底でひっそりと呟く。


 運ばれてきた真っ赤な果実のケーキが、目に眩しい。そっとフォークで切り崩し、ゆっくりと口へ運んだ。普段の感情が動かないお茶会とは違って、今はこの一瞬一瞬が愛おしい。

 甘み控えめのクリームが舌の上で溶け、みずみずしい果実の香りが口の中いっぱいに広がった。新しい季節を予感させるような、フレッシュな味わい。少しだけ酸味の残るフルーツが、ケーキの味を引き締めている。

 美味しい、という声がツルギと重なった。思わず顔を上げて、笑い合う。ととのった彼の笑顔が一瞬だけリーシャの目を奪い、そしてあっという間に記憶から薄れていった。


 二人で同じ時間を楽しむという経験は、供されるお菓子を更に甘美なものに引き上げてくれる。誰かと喜びを分け合うことで、こんなにも幸せを感じられるなんて――かつての人生では手に入れることのできなかった幸福の時間に、リーシャは内心で喜びに打ち震えていた。




「おい、俺が誰かわかっているのか! お前ら全員、クビにしてやっても良いんだぞ!」

 突然、静かな店内に相応ふさわしからぬ怒号が響いた。その聞き覚えのある声に、リーシャは思わずはっと振り返る。

「私、新作のケーキ早く食べてみたいです~」

 その後に続く、甘ったるい媚びるような声。


「席が埋まっていて、用意できない? お前らは優先順位もつけられないのか! 席がないなら、平民を追い出せば良いだけのことだろう。ティアラが望むからとわざわざ来てやったというのに、無能どもが!」

「席に案内できないってどうしてですか? もしかしてまた、リーシャさんが意地悪してるの? 真実の愛で結ばれた私達に嫉妬するなんて……本当に、ひどい人!」

 恐る恐る物陰から覗けば、入り口で揉めているのは予想通りのハロルドだ。その右腕には、豊満な胸を押しつけるようにティアラがしがみついている。


「お嬢様……」

「帰りましょう。見つかったから、面倒なことになるわ」

 気遣わしげなツルギの視線に頷き、リーシャはそっと席を立つ。

「ねぇアナタ、今から帰るからあの人たちにこの席を案内してあげて」

 近くの店員を呼んでそう告げると、店員は申し訳なさそうに身を縮めた。

「っ、そんな! お客様にご迷惑を掛けるわけには……!」

「あんなところで騒がれても、困るでしょう。彼ら、諦めそうにないし。このままだとお店の評判に傷がつくわよ」


 リーシャとしても、彼らと鉢合わせするような状況は御免だ。幸い店の奥に居たため、ハロルドたちにはまだ気づかれていない。手早く支度をして、恐縮する店員に見送られながらこっそりと店を出ていく。

 浮き立つようだった感情は、すっかり消沈してしまっていた。


「申し訳ございません、お嬢様」

「ツルギが謝ることじゃないでしょう。それにしても、私の婚約者がここまで愚かだったなんて知りたくなかったわ」

 まだ婚約中の状態で、婚約者の家の経営する店をあそこまで私物化するとは。しかも、傍らには浮気相手を連れて。


 本当に、人を馬鹿にしている。




 一気に現実へと引き戻され店の外へ出たリーシャは、街の外れへと傾き始めた太陽の眩しさに目を細めた。行き交う人々の影が足元に長く伸びている。

 そろそろ屋敷に帰らなければならない時間だ。楽しかった時間は、なんと早く過ぎ去ってしまうことか。


「帰りたくないなぁ……」

 思わず本音が洩れた。

 初めてのサボタージュは、本当に有意義だった。今まで経験したことのない楽しさに満ちていた。

 ……だからこそ、家には帰りたくない。結局、リーシャは現状を何も変えることができていないから。


 今までの自分と訣別するための、サボタージュ。その目的は、果たせたと思う。……でも、それだけだ。死を回避するために何をしたら良いのかは、わからないまま。進展できたことは、何ひとつない。

 先程のハロルド達の横暴についてもそうだ。憤りよりも先に不安や恐怖が先に来てしまって、彼らと対峙することから逃げてしまった。

 運命に抗うため、これからリーシャは彼らに立ち向かわなければならないというのに。こんな臆病な自分のままでは、運命から逃れることなんてできないのではないだろうか。


 ふわり、と夕方の風がリーシャの白い髪をそよがせた。なびく髪は赤い夕陽に照らされて、オレンジ色に輝く。それを手で押さえながら、リーシャは見るともなしに自分の足元に伸びる長い影へと目を向けた。


「お嬢様が本当に望むなら……」

 優しい声が、リーシャの耳朶をそっと打った。反射的に顔を上げれば、夕陽を背に受けながらツルギはリーシャの顔を覗き込む。慈愛に満ちた微笑みと、覚悟を秘めた強い瞳。

「俺が貴女を、連れて逃げましょうか。家のために、お嬢様が犠牲になる必要なんてない。俺はどこまでも、貴女を守って逃げてみせます」

「…………!」


 何という甘美な提案だろう。

 囁かれる脳髄が痺れるような誘惑に、くらりとよろめきそうになる。


 ――ああ、そうだ。すべてを捨てて、このまま逃げ出してしまえば。


 彼の身体に遮られて、夕陽に染められていたリーシャの視界は影に飲み込まれる。

 見上げた彼女の視線を絡め捕る、温かな灰緑の瞳。どこまでも深いその瞳にそのまま溺れて、何もかも投げ出してしまえば……私は破滅から逃れられるのだろうか。

 揺らめく灰緑の影に絡め取られて、リーシャふわふわとした心地で頷こうとした……その瞬間。




 バサバサと、鳥たちが一斉に飛び立った。突然の静寂を切り裂く羽音。その音に、リーシャはハッと現実に引き戻された。

 ――私は今……一体、何を考えていた?

 あまりに自分本位な選択に逃げようとしたことに、今更のように血の気が引いていく。


 そんなことをして、ツルギの人生はどうなるのだ。私のために、彼は人生をなげうつことになってしまう。彼の人生を犠牲にする程の価値なんて、私にはないというのに。

 そして、ツルギだけではない。第一王子の婚約者であるリーシャが失踪すれば、大事件だ。我が家は間違いなく責任を問われることになるだろう。

 その責任の追及が父だけで済めば良いが、そうはいくまい。私ひとりのワガママで、何人もの人間が断罪されることになってしまう。


 一歩後ろに下がり、リーシャは俯いて首を振った。

「ありがとう。でも、大丈夫。私はもう少し、あらがってみせるから」

 震える両の手を握り締めながらも、きっぱりと拒絶を口にする。

「お嬢様……」

 心配そうな彼の顔を見上げて、リーシャは無理にでも笑ってみせる。

「ツルギの言葉で救われたわ。確かに逃げ出したい気持ちはあったけれど……でも、まだ何の手も打っていない状態で逃げ出すのはイヤ」

 言葉にするうちに、リーシャの気持ちは固まってくる。

 ……そうだ、そんなのあまりに悔しすぎる。リーシャに落ち度はないのに。一方的に悪者にされて追われるなんて、殺されないだけで前の人生と何も変わらないではないか。


 でも、とツルギを見上げてリーシャは首を傾げる。

 井戸の底から見上げた月のような、ほのかに差し込む希望の存在。手を伸ばしても届くとは思っていないけれど、それでもその光は美しくて。

「いざとなったらお願いね、ツルギ」

 

「……ええ、お任せください」

 そう力強く答えながら、何故かツルギは悲しそうな顔をしたのだった。



○   ○   ○   ○   ○   ○   ○



「おかえりなさい、姉様!」

「ただいま、オスカル。これ、お土産よ」

 屋敷に帰ったリーシャを飛びつくように迎え入れたのは、弟のオスカルだった。

 その頭を優しく撫で、リーシャ街で買い求めたお菓子を彼に手渡す。それを見て、オスカルの顔がぱぁっと輝きを放った。


「うわぁ、ありがとうございます! 茶色くて固くて……変わったお菓子ですね?」

「カヌレという、ノース地方のお菓子ですって。最近北の街道が整備されて、色々なものが入って来るようになったから」

「へぇ、名前も変わってますね。良かったら、姉様も一緒に召し上がりませんか?」


 お茶の席が準備できると、オスカルは早速カヌレを口にする。

「外側は硬いけれど、中はモチモチですね……そして、酒精の香りがふくよかです。これは男性にも喜ばれそうだ。シンプルな見た目は、後からクリームをつけて飾っても映えますし。それにしても……」

 もうひと口食べ進めてから、オスカルは首を傾げる。

「これ、全卵ではなくて卵黄が使われていますよね。使わない卵白はどうして……」


 そこまで言い掛けて、オスカルは思いついたとばかりに勢いよく顔を上げる。

「そうか、ノース地方といえばワインですね! 貴族向けのワインは不純物を取り除くために、卵白を用いるという話を聞いたことがあります。このお菓子はむしろ、そこで余った卵黄を使うために生み出されたのではないでしょうか!」

「……正解よ、オスカル。見事な着眼点ね」


 まだ十になったばかりの幼い弟の洞察力に、リーシャは内心で舌を巻いた。

 大人であっても、そこまで発想を拡げていくことは難しい。身内の贔屓目もあるけれど、オスカルは間違いなく商人としての才能に秀でている。


(このコもまた、政略結婚による犠牲者なのよね)

 姉に褒められて無邪気に喜ぶオスカルに目をやりながら、リーシャは胸の裡で呟いた。

 商人としての感覚に優れ、学ぶことに意欲的。順当に行けば、次期当主は彼で間違いなかったであろう。そしてそこには、何の憂いもなかったはずだ。


 しかし、彼が生まれた時には既に政略結婚によってハロルドが当主となることが決定していた。いくら努力しようと、彼がバートン家を継ぐことはできない。

 彼に用意されているのは、リーシャと同じだ。名ばかりの次期当主ハロルドを支えるための手駒となる未来。


(私も酷い姉だわ。オスカルのことは可愛がっていたつもりだったけれど……そんな彼の将来を当然のことと思っていたのだから)

 《《》》バートン家の教育は、洗脳に近かった。自身の置かれた状況に少しでも疑問を持つことは許されていない――人生をやり直すことになって、初めてそのことに気がつく。


(可愛いオスカルのためにも、このいびつな状況を何とかしなくては。でも、一体どうしたら……?)


 その晩、リーシャの寝室の明かりは遅くまで消えることがなかった――。

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