第4話 初めてのサボタージュ(1)


「ねぇ。私、今日は街へ遊びに行きたいわ」


 ――翌日。

 朝を告げる執事に、開口一番にリーシャはそう宣言した。

 自分の意志を表明するという慣れない行動に、緊張で思わず肩に力が入るのがわかる。


 驚きを示すように片眉を上げ、執事はその言葉に淡々と反駁はんばくした。

「お言葉ですが、お嬢様。本日午前中は農業に関する家庭教師の授業、お昼には商会長との会食、午後は経済学の授業と得意先への挨拶が三件、予定されておりますが……」

 冷静な声で諭され、勢い込んだリーシャの気持ちはあっという間にしおれていった。


 かつての自分との決別。

 そのために好きなことをしようと、まずは街へ繰り出すことを考えたのだが……執事の言葉を聞いて、心に迷いが生じる。これだけ大勢の人の予定を押さえているのに自分の勝手でそれを反故ほごにするなんて、やっぱり良くないのでは?

 自分の人生を生きていくと決心したのは良いものの、根が真面目なリーシャは結局かつての感覚を捨てられない。今の言葉にそれでも街へ行くと言い張ることもできず、リーシャはぐずぐずとその場に立ち尽くすことしかできずにいた。


 ――二人の間を、無為な時間が流れていく。


 しばらく沈黙してから、「ああ、そうだ」と執事は思い出したように顔を上げた。

「そういえば本日は、城下町に隣国のトゥネリからの商隊がやって来る予定でした。我が国との緊張が高まるトゥネリから商人が来ることは滅多にありません。そちらの視察ということであれば、確かにすべての予定をキャンセルしてでも街へ赴く価値がありますね」

「っ、貴方、最高ね!」

 何というアシスト。リーシャの気持ちを汲んで、彼は今日の予定をサボタージュするためのまたとない言い訳を提供してくれたのだ。

 飛び上がりたくなるような嬉しい気持ちを押さえて、リーシャは満面の笑みを彼に向ける。


 その途端、執事は凍り付いたようにピシリとその場に硬直した。その顔が浮かべるのは、信じがたいものを見た時の驚きの表情。あまりに強烈な反応に、リーシャの方が戸惑う。

「……どうしたの?」

「いえ、そのようなお嬢様の笑顔を見ることなど今までなかったものですから。申し訳ありません、取り乱しました」

 そう言いながらも、彼は食い入るようにリーシャの顔を見つめている。その笑顔から目を離したくないと、無言の内に叫んでいるかのような態度。


 少し気まずい思いを咳払いで誤魔化して、リーシャはそっと視線を逸らした。

「確かに、こんな風に笑ったのはいつ以来かしら。初めての経験に挑戦できるのが嬉しくて、つい。……それじゃ、支度をしてちょうだい。貴方、えぇと……貴方ももちろん、ついて来てくれるのよね?」


 一瞬言い淀んだ理由を、執事は正確に受け止めた。ゆったりとした笑みを浮かべ、彼は静かに一礼する。

「ツルギです。もちろん喜んで、お嬢様」



○   ○   ○   ○   ○   ○   ○



「ツルギ、貴方もコレ、食べてごらんなさい! 小麦粉と砂糖を練っただけのものが、油で揚げるとこんなに美味しくなるなんて!」


 ――数時間後。

 そこには、予想以上に外出を満喫するリーシャの姿があった。

 裕福な市民の服に身を包み、ツルギを伴って街へと繰り出したリーシャ。最初のうちこそ何をしたら良いかわからず戸惑いで動けずにいたものの、めくるめく初めての景色と経験にリーシャの意識は完全に奪われてしまった。

 今では感情に任せ、興味を惹いたものに向かって駆け出すようにまでなっていた。それを見失うまいと必死に追いかけるツルギの姿にも、気がつく様子はない。


 なにしろ前回の人生を振り返ってみても、彼女が自由に街を出歩いた経験なんて皆無である。毎日淑女教育、後継者教育が詰め込まれ、自分の時間なんて少しも持てなかった。

 視察で街を歩いたことはあるけれど、行き当たりばったりで思いつくままに自分の好きな場所へ向かうことがこんなにも楽しいなんて。


「えぇ、えぇ。楽しそうで何よりですよ」

 お目付け役のツルギが苦笑しながら揚げ菓子を受け取る。彼に呆れられている自覚はあるが、リーシャのテンションはしばらく落ち着きそうにない。

 それでも、生来の真面目な性格、商売人としての感覚は抜けなくて。

「揚げ菓子なんて贅沢品、ひと昔前までは考えられなかったわ。やはりバートン家が油の安定的な供給に成功したのが大きいのでしょうね……これから先、油をふんだんに使った料理がしばらくは流行りそう。飲食部門に話を通しておきましょう」

 なんて洞察は、サボタージュのために街に来たとは思えない真面目なものであった。




 ――そうして気が済むまで街を巡り、食事をつまみ、お昼を過ぎてから。

「ああ、あの天幕がトゥネリの臨時市場ですね」

 二人は、隣国の商人が開く臨時の市まで足を伸ばしていた。


「トゥネリといったらやっぱり白磁よね。私あの、陶器コーナーにまずは行きたいわ」

「お茶も色々な種類が並んでいますよ。文化の違う香りを試してみるのも、よろしいかと」

 そんな会話を楽しみながら、商品を検分する。そうして楽しそうに陳列棚を眺めはじめたリーシャの顔が、わずかに曇った。


「? お嬢様、何か……」

「はい、お客サン。いらっしゃイ。トゥネリの商品、ドウ?」

 リーシャのそんなちょっとした表情の変化に敏感に気がついたツルギが声を掛けようとしたところで、なまりの強い店主が間に割って入った。


 かげった表情を即座に打ち消すと、リーシャはにこやかな表情を浮かべて店主へと向き直る。

「とっても面白いわ。こちらの国にないものがたくさんあるもの。最近は白磁に絵付けしたものが流行っていると聞いたのだけれど……この中にはあるの?」

「あぁー絵、ついてるのはナイ」

「そうなの、残念だわ。私、トゥネリの工芸品が好きなの。最近は関税が上がった所為でなかなかお目にかかれなくて……今回お店を開くのも、大変だったんじゃない?」

 しばらく会話を弾ませ、小物を数点購入してリーシャは店を後にする。


「お嬢様、何か気になる点がございましたか?」

 その距離が店から十分に離れてから、ツルギは見計らったように切り出した。リーシャは厳しい表情で頷く。

「最初に目にした時から思っていたけれど……あの商人、商売をするつもりで来ていないわね」

「と、おっしゃいますと?」

「まず最初に、商品の並びに新しいものが全然ない。絵つきの白磁もそうだけど、織物だってデザインがひと昔前のものよ。これじゃ国交が盛んだった頃の品と全然変わらないわ。さらに、商品の扱いが雑。あんな陳列や梱包じゃ細かいキズがついてしまうというのに……」

 そして、とため息をつきながらツルギが提げている商品の包みを指さす。


「私、わざとセット物の一部だけを買ったのよ。相手の反応を見るために。まともに売る気がある商人なら、まずはセット購入を勧めてくるはず。それなのに、あの商人からはそのひと言もなかった。今、関係の良くない我が国に来てわざわざ高い関税を払って品を売るのであれば、それこそ死に物狂いで商売しないと元は取れないでしょうに」

「確かにそうでしたね……」

 リーシャの指摘に頷いてから、ツルギはふと首を傾げる。

「しかし、それなら何のために店を?」

「これは想像なのだけれど、あれは『商売をするためにこの国に来ています』というアピールな気がするの。実際には、裏で別の何かが動いているのかもしれないわね」


 まぁ自分に関係のある話ではないけれど、とリーシャはそこで推理を止める。そんなことにまで首を突っ込んでいる余裕はない。自分は自分の破滅を回避するだけで精いっぱいなのだから。

「色々考えてたら、お腹が空いちゃった。ねぇ、何処かひと休みできるところに案内してくれる?」


 そう言って首を傾げるリーシャは、今の言葉にツルギがこっそりと満足そうに微笑んだことに気づいてはいなかった。

 ――今日一日を経て、確実に自身の要望を口にできるようになっていた自分の変化にも。

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