第三章

第13話 トラヴィスの花


 リロイとの交渉を果たし終え、リーシャの日々はまた穏やかなものへと戻った。

 家の仕事や勉強で忙しくはあるものの、前の人生のような失敗はもう二度と繰り返さない。しっかりと自分の時間を確保して、充実した日々を過ごしている。

 もちろんハロルドの件についても、ただ手をこまねいているわけではない。彼に太刀打ちするための反撃の舞台も、着実にととのってきている。


 ……その順調な準備とは裏腹に、彼女の頭を悩ませる別の新しい問題が出てきたことは、まったくの予想外だったけれど。


 小さくため息を吐いて、リーシャは手元の手紙を折り畳んだ。

 その文面自体は、彼女が密かに進めている手配が予定通りに進行しているという内容で喜ばしいものであった。しかし末尾に付け足された一文に、リーシャの表情は知らず知らずのうちに曇っていく。

 そこにはただ、こう記されていた。『貴女に正式に求婚できる日を、一日でも早く待ち望んでおります――トラヴィスの花を持つ者より』と。その横には、ご丁寧に小さなトラヴィスの花の絵が書き添えられている。


 手紙の送り主は、王太子リロイ。そして、トラヴィスの花言葉はあまりにも有名だ。

「ひめやかな恋心、ね……」

 紙面に目を落としたまま、つい呟きが洩れた。

 手紙のメインの内容からして、リロイが代筆を頼んだとは考えにくい。だとすると、この手紙はすべて彼の直筆によるものなのだろう……この愛らしいトラヴィスの花の絵も含めて。


 あの時の言葉が気まぐれではなかったことを証明するかのように、時折リロイから送られてくる手紙には必ず熱烈な愛の言葉が添えられていた。

 それ以外にも送り主を伏せて歯の浮くようなメッセージと共に美しい花束が贈られてきたり、「僕を思い出して」という言葉を添えて彼の瞳と同じ色のリボンを渡されたり――巷で言われる「秘密の恋人」のような彼の振る舞いに、リーシャはただ困惑を覚えることしかできない。


 幼い頃からハロルドに疎まれてきたリーシャにとって、異性から求められるというのは間違いなく初めての経験であった。

 ずっと自己評価の低かった彼女を肯定してくれる、讃えてくれる存在。それは確かに心をくすぐるもので嬉しさを感じているはずなのに、最終的に虚しさを覚えてしまうのは何故なのだろう。




「浮かない顔ですね、お嬢様。何か問題でも発生しましたか?」

 部屋に入ってきた執事に声を掛けられて、リーシャは慌てて笑みを作った。

「いいえ、何でもないわ。大丈夫よ。えぇと……」

「ツルギです」

 このやりとりも、もう何度重ねたことだろう。なんとなくきまり悪くて、リーシャは彼から目を逸らす。

 そそくさと折り畳んだ手紙をしまおうとしたところで、端がめくれて手書きのトラヴィスの絵が覗いた。それに目を止めたツルギが、目元を和らげる。


「リロイ殿下との関係も順調なようで、良かったです」

「…………」

 何の他意もないはずのツルギの言葉に、何故か焦燥感にも似た苛立ちを覚えた。

「ツルギは、リロイ殿下のことをどう思うの?」

 反射的に問い詰める声は、詰問のような鋭い響きとなってしまう。自分でも制御できない得体の知れない苛立ち。それなのに、ツルギはリーシャの気も知らないでふわりと笑う。

「優秀な方だと思いますよ。先日の提案も、お嬢様の事情をしっかりと把握した上でのもので説得力がありました。とはいえ、政治的な思惑だけではない。リロイ殿下がお嬢様のことを大切に思っていることも間違いないかと。僭越せんえつながら、ハロルド様を伴侶にされるよりも幸せな将来を送れるのではないでしょうか」


「……ええ、そうね」

 そう頷きながらも、リーシャの顔は晴れない。冷静に考えればリロイの話を受けるのが一番良いことはわかっているのに、心がついてこないのだ。

 迷うように瞳を揺らすリーシャを見て、ツルギは真剣な顔で口を開く。

「俺にとって一番大事なことは、お嬢様が幸せになることです。そのためなら、俺は何だってします。もちろん、リロイ殿下が相手では幸せになれないと思うのでしたらお話を断るための協力も致しましょう。お嬢様が望むなら、荒れ狂う火の海の飛び込んだって良い。俺は何があっても、お嬢様の味方です。……だから」


 灰緑の瞳が、一瞬燃え立つように怪しい光を放つ。

「周囲のことなんて考えないで、お嬢様が幸せになるための選択をしてください。そして、そのために俺を存分に利用してください」

「ツルギ……」

 あまりにも強い彼の忠誠心に圧倒されて、リーシャは思わず彼の名前を呼ぶ。

 その苛烈なまでの忠誠からは狂気すら感じられて、リーシャの脳内に警鐘が鳴り響いた。

 それなのに、彼の言葉を耳にしたリーシャは先程までのささくれ立っていた感情が不思議なほどに落ち着いてくるのを感じる。

 こっそりと安堵の溜め息をこぼして、リーシャはツルギの顔を見上げた。


「ありがとう。もう少し考えてみるけれど、そう言われて気持ちが楽になったわ。頼りにしてるわよ、ツルギ。……それじゃ、頼んでいた件の進捗はどう?」

 明らかに調子を取り戻し、テキパキと指示を始めたリーシャを前にしてツルギは嬉しそうに唇を緩める。

「はい。ハロルド殿下が拠点としている城下町の屋敷については、すでに目星がついております――」




 ――数日後。

「殿下から手紙が届いております」

 そう言って使用人から手紙を渡されたリーシャは「また?」と反射的に言いかけて慌てて口を噤んだ。差出人の「ハロルド」という名前が目に入る。

 まさか、彼から手紙をもらうなんて――そう思ってから、かつての記憶を思い出す。そういえば、もうそんな時期になるのか。


 封を切ると、入っていたのは予想通りドレスの請求書とそれから王妃の誕生日を祝うパーティの招待状、そして便箋。

 乱雑な字で記された便箋には、パーティでは同伴してやるから早く先日の素材を手配するようにという催促が書かれていた。

 もちろん、請求書にあるドレスはリーシャのために購入されたものではない。ハロルドがティアラに贈ったものだ。浮気相手に買ったものを隠しもせずにリーシャに請求する厚顔無恥なハロルドの姿勢には、もはや呆れるよりほかない。


 それでも当時のリーシャは、久々にハロルドのエスコートを受けられることに心から安堵したのだ。いくら他の女性に心があろうとも、婚約者としての務めは果たそうとしてくれているのだと、そう判断して。

 その婚約者としての振る舞いがハロルドの立場では逆らえない者の前だけだなんて、とっくに気づいていたくせに。


「先日新しく開発したばかりの染料を使ったドレス、完成しているかしら。王妃様のパーティでは、あれを着ていこうと思うのだけど」

 執事の方を振り向けば、彼は驚いたようにわずかに目を見開く。

「はい。ドレスとしては完成しております。しかしお嬢様、よろしいのですか。あれは――」

 言いかける彼の言葉を、わかっていると片手を振って遮った。

「構わないわ。今更行動ひとつ変えたところで、あの人が何か変わるなんて思えないもの」


 ハロルドとの関係に対しては、これを改善したいという気持ちが少しも湧かない。その無関心としか言いようがない感覚に、リーシャは自分でも驚いていた。

 彼について考えても、感情は静かな湖面のようにさざ波ひとつ立てることすらないのだ。ただ、静かに凪いでいる。一方の父との関係は諦めようとしても諦めきれず、無駄に足掻いて傷ついて……それでやっと覚悟ができたというのに。


 私はもう、彼に何の期待もしていないのだな――そう、リーシャは他人事のように自身の感情を結論づける。彼の人間性は変えられないのだと、前の人生ですっかり思い知らされていた。今となってはもう、彼に余計な時間を割くことが一秒でも惜しい。


「それよりも私、自分の好きな色のドレスでパーティに出てみたかったの」

 ――もう二度と、自分の人生に後悔をしたくはないから。


 一瞬はっと息を呑んでから、執事は恭しく頭を下げる。

「かしこまりました――お嬢様の御心のままに」


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